水底でまた会えたのなら

 付き合って半年になる科学院勤めの恋人が、その同僚の女と浮気をしていた事が発覚した翌日のこと。破局による心労を残したまま疲れた顔で出勤した私に、じっと降り注がれる視線がひとつ。

「……なにか?」
「それは此方の台詞なのだが」

 書類から目を離して目の前に立っている視線の主へと顔を向ければ、心配そうな……どちらかというと不安そうな表情を浮かべる最高審判官の姿。私になにか用があるのか、さほど長くはない文章が書かれている一枚の用紙を持ったヌヴィレット様はそれを私の机へと置いた。

「君に頼みがある……のだが、機嫌が悪いように見える。大丈夫か?」
「……プライベートで色々あっただけ。頼みってなんです?」

 置かれた書類へと目を向けると、どうやら何かの契約書のようだった。上から順に文面を読んでいくと、どうやら私に出向の要請があるらしい。確かに私は直属の上司であるヌヴィレット様の命で、様々な組織へと出向をした事がある。しかしそれはフォンテーヌ政府内の話であり、基本的には事務のヘルプでしかない。それなのに、ここは。

「……すまない、頼めるか」
「え、いや、これは……」

 書類に記載された場所は水底のメロピデ要塞、書類の一番下にあるのは何度も耳にした彼の名前。

「ど、どうして!?」
「本当にすまない、理由は後日話そう」
「……拒否権は」
「ない、残念ながら。すぐにメロピデ要塞へと向かってほしい。抱えている仕事は私が回収しよう。向こうでは彼とシグウィンが待っている、頼んだぞ」
「もう……恨みますよ、ヌヴィレット様」

 大きく溜息を吐けば、何度目になるかわからないヌヴィレット様の「すまない」という声が耳に入った。私がどれだけメロピデ要塞と直接関わりを持たないようにしていたか、彼はよく知っているはずなのに。一体何があって、今更私を水の下へと送るのだろう。
 結局私は理由を聞かされないまま、足早にナヴィア線へと乗り込みエリニュス島へと向かうこととなった。乗船前にカフェでエスプレッソでもテイクアウトしてくるべきだったかしら。だめだ、心臓が早鐘を打っているのを自分でも感じる。行きたくない、なあ。

 勤務時間にも関わらず突然乗船してきた私に驚いたエルファネ先輩には軽く事情を話し、先輩に慰められながらポートマルコットへ。そのまま徒歩でエピクレシス歌劇場を通り抜ければ、そこにはメロピデ要塞への入口がある。どうやらこちらに話は通っていたらしく、私はスムーズに水の底へと足を踏み入れることとなった。


 
 地下に降りて受付で手続きを済ませた私は、船に乗り要塞の中へ。ここ関連の事務処理はヌヴィレット様経由で私がほとんど請け負っていたから慣れ親しんだ組織だとはいえ、実際に足を踏み入れるのは初めてだった。なぜなら私は、ここの管理者と顔を合わせるわけにはいかなかったからだ。
 それなのに何故、私はここにいるのだろう。このまま船が到着してしまえば確実に彼と顔を合わせてしまう。それだけは一生避けるつもりだったのに、叶わずに終わるのか。それでも、再会を喜んでしまう自分が心の奥にいることを、私は自覚していた。

 私の嘆きも虚しく、船は要塞側の受付へと到着してしまった。ヌヴィレット様が「待っている」と告げた通りに、私の視界には二人の人物が入り込んでくる。あの頃と変わらない少し跳ねた黒い髪、けれど想像していたよりも大柄な体格になっている気がする。子供の頃から他の子たちより幾らか背は高かったけれど、あんなに逞しかったかしら。
 戸惑いながらゆっくりと歩いてきた私に気がついたのか、シグウィン先輩は小さな身体をくるりとこちらへ向け、嬉しそうに私の名を呼んだ。

「ナマエ!こっちよ」
「シグウィン先輩、お久しぶりです」
「あら、そんなに畏まらなくていいのよ?」

 きょとんとした顔のシグウィン先輩に仕事ですからねと答えれば、彼女は少しだけ不服そうな表情を浮かべた。あいも変わらずシグウィン先輩は可愛らしい。その中身が私には想像できないくらい特殊な思考回路をしていることはもちろん知っているけど。
 彼女にいつもの態度で接するのを我慢しながら、私はその隣からの射抜くような視線に向き合うことにした。

「あんたがナマエさんだな」

 柔らかく余韻の残る低めの声。昔とは違うそれに私は一瞬目を丸くした。そうね、男の人だもの、声変わりだってするよね。驚きを一瞬でも見せてしまったことに焦るも、彼は特に気付いていないようなので努めて冷静に「よろしくお願いします」とだけ返しお辞儀をした。顔を上げて改めて彼を見れば、当時の面影を強く感じるその顔が私を見て微笑んでいる。ああ、だめだ、やっぱり会うべきじゃなかった。二十年近く会えなかった『義兄』を相手に、浮かれてしまう自分を止める事ができるのだろうか。

「俺がここの管理者のリオセスリだ、よろしくな」

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