夜の海へと漕ぎ出せば

 おそらく外は夕暮れ時。この時間になれば必ずといっても差し支えのない確率で、斜め前の執務机に座っている彼は本日三度目の紅茶を淹れ始める。確か、ここに出向に来てからはほぼ毎日だ。ここへ来て早一ヶ月と更に半月が経ち、それが公爵の習慣なんだと覚えた時にはもう彼のティータイムに私という存在まで組み込まれていた。
 そんな彼が今、いつも手にするはずの紅茶缶はそのままに、なにやら珍しいものを手にしている。

「……紅茶じゃないの?」
「差し入れでもらったんだが、一人で消費し切れる気がしないんだ。明日は休みだろ?よかったらどうだい」
「……お酒なんて、久しぶり」

 本日最後の書類にペンを入れ終え、手早く片付けた私は軽く伸びをした。本来なら彼がティータイムに使うであろうソファとテーブルは、もうずっと私の臨時デスクだ。書類をまとめ、彼の机に置いた時にはもう晩酌の用意が殆どされていた。大柄なこの人がソファに座るとなんだか心なしか窮屈に見えるけれど、隣に座れとばかりにいつもの位置に座られたから私は吸い込まれるように隣へ腰掛けた。艶やかな黒茶色の瓶は、ラベルを見る限りはリキュールか何かだろうか。ミルクまで出されているけど、これは割って飲むもの?

「ちなみに、アルコールは?」
「……あまり得意じゃないわね」
「はは、普段あんたは紅茶もあまり飲まないんだろ」

 ハマらせようと頑張ってるんだけどな、と彼の放った一言に私は思わず笑いそうになってしまう。紅茶も飲めないわけじゃないけれど、私はどちらかというと珈琲が好きだった。とはいえ、彼のお勧めの紅茶たちは確かに美味しいから、このままだと紅茶派にさせられてしまうかもしれない。彼の好きなものだから、別に良いけど。
 どうやらワインではないらしい、二つ並んだロックグラスに琥珀色の液体が注がれる。氷がグラスに当たる音に耳を傾けながらぼんやり眺めていると、私の視線に気づいたリオセスリは「紅茶のリキュールらしい」と一言返した。なるほど、だからミルクね。

「誰からもらったの?」
「それは秘密」
「なによそれ……」

 どことなく含み笑いを浮かべる彼の様子にため息が出る。差し出されたグラスを素直に受け取れば、満足そうな表情をしたリオセスリが「乾杯」と言った。



 ナマエにはぼかしてしまったが、実のところこの酒を渡してきたのは彼女の友人でもあるクロリンデさんだ。
 
 当初看護師長から聞いていた話とは全く異なり、彼女は「優しくて素直な女性」ではなく、よく言えばクールだがどう見ても素直とは程遠い態度をしていた。最初のうちは仕事中の空気が詰まるのも避けたいと思っていたしし、何より看護師長が特別に気に入っているらしいこの女性を気にならないわけがない。どうにかしてナマエと打ち解けられないかと日々画策していたのが先日までのこと。なんとか雑談の往復頻度も増えたが、個人的にはまだ少し距離を取られているなと感じている。
 そして、こいつを自覚してしまうと面倒なことになるのが分かるほどに、心の奥底に発生した靄のような異物は今の俺を悩ませている。だがまだこの感情を言語化出来ない、そんな感覚をずっと抱えていた。
 そんな悩める俺のところに現れた救世主は、彼女の友人を自称する決闘代理人だった。

「ナマエは酒に弱い」
「……そ、うは言ってもな?」
「酔えば素直になる、試してみると良い」
「友人を売ってないか?」

 買い出しに水の上へ出た際、たまたま出くわしたクロリンデさんからナマエの名前を出され、逆に相談を持ち掛ければ何故か酒瓶を渡されてしまった。その場で酒を買って渡してくる決闘代理人、中々にインパクトがあるな。

「俺はただ、打ち解けられたらって思ってるだけなんだがな」
「そうなのか?あなたからも好意があるように聞こえたが……」
「……まあ」

 間違ってはいない。実際その通りだ。完全に図星を突かれている。ただこれを決まった形にしてしまっていいものかは未だ答えが出せていない。とはいえ、俺だけがこうして感情に名をつけることを保留にしている間に、向こうがその形を変えていることを俺は肌で感じていた。何故なら最近の彼女は……俺が気付かないわけがない、どう考えたって俺を意識していた。明確に、好意的な意識だった。何かきっかけがあったのだろうか。最近の態度も単純に照れているだけなのかと思ってみれば、どうやらそういうことではないらしい。その理由を当然知りたいし、想われていることに悪い気はしない。なによりも色恋事から長いこと遠ざかるような暮らしをしていたのだから、そういった刺激はむしろ心地がいいとさえ思う。
 
「ナマエは、」
「?」
「クロリンデさんから見て、どんな女性だ?」

 つい口に出た言葉に、クロリンデさんは目を丸くする。それから、滅多に見られないような微笑を浮かべた。

「可愛らしい女だ」



 あの笑みがどういう意味を含んで浮かべられたのかを、俺は今とても痛感している。ただしそれはこの状況を客観的に見ればの話で、主観で見たら非常にまずいことになっているのは誰がどう見てもわかるだろう。事実、俺は柄にもなく焦っている。
 文字通り『ふにゃふにゃ』と喩えるのが正しいのだろうか。クロリンデさんが言った通りアルコールに弱かったらしい彼女は、先ほどからとろけたような笑みを浮かべている。それも、ゆるく俺に凭れかかってだ。

「……ご機嫌だな」
「ふふふ、だって嬉しいんだもの」
「どうしてだ?」
「あなたと、こうしてお話できるのが」

 ……ここまで効果覿面だと、逆に不安になってくるんだが?
 明らかに機嫌が良くなっている彼女は、普段は全くと言っていいほど見せてくれない緩んだ顔ばかりを浮かべていた。何がそんなに嬉しいんだか、あまりに気を許されるものだから妙に照れ臭い気持ちになってくる。
 それでもまあ、女性にだけこんなことばかりさせるのも男としては黙っちゃいられない。こうなったら彼女の誘いに乗ってやろうと肩を抱き寄せてみれば、驚いたような小さな悲鳴が耳に届いた。なんだ、照れはするのか。
 
「先に凭れかかってきたのはそっちだからな」
「わ、わあ」
「あんた、俺に気があるだろ」
「……う」

 もっとスマートに聞き出せりゃ良かった。でも彼女の態度に少しだけ苛立ちを覚えてしまい、つい言葉がそのまま出てしまう。口を開いては閉じ、また開いてを繰り返した彼女は、諦めたようにため息を吐いた。

「恋人と別れたの」
「は?」
「科学院の人でね、私がヌヴィレット様の下で仕事に追われてる間に浮気してたのよ」
「……人恋しいだけか」

 俺に好意を寄せているんじゃないかと期待していた彼女は、どうやら少し前まで他の男のものだったらしい。その事実に心臓がひりつくような感覚に陥る。
 ナマエからの視線はそういう種類の熱とは少し違う気がしていたけれど、彼女だって人恋しさに次の男を探すことだってあるだろう。そういうことかと一人で納得しかけたが、震えた小さな声で「違うの」と訂正が入る。
 
「寂しさを埋めるためだとか、そんなふうに思った?」
「……まあ、そうだな」
「むしろ私は、あなたを前にして浮かれちゃいけないと思ってたのよ。だからずっとあなたと距離を取ろうとしてたの」

 それなのに、と呟いてから彼女はまた口を閉ざした。恥ずかしそうな、泣きそうな表情を浮かべる彼女が途端に可愛らしく思えてくる。どこかで感じた気がするような、懐かしく甘い痛みが胸を突いた。つい魔が差して肩を抱き寄せてしまったが早計だったか? それでも無性に、彼女にこのまま何のアクションも取らないのは男が廃ると思わされた。
 裏切りによる愛の終わりを艶やかに語る彼女がひどく魅力的に見えたのが悪い。いや、故意に酔わせてこんな話をさせた俺も悪いが。

「そんなモン、取るなよ」
「え?」



 アルコールと紅茶の香りと、彼の香りが混じって鼻腔を掠める。驚いて目を見開いたままだから至近距離で彼の顔を見る羽目になったのだけれど、そんなことよりも触れているくちびるが熱い。

「っん、……っ」
「……っは、」

 噛み付くような動作だった。喰われてしまうんじゃないかと思うくらい強引で荒々しくて、彼の苛立ちを感じるような……いや、なんでキスされてるの!?

「なん……」
「煽るあんたが悪いね」
「あ、煽ってなんか……!」

 酔いなんて、完全に醒めてしまった。言い返そうとしている私をソファに押し倒してきた彼は、苛立ちの中にうっすらと熱のこもった視線を私に向けて見下ろしている。これはもしかして、とてもまずい。いくらなんでもこれはだめじゃない?どうしてこうなったの?

「あ、あの…?」
「埋めてやろうか、俺が」
「……う、え、でも」
「それとも俺じゃあ役不足かな?」
「っ、そんなわけない!だってずっと前からあなたのこと……」
「ずっと前……?」

 思わず口走った訂正の言葉に、彼は不思議そうに首を傾げた。この言い方だと察しがいい彼にはバレてしまうんじゃないだろうか……ううん、こんなに長いこと私の顔を見て気付かなかったんだから、きっと彼は思い出せていないはず。
 それよりも、この状況をどうしたらいいのだろう。このまま彼に流されてしまう?でもこんなの恥ずかしいったらありゃしない。いくらずっと前から好きだった男だとはいえ、私にとってはそれだけの存在ではない。

「俺たちどこかで会ったか?」
「ええと、その、噂に聞く公爵様のファンで……?」
「……まあいい、それで?俺はこのままあんたに手ェ出していいのか?」
「ひゃ」

 覆い被さっている彼の大きな手が私の太腿をするりと撫でた。その感覚に思わず身震いする。ああもう、恥ずかしいことこの上ない。あの頃ずっと憧れていた存在と、まさかこんなことになるなんて。別に男性経験のない生娘ではないのだから、この展開に対して不安や恐怖といった感情はない。そりゃあもちろん恥ずかしいけれど、彼に触れられるのはもちろん嫌ではないのだ。だから別に……別に、構わないとは思う。今こうして漂う甘ったるい雰囲気にわざと二人で飲まれて、夜の海に飛び込んでもいい。その相手がたとえ、義兄と慕ったこの人でもだ。
 だからいいのかと聞かれたら、肯定の言葉しか出てこない。

「……うん」
「そうかよ」

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