水の上の裁判

 引き継ぎの業務も一通り終え、共律庭での勤務をとうとう終えることになった。約十五年、何もできない見習いだったあの時から本当に長い間お世話になった。退職の際には沢山の職員から名残惜しそうにされたけれど、最高審判官の彼だけはいつもと変わらない態度だった。どうせこれからも付き合っていく人なのだから、私もそれが逆にありがたく思えたけど。

 なんだかんだで長い期間フォンテーヌ廷に戻ってきてしまっていたから、早く彼に会いたくてたまらなくなっていた。借りている家はまだそのままにしておくつもりだから、移動の荷物は軽く済む。普段の私であればカフェにでも寄ってから向かうけれど、そんな時間も惜しい。朝起きてすぐに支度を整えた私は迷わずエリニュス島へと向かったのだけれど、そこで見慣れない光景に出くわす。

「あれ、ヌヴィレット様?」
「ナマエか、おはよう」
「どうして歌劇場に?」

 メロピデ要塞の入口に向かう途中、エピクレシス歌劇場の手前のルキナの泉前でヌヴィレット様の姿を見かけた。彼はルキナの泉の方をぼんやりと眺めていたらしい。こんな朝から、何をしているのだろう。ヌヴィレット様に近寄ると、彼は一枚のチラシを取り出して渡してきた。賑やかな文面から察するに、今日の公演内容かしら。

「今日はマジックショー観劇の予定でな」
「観劇?ということは今日は休暇なのね」
「ああ。君もどうかね」
「マジックかあ……気にはなるけど、私はメロピデ要塞に戻ろうかな」
「そうか」

 チラシは受け取ったけれど誘いは断ると、彼は目を細めて薄く微笑んだ。なんだろう、何かしらの含みを感じる。こう、胸の奥をくすぐられるような、照れくさい感覚。思わず怪訝な表情を浮かべながら彼を見上げれば、ヌヴィレット様はやんわりと微笑んだままだ。

「君が幸せそうで何よりだ」
「な、なん、なに急に!」
「早く彼の元に戻るといい」

 そう言いながらヌヴィレット様は泉に視線を戻した。この人からこんな風に祝福の色を含んだ態度を取られるとは思ってなかったから、本当に恥ずかしい。私は気を紛らすように咳払いをし、彼に別れの挨拶を告げてルキナの泉を離れた。そのまま歌劇場横の通路を通り抜け、いつものように入口の螺旋階段を降りていく。


 

「おかえり」
「ただいま、って、ちょっと」

 メロピデ要塞に戻りまっすぐに執務室へ入ると、部屋の主が随分と熱烈な出迎えをしてくれた。階段を登りきったところで腕を引かれ、ぎゅうと抱きしめられる。苦しいと訴えるように背中を軽く叩けば「少し我慢しろよ」と返されてしまった。やめる気はないのね。

「引き継ぎお疲れさん」
「ありがと」
「これで正式にあんたは俺のものってわけだ」
「部下ね、部下!」

 どうしていちいち恥ずかしい例えをするのだろうか。確かに間違ってはいないけど、今に関しては転職がメインイベントのはずなんだけどな。離してくれる気がなさそうなリオセスリを一旦抱きしめ返し、それから彼を見上げてそろそろ離してと目で訴えるも、返ってきたのは屈んできた彼からの口付けだった。

「……もう」
「何日もお預け食らってたんだ、許せよ。あんただって恋しかったから朝早くに戻ってきたんだろ?」
「よくお分かりで!」

 図星を突かれて恥ずかしかった私は、悔しいあまりもう一度彼に抱き付いた。広い背中に手を添える。あたたかいな。これから先、私はこうしてずっと彼と生きていくことになるんだろうか。秘密は秘密のままだけど、彼がそれでもいいと言ったなら、一緒に幸せになっててもいいのかな。
 いつものソファに腰掛けて、彼が用意してくれた紅茶をいただく。そういえば、ヌヴィレット様から渡されたチラシをちゃんと見てなかったな、マジックショーって言ってたっけ。チラシを取り出して眺めると、隣に腰掛けたリオセスリも覗き込んできた。

「今上でやってるやつか?」
「そうみたいよ。ヌヴィレット様が観劇するんだって」
「……へぇ」
「どうしたの?」
「いや、なんでも」

 チラシを眺め、リオセスリは目を細めた。マジックショーを行う主役は、どうやら双子のマジシャンらしい。それなりに有名だったような気がする。私はこういったショーを見る機会が少ないからあまり詳しくないけれど。それにしても、長いこと関わっているけど、ヌヴィレット様でもマジックショーとか見るんだ。

「そういや、少し前からまたファデュイの連中が忍び込んできてるから、見慣れない囚人がいたら関わらないようにしてくれ」
「え、ええ。でもどうしてファデュイが?」
「恐らく禁域が目的だろうな。こっちで対処するからあんたは巻き込まれないようにしててほしい。ああ、それからしばらくあんたの作業場を変えるぞ」
「ここじゃなくなっちゃうの?」
「なんだ、寂しいのか?」
「そういうことじゃなくて!でも、どこで?」
「下だ」

 リオセスリは、私たちの足元を指差して言った。下っていうと、禁域……ではないだろうから、それ以外にあるとしたら、先に話だけ聞いていた例の秘策がある場所か。



「そういや、禁域には連れて行ったがこっちを直接見せたことはなかったな」
「わ、大きい……」

 私たちの目の前には、とても巨大な船。名前は確か、ウィンガレット号。ここはどうやら造船エリアらしく、広々とした空間が強化ガラス越しに見えた。この国が予言通りに水没した場合を想定して建造しているという話は聞いていたけど、実際に見ると圧倒されてしまう。
 そのまま造船エリアへと降り、出入口近くにある簡易オフィスのような場所に私は通された。いくつかのデスクや本棚と、沢山の書類が山積みに置かれている。

「え、もしかしてここで仕事を……?」
「その通り。ここならファデュイのスパイと接触する機会もないし、あんたを一番安全な所に置ける」
「一番、安全……」
「こいつはほとんど完成してる。だから予言通りになった時は、絶対に最優先でこの船に乗ってくれ」
「……贔屓っていうのよ、それ」
「大事なものを贔屓して何が悪い」

 ストレートにそう言うものだから、なんだか素直に照れてしまう。大事なものだと思われてるのはこそばゆい。それはそれとして、今までソファで仕事していた反面きちんとしたデスクを与えられるのは悪くない。それに、こんなに立派な船を眺めながら仕事をすることになるのは正直少しだけ胸が躍った。

「公爵? もう来ていらしたんですか」
「ん、ああ、あんたたちか」

 私たちがオフィスで今後のことについて話していると、二つの足音が鳴り響き私たちの元へとやってきた。声がする方へと顔を向ければ、男女二人のエンジニアが書類を抱えて立っていた。もしかして、以前ここの説明をされた時に聞いた『造船に関わっている優秀な人材』というのが彼らなんだろうか。

「ナマエさんですよね、初めまして。ジュリエと申します。こっちはルールヴィ」
「あれ、私のことを知ってるの?」
「ええ、もちろん!公爵からお話は伺ってますよ」

 お話……って、一体何を話したんだか。二人からの視線が妙に暖かかったせいで、私は色々と勘繰って隣の公爵様を睨むことしかできなかった。余計なことは言ってないでしょうね。
 自分のデスクをようやく手に入れたところで、今日は元々休日ではある。エンジニアの二人に挨拶を済ませて私たちは執務室へと戻ったのだけれど、なんだか扉の外が騒ついている。どうしたんだろう。様子を見に二人で外へ出てみると、警備をしている看守たちが神妙な面持ちで何かを話していた。

「何かあったのか?」
「ああ、公爵様。歌劇場で殺人事件が起きたそうです」
「殺人事件?」
「最高審判官が場を収め、これから裁判との事で……」
「……そうか、分かった」

 殺人事件。一体何が。ただのマジックショーではなかったの? もし死者が出るとすれば、マジックの失敗による事故の方がきっと可能性としては起こり得るというのに、殺人? ショッキングな話に私は思ったよりも狼狽えていたらしく、リオセスリに肩を抱かれるまで放心してしまっていた。

「執務室に戻ろうか」
「あ、うん」

prev | top | next