水底に降りし澱み

 十年以上会うことがなかった上に、その存在を記憶の奥底に封じ込めていた自分が文句を言う権利なんてないことは理解している。とはいえ、ナマエが過去を共にしていた名前も顔も知らない男を一切気にしないよう振る舞うのにも限界はあると俺は思う。
 自分勝手なこの感情を己が抱える羽目になった原因が、まさか向こうからやってくるとは俺にも彼女にも予想することなど出来なかった。

「また科学院の奴か……」
「どうしたの?」

 近々収容される予定の囚人に関する書類を眺めていた俺は、無意識に口に出していたらしい。先日も確か二人ほど科学者が収容されていたはずだ。例のアルケウム爆発事故の戦犯だったか。それとは別に、今回収容されてくる愚か者はどうやら痴情のもつれによる傷害事件が原因らしい。女性に手を上げるような下劣な男には、少し厳しくしてやらないと。

「新しい囚人、どうやら恋人を殴って怪我を負わせたそうだ」
「うわぁ……最低な人もいるのね」

 そう言いながらナマエは席を立ち、俺の椅子に近寄り書類を覗き込んできた。こんなもん見ても面白くないだろうに、ここの正式な職員となって久しい彼女は要塞の中で起こる色々なことに興味津々だ。
 ナマエは俺の手にある書類を眺め、驚くような小さな声を上げたのちに書類の端を掴む。困惑したようなその様子に、俺はわけもなく一抹の不安を覚えた。

「……嘘でしょ」
「どうした?」
「あ、えっと……こ、この人が傷害事件を……?」
「そうらしいが、知り合いか?」
「……」

 書類を凝視するナマエは言葉を紡ぐのを躊躇っているような様子で、何度か声をかければやっと我に返ったかのように「ごめんなさい」と言った。

「知り合いかと言われればそうね……その、気を悪くしないでほしいんだけど……」
「ん?」
「……元彼ね、私の」
「……それは最悪だな」

 俺以外にナマエを知る男が水の下にやってきて、その上別の女性を殴るような男だったと発覚するなんて最悪にも程がある。唯一良かった点といえば、ナマエがその被害に今まで遭わずに済んだ事だろうか。なんにせよ、俺自身そいつと相対して負の感情を抱かずにいられるかと言われると怪しい。もっと早くにナマエと再会して、今のこの関係に落ち着きたかったと改めて痛感する。過去のことを悔やんでも仕方ないが、それはそれだ。囚人相手に私怨で態度を変えるのは良くないとわかっているが、正直なところまるで自信がない。

「あんたは絶対こいつに会うなよ。もし出くわして向こうから絡まれたら、周囲の看守に頼ってでも距離を取るんだ」
「え、ええ。そうするわ」
「はぁ……」
「大丈夫?」
「全く大丈夫じゃないな」

 彼女の腕を引き、そのまま膝の上に座らせる。自分がこんなに嫉妬深くて独占欲の強い人間だとは思わなかったが、こんなに綺麗で可愛い女を一時でも自分のものにした男が俺以外にいることが本当に気に食わない。いや、腹が立つ。
 彼女の脇腹に腕を回して抱き寄せ、胸元に顔を埋めればナマエは可愛らしい悲鳴をあげた。彼女が奴と出くわさないように、ここに閉じ込めておくしかないか。

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