共律庭に響く

 業務の引継ぎ、と言っても元々メロピデ要塞から上がってくる書類は綺麗に整理されているものだから業務内容としては難しくない。とはいえ、今まで私はメロピデ要塞には直接赴かずに書類のやりとりをしていたけれど、後任の子には受け渡しまでやってもらわなければならないらしい。その旨を伝えると、「そのくらいどうってことないですよ」という言葉が返ってきた。

「でもまさか、ナマエ先輩が共律庭を離れるなんて思いませんでしたよ」
「ふふ、十五年もここにいたものね。私の後任があなたで良かったわ」
「それはこっちの台詞ですよ、今後ともよろしくお願いしますね」

 パレ・メルモニア共律庭フロアの奥の席、私の後任である共律官のイメナはほっとしたような表情で私を見上げていた。後輩である彼女も、プライベートでは数少ない友人の一人だった。今後の業務で彼女とやりとりするのであればとても気が楽だ。
 
「ところで、どうして向こうに転職になったんです? やっぱり出向が理由で?」
「うん……まあ、そうね」

 私の煮え切らない返事に、イメナは不思議そうな表情を浮かべていた。出向自体はきっかけでしかない。私がメロピデ要塞へ正式に転職することになった最大の理由は、あの二人の結託みたいなものだから。まさかヌヴィレット様まで乗り気になってしまうなんて思ってもいなかったな。





「引き抜きってこと?」
「そうだ、ヌヴィレットさんからの許可も下りてる。あとはナマエ自身が了承してくれれば、俺はあんたを正式な部下に出来るってわけだ」
「い、いつの間にそんな話!」

 一枚の書類を突き出し、リオセスリは満足げな笑みを浮かべていた。契約期間の更新をしたいという旨は聞いていたし、私自身も離れがたい気持ちはあったから好きなように延ばしてくれていいとは言ったけど、私の職場が完全に変わってしまうのはどうなの?
 というか、ヌヴィレット様から許可が下りてるって、嘘でしょう?

「今の俺があんたを手放すわけないだろ」
「ずるい……」
「ははは。それで、どうだい?」
「……断ったら?」
「はいと言ってもらうまで水の下に閉じ込めるかな」
「怖いこと言わないで!」

 突然物騒なことを言い出す新しい上司様を睨みつければ、彼はおどけた様子で「そんな可愛い顔されてもな」と言い放ってきた。この人、ちょっと先日からアクセル踏みすぎじゃないかしら。
 それにしても、なぜヌヴィレット様は許可なんて出したんだろう。もしかして、私が彼と色々あって進展してしまったことを知ったのだろうか。そうだとしたら、少し気恥ずかしいな。確かにあの人は、私が悩んでいたことに対して『前に進む』ことを促してきたうちの一人だ。だとしても、十五年も部下として関わっていたのに、こうも簡単に手放されると少し寂しい気持ちになる。

「とはいえ引継ぎなんかもあるだろうから、一旦水の上に戻ってくれて構わない」
「それもそうね、そうするわ」
「それからしばらく俺は禁域に張り付きになるだろうから、通常業務に加えてヌヴィレットさんへの連絡役を頼みたいんだが構わないか?」
「……わかった、気を付けてね」

 あれから、禁域のメーターは徐々に上がっているらしい。ということは、この要塞周囲の海水の濃度はどんどん悪化しているのだろう。もしあの蓋が開いてしまうような事態になれば、私たちを含めてこの要塞にいる人、それどころかフォンテーヌ中の人間が溶けてしまうことになる。考えれば考えるほど、気が滅入ってくるな。どうしてこの国は、こんな窮地に立たされているんだろう。
 嫌な連想をして無意識に顔を顰めていた私は、不意に腕を引かれて小さく悲鳴を上げてしまった。関係が変わってから分かったことだけど、この人はこうして私を腕の中に閉じ込めるのがとにかく好きらしい。見上げれば彼は微笑んでいた。
 
「さて……今日の業務も終わったことだし、ナマエさん」
「……なに?」
「俺は恋人らしいことがしたいんだが、構わないかい?」
「そ、そういうの宣言しなくても良いと思うの!」



 

 ふと昨日のことを思い出してしまい、照れ臭さを紛らわすように咳ばらいをすると、私の様子をじっと見ていたらしいイメナが何かを閃いたかのように嬉々とした声を上げた。

「もしかして、新しい恋人ができたんですね?」
「は!? い、いや、その」

 図星を突かれて私は思わず狼狽えてしまう。これじゃあ肯定しているようなもんじゃないか。イメナには以前から前の恋人の件で気軽に相談していたから、彼女が私のそういう話に興味を示すのはおかしくない。
 
「ははあ、メロピデ要塞で良い出会いがあったんですね……先輩、前の人そんな好きそうじゃなかったしなあ……それで、どんな人なんです? 看守さん? まさか囚人なわけないですよね、ほら教えて下さいよ」
「い、言わないとダメ?」
「清廉潔白なあのナマエ先輩が可愛い後輩の私に隠し事するんです?」

 嘘はつきたくないけれど、言ってもいいものか。もちろんイメナは私とリオセスリの関係に関しては知らない。とはいえあのメロピデ要塞の管理者として有名な公爵様と恋人になりましたなんて話したら、イメナだって当然びっくりするだろう。 
 
「……驚かないでね」
「驚くような相手なんです?」
「うん、その……リオセスリなんだけど……」
「……メロピデ要塞の、公爵の?」
「うん……」

 私の『新しい恋人』がどの人物なのかを知ったイメナが共律庭フロアに響き渡るレベルの声量で叫んでしまい、私は大きな恥をかくことになってしまった。幸いにも相手の名前は叫ばれなかったから良かったな。秘密にしてねと言えば、イメナは大きく何度も頷いていた。

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