出船に船頭待たず

 きっと二人は、俺の耳には届いてないと思っていたはずだ。先日からの読みは当たっていて、やはりあの二人は何らかの秘密を共有した上で俺には開示していないらしい。その意味までは流石に分からないが、看護師長の発言が理由で、ナマエは俺に心を開いてくれない。
 とはいえ、ここ数日の彼女は以前よりも会話をしてくれるようになった。先程のもそうだ。来た当初は事務的な返事を一言貰えればいい方だったが、今はあんな風に見送りの言葉まで添えられてくる。

「いってらっしゃい、か」

 あの執務室を自身の居場所だと認識していなければ、出てこない言葉だ。あそこは完全に俺のテリトリーで、彼女を囲い込んでもうそろそろひと月になる。長いようで、まだ短い。たった一ヶ月だ。ナマエと打ち解けようとする試みは、中々うまく行ってるんじゃないか。

 そこで改めて思い返す。ここまで自分が拘っている理由が一体何なのか、自覚できていない事に。俺は何故、彼女と親しくしたいと思うのか。

 別に、他者に好感を持つことに対して無理に理由を見出す必要はない。初対面の第一印象で決まることもあれば、ふとした時に感じたりするものだ。そこにわざわざ意味を持たせ言語化したところで、それはただ自分を納得させるためにしか用いない。故に、彼女に対して好感を持ち距離を縮めたいと思う理由は、わざわざ具体的な言葉にしなくたっていい、はずだ。
 書面で人物像を知った上で相対する囚人達とはわけが違う。彼女は本来ならここで出会うはずのない正真正銘ただの一般人だ。だからこそ、この感情を素直に受け止めてしまっても良いのかもしれない。

 だが、何か引っかかる。俺は過去にも似たようなことをしなかっただろうか。


 鉄拳闘技場での用事を済ませて執務室に戻ると、看護師長はもう医務室に戻ったらしく、ナマエが後片付けをしていた。彼女は階段を上がってきた俺に気付き、よく通る高めの声が耳を通り抜けた。

「おかえりなさい」
「……あ、ああ」
「どうかした?」

 不思議そうな顔で首を傾げているナマエを思わず凝視してしまった。腹の底に何か靄のようなものが溜まっていく感覚。俺はこの現象を、確かに知っている。
 目の前を細い指が通り抜けていることに一拍遅れて気付く。焦点を合わせれば彼女が俺の前で掌を左右に往復させていた。呆気に取られていたらしい。

「疲れてる?」
「そうかもしれないな」

 俺を覗き込む彼女と目が合う。透明感のある紅色の瞳。視線を逸らせずにぼんやりとそれを見ていると、不意に自分の額に暖かい何かが触れる感覚がした。

「熱はなさそう?」
「……な」
「ごめんなさい、だってあなたぼーっとしてるんだもの」

 ぱっと手を離される。ナマエは慣れないことをした自覚があるようで、目を逸らして照れ臭そうな様子。本当に彼女は先日まで露骨に俺を避けていた女性と同一人物か?思考が混乱して言葉を発するタイミングを逃したような気がする。いや、頭が回らないな。こんな事は滅多にないんだが。

「ええと、私は上がるけど無理はしないでね」
「……そうするよ」

 自分がしたことが余程恥ずかしかったのか、ナマエは照れ臭そうにはにかみながら会釈をして螺旋階段を降りていった。彼女に触れられた額に手を当て、溜息を吐く。

 参ったな、別の悩みが増えそうだ。

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