崩される禊の航路

「でもお元気そうでよかったわ」
「相変わらず書類の山に囲まれていたけどね」

 お茶請けの晶螺マドレーヌを口に運びながら、私の左隣に座るシグウィン先輩はにこにこしていた。先日私がヌヴィレット様と会っていたことを知った先輩が業務の合間を縫って執務室まで来たため、こうして休憩がてら二人で小さなお茶会をしている。この部屋の主は急ぎのタスクがあるらしく執務机で書類と向き合っているのだけれど、時折こちらの様子を伺っているであろう視線を感じていた。

「それにしても……てっきりナマエが自らここへの出向を希望したのかと思ったのに、賭けの景品だなんて酷いんじゃないかしら!」
「俺は事務員を貸して欲しいって要求しただけだぞ」
「まあ結果として私になっただけだものね」
「公爵はお仕事してて!」

 不満を隠さないシグウィン先輩は、今日は妙にリオセスリに対して冷たい。まあ、今の発言からするに私がここへ出向しに来た経緯に対して怒ってくれているのだろう。それにしても、私が自ら希望するだなんて、先輩は本当にそう思っているんだろうか?私に釘を刺したのは彼女なのに。
 シグウィン先輩は何かを考えるように顎に人差し指を当てる仕草をしたのち、私に耳を貸してと手招きしてきた。彼に聞かれたくない内容なのだろうか。困ったな。

「公爵とちゃんと仲良く出来てる?」
「はい?」
「ウチ、心配なのよ。あんなこと言っちゃったから、ナマエは気にしてるんじゃないかなって」

 少し潤んだ大きな赤い瞳が困惑した表情の私を映している。全てシグウィン先輩の言う通りで、私はずっと彼女と話したことについて意識し続けている。もう、十年くらい前の話だけれど。

「大丈夫、支障がない程度にするから」
「そういうことじゃなくってね……!」

 あたふたした様子の先輩がこれ以上声を大きくしないように、私は人差し指を唇に当てた。今の話、彼の耳には届いてしまっていないだろうか。蓄音機は絶えず回り音楽を奏でているし、仕事に集中しているように見えるから大丈夫かもしれないけど。彼の様子を伺っていると、ひと段落したのか書類を持って席を立った。

「ロシモフの所に行ってくるから、レディたちは歓談を続けててくれ」
「あ、うん。いってらっしゃい」

 相槌を打つと彼は一瞬驚いた顔をしたのち、満足そうな笑みを浮かべて螺旋階段を降りていった。最近の彼はよくあんな顔をする。私が返事をしたときには、必ずだ。
 
「……ウチ、びっくりしちゃった」
「うん?」
「公爵ってナマエのことそんなに気に入ってるのね」
「うん……?」

 何かを納得したような先輩は「なら大丈夫そうね」とぶつぶつ呟いている。何が大丈夫なの、気に入ってるって何!シグウィン先輩とは打って変わって納得どころか状況の把握すら出来ていない私はソファの背もたれに勢いよく沈んだ。

「ねえ、ナマエ」
「なあに先輩」
「ウチが前に言ったこと、撤回してもよさそうよ」
「……今更それは難しいわよ」

 十年ほど前に先輩と話したことを改めて思い返す。聞かされたのは、彼が過去を忘れたいと思っていること。それを伝えてきたシグウィン先輩は心配そうな声で「ナマエの存在を知ってしまったら傷つくかもしれない」と言っていた。たったそれだけ。今思えば誰が何によって傷つくかなんて、彼女は特に何も言ってなかった。ただ私はそれを、彼を傷つけてしまうものだと思っている。だから私はせめて彼を陰から支え続けるという終わりの見えない航路に舵を切ったんだ。

「今の公爵ならむしろ喜ぶかも」
「……どうして」
「ふふふ、内緒。でも先輩を信じてほしいのよ」

 彼女の言葉を受け止めきれない私はそっと目を瞑った。そんな事言われたって、今更素性を明かして全てを台無しにしたらどうしてくれるの。せっかく十五年も掛けて作り上げた私の船を、今になって沈めてたまるものですか。

 でも、もしこの船を彼の傍で停泊させてくれるのなら、それは幸せなことかもしれない。

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