公平無私の君

「……はあ」
「どうした?」

 どうやら無意識にため息が漏れていたらしい。書類をめくる手を止めて気にかけてくれたリオセスリにはなんでもないと言い、私はゆっくりと伸びをした。これは、精神的な疲労が悪い。


 
 メロピデ要塞に出向に来てから二週間が経った。昨日は休暇だったから買い出しついでにフォンテーヌ廷まで戻ったのだけれど、共律庭のメインフロアを歩きヌヴィレット様の執務室へと訪問しようとした所で厄介な足止めを喰らってしまったのだ。
 私を呼び止めたのはセドナで、どうやら彼女は私宛の手紙を受け取っていたらしい。渡してきた相手はフォンテーヌ科学院の制服を着た男性だったと話すセドナに、私は思わず苦虫を噛み潰したような顔を向けてしまった。

「名乗ってた?」
「名前は聞いてないけど、暗い髪の男の人だったよ」
「そう、ありがとう」

 手紙を預かり、私はそのままヌヴィレット様の執務室へ足を踏み入れる。部屋の主はいつものように自身の机で大量の書類に囲まれていた。彼は私にすぐ気付き、席を立ちこちらへと向かってくる。まずはこの人に、今回の出向の経緯を聞き出さなければ。

「そう睨まないでくれ」
「睨まれるようなことをしたのはあなたなのに?」

 いかにも怒っていますという態度を示せば、ヌヴィレット様は申し訳なさそうにしながらいつもとちがう位置に置かれたソファに腰掛けた。ふたつのソファを挟んだテーブルの上にはすでにグラスと茶菓子が用意されており、私の来訪を察していたのだろう。この人はいつもこんな風に、私に対して先手を取ってくる。向かいのソファに腰を降ろせば、しばしの沈黙の後、ヌヴィレット様は口を開いた。

「リオセスリ殿に賭けを吹っ掛けられた」
「……聞きましょう」
「その結果、君を派遣することになった。いや、正確には『事務が一番得意な私の部下』だ」
「はあ?」

 曰く、賭けに負けたヌヴィレット様はその要求をクリアする為に私を選んだのだという。事務が得意な部下であれば他にも選択肢はあったはずなのに、『一番』という条件に彼は嘘をつくことができなかったようだ。確かに私の最も得意な分野ではあるけれど、ヌヴィレット様にそこまで思われていたとは。正直者すぎるこの方には呆れてしまうけれど、私への評価が高かったことに免じて許してあげることにしたい。

「リオセスリ殿とは上手くやれているのか?」
「バレてはいないみたい、けどよく話しかけられるわ」
「彼は社交的だからな」

 確かに社交的だ、昔から。思えばあの頃も今と同じように辛抱強くコミュニケーションを取りに来てくれていた気がする。昔と違うのは私の態度のほうか。本音を言えばもっと素直に彼と親しくなりたい。私の中にずっと燻っているものは、今さら変えられないのだから。
 でも、そんな身勝手な欲望を叶えようとしたところで、私の経歴は彼にとっては地雷原でしかないことを理解している。

「彼は弱い人間ではない」
「……?」
「君が誰だとしても、彼が過去を理由に君を拒絶することはないと、私は思う」
「それは……」
「歩み寄りたい願望を、君も抱えているのだろう?」

 ヌヴィレット様は表情を全く変えず、そう言ってのけた。その問いかけはさすがに卑怯だ。私がどれだけ、どれだけ長い間あの人の事を考えていたかなんて目の前の彼は知っているのに。私の答えが肯定であることを分かりきっていて、私がそれを表に出す事をヌヴィレット様は望んでいる。この人も、意地が悪い。

「そんなの、当たり前じゃない」



 共律庭を後にした私は、自宅へ戻る前にカフェへと寄った。ここのコーヒーを飲むのも二週間ぶりなのか。いつものカスタマイズを注文をし、奥のテーブルで腰を落ち着けた私は、先ほどセドナから受け取った手紙を取り出した。封筒の裏に書かれた名前なんか見なくても、差出人はわかっている。

「……言い訳ね」

 二週間前にメロピデ要塞へ行くことになった日の前日に、私を酷く悩ませた件。この手紙の差出人は私の元恋人だ。手紙の内容はどうしようもない言い訳の羅列で、要約すると『きみより愛する人を見つけてしまった自分が悪いのだ』と、自分に酔ったような謝罪の長文が書かれている。
 正直なところ、私は元恋人である彼のことを心の底から愛しているわけではなかった。私の想いの矛先はずっと変わらず、もう叶うことなどないものだったから。とはいえ、義兄のことを一生引きずって生涯を孤独に終わらせるほど思考が腐っている訳でもない。だから私に想いを告げてきた彼を利用して、新しい何かを始めてもいいかなと思って受けたのが半年前のこと。
 彼は優しかった。今思えば、優柔不断なだけだったのかもしれないけれど。それでも、付き合っていくうちに人として好きになれた存在だったのに。結局彼は、仕事で忙しく彼との時間を作れない私に対して不満を持ち始めたのだろう。最終的に、私ではない別の女性に惹かれて私の元を去ってしまった。
 彼のことは、責められない。私にも悪いところがあった。そもそも、義兄への想いを昇華したいという邪な考えで彼の申し出を受けた私の方が最低だとさえ思う。
 申し訳ないことをしてしまったという罪悪感と同時に、今なら昇華しきれなかったこの想いに向き合うチャンスがあるのではないかという高揚感が湧き上がるのを感じている。いや、だめだ。私はあの人にとっては地雷のひとつなのだ。やっぱり蓋をしておくしかないと、私は大きくため息を吐いた。



 こうして、疲れを癒すはずの休日に疲労を溜めた私は、無意識に彼に疲れを見せてしまっていた。休み明けにこんな姿を見せるのも失礼かもしれない、ちゃんと真面目に仕事をしないと。

「ナマエ、休憩にしようか」
「……うん、?」
「集中できてないだろう?あんた一体昨日は何してたんだ」

 席を立ったリオセスリは、いつものようにお茶の準備を始めた。気遣いができる人なのはこの二週間でよく知らされたけれど、こうも丁寧に優しくされると困ってしまう。精神的な疲労のせいでうまく思考が回らない私は、休憩の用意を進める彼をぼんやりと見ていることしかできなかった。

「本当に疲れてるな、体調は大丈夫か?」
「……ごめん、大丈夫。昨日ヌヴィレット様に聞きに行ったの、あなたとの賭けの話」
「ああ……」

 ふたつ分の紅茶を持ってきた彼はいつもの様に私の右隣に座った。賭けの話を口にすると、彼は申し訳なさそうな笑みを浮かべ、「来てくれたのがあんたで良かったよ」と零した。それは、ちょっと、ずるくないかしら。

「賭けの内容ってなんだったの?」
「それは聞いてないのか?聞かないほうがいいと思うが……」
「どうして?」
「あまりにもくだらないからな」
 
 くだらない、ときた。それは確かに聞かないほうが良いのかもしれない。本当にくだらない内容だったら、私はヌヴィレット様を責め立ててお高い珈琲豆でも要求しないと気が済まなくなってしまいそう。そんな賭けにどうしてヌヴィレット様が乗ってしまったのかはわからないけれど、結果として彼が勝って私がここに来たことは特に意図されたものではなかったみたいだ。

「で、疲れの原因は?」
「……プライベートよ」
「臨時の上司に相談してみる気は」
「ないわね」
「はは、つれないな」

 リオセスリは残念そうにしながらも、それ以上追求してくることはなかった。あなたに話せるわけがないでしょう。恋人に浮気されて破局したなんて。

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