撫子を愛でる 1 | ナノ

撫子を愛でる

《10000hit感謝企画》








「おいっ、食満留三郎!!待てッ!!」

声を荒げ、文次郎は前を行く食満を呼び止めた。



もうこれで何度目になるだろうか。
けれど、後を追う文次郎から遠ざかる食満は、相変わらず振り返りもしなければ、歩を緩めもしなかった。



文次郎は苛立たしげに舌を打つ。

我慢も限界に近付いて、立ち止まる気がないのならと歩幅を広げ、半ば駆けるような勢いで距離を詰めると食満の肩に手を伸ばし、掴んだそれを力任せに引いた。



「…何だよ」

漸く文次郎の方へと向いた食満の顔。
しかし、その目線は微妙に文次郎からずれていた。
ひどく手荒な方法で引き止められたというのに抗議するでもなく、ただ文次郎を視界に入れまいという意識だけが見て取れる、その視線の逸らし方。
それは、元々上気しきっていた文次郎の感情を更に沸き上がらせた。



「お前こそなんだ!人の顔見るなり引き返しやがって!!何か文句でもあるってのか!!」

「…別に何もない。お前の勘違いだ」

「バカタレがっ!!あんなにわざとらしく反転して呼んでも無視して逃げ続けておいて、今更何言ってんだ!!」

正面から胸倉を掴み怒気を叩きつける文次郎に対して、食満は視線を逸らしたまま淡々と、感情の乗せられていない声を返す。
らしくもなくこの場を穏便に受け流そうと努めようとするその態度。
馬鹿だ、逃げたと、普段の食満ならば即座に食い付いてくる言葉を連発しているというのにいつものように文次郎へ言い返してこない、挑発に乗ってこない食満の今の様子は、逃げられることよりも、無視されることよりも、文次郎にとってこの上なく気分の悪いものだった。








文次郎は、先程、ただ普通に校舎内の廊下を歩いていただけだった。
何気なく顔を上げたその時に、廊下の向こうから、こちらへ向かって歩いてくる食満の姿を見つけた。
けれどその時は特に、声を掛けるつもりも、歩み寄って喧嘩を売るつもりもなかったのだ。
何気なしに視線を向けていた文次郎に食満も気付き、あからさまに顔を強張らせ、踵を返して引き返されるまでは。



何だその反応?と、文次郎は一瞬呆気にとられた。
気にかかって、留三郎!と離れていく背中に呼びかけた。
けれど食満は無視をした。聞こえていない筈がないのに。
少し苛立って、遠ざかる食満の背を追いかけた。
追いかけ始めたら、明らかに食満の歩調は早まった。


そこからは、半ば意地だった。
声を掛け、無視され、追いかけ、逃げられ。
そんなことを学園の校舎から六年長屋に到着するまで繰り返した頃には、すっかりと文次郎の機嫌は下降しきっていた。





「…うっせぇな。何でもないって言ってんだから、何でもないんだよ!!」

間近で肩を揺すられ怒鳴られ続けて。
徐々に、この場を何とかやり過ごそうといい訳ばかりを続けていた食満の姿勢が崩れ始める。

眉間に皺が寄り、目尻を吊り上げ、文次郎を睨み上げてくる。
漸く目があった。そして、いつも通りの喧嘩腰での切り返し。
様子のおかしい食満に感じていた違和感が薄れ、奇妙なことだが文次郎は安堵のようなものを感じた。



だからと言って、ここまでささくれた文次郎の気分が急に落ち着く訳もなく。
文次郎と食満はそのまま互いの胸倉を掴んで睨み合った。
どちらが先に拳を出すか。その間合いを探るかのように。









カッ!!



しかし、一触即発の二人の間を何かが引き裂く。



空気を引き裂き飛来する鋭い音を聞き取って、文次郎と食満は二人揃って寸ででのけぞり合い、それを避けた。

目の前には一本の綱。
括り付けられ壁に突き刺さったのは、縄ひょうの鏃。
もう一方の端を握って縁側を降りた先、庭に立っていたのは

中在家長次だった。





「なっ…」

いきなり何をするのかと、文次郎は目を剥いた。

ここは図書室ではない。長屋の廊下だ。
いくら喧しく騒ぎ立てていたからといって、突然に縄ひょうを投げつけられる謂れなどない。
もしも喧嘩の仲裁なのだとしても唐突過ぎる上に行き過ぎだし、そもそも、最早日常となっている文次郎と食満の喧嘩を、わざわざ割り入って止めようとするなど普段ではありえないではないか、と。




「長次っ!!」

しかし、一瞬で巡ったそれらの文句を文次郎が吐き出す前に、食満が長次を呼ぶ。


ふわりと、僅かな風が起こる。
食満が縁側へ飛び降り、長次へと駆け寄ったのだ。

食満の動きが起こした空気の流れ。
それに乗って漂った何かの香りが、文次郎の鼻腔を擽る。
甘ったるい、花の香りのような、微かなそれ。

留三郎から?




嗅ぎなれない香りに気をとられ文次郎が立ち尽くしている間に、こちらを見もせず駆けて行った食満は、長次の隣へと並んだ。


「ごめん長次っ!でも、まだ何もしてないぞ!!だから…」

急いた口調で食満が言う。
まるで粗相を見つけられ、釈明するかのようなその口調。
それを受けて、長次の口元が小さく動き、何事かを食満へと伝える。

動きも声も小さすぎて、文次郎にはそれを読唇することが出来なかった。
けれど間近で長次の言葉を聞き取った食満は、俄かに顔を曇らせると長次へと短く礼を述べて、何処かへ向かって猛烈な勢いで駆けて行った。





呆然として立ち尽くしていた文次郎は、長次が壁に突き刺さった縄ひょうを引き抜いた音で正気に戻った。

縄ひょうを黙々と腕に巻き取り、立ち去ろうとした長次を呼び止める。


「さっきから…お前ら一体何なんだ?」

先程からの不可解の連続に、文次郎の頭の中から苛立ちは吹き飛んでいた。
けれどその代わりに、今度は疑問と戸惑いが思考を占める。


文次郎の問いを受けて立ち止まった長次は、相変わらずの感情の読めない無表情で、こちらを見た。



「…お前には言うなと、頼まれている」


今度はしっかりと読み取れた長次の言葉。

それだけ言って文次郎の反応を待つことも無く、長次もまた食満が駆けて行った方向へと去っていった。












同日、夜半。


「邪魔していいか」


文次郎は、は組の長屋の前にいた。





湯浴みも終えて、夜着にも着替え。
そろそろ早い者達は床についているだろうというこの時刻。
閉じた障子の前に立った文次郎は、室内から漏れる灯りと物音から、未だこの部屋の主達が活動中であることを確認してから入室の許可を求める声を掛ける。



「どうぞ〜」

中から声を返したのは伊作だった。



文次郎は両手に抱えた嵩張る荷物を片手に抱え直し、障子を開く。
一歩足を踏み出せば、相変わらずの強烈な薬品の匂いと、足の踏み場もない程に様々な物品で溢れかえった部屋の様相が文次郎を出迎えた。


荷を抱えて戸口に立ったまま、きょろりと視線を巡らす。
衝立で二つに仕切られた部屋の中には、伊作の姿しかなかった。



「伊作。留三郎はどこに…」

何とはなしに食満の行方を尋ねようとした文次郎の言葉が、ふいに途切れる。





「留三郎ならちょっと用があるから…って、何さその顔」

文次郎の問いに答えつつ、向き合っていた文机から振り返った伊作はそこで、己の顔を凝視して、顔を青褪めさせて硬直する文次郎の姿を見る。


「何?もしかして具合でも悪いの?」

明らかに異様な級友の様子に、その為に自分のところにやって来たのだろうかと得心して、伊作が立ち上がる。
触診の為、言葉も発さず未だ部屋の入り口で仁王立ったまま固まる文次郎へと近付こうとするが



「違うっ!!具合など悪くない!!だからその顔で近付くな!!さっさとその気持ちの悪い化粧を落とせ!!」

一瞬にして硬直が解けた文次郎が、叫ぶようにしてそう怒鳴り、伊作の接近を拒否した。
手に持つ荷物を盾にして、伊作から最大限に距離を取り、ついでにその顔を視界から弾き出す。

普段では決して見られない、伊作に対して全力で逃げの体勢へと入っている文次郎という図は、どうにも奇妙で滑稽だ。
ここまで怯えられている側の伊作が、厚塗りの白粉にどぎつい朱色の紅などをたっぷりと顔面中に塗りつけた、おかめ面のような顔をしているとなれば、それは尚更だった。





「酷いなぁ。これでも良く出来た方なのに…」

伊作は乱暴な文次郎の言葉に傷付いた素振りを見せながら、煎じ途中の薬や薬草の転がる文机の前へと戻り、その上に置かれた質素な鏡台の鏡を覗き込む。
その周辺には、先程まで色々と練習していたのだろう、様々な化粧品や道具が並べられていた。

この顔が、伊作の目には悪くない出来に見えるらしい。
伊作本人の女の好みはそこまで特殊ではなかった筈なのに、一体何故か。



「…出来など関係ないわ。俺は、化粧をしたお前には二度と近付かんと決めたんだ」

伊作が自分の顔の出来の検分を始め視界に映らなくなったのを確かめ、文次郎は荷の影から顔を覗かせ言った。
最大級に顰められたその顔は、まるで異形の謎物体を見下すかのような、警戒半分、過去の記憶から引き出された恐怖半分といった、げんなりとしたものだった。



「何だ。まだ前の任務のことを根に持ってるのかい?確かにちょっと迷惑かけちゃったけど、あれは偶々だって」

その文次郎の言葉で先程からの態度の訳に納得がいった伊作は、もう幾月も前のこと、文次郎と伊作が学園長の使いで任務に赴いた時のちょっとした事件を思い出し、軽く苦笑し言った。



「…偶々だと?」

けれど、ぴきりと頬を引き攣らせ低く声を響かせた文次郎には、その笑いと軽々しさが妙に引っ掛かってしまったようで




「…一体どんな偶々が連続すれば、標的に接近する遥か手前で周囲に女装を見破られた挙句、本物のそういった嗜好を持つ化け物集団に勘違いをされて無理矢理宿に連れ込まれそうになるというんだっ!!」

ぶるぶると身を震わせて、未だ鮮明な当時の記憶を文次郎が叫ぶ。


「え〜、いい人達だったよ?最後には、その人達経由で標的にもすんなり近づけてあっさり任務も終わったじゃないか」

対する伊作は、文次郎がそこまで憤る意味が分からないとでも言うように、のんびりとした口調を崩さなかった。


「お前はお仲間だと思われていたからな!お前の相方役だった俺はそういった連中が好みな特殊嗜好だと思われ迫られたんだぞっ!!」

「ひゅー持てるねー」

「女もどきなんぞに持てて嬉しい訳あるかー!!」














「で、実際の用件は何?」

すっきりと化粧を落とした伊作が、改めて文次郎へと、訪問の理由を尋ねた。



「…今夜一晩、ここに泊めて欲しい」

怒鳴り続けの憤り続けで、ここにやって来た時よりも幾分かぐったりとした様子を見せながら、文次郎が言った。

それと同時に、どさりと、文次郎が両手に抱えていた荷を畳へと降ろす。
先程からずっと抱えたままで、予期せず伊作に対する盾としても機能していたそれは、い組の長屋から文次郎が持参してきた自身の寝具だった。



「別にいいけれど…どうしたの?自分の部屋は?」

文次郎の申し出を一、二で了承した後に、伊作が理由を尋ねる。




「…仙蔵に『追い込みの邪魔だから』、と追い出された」

「…あぁ」

少しの間を溜め、視線を上向け遠くを見ながら、文次郎が言う。
それだけで、伊作は何かを察したようだった。



「仙蔵程の腕でも、準備や練習はやっぱりするんだね」

明日は仙蔵にとっては特に大事な試験の日だものね、と。
ちらりと、雑然と片付けられた自分の化粧道具に目を向けながら伊作が言う。



「…いや、あいつの準備は普段から万全だ。道具も小物も着物も用途に応じて、いつでも任務に発てるよう完璧に揃えていた」

「あれ?じゃあ何で文次郎を追い出したの?」

「…知らん。訊ねたら一言、『野暮なことを聞くな』と、そう言って俺の寝具を廊下に放り出しやがった」


学園から割り当てられる私室の使用権限は、どちらにも平等に与えられているというのに。
碌な説明も詫びの言葉も無しに部屋から追い出された時を思い出し、文次郎は眉を顰める。


別に、これが他の日であったならば寝床を奪われようが構わないのだ。
鍛錬の一環と思えば、庭だろうが池だろうが山だろうが、文次郎は何処でだって休める。

けれど、試験前日だけは別だ。
文次郎は、学外にて行われる類の試験の前だけは鍛錬を自粛し、十分に休養を取ることにしている。
日々欠かさず鍛錬を積み重ねることは大切だが、万全の調子で任務に望むこともまた大切だからだ。

勿論、長く同室を続けている仙蔵も文次郎のそんな習慣は知っている。
だから、せめてもの情けで寝具と共に部屋を追い出したのだろう。
だが、そんな気遣いをするくらいならば、初めから追い出したりなどしなければいい。
短くはない同室生活の中で、それなりに互いの邪魔にならないように気配を薄める術は身に付けているのだから、今更邪魔も何もないだろう。





「もしかしたら…誰かを連れ込むから文次郎を追い出したんじゃない?」

仙蔵からの理不尽に対して思い巡らしていた文次郎と共に、黙り込んで何かを考えていた様子だった伊作が、唐突に言う。


「は?」

「『野暮』って、そういう事だろう?」

伊作が続ける。

暫し二人、見合って黙り込む。








「…いや無いだろう」

「…うん無いね。自分で言っておいてだけど、これは無い」

あの仙蔵が、誰かを部屋に連れ込む。
しかも、試験を明日に控えたこんな日に。

有り得ない。
いや、想像したくない。











「…で、本当に良いのか?」

浮かびそうになった嫌な映像を頭から振り払い、文次郎が今夜の寝床提供の件について、確認し直す。


「良いよ。今日は、ここには僕しかいないからね」

「留三郎は?」

「用事で出るから今夜は帰らないって。それを知っててここに来たのかと思ってたよ」

就寝の準備を進めながら、伊作が言う。
何処からそんな情報仕入れるってんだ、と溢しながら、文次郎もまた適当な場所へと寝具を広げていく。


「…ろ組の部屋で、まともに睡眠が取れると思うか?」

「…まぁ、無理だろうね」

消去法で、已む無くこちらを選択したのだという意を込めて、文次郎が言う。
寝床を借りる客人としては随分な言い方ではあったが、予想済みであったか伊作は気分を害した素振りも見せず、愉快そうに笑った。









寝具の上に身を横たえ、慣れぬ空気の中で中々訪れぬ眠気を待ちながら、文次郎は考えていた。

先程伊作にはああ言ったが
仙蔵に部屋を追い出されてから、交渉をろ組にしに行くか、は組にするか。
正直、文次郎はかなり悩んだのだ。

普通に考えて、学年一、いや学園一の野生児と共の部屋で就寝するなど、その手綱を完璧に握る長次以外にはまず不可能だ。穏やかに睡眠を取らせてもらえる気は全くしない。

けれど、食満のいるは組の部屋でというのも、今日の出来事があるだけに気が進まなかった。





結局あれから、食満の姿は一度も見なかった。

一人ぽつんと取り残されて、呆気に取られたままゆっくりと去った二人の自分に対する扱いを思い返してみて沸々と湧き上がってきたのは、苛立ちだった。

文次郎を避けようとした食満。
その食満と訳知りな素振りで何かをやり取りする長次。
そして最後には、『お前には言うなと頼まれている』ときた。

何だそれはと、文次郎でなくとも誰でも憤る筈だ。



長次に口止めをしたのは食満なのか。
だとしたら、文次郎を避けようとした理由もその口止めの内容に繋がるのか。

こと文次郎に対しては筋金入りの意地っ張りで負けず嫌いな食満のことだ。
大方、文次郎に知られては不味いような事が出来たのかもしれない。
それを隠そうとしてのああいった行動かと思えば、一応の納得は出来る。


けれど、それでも苛立ちは鎮まらない。

口止めなど面倒なことをする位ならば、はっきりと事情を言えばいいものを。
普段犬猿と評される仲であっても、二人はそれ以前に共にこの学園で学ぶ級友だ。
事情によっては、手を貸してやらないこともない。
長次に事情を話せるのならば、文次郎にだって話して構わないだろう、と。
食満の性格から考えれば無理も無いとは理解をしつつ、あの空間で、自分だけが省かれていたということに納得がいかなかった。


もやもやと、普段のように相手にぶつけられない苛立ちが文次郎の頭の中を占め続ける。

眠気が訪れないのはこのせいだ。
このままでは、明日の試験にも影響が出てしまうかもしれない。
ならば、この不毛な感情を、理知的な推察によって解消しようと。
文次郎は、食満が自分に隠したがるような何かが、その片鱗のようなものが、ここ最近の食満の行動に現れていなかったか思い返す。





ん?


けれど、思い返してみて初めて、そう言えばここ最近、自分と食満は喧嘩どころか顔を合わせてすらいなかったという事に気付く。

今初めて気付いたのだから、そう長い期間ではないのだろう。
最近は明日の試験の告知もあり、文次郎もそれなりに勉学に鍛錬と忙しい日々を送っていた。
だがそれでも、全く顔すら合わせていないというのはおかしいような気がした。



もしかして、避けられていたのは今日だけではなかったのか?




そこまで思い至った瞬間に、ふと、あの時漂った香りが記憶に蘇ってきた。
食満の身体から僅かに漂った残り香。
甘ったるい。花の香りに似た。

まるで、市中の若い娘達が好んで身につける香水のような。








がばりと、文次郎は床から身を起こす。


「伊作っ!」

衝立から顔を出し、そこに寝転がる伊作を呼ぶ。



「何?」

枕元に置いた燭台の灯りで何かの本を読んでいた伊作が、文次郎を見返す。
そして、就寝前とは思えない程に鋭い文次郎の目を見つけて、何事かと息を飲む。




「留三郎に…、奴に女が出来たという話は聞いたことがあるか?」

唐突な文次郎の問い。
至極真剣な口調での脈絡のないそれに、伊作は驚いたように目を見開き








「何それ。何処からの噂話だい?」

ブハッと、吹き出すように笑って答えた。






けらけらと腹を抱えて笑われ、自分が今衝動的に口にした問いの内容を理解したのか、文次郎の顔に朱が昇る。
眉を顰め、拳を震わす文次郎の様子に、笑い転げる伊作は気付いていない。


「誰から聞いたのかは知らないけれど、留三郎にはそんな人はいないよ。町とかでは凄く持てるけれど、今はその気はないみたい。前にはっきりと聞いたからね。今日の用事だってそんな色っぽいものじゃなくて、明日の試験の為のものだって言ってたから」

もういいと、文次郎が話を切り上げようとするより早く、伊作が続ける。


「前に君が散々に留三郎の変装術をこき下ろしてくれたおかげでね。頑張ってるんだよ」

笑いを収めそう言った伊作の顔は、先程までとは打って変わって穏やかだった。



「…お前には向いていないと、指摘をしただけだ」

「それで火がついちゃったんだよ」

「あれは、今更どうにかなる程度のものではないと思うぞ」

先程の伊作の反応を引き摺り憮然としながら、ついでに食満のことを語る際の伊作の妙に温かみの篭った声に少しの苛立ちを感じながら、文次郎は正直な意見を述べる。



「…君は、いつか自分の言葉に首を絞められると思うよ」

伊作は、そんな文次郎を暫し見詰め、ふいと視線を逸らして深い溜息をついた。



「…どういう意味だ?」

「そのままさ。…まあ、先ずは自分の言葉が持つ影響の程を知ったほうがいいよ」

「ますます意味が分からん」

言葉の通りに、訳が分からないといった表情を浮かべる文次郎を、呆れたような目でぎろりと伊作は見返す。



「とーにーかーく。僕もそろそろ眠たくなってきたし、もう遅いんだから話はこれでお仕舞!改めて言うけど、今現在留三郎に懇ろな女性はいないし、今日はその為に出てるんでも無い。安心したら、さっさと寝ておくれ」

「安心って…」

「あぁーもう無自覚は面倒くさい!灯りももう消すからね。おやすみ!」

最後は口を挟む暇もなく、一方的に終了宣言をした伊作は、宣言通りに燭台の灯りを吹き消し、がばりと布団を頭から被って、文次郎へと背を向け寝入ってしまった。



無自覚とは一体どういう意味かと問い返す隙も無く、諦めて文次郎も床へ戻る。






何だか、様々なことを無駄に考えこみ過ぎて妙に疲れた。

気に掛かること、気に食わないことは多々にある。
けれど、明日は試験だ。関係のないことを考えるのはやめよう。

食満が自分を避けようが。何処かで見知らぬ誰かと逢引こうが。自分には関係ないのだ。
何を焦って伊作に問い詰めなどしてしまったのか。愚かだ。

そう何度も、言い聞かせるように頭の中で繰り返せば、少しずつ心は静まり、その分心地よい眠気に満たされてきた。




暫しして、漸く文次郎は眠りにつくことが出来た。













同刻。い組の長屋にて。



「さて」


眼前の畳の上に広がる、自身愛用の小道具達を眺め、仙蔵は前方へ向ける笑みを深める。


すっと。
燭台の灯りの影から音も無く姿を現した長次もまた、両手に抱えていた紙に挟まれた長方形の束をその横へと広げ、仙蔵と同じ方へと視線を向ける。


仙蔵と長次の広げた道具達の向こうで二人分の視線を受け顔を強張らせる食満は、ほんの一瞬視線を落としたが、意を決したように居住まいを正し、決意の篭った眼差しで正面の仙蔵を見返した。




「よし。それでは仕上げだ」


そんな食満の様子に満足したかのように、優雅な弧を描く唇を開き、仙蔵は立ち上がった。






あとがき
長い!でも、どうしてもここで区切りたかった…。

何だか壮大なストーリーを予想させる一話目の長さですが、今後の内容は、大部分の皆様が予想出来るような、べた〜な路線を予定しております。
尻下がりで盛り下がっていくことにだけはならないよう、何とか頑張りたいです…

今回の文次郎さんは無自覚です!そして色々鈍いです!

もどかしいー思いを皆さんにもさせてしまうかもしれませんが、ご了承下さい。
(苦情は、文次郎さんではなく管理人へと。ビシバシどうぞ)




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