やがて綻ぶ 03 | ナノ

やがて綻ぶ










「…離してくれ」

「留三郎」

「頼むから」

こんな無様な姿を見ないでくれ、と。
懇願するかのような食満の言葉に、頬に添えられた文次郎の手の力が緩む。
食満は緩く首を振ってその手から逃れ、顔を伏せて座り込む。

解かれた髪で顔を隠し、その影の中で食満の顔が歪む。





文次郎に並以上の情を持ちながら、恋仲にも、友にもなれなかった。
なれないと信じ込んでいた食満は、己に唯一残された『好敵手』という関係に固執していた。

親しみを込めて笑い合うことも、甘く愛を囁き合うことも、優しく触れ合うこともなくていい。
意地を張っていがみ合い、掴み合い、力任せに振るう拳が残すと痛みと傷跡だけでもいい。
文次郎にとっての自分が、『その他大勢の知り合いの中の一人』から抜け出し明確な位置づけを得られるのならば。
その為に己の全てを捧げると、文次郎への想いを自覚した時、食満は心に決めていた。



例え遠く離れていても、交わす便りなどなくとも、食満は文次郎にとっての好敵手であり続けたかった。
学園時代は互いに心身を鍛え合い、競い合い、常に対等の位置に並んでいたのは自分であるという自負はあった。
しかし学園を出てそれぞれが別の道を歩み始めてしまえば、同じ舞台に立ってその力を比べることは出来ない。
肩を並べて背を比べ、今日の自分が歩んだ距離と相手の歩んだ距離を見比べて測ることは出来ない。

だから、食満は日々思い浮かべるようになった。

今日も何処かで己を鍛え上げ続けている文次郎を。
寝る間も惜しんで、妥協を許さず、全てに全力で高みを目指し続ける文次郎を。

そんな文次郎と対等で在り続ける為には、同じだけの鍛錬をすればいい。
高みへ昇っていく文次郎に見限られないよう、その背を追うだけにはならないよう、同じだけの実力をつければいい。
そうすれば想像の世界の中で、食満は文次郎の好敵手で在り続けることが出来た。


心の何処かでは分かっていた。

こんなもの只の思い込みだ。下らない未練だ。
こんなことを考えているのはきっと自分だけ。
文次郎はもう、新しく開けた世界の中で、新しい目標と好敵手を見つけている。
自分のことなど、もう思い浮かべることもないだろう。

それでも、いつか何処かで、何かの拍子で文次郎が自分を思い出した時に
その時の文次郎が思い浮かべる姿が、常に食満が頭に思い描く様に、好敵手として傍に立ち競い合う姿であったなら。
せめて現実の自分もその想像に相応しい姿に、実力になっていたいと。

辛く厳しい忍びの世界で食満を奮い立たせてくれたのは
心身を削り、血肉の汚泥に足を絡め取られながら、それでも忍として生き続ける導となっていたのは、その想い一つだけだった。



だからこそ、十年ぶりの再会に、想像通りの成長を遂げていた文次郎が、食満を昔と変わらぬ目で見てくれたのが嬉しかった。
一方的に見下ろす立場でも見上げる立場でもなく、隣に並んで、同じ視線で接することが出来たのが嬉しかった。それなのに。





「…告げねば良かった」

文次郎から顔を背けたまま、ぽつりと食満が呟いた。



「…何?」

「俺の想いなど…。一生蓋をしたまま、仕舞い込んでおくべきだった」


唯一自分だけに許されていた筈の『好敵手』という関係を今、食満は失いかけていた。
再会の喜びに、その一瞬の満足と引き換えに、生涯口にせぬと決めていた想いを溢してしまったせいだった。


文次郎から提示される新しい関係は、確かに食満が心の奥底で望んでいたものだった。
けれど、固執し続けた十数年の想いがそれを受け入れるのを拒む。
必死に縋りついていた関係を、塗り変えてしまうことを恐れる。
只一つだった想いと導が変わってしまった後に、自分はどうやって生きていけばいいのかが、分からないからだ。

食満が文次郎を拒むのは、そんな単純な、何処までも自分勝手な理由からだった。





食満の呟きは、殆ど無意識のものだった。
誰に聞かせる為でもなく、只今頭に浮かんでいることが言葉として零れ落ちたものだった。

だからこそ、それが本心から言っているものだと文次郎には伝わった。

文次郎は、食満から振り払われた己の掌を見下ろした。
頬を伝った食満の涙の一粒を吸い取り、僅かに濡れたその掌に、ぽつりと小さな滴が落ちた。












「おい」

項垂れた食満に、文次郎が呼び掛ける。

低く、感情を抑えたような声。
この目で見なくとも想像出来る。
きっと先程以上に顔を顰めてこちらを見下ろしているのだろう。
そこに浮かぶのは先程と同じ悲しみか痛みか。それとも失望か呆れだろうか。

こんな情けない食満の姿に、ついに文次郎も嫌気がさしてしまっただろうか。目が覚めてしまっただろうか。
そう思うと、声を上げて泣いてしまいたい衝動に駆られる。

嫌だ
離れないでくれ
俺を見てくれ
俺だけを見てくれ

文次郎をこの心に受け入れられないくせに、文次郎をこの心から手放せない。
綻びを見つけた想いは、食満の意思に反して積もり積もった望みを叫び続ける。
自分の本心の叫びを聞き、益々食満は酷く歪んだ顔を上げることも、震えそうな喉から声を絞り出すことも出来なくなった。



そんな食満を見て、するりと布ずれの音を立て文次郎が動く。

影を作る前髪の隙間から、食満へと向かって再び伸ばされる文次郎の手が見えた。
頬に触れるのかと思ったその手は、頬を過ぎ、食満の後ろ首へと回された。
ぱさぱさと跳ねる長さの不揃いな後ろ髪を掻き分け、文次郎の武骨な指が食満の項へと触れる。

そっと、壊れやすく傷つきやすい、生まれたての雛にでも触れるかのようなその仕草と、変わらずに熱い文次郎の手の温度に、食満は無意識に安堵を感じ、強張った身体から力が抜けかけた。



しかし、その直後。
触れた時とは真逆の乱暴さで文次郎の手指に力が込められ、前方へと引かれた。
不意の乱暴な行為に、無防備に俯いていた食満の首が反動で後ろに反る。
がくりと頭が倒れ、予期せぬ脳の揺れに食満は眉を顰める。

普段より厚い水膜に覆われた視界に、無表情に食満を見下ろす文次郎の顔が映り込む。
少し斜めに傾いたそれが、先程額同士を触れ合わせた時のように近付いてくる。
顔を背ける猶予も目を瞑る余裕もなく、一瞬にして食満の視界は文次郎でいっぱいになった。
抵抗も忘れ茫然と目を見開き、近付く文次郎の瞳と視線を合わせられたのはほんの一瞬。
焦点も合わない程、肌と肌が触れる程に近付いた次の瞬間に





がぶり


「痛ってぇ!!??」

文次郎が、食満の鼻背に噛みついた。



一瞬にして、食満の目に先とは違う涙が浮かぶ。

「ふぅっ…!」

ぎりりと痕が残る程に歯を立てられ、あまりの痛みに食満の口から声が漏れる。
直に肌で感じる文次郎の熱い唇の感触。しかし、その感触を痛みが掻き消す。

くっきりと痕が残るまで食満の肌に歯を食いこませ、文次郎が口を離す。
僅かに唾液で濡れた皮膚がひやりとした風を感じた。


「てめ…何っ…」

突然何をするというのか。
噛みつかれた鼻を片手で覆って、涙をにじませた目で食満が文次郎を見上げた。いや、睨み上げた。





しかし、続けようとした抗議の言葉は、その顔を見た瞬間に吹き飛んだ。


食満を見下ろす文次郎は、怒りに顔を歪めていた。
眉を吊り上げ、目を見開き、先程食満に噛みついた唇は固く結ばれている。
深く大きく呼吸を繰り返す肩はゆっくりと上下し、身体全体が内から湧き出る衝動を抑え込むかのように小さく震えていた。


学園時代から、文次郎はよく怒る男であった。
算盤を片手に委員会の後輩たちを叱咤し、予算を寄越せと殴りこみを掛けてくる他の委員たちを迎え撃ち、あほだまぬけだと食満に怒鳴りつける。

しかし、今の文次郎の顔はそれらのどれとも違った。
学園の誰よりも多く、至近距離でその怒り顔を見せつけられ続けた食満が間違える筈もない。

そんな顔を、食満は見たことがなかった。
食満と文次郎は犬猿の中ではあったが、決してお互いを憎み合っていたのではない。
誰より相手を認め意識しているからこそぶつかる、好敵手だった。
そんな相手を言葉で焚き付け、挑発することは多々あった。
しかし、その人格を否定し、侮蔑し嘲弄することなどあり得ない。

それなのに、今食満に向けられている文次郎の顔は、正しくそれを受けたに等しいものだった。



(何で…そんな顔)

食満の心臓が、どくどくと耳に響く程に大きく鼓動を打つ。


(俺…が、何かしたのか?お前に、そんな顔をさせてしまうような、何かを?)

初めて向けられる表情に呑まれながら必死に考える。
しかし、先程自分が溢した無意識の呟きを覚えていない食満は、その理由に思い当たることが出来なかった。


(…そうか。俺が、あまりに無様だから…。自分勝手で、中途半端で…。お前を受け入れないくせに、はっきりと拒否もしないで。本当はお前に縋りついているのにも気付いて…。だから嫌になって…)

辿り着いた結論は何処か的外れだったが、茫然と文次郎を見上げる表情の裏で心を乱している食満は、自分にとってもっとも恐ろしい方向へと思考を到着させてしまった。


(…謝らないと)

文次郎は自分の無様な姿に怒っているのだと、一瞬の思索で結論つけた食満は想像した。
その怒りのままに、文次郎に侮蔑を向けられ決別を宣言される自分の姿を。


それを思い浮かべた瞬間に、食満の全身に鈍器を叩きつけられたかのような衝撃が走った。衝撃が突き抜けた後は、泥の底に身を横たえているかのような圧迫感が襲う。

嫌だ。
もしそうなったら、きっと生きていけない。
潮江文次郎という男を完全に失ったこの先の人生になど意味はない。
想像しただけでもこれだけの痛みなのだ。
実際に、逃れられない現実の中でそれを告げられたのなら、きっとこの胸は内から裂けてしまうだろう。


極度の緊張か、それとも恐怖にか、文次郎を見上げる食満の瞳に滲んだ涙が再びこぼれ落ちる。

(ああ、また…)

心の中で、食満は涙を流す己の目を掻き毟った。

男のくせに、大人のくせに、忍びのくせに。
こんなにも容易く涙を流すなど、弱みを見せるなど。
文次郎にだけは見せたくないのに。
こんな自分の弱さを、誰より強いこの男にだけは知られてはいけないのに。


(とにかく、何でもいいから、早く…)

食満は、震えそうになる唇を無理やりに開く。
ひゅるると、酷くおかしな音を立てて、やっとの思いで息を吸い込む。





しかし、食満が言葉を発するより早く、再び文次郎が動く。

固く握りしめられていた両手が食満に向かって伸びる。
びくりと身を引きかけた食満の反応を無視し、素早く食満の背へ回った文次郎の両腕が強く己へと引き寄せる。
自分よりも幾分か広く逞しいその胸の中に抱き込まれた食満の腰が浮く。
回される腕に籠る力の強さに、吸いこんだ息は言葉より先に吐息となって吐きだされた。


「文次っ…」

名すら最後まで呼び切ることを許されず、開いた口ごと顔を文次郎の肩へと押しつけられる。

熱い。
顔を押しつけられた肩も、頭部に回る掌も、隙なく包み込んでくる身体も。
文次郎は何処も彼処も熱かった。
その熱に、食満の皮膚の感覚は焼き切れてしまいそうだった。


(何で…)

それでも、困惑した思考の中で食満は問う。

文次郎は、自分に対して怒っていたのではないのか。嫌っていたのではないのか。
それなのに、何故抱きしめる。こんなにも熱く、強烈に。
まるで、愛しくて堪らないものを逃すまいと閉じ込めるかのように。
そんな扱いを受けることが許される自分ではないのに。


文次郎の熱に思考を溶かされてしまいそうになりながら、食満は突然の抱擁に遮られてしまった、先程自分がしようとしていたことを思い出す。

肩に抑え込まれた顔を離そうと食満が身じろぐ。
しかし、身体の外側から包みこむように回された腕が抵抗を抑え込む。
むしろ食満を抑える文次郎の腕の力は、抵抗するごとに増していくようだった。



それでも何とか文次郎の胸に両腕をつき、その隙間に顔をおくことで漸く口を開けるようになった。


「文次郎っ…ごめん!俺が、俺が悪かったから!」

食満が叫ぶ。
腕の中でもがいたせいで、少し合わせの崩れた文次郎の黒い教員服を握りしめ、額を胸に押しつけ、謝罪する。

まるで懇願するようなその声と仕草。
けれど、それは紛れもなく懇願だった。
文次郎の怒りを解きたくて。文次郎を失いたくなくて。
それだけの思いで、食満は文次郎に縋りつき謝った。












「…バカタレが。何でお前が謝るんだ」

文次郎が、漸く口を開く。
低く静かな声は確かに不機嫌な時の文次郎のそれであったが、先の怒りの表情程の激しさはない。




「…だって、お前怒ってるだろう?」

文次郎の言葉の意味が分からず、食満が腕の中で身じろぎしながら返す。
突如怒りを示した文次郎。今この場にいるのは文次郎と食満だけ。
ならば、その怒りの対象も起因も食満しかあり得ない。
だから、食満が謝るのは当然の流れではないのか。



「確かに、腹は立っている。…でも、お前にじゃない」

「じゃあ…何で、何であんな顔…」



「俺が怒りを感じたのは、…俺自身だ」

文次郎の言葉に、食満が驚き顔を上げようとする。
文次郎はそれを許さず、食満を抱きこむ腕に力を込める。
顔を上げるな。こちらを見るな。
まるでそう言っているかのような仕草に、食満の胸が僅かに痛む。



「俺自身って…何で?お前は、何も悪くないじゃないか…」

困惑して、食満が呟く。

何故、文次郎が己を責めなければいけない。
あんな表情をする程に、怒りを感じなければいけない。

寧ろ非があるのはこちらだ。
一方的に責めたてられても、突き放されてもおかしくない。
やはり、謝罪すべきはこちらなのだ。

理解出来ない文次郎の言葉に、文次郎の胸に額を押し当てた食満の顔が歪む。上衣を握りしめる指に力が籠る。



そんな食満の呟きを聞き取り、文次郎が小さく息をはく。
それに反応して身を固くした食満の耳に、文次郎が頬を寄せる。
抱きしめる腕の力強さとは真逆の優しさで、ゆっくりと擦り寄られる。





「…想いが伝わらないというのが、こんなにも辛いことなのだとは知らなかった」

「…っ」

囁くように耳に吹きまれた文次郎の言葉に、食満の心臓が凍りつく。

自分が文次郎を拒み続けることで、文次郎に与えていた痛み。
分かり切っていた筈のそれを改めて言葉として与えられて、食満は自分の罪に血の気を引かせた。

しかし、すぐさま文次郎が次の言葉を繋げる。



「…だがお前は、こんな苦しみを抱いたまま、ずっと生きてきたのだな」

文次郎の声の調子が変わる。
怒りと不機嫌さの表れだと思っていた低い声が、酷く傷ついたような、弱々しいものとして食満の耳に入る。

ずるりと、文次郎の膝が折れる。
食満を抱きしめたまま身体をずらした文次郎の額が、食満の肩にあてられる。


「俺は気付かなかった。お前の苦しみに。傷つくお前の心に。お前の強さに甘え、自分の弱さから目を背けると共に、お前の弱さをも見ようとしなかった。そんな自分の愚かさが許せない」

絞り出すかのような文次郎の声。
その声に、食満は茫然としたまま耳を傾ける。


「お前はこれ程の苦しみを抱きながらも、それを捨てない。俺を忘れずにいてくれた。俺を想って涙を流してくれる。それが、どうしようもなく嬉しい。そんな自分の身勝手な感情が許せない」

文次郎の声が、食満の身体に回る腕が震えていた。
しかしそれは怒りからではなく、それと真逆の感情からくる震えだった。


「お前を苦しめ、傷つけ。今もそこから抜け出せない程、追いつめたのは俺だ。すまなかった」

食満は、文次郎の言葉を否定したかった。

それは自分の弱さだ。
この気持ちを封じ込めたのも、捨て切れなかったのも、今もここから抜け出せないのも。
全ては、自分で決めた、自分の非だ。
文次郎が謝ることではない。

それなのに、言葉が出て来ない。

ひどく弱々しい文次郎のその姿。吐露される感情。謝罪の言葉。
それが信じられなかった。



「…それでも。お前を苦しめると分かっていても、俺にはお前に告げるしか手段がない。告げずにはいられない」

食満の背に回っていた文次郎の腕が外される。
身体を離し、顔を上げた文次郎が再び食満の頬に手を添える。

漸く覗くことの出来た文次郎の顔。
薄らと赤く染まった目尻を僅かに濡らすものは、恐らく今食満の頬を伝って文次郎の掌に吸い取られているものと同じだ。


「俺は、お前を好いている。もうお前を手放すことなど考えられん。お前が望まずとも、お前は俺のものだ。お前が逃げても、俺は何処までも追う。俺のいない人生を歩むことなど許さん。お前がその眼を永久に閉ざすのは、俺がこの手で終わらせるときだ。そして、お前もそうしろ。今言ったこと、一つでも違えることは、許さん」


力強い眼差しが、意識を手放しかけていた食満の瞳を射抜く。
食満が、何かを言おうと口を開く。


「言え。俺は、お前の全てを受け入れる」

文次郎の言葉に、再び涙が溢れる。
それを拭うことも忘れ、食満はただ一言を呟いた。









あとがき
いちゃいちゃ吹っ飛ばして、何故かプロポーズに。

このお話では文次郎さんはとにかく男前に!食満先輩は若干乙女に!と意識して書きましたが、食満先輩が当初の予定以上にうじうじしてしまったので
その理由はなにか。どうやれば壁は破れるか。
みたいなことを管理人なりに考えていたら、こんな流れに。
(考えこみ過ぎて、少し凹んでしまう位には考えました)

結局、最後にはいけドン精神で文次郎さんに押しまくってもらいました。



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