やがて綻ぶ 01 | ナノ

やがて綻ぶ










記憶に懐かしい。けれど、ここ最近ですっかりとまた五感に馴染んできた学園の廊下を、食満は一人歩く。





学園を卒業してからはや十年。
様々なものに別れを告げ、無数の可能性を追って前だけを見て駆け出したあの門出の日から十年。

紆余曲折、縁も奇縁も巡り巡って。現在の食満はフリーの忍者として働いていた。



フリー忍者に転向してからはまだ数年。
けれど依頼に恵まれ、それなりと自負できる程度には身に付けた実力にもより順調に売れ始めてきた食満の予定は、自分が在学中に密かにあこがれていたあの人程ではないが、隙なく埋まり始めていた。

近頃は、フリーとしての腕を認められ学園から依頼を受ける事も増え、今日のように、任務達成と成果献上の報告の為に学園を訪れる機会も増えた。



既に今回の報告は済んでいた。
一人の忍とその依頼主として対面する事になって、改めて実感させられた学園長先生の老練しつつも少しも衰えない威厳には、何度向き合っても居住まいを但され、必要以上に気を張りつめてしまう。

その反動とでもいうか。
学園長室のある庵からの帰り道、先程までの緊張の名残を引いて凛と背筋を伸ばして学園を歩く食満に対して無邪気に掛けられる、忍たま達の羨望の眼差しを向けられ歩くのは、何だか気恥ずかしい気分だが、昔を思い出して懐かしい。





さてこれからどうしようかと。
食満はまた一人、ぺこりと頭を下げてきた忍たまに手を振り返しながら考えた。



明日からは、再び忙殺と呼ぶに相応しい任務の日々が始まる。
けれど、今日は様々な任務が続けて完了し、ぽかりと沸いて出た不意の休日なのだ。
すべきことも全て済ませ、今から明日の夜明けまでは身体が空いていた。

久しぶりの休日。折角の学園。
ならば、この休日は学園に関することに費やしたい。

自分の後を引き継いだ後輩達、その後輩達からまた後を継いだ現在の後輩達が取り仕切る用具委員会がどのようなものになっているか見に行ってみようか。あれこれ口を出すつもりはないけれど、もしも自分に手伝えることがるのなら、あの頃に戻ったつもりで皆と一緒に汗を流すのもいい。他の様々な委員会活動を邪魔にならない程度に見物しに行くのも楽しいかもしれない。

それとも、今日の下級生の授業は既に終わっている筈だから、長屋の方に顔を出そうか。
自分の姿を見てわらわらと一斉に小さな忍たま達が集まって来てくる光景は、在学中は教員のみが見下ろすことの出来るものだった。それを存分に堪能できる現在、その光景は食満にとって至高の癒し効果がある。

食堂のおばちゃんのあの掛け声も久しぶりに聞いてみたいものだ。
何年経っても現役で、学園中の生徒教員の食事を拘りと愛情を持って作り続ける。1年365日、毎日同じことを、常に同じだけの情熱を注いで継続させるということがどれだけ大変なことか。学園を出て、卵ではない一人前として扱われるようになって改めて思い知らされた。
少し手伝いでもさせてもらおうか。これでも長年の一人暮らし歴のおかげで料理は得意なのだ。以前勤めていた城では、下っ端として忍隊全員分の飯炊きをやっていたことだってある。

やりたいことは次々と浮かぶ。
時間ならある。その上今日は、ここ最近食満の心を乱し続けている悩みの種もここにいないのだ。
さて、何処から行ってみよう。





そんな風にこれからの予定を組み立てていた食満の足が止まる。

くるりと踵を返し、元来た道を戻る。
残念ながら、さっきまで頭に思い浮かべていた予定と希望は、全て却下となってしまった。


(何でいるんだよ…)

胸中で毒づく心持で呟く。
しかし幸いなことに、向こうはまだ食満の気配に気づいてはいない。
至極残念だがこのまま気配を絶って学園を出よう。
学園を出ての十年の中で、生き残る為、忍としての任を全うするために身に付けた全ての技術で以て、食満は廊下の向こう、教員長屋の方から感じた気配の主から遠ざかろうとした。



「あ、食満先輩!」
「こんにちは!」
「遊んで下さい!」

しかし、食満を慕って駆け寄る良い子の忍たま達に声を掛けられてしまえば、食満は足を止めざるを得ない。
良い子の挨拶の声は非常に礼儀正しく、大きい。
勿論木製の廊下には鈴を鳴らしたかのように良く響く。

そして食満が顔を合わせたくないと逃げを打とうとしたその相手は、正しく地の底で落ちる釘の音まで聞き分けてしまう地獄耳なのだ。



「ご、ごめんな、今日は駄目なんだ。また今度、な?」

遠い長屋で相手が動き出すのを感じる。確実にばれた。
きらきらとした期待の瞳で見上げてくる良い子たちの御誘いを、断腸の思いで断る。
次は絶対に、体力の続く限り遊んでやるからな!
表面ではいつも優しく頼りになる先輩の顔で、心では涙を流し、食満は一気にその場から跳躍すると窓から外へと飛び出していった。



あっと言う間に消えてしまった食満の姿を、窓から顔を出して憧れの眼差しで下級生達が追う。
そして、そんな忍たま達の頭上を黒い影が飛び越え、食満の消えた方角へと疾風のように駆け抜けていった。












(くっそ…何で追って来れるんだ)

学園を飛び出ても、食満は未だ全力で駆け続けていた。

単純な早さでは自分に利がある。逃走の経路もかなり選びぬいて進んでいるし、痕跡一つ残して来てはいないはずだ。それなのに、食満を追う者の気配は的確に食満の通った道をなぞって迫ってくる。

どういうことか。何故なのか。自分は気付かないまま、何か目印となるものでも残したか。
足跡を残さぬようにと飛び移って来た岩の上から大きく跳躍し、進行方向からは影となる木の幹へと背を預ける。
素早く自分の身なりを確認する。しかし初めに自分が持っていた荷物や忍具以外おかしなものは見つけられなかった。匂い、音。それらの可能性も考えるが、遠く離れた場所まで痕跡を届けてしまうようなものはない。

では、一体何だというのか。
不可解な追跡に困惑しながら、それでもどうしても追跡者と捕まることだけは避けたい食満には、このまま逃げ続けるしか手はなかった。
再び駆けだそうと食満が木の影から顔を出し、周囲の様子を探る。



その視界が、突如暗転した。
幻術か!?と、食満が身構えたその時。





「出門表にサインして下さい〜」

間延びして語尾の長い声、台詞。
そして目の前に突き出された紙と筆。



「…小松田さん?」

「もう〜、駄目じゃないですか。いつも言ってるでしょ。ちゃんとサインはしてもらはないと困るんです!」


臨戦体勢に移行しかけていた食満の眼前で頬を膨らませて立ち、出門表を突き出し叱りつけるのは、忍術学園のへっぽこ事務員こと、小松田秀作だった。



食満の二歳上である筈のその人は、その仕事の内容と同様に、学園来訪者からのサインに掛ける情熱までもが十年前と変わっていない。
恐ろしいのは、ここまで体育委員会のマラソン並の距離を短距離走並の速度で駆け、その上数々の外敵迎撃用の罠を避けて掛けて来た食満を、傷一つ追わず、息一つ切らさずに、更には食満に全くその気配を掴ませずに追ってきたという目の前の小松田の姿だ。
彼のサインに掛ける情熱は、一生に一度起きるかどうかも分からない奇跡をも乱発させてしまうのか。


唖然として小松田を見る食満の耳に、もう一人の追撃者の立てた木々の枝が擦れる微かな音が届く。
転瞬、身を翻して逃亡を再開しようとした食満の腕を、小松田ががしりと掴む。


「こ、小松田さん!!」

「駄目ですってば〜!サ・イ・ン!してから行って下さい!」

「分かった、分かったから!サインするから早く筆…」

まるですっぽん。
急いでいるのだと声色どころか全身で示してみせても、食満を引き止める小松田の腕の力は緩みもしない。
これはサインをするまでは小松田を振り切れないと悟り、食満が切羽詰まって出門表の紙と筆に手を伸ばす。



「あれ?」

しかし、食満の手が届くよりも一瞬早く、小松田の手にあった紙と筆は誰かに取り上げられる。
小松田が、気の抜けた声を上げて振り向く。
食満は、青褪めてその背後に仁王立つ影へと視線を向けた。



「よお」

そこに立っていたのは、学園の黒い教員服に身を包んだ、潮江文次郎だった。












小松田の手から出門表を取りあげた文次郎は、そのままさらさらと食満の名と、ついでに自分の名を書き込んだ。


「私はちょっとこいつに話があるので。用が済んだら学園に戻りますので、小松田さんは先に戻っていて下さい」

学生の頃とは違う、教員としての文次郎の口調。

私ってなんだよ。小松田さん一人で戻して無事に帰れると思ってんのかよ。お前それ小松田さん追い払いたいだけだろう。
次々と浮かぶ文句を、けれど口にすることも出来ずに食満はその場で立ち尽くしていた。


文次郎が食満に背を向け小松田を追い返そうとしている今の内に、こっそりと逃げだそうか。
焦燥により逸る鼓動と引く血の気を感じながら、胸中で考える。

出門表にサインをした今、もう小松田は食満を追って来ない。
その小松田を追うことで食満を追うことが出来ていた文次郎も、今度は付いて来れぬだろう。

けれど、小松田に笑顔で対応する文次郎の背中には、逃げたらどうなるか分かっているな、という脅迫文がありありと書かれていた。


どうすべきかと決めあぐね、どうにも動けぬまま食満が立ち尽くしている間に、小松田は大事そうに紙を胸に抱いて、手を振り二人から離れていった。
思考が纏まらない今となっては、もう少しこの場に留まり文次郎の相手をしていて欲しかったという願望を込めて、食満の視線が小松田の後を追う。
ほんの数歩歩き始めたところで早速何かに躓いてその姿が食満の視線から消えた。
思わず駆け寄ろうと動き出そうとしたその寸前、食満の視界いっぱいを、振り返った文次郎の胸元が覆った。





「ぬわああぁぁぁあ!!」

腹の底から叫び声を上げ、食満が飛び退く。
一瞬にして、食満の頭から小松田のその後は消え去った。
まるで敵忍にでも遭遇したかのような機敏さで、文次郎を見据えて距離を取って身構える。


「…うるせぇよ」

鼓膜を突き抜けた食満の野太い悲鳴に、文次郎が眉を寄せた。


「う、うぅ、うるせーじゃねえ!おっ…お前、い、今、何っ…」

動揺が過ぎて発声中枢に支障をきたしてしまった食満が、それでも文次郎に対して抗議をしようと必死に言葉を紡ぐ。
体勢は身構えたまま。けれど、その顔は尋常でなく赤かった。




「お前が逃げるからだ」

そんな食満とは対照的に、けろりとして文次郎は食満の背に回そうとしていた手を下げ、首をかいた。


「に、逃げ…」

焼き切れ寸前の食満の頭の中が、真っ白になる。
顔どころか耳も首も赤く染めた食満がくるりと背をむけた。つまりは、逃げようとした。


「んがっ!?」

しかし、すんでのところで伸ばされた文次郎の手が妨害する。
食満の、普段とは違って低い位置で結われていた髪の束を、まるで犬猫の尾を掴むかのように握って引っ張ったのだ。
前方へと駆けだそうとしていた勢いに後方へと引く文次郎の力が反発して、食満の頭皮に強烈な負荷がかかる。
あまりの痛みに食満の口から鼻にかかる呻きが漏れ、一気に目尻に涙が滲む。


「何すんだてめえ!!はげるって…」

痛みによって正気を取り戻した食満が振り返るよりも先に、文次郎の腕が食満の胴体へと回った。
臍の辺りで交差したその逞しい腕に引かれ、食満の身体が後ろに傾く。
抗議の言葉も途中で途切れ、気付いた時には食満は後ろから文次郎に抱きすくめられていた。


ぴたりと隙間なく身を寄せられ、食満の背に文次郎の鍛え上げられた胸板の固い感触が伝わる。
逃がさぬようにと、食いこみそうな程強く回される腕は、普段よりも体温の上昇している食満に負けず劣らず熱い。


「悪い。なんか掴みやすそうだったから引っ張っちまった。痛かったか」

文次郎が珍しくも素直に謝罪する。
しかし、現在の体勢的に文次郎の顔は食満の後頭部の傍だ。
やや俯いて、ぼそりと呟くように喋られて、その吐息が食満の項をくすぐる。
茹であがったような肌に吹きかけられる熱い息に、びくりと食満の肩が揺れた。


「どうした?」

食満の反応を訝しがり、文次郎が問う。顔の位置は変えずに。再び息が項へとかかる。食満が反応を示す。
わざとか。お前、わざとなのか。
問いただしたくとも、今の食満からはまともな言葉は出て来なかった。


食満から何の言葉も返らないのをどう取ったのか、文次郎が食満の肩に顔を寄せる。
するりと、ぱさつき痛んだ毛先ごと首筋に額を押しつけられる。
塞がった両手の代わりに、慰めるかのような仕草で撫で、擦り寄られる。


「は、は離せ…!!」

ぞわりと背を走った感覚にどうにも我慢が出来なくなって手足を振って暴れ出せば、逃げるから駄目だと、肩に顔を埋めながら籠った声で却下された。
誓って二度と逃げないと何度も繰り返し説得し、やっとのことで腹に回した腕を外させるのには成功するが、かわりに手首を掴まれた。
約束したからには逃げる気はなかったが、先刻の前科がある故に信用されてはいないようだった。

出来ればこのまま顔に昇った熱が冷めるまで背を向け続けていたかったが、掴んだ腕を強く引かれる。
促されるままに身体を返され、それでも悪あがきとして顔を俯けるが、顎を掴まれ持ち上げられてはそれも長くはもたなかった。



(…何だその顔)

見上げさせられた文次郎の顔は、ひどく不機嫌であった。
掘りの深い顔を顰めこちらを睨みつけてくる顔には、学生時代、散々神経を逆撫でされてすぐさま殴り合いの喧嘩へと移行したものだが、お互いに歳を重ねて落ち着いた現在はそこまで短絡的ではない。
何より、その顔に含まれているのは苛立ちだけでなく、拗ねたような、悲しんでいるな、何処か傷ついたようなそれであった。
そんな顔をされてしまえば、食満はどうにも抵抗できなくなってしまった。





「何で逃げた?」

文次郎が問う。
何のことだ、としらを切るには遅すぎる。
ちょっと用事があったから、などと誤魔化すにも無理がある。
お前に会いたくなかった、等と口にすれば誤解をされる。


「…今日は、実習の監督で学園外に出るんじゃなかったのか?」

上手い言い訳の言葉が浮かばず、食満は問いに問いを重ねて返してしまった。
食満が任務報告の為に学園に足を運び、先ず第一に周囲の忍たま達へと行ったのがその確認だ。
一年は組実技担任の潮江文次郎は、学園内に在勤中なのかと。
校外授業の監督の為に不在だとそう話を聞いたからこそ、食満は用を済ませた後も学園内をすぐに出なかった。
もしも学園に文次郎がいることを知っていたならば、いつものように、速やかに気配を絶って学園を出ていたというのに。


「俺の担任するクラスは少々教科授業の方が遅れていてな。実習は延期になった」

食満の足掻きに文次郎が答える。
そして再び、何故逃げた、と同じ質問が繰り返される。


「学園に来るのなら連絡の一つくらい寄越せ。何故顔も見せに来ない」

顔を見たくなかったからだ、などと正直に答えることも出来ず、食満は言葉に詰まって唇を噛んだ。

無言で促してくる文次郎の強い視線から逃れたくて、食満は目線を泳がせる。
けれど文次郎はそれすら許さず、食満の頬を両手ではさんで固定させ、顔を近付ける。
ごつりと、額同士がぶつかる。
頭巾からはみ出した文次郎の前髪が、食満の瞼を擽る。



「…お前に会いたいと想っていたのは、俺だけだというのか?」

髪に遮られながらも、それでも痛いほど真っ直ぐに食満を見つめる文次郎の視線と吐露された言葉に射抜かれ
ばふんと、これ以上ないほどに顔を赤くした食満の腰から、力が抜けた。









あとがき
今まで書いたお話の中で、群を抜いて書くのが恥ずかしかったお話です。
深夜のテンションで書き殴って日記にアップしたあの頃が懐かしい…
手直しして再アップするのにも、かなりの勇気が要りました。



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