これが日常《10000hit感謝企画》 | ナノ

これが日常

《10000hit感謝企画》








早朝。


ちゅんちゅんと今日も元気に愛らしく、微かに耳に届く小鳥達の鳴き声は、こんもりと膨らんだ布団の中で微睡む食満を揺り起こす。
差し込む朝の日差しと、布団からはみ出た頬を撫ぜる澄んだ空気。
すぅと深く吸い込んだ空気は喉の奥をキンキンと突き刺すように冷たいのに、それは心地よく肺から全身へと巡り、眠った感覚を呼び戻す。

自分の体温でぬくぬくと温まった布団の中、食満は小さく伸びをした。
もう起きようか。いやもう少し大丈夫か。
身体に染み付いた習慣と肌で感じる空気の冷たさから、朝の支度を始めるまでにはもう少しの猶予があることを知る。

一つあくびを噛み殺し、伸ばした手足を布団の中で小さく縮める。
ゆっくりと浮上し始めた意識の尾をそっと引けば、するりと抵抗なくその胸の中に戻ってきた。
(今日の朝飯は…、町への用事は…仕事は、何があったかな…)
ぼんやりと頭の中で思い浮かべるも、すぐにそれは薄れて消えてしまった。小鳥達の囁きも次第に遠ざかり、食満は心地よい二度寝へと沈み込んでいく。







(…ん?)

しかし、不意に布団にくるまれているはずの身体に冷たい空気の流れを感じた。
ふるりと無意識に身体が震える。そんなに大きく身じろいだ覚えもないのに、布団が捲れてそこから外気が流れ込んできたようだ。
おかしいな。そう思うと共に、むき出しの足の甲に何かが触れる。
するりと肌を掠めていったそれは、寝起きで体温の上昇している食満よりは冷たいが、確かな温度を持った何かの肌だった。
布団の中、食満の身体の隣で何かが布ずれの音を立てて動く。
何か、いや誰かが、食満の布団の中へと入り込んでいた。


「!?」

食満が目を見開く。
一気に意識を覚醒させた食満は、がばりと手をつき、肩まで引き上げていた布団を跳ね除け上体を起こす。
そんな食満の隣、同じ床の上に同衾していたのは




「よお」

文次郎であった。







飛び起きた食満は、自分の床に潜り込んでいた文次郎の顔を凝視した。
ほんの一瞬、何かを言おうとして息を吸い込み、止める。
ごしごしと寝起きで張った涙の膜を手で擦り取り、鮮明になった文次郎の顔を凝視する。

狐妖ではなく、狸妖と言っても支障はないのではと思うほどにくっきりと浮き出た目下の濃い隈。それと相乗効果で更に人相を凶悪にしている、食満にとっては視界に入れるだけで色々な琴線を刺激されてしまう目つきの悪さ。そして、ゆったりと絞められた着物の襟元から覗く特徴的な首飾り。それは何処から見ても、まごうことなき文次郎だった。

普段の文次郎顔負けの目つきの悪さで、暫しの間食満は文次郎を凝視する。



「…何してんだ?」

そして問う。
寝起き故に少し掠れた声のそれは、特に嫌悪や憤怒の色を含んでいる訳でもない、只の疑問であった。
通常ではありえない。いや、そもそもこの状況自体がありえないのだ。文次郎と食満が床をともにするなど。
けれど、食満のその語気にも態度にも、普段『犬猿』とまで評される相手に向ける噛み付くような威勢の良さは何処にもなかった。



「夜這いだ」

答えはあっさりと返ってきた。返ってきたが、その答えは問題があり過ぎた。
寝起き早々に、食満の頭がツキツキと痛みだす。
その口から、そういった類の言葉を聞く日がくるとは思わなかった。これはかなりの貴重な場面だ。その貴重さには一銭の価値すらもないだろうが。



「…ならせめて夜にしろ。今は朝だぞ」

がくりと脱力した食満の身体が、再び床の上へと落ちる。
未だ寝ぼけが残っているのか、何処か的の外れたつっこみを入れながら横になった食満は、呆れたように文次郎を見上げる。
その隣に、床の上に片肘をついて頬をつけ上体を僅かに持ち上げながら横になる文次郎が、ふと笑みを浮かべて食満を見返す。

その笑みも、先程の答えも、やはり普段の文次郎からは考えられないものばかりだった。
常の文次郎であれば、食満のこのような姿を見れば、やれ「鍛錬が足りん」だの「しゃきっとせんか、バカタレ」だの。兎に角食満を挑発しているとしか思えない言葉が即座に飛んでくる。
そして、笑みを作る為に必要な表情筋の二、三本を何処かで断ち切ってきたのではないかと思うくらいに、普段の文次郎は笑わない。先のように、ふわりと毀れるように笑みを浮かべる事など皆無に等しい。少なくとも食満の前では。
これもまた貴重な場面なのだろう。食満はひっそりと心の中で感想を浮かべ、即座に今の場面を記憶から消去した。



「悪いな。多少邪魔が入ってあちらを出たのが夜明けだったんでな。久しぶりにお前の愛らしい寝顔でも拝ませてもらおうかと思ったんだが、間に合わなかったな」

「…そういう気色の悪いことをその口で言うな」

「本心だが?床の中で子猫のように小さく丸まって眠るお前の姿は見るだけで愛らしく、昔から何度手を出しかけたか分からん」

「…癖だ。ほっとけ。そう言って手を伸ばすな」

ぶすりと膨れてみせた食満が、頬に伸ばされてきた文次郎の手を払う。
食満の表情は気だるげで、どこまでも鬱陶しげではあったが、やはり普段のようなつんと意地を張って突っぱねるような雰囲気はない。
対する文次郎も、素気無く睦言を躱され、触れようとした手も跳ね除けられてしまったというのに、浮かべる表情は何処までも穏やかであった。


「…」

普通の相手、通常の間柄であればなんらおかしくはない、寧ろ歓迎すべき穏やかな空気。今の食満と文次郎ならば、きっとこのまま起床するまで一度も口論になどなることなく、和やかな朝餉を迎えられるだろう。
しかし、それに食満は何とも言えない居心地の悪さを感じて眉を顰めた。







「…おい、いい加減に…って、何だよ!?」

穏やかな態度を変えない相手に耐え切れずに食満が口を開く。
けれど、それを言い切る前に文次郎が動いた。

食満が引き上げたかけ布団を容赦なく剥ぎ取ると、その身体の上に跨る。
横向きになっていた食満の身体を腕を取って仰向けにし、空いた片手を食満の顔の横に付くと、食満の身体を挟んで床の上に膝をつき、上体を伸ばして顔を覗き込む。

いきなりの接近に面食らい、食満の動きが止まる。
当然のことながら食満が身に纏うのは薄い夜着一枚であるので、突然に冷たい外気に晒された足先から頭上まで、寒さによる鳥肌がぞわりと立ち上る。その感覚に小さく肩を竦ませた食満を見下ろし、上になった文次郎が再び笑みを浮かべる。むすりとして見返せば、文次郎は顔の傍についた手で寝癖のついた食満の髪を一房手に取り、遊ぶように指先に絡めた。



「だからっ、何なんだよっ!」

翻弄するような相手の行動に、食満が少々語気を強める。
今抑えられているのは片手の手首のみで、あとは自由に身体を動かすことが出来た。けれど、そうやって抵抗の猶予を残されているからこそ、食満は相手の意図を掴みかねて、言葉による抗議しか出来ないでいた。



「夜這いだと、言っただろうが」

ひそりと文次郎が囁く。
食満は自身の操への危機や、上に乗り上げられた不快感などを抱くことも忘れて、ただ「何を言っているんだこいつは?」とでもいうような呆れ顔を浮かべていた。

そんな食満の様子にも構わず、笑みを浮かべた文次郎は閉じた食満の足の間に膝を割り入れた。強制的に開かされた裾の間から、脚絆をつけたままの食満の足が覗く。
抗議する間もなく、次にはすいと伸ばされた文次郎の無骨な指が食満の夜着の合わせへと忍び込む。直に肌に触れる指はごつごつとして硬く、そして冷たい。流れるような仕草で胸から肩へと滑ったその手は、あっという間に食満の夜着を肌蹴させ、そこからむき出しの肩が外気に晒された。
順調に暴かれていく食満の夜着。そして、肩を肌蹴させたその手は、今度は腰に締められた帯へと向かった。帯の結び目へと指を掛けられ、流石に食満が止めに入る。


「それ以上やると、本気で怒るぞ」

帯へとかかる相手の手を取り抑え、食満がはっきりと言い放つ。
言葉とは違い、その口調にはそこまで強い怒りや焦りは含まれていない。
ただ悪戯の過ぎる相手を諌めるような、襲われているに等しいこの状況にそぐわない、もっと言えば普段文次郎と相対している時の食満には滅多に見られない、冷静で淡々とした口調であった。


「…俺では駄目か?」

そんな食満の諌めにもめげず、文次郎は悲しげに瞳を細め、しおらしく声を潜めて問う。何処か強請るような甘ったるさを含んだ声色と表情。そんな相手の姿に寒さ以外による鳥肌を立てながら、食満は見返す視線でもって再び拒否の意の返した。





揺るがない食満の意思の篭った瞳を暫し見詰め返していた文次郎が、不意に顔を背ける。少しの間何処とも知れない宙を見た後、再び食満へと向き合った文次郎は、先程の悲しげな表情など嘘であったかのように、至極満足そうな笑みを浮かべていた。


「…満足か?」

「ああ」

そう言って更に身を寄せてきた文次郎は、抱え込むように食満の身体へ腕を回してきた。抱擁、というよりはその手つきは掴んだ獲物を逃がすまいと囲むようなそれに近い。


「…なら離せよ」

「まあ待て。もう少しだ」

低く絞った声で不機嫌を装っても、嬉々とした文次郎は聞き入れない。
同程度の背丈であるのに、筋肉質ゆえに食満よりも大きく厚く感じられるその身体は、やはり冷たかった。冷え込む朝方に身を寄せられるのは少々きつい相手の体温。面白がって身を寄せてくる相手は、もしかしたら食満の身体でついでに暖でもとっているのかもしれない。

何がもう少しで、何を待てばいいのかは分からなかったが、取り敢えずこれ以上襲われることはなさそうだ。食満は、見慣れた顔の見慣れない表情を眺めながら、疲れたように息を溜めて吐いた。
全く、毎度のこととは言え付き合ってやるのも、程よい段階で受け流してやるのにも骨が折れるというものだ。



無駄に抵抗し、朝からこれ以上に疲労を蓄えることを嫌い、食満は為されるがままに抱きしめられていた。けれど、そろそろ肌蹴られたままの肩と、むき出しの足が冷えてきた。

腕の中で身じろぎ、身なりを整えようとした食満の手が止められる。
一体今度は何だと、見上げた食満の頬を、相手の掌が掬い固定すると、耳元に顔を寄せてくる。


「…丁度良い頃合だ」

息ごと吹き込まれるその言葉の意味が分からず、眉を顰めた食満が見返す。
にやりと特徴的な笑みを浮かべて見せた文次郎は、何故か顔を傾けて、ゆっくりと食満へと寄せてくる。
日差しを遮られ、食満の顔に影が落ちる。


「せん…」

近づきすぎてぼやける相手の瞳。驚きながらもそれから目を逸らすことも、瞑ることもなく、食満が相手の名を呼ぼうとした。その時。















「仙蔵ーーーー!!!!」








まるで雷鳴が地に落ちるかのような音を立て部屋の襖が開いた。
そしてそれと張り合う程の大音量で鼓膜を突き刺す、障子の向こうから現れた人物の声。







「うっせーー馬鹿文次!!人ん家壊すなって何度言えば分かんだこのギンギン野郎!!」

その人物の手によって派手に開け放たれ、端へと当たってがたりと枠から外れた襖を見上げて床の上から食満が叫び返した。
登場からその人物を視界に入れて叫び返すまでは、瞬きほどの一瞬の間しかなかった。いっそ脊髄反射と言っても過言ではない程の反応速度である。



そんな食満の叫びを受けた、馬鹿文次こと、ギンギン野郎こと、本物の潮江文次郎は、何故かボロボロの格好であった。

普段きっちりと着込まれている着物も、結い上げている髷も、何処かで一暴れでもしてきたか、何かの修羅場を潜り抜けてきたかのように解れ、緩んでいた。襖を開け放ち怒鳴り込んできた勢いそのままに息は荒く、肩は大きく上下し、目下の隈も相変わらずに酷い。

今度は一体何をしてきたのかと、そう顔全体を顰めながら先の文句への返しを下から睨み挙げながら食満は待ち構える。けれど、文次郎からは一向に反応が返ってこなかった。



訝しがって様子を見れば、文次郎はその場で石のように硬直していた。

当事者であり、自覚のない食満には分かっていない。
けれど、文次郎の目に飛び込んだ光景は、それはそれは衝撃的なものだったのだ。

床の上で食満と、自分が、何故か絡まり身を寄せ合っているのだから。





足元へとずり落ちた掛け布団。乱れた敷き布。その上で身を寄せ合う二人。
一人は肩を出し、足を出し、寝乱れたというには無理がある程に肌を露出させている。そしてもう一人は、その上に跨り、足を絡ませ、身体に腕を回し、ぴたりと身を寄せている。これでは完璧に、何かがあった、若しくは何かをしていた現場ではないか。
更に、怒鳴り込んで襖を開け放った正にその時、角度的に二人の顔は重なり合っていた。
床の上で、身を寄せて、顔を重ねて。することといったら、一体何だ?

全身を硬直させたまま、文次郎は頭の中で思い浮かべた。
それだけに精一杯で、自分を見上げてくる不思議そうな食満の視線と、もう一人の視線に含まれた堪え切れない笑いの気配に、気付くことは出来なかった。





「遅かったな。あの程度の罠に四半刻もかけるとは、鍛錬不足ではないか?」

そんな文次郎へと、食満へと身を寄せるもう一人の文次郎・文次郎に変化していた仙蔵がしれっとした表情で言葉を掛ける。
先程までは姿形も、声も仕草も全て文次郎を真似ていたが、本人が登場した今は、声と仕草のみを本来の己のものへと戻していた。
雄々しく無骨な外見である文次郎の姿に、やや中性的で妖艶さも滲ませる仙蔵の声と仕草が合わさるその光景は、少々異様であった。



「なんだよ。待てっつったのはこいつのことだったのかよ」

複雑な感情に顔を歪めて、食満が言う。
もう気は済んだだろうと言わんばかりに、身体に回されていた仙蔵の手を払い、二人揃って身を起こす。
乱れた夜着の襟と帯を直す食満の隣で、仙蔵は普段通りに足を崩して座り、食満と相変わらずに硬直したままの文次郎の様子を眺めている。
普段の仙蔵の姿ならば自然であるその妙に艶かしい曲線を描く座り姿や笑みの表情。再三思い浮かべていた感想ではあるが、やはり文次郎の姿でそれをやられると大層違和感があるものだ。





二人のやり取りから分かりきっていたことではあるが、食満は初めから仙蔵の変化を見破っていた。
本物の文次郎が相手であったならば、隣に潜り込まれたのを発見した時点で手から足から口から、あらゆる攻撃が飛び出していた筈だ。けれど、これが仙蔵ならばまともに反応を返す訳にはいかない。少しでも隙や動揺を見せてしまえば、途端に相手は調子に乗る。だから食満は、一度の制止以外は仙蔵の好きにさせていた。

そして今回は、仙蔵も本気で食満を騙そうとはしていなかった。寧ろ本当の標的は文次郎である。
あの様子を見るに、かなりの足止めをされて漸くここまでたどり着いたのだろう。朝からご苦労なことだと食満は思った。


文次郎は自分達幼馴染の中で、誰よりも仙蔵の暇潰しという名の悪戯に付き合わされ続けているというのに、いつもこうやって翻弄されている。
自分の姿を勝手に使われ、常に張り合う相手である自分と身を寄せているところを見せ付けられるなど、大層気分が悪いのだろう。けれど、巻き込まれて使われた自分も、あまり気分は良くは無い。文次郎が来ることを知っていたならば、もう少し抵抗もしていたのに。

そんなに仙蔵を楽しませてやりたいのか。仲の良いことで結構だ。けれど、だったら自分を巻き込まずに二人だけでやっていろ。
ふつふつと沸いてくる感情を、食満はいつまで経っても仙蔵の悪戯に慣れもせず、上手い受け流し方を覚えない文次郎に対する苛立ちと同化させて処理する。

仙蔵のことは嫌いではない。大切な友であると思っている。こういうところも全部含めて、自分達は関係を繋いでいるのだ。けれど、こんな時だけは少し嫌にもなる。

様々に湧き出る感情をまとめて苛立ちの括りに入れてしまった食満は、半ば作ったような不機嫌顔を浮かべて床から立ち上がった。




そんな食満の姿を見上げて、仙蔵は心中で息を吐く。
仙蔵には、食満がどんな経緯で思考を巡らせたのかまでは分からない。
けれど、どうせまた、己が期待していた道筋からは逸れたところに着地してしまったのだろうということだけは分かった。

食満は気付いてはいないのだ。
普段の文次郎は、全く支障なく仙蔵の悪戯を受け流していることを。
唯一受け流せない悪戯には必ず食満が関わっていることを。
だからこそ仙蔵は、こうして食満を巻き込んで悪戯を仕掛ける。

そして、仙蔵がこういった悪戯を仕掛ける本意にも気付いていない。
勿論、大部分は純粋に自分が楽しみたいからだ。
食満と文次郎をからかう、もといおちょくる、改めちょっかいを出すのは仙蔵の趣味でもある。けれどそれだけでもなく、仙蔵なりにいつまで経っても進展の無い、不器用なハリネズミのような二人を刺激してやる意もほんの少しは込められているのだ。

仙蔵は、二人の間に深く介入するつもりはない。自分如きが口を挟んだところで素直に言うことを聞く相手ではないからだ。
直接的に言葉を吹き掛けてやる気も無い。自分自身で見つけ出した答えでなければ、きっと二人は信じようとはしない。

なにより、そこまでするのは面倒だ。けれど、気まぐれに湖面に石を投げ入れる事ぐらいならばしてやってもよい。それぐらいならば、してやったとしても支障は無いだろうと思う。

自分は保護者ではない。友なのだ。あくまで自分に与えられた役割は、答えを導いてやるのではなく、二人が出した答えを傍で聞き入れ、そしてまた共に歩むことだ。


けれど、やり方が悪いのか、規格外の二人の不器用さが悪いのか、大抵それは上手く噛み合わない。
そして、今回もまた失敗であったかと、ちらりと、仙蔵は未だ戸口で硬直したままの文次郎の様子を伺った。









立ち上がった食満は、朝餉の準備に向かおうと、立ち尽くす文次郎の傍を通り抜けようとした。


「待て」

その手を掴み、文次郎が引き止める。


中々に強い力のそれ。
反射的に言い返そうとして、しかし食満は口を噤んだ。

熱かったのだ。食満の手首を取る文次郎の掌が。

食満の身体が冷え切っているからだけではない。文次郎が息を荒げているからだけではない。文次郎の内から滲み出す、内に潜めた自身の気性を表すかのようなその熱は、仙蔵の変化の術では再現し切れなかった文次郎の特徴の一つだ。それを感じて、食満は何故か安堵に似たものを感じた。あぁ、これが文次郎だ。そういった感情だった。
先程までの仙蔵の変化姿に、本物の影を重ね惑わされはしなかった。けれど、今目の前にいるのが、触れ合っているこの熱が、確かに文次郎なのだと確認すると、凪いでいると思い込んでいた心に広がっていた戸惑いが、確かに静まるのを感じた。

そう思ったら、無理矢理に作った不機嫌さなど吹き飛んで、食満はただ文次郎を見返していた。
掌ごしに、文次郎の熱が伝わる。それと同時に、食満の鼓動が文次郎へと伝わる。伝わり、混ざって、そこにほんの一瞬何かが通じたような気がした。



そんな食満を呼び止めた文次郎は、無意識的に掴んだ食満の冷え切った手首の感触を確かめながら、漸く再起し始めた頭の中で先程の光景を思い浮かべていた。

つい先程までも、この手を掴んでいたのは文次郎だった。
けれどそれは、文次郎に変化した仙蔵で、己ではない。

文次郎には、何故仙蔵が自分に化けて食満に身を寄せていたのかは分からない。いつもの暇潰しにしても少々性質が悪すぎるが、けれどその効果は狙い通りに抜群だった。

あの光景がもたらす衝撃は、かなりのものだった。
あの時、文次郎の頭は一瞬で真っ白になった。けれど、その白に塗りつぶされる僅かな間に、強烈な感情が脳裏を過ぎたのを覚えている。
床の上で誰かと身を絡める食満の姿。その相手の姿が、最初は見えなかった。その瞬間に抱いたのは、怒髪天を衝くと表現しても差し支えないほどの激しい感情だ。
けれど、次にその上に身を寄せるのが自分の姿であることを見て取り、乱れた食満の様相を見て取り、奇妙な疼きが胸の奥で起こった。
感情の激しさならば先の怒りの方が何倍も凄まじい。けれど、その疼きは怒りが一瞬で過ぎ去った後にも、今もまだここに残っていた。
文次郎は、あのように食満を組み敷きたいなどと考えたことは無い。けれど、実際に画としてその様子を見せ付けられて、何故自分はここに立っていて、食満の上にいるのは本当の自分ではないのかと疑問を抱いたのは確かだった。
普段の喧嘩でそれに近い体勢になることは多々あれど、今回のそれは場所と食満の格好が問題なのである。

じくじくと余韻を残す疼きと胸に掛かるもやが消えない。それが何に近いか。知っているような気もするが、それを結び付けてもいけないと強く拒否する声もあった。
進路を妨害する突然の行為に怒鳴り返してくるかと思った食満も、何故かじっと文次郎を見返してくる。
その瞳を見返せば、疼きは更に深くまで沈み込むようだった。











「…バ、バカタレ!!」


唐突に、文次郎が怒鳴った。





「は?」


突然の罵声に声を上げたのは食満だけではなく
もしかしなくとも良い展開なのではないか?と、見詰め合う二人を堂々と盗み見ていた仙蔵も同時だった。





「弛んどるんだ!早朝だからと気を抜いて簡単に組み敷かれやがって!だらしねえんだよ!そんなんだから最近のお前は手応えがないんだな!」

安過ぎる挑発の言葉。
突如浮かんだ疼きが、自分の中に根を張る前に何とか気を逸らそうとした文次郎が取った行動は、食満へと喧嘩を売ることであった。
傍から見ている仙蔵からすれば、何だその見え透いた挑発は、と呆れるしかなかった。


「…んだと、この野郎」

しかし、対する食満はこと文次郎の挑発に関しては、他の誰にも負けない程の乗せられやすさを誇る。



「俺がいつ手応えがなかったって!?いつもボコボコにされてるのは手前のくせに!相手がお前だったら、俺が一秒で組み敷いてやる!」

「誰が誰をボコボコにしてるって!仙蔵にも勝てなかったお前に出来るわけがないだろう!」

「仙蔵はお前と違って筋肉達磨じゃねぇし荒々しくもねぇし暑苦しくもねぇからな!あいつに乗っかられたって屁でもねぇんだよ!」

「姿は同じだったろうが!…って待て、じゃあお前抵抗もせずに組み敷かれたのか?」
 
「何か文句あるか!」

「大有りだ!抵抗せんかこのバカタレが!」

「うっせ!仙蔵を殴れるわけねぇだろうが!後が怖いだろ!」

「それは同意するが…、じゃあ俺ならいいってのか!」

「お前だったら即座に張り倒して蹴り出して塩撒いた後、医者でも呼んでやる!頭の具合でも診てもらってこい!」

「手前…表出ろ!」

「手前こそ表出ろ!但し俺は朝飯作ってからだ!一人で外で待ってろ!」

「何だそれ!?馬鹿にしてんのか!」

「お前なんかとの喧嘩の為にあいつらとの貴重な朝飯時間を遅らせてたまるか!しんべヱが腹空かすだろうが!喜三太がナメさん探しにいく時間減るだろうが!平太と遊ぶ時間減るだろうが!作兵衛が気遣って代わりに仕事始めちゃうだろうが!お前なんかその次の次の次ぐらいで十分だ!!」










「…!?」

「おお、おはよう平太。気にするな、あの馬鹿共のことは。それよりあの二人はまだ起きて来ないな。よし。じゃあさっさと作兵衛も起こして朝餉の準備でもしてこい。あの二人は私が外に放り出しておくから」









あとがき
あづさわ様リクエスト
『まったりのんびりな日常的な短編』のつもり…。

まったりでものんびりでも短くも無く、更に若干オチが無理矢理のような…気がしないでもない。でもこれが彼らの日常、ということで。

時にはいい感じになることもあるけれどやっぱり平行線、みたいな感じです。
どうしても管理人は、二人を悶々させたいらしい。

前半、これは文次郎じゃない仙蔵なんだ、と言い聞かせながら書いていましたが、絵を想像してしまうと違和感が半端じゃないですね。


食満先輩は仙蔵様の変化を見破るのは得意ではないけれど、文次郎さんの変装だけは直ぐに見破る。だから仙蔵様も本気では変装していないけれど、もし本気で変化したとしても食満先輩には見破れてしまう。とかだといいなぁと妄想しています。
自分の考えたパロで更に妄想が出来てしまうなんて。管理人は自分が恐ろしいです。



頂いたリクエストに沿っているか自信はありませんが、よろしければ気に入っていただけると嬉しいです。


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