日記ログ小話 01 食→文→? ある日の晩のこと。 食満は湯を浴び終え、寝着に着替え、長屋へと向かっていた。 その途中、偶々い組の長屋の前を通った。 障子が開いていた。中から灯りが漏れていた。 覗こうなんて気はなく、無意識に視線がそちらへと向いた。 そして、目を見張って足が止まった。 そこには仙蔵と文次郎がいた。 まあ、い組の長屋なのだから当然だ。 仙蔵は食満と同じ寝着姿で、畳みに敷いた床の上に腰掛けていた。 文次郎は未だ制服姿で、そんな仙蔵の後ろに膝を折って佇んでいた。 度肝を抜かれたのは、文次郎が仙蔵の髪を梳かしていたからだ。 文次郎は無骨で傷だらけの手に似合わない簡素な作りの小さな櫛を持ち、上から下へと、仙蔵の長い髪に櫛を入れる。 その手つきは至極丁寧で、その眼差しは真剣で。 普段、鍛錬だ委員会だ決闘だと、そんな場で見せる乱暴さは微塵もなかった。 髪の梳かし方の上手下手など、食満には分からない。 けれど、心地良さそうに目を伏せ、文次郎の手に学園一と評される自慢の髪を委ねる仙蔵の姿を見れば明らかだった。 見てはいけないものを見たような気がして思わず目を逸らす。 それと共に、胸の何処かでひやりとした氷が張り付くような感覚と、息苦しさを感じる。 あれは只の、髪梳きの光景だというのに。 まるで二人の、密やかな睦事を目撃してしまったかのようで。 頭から、身体から、すぅっと熱が引いていく。 意図せず覗き見をしてしまったような居心地の悪さを覚え、見つかる前に立ち去ろうと食満は踵を返す。 「留三郎。どうした、そんなところで」 しかしその寸前に呼び止められた。 仙蔵が、こちらを見ていた。 丁度髪梳きも終わったのか、文次郎が仙蔵の髪から手を離す。 一言二言、戸口に立つ食満にまでは届かない程度の小声で言葉を交わし、手に持った櫛を仙蔵へと渡す。 ふっと、毀れるような笑みを浮かべた仙蔵を一瞥し顔を逸らし立ち上がった文次郎は、そのまま長屋の入り口へと歩き、そこで立ち尽くす食満の隣を抜ける。 食満は文次郎を見なかった。 見れなかったという方が正確だろう。 ぎゅうと唇を噛み締め、僅かに顔を、隣を通り過ぎる文次郎から逸らす。 幸いにも文次郎は食満の様子をいぶかしんで声を掛けることもなく、そのまま外へと出て行った。 「いつまでもそこに立っていないで入ったらどうだ」 どうせあいつは夜通し鍛錬で戻りはしない、と仙蔵が続ける。 食満は、ぎこちなく頷き中へと入った。 後ろ手に障子を閉め、仙蔵の腰掛ける床の隣の畳へと胡坐をかく。 そのまま黙り込んでしまった食満の様子を見て、ふと仙蔵が笑みを溢したのが空気の揺れで分かった。 「驚いたか?」 別に、と返そうとした。 だがその声が上手く何も気にしていない体を取れる自信がなくて、食満は首を振って返すだけに留めた。 「すまんな、勝手にあいつの手を借りて」 文次郎から手渡された櫛を丁寧に布に包んで仕舞いこみ、仙蔵が言った。 「…何故、俺に謝る?」 漸く言葉が出た。 けれどそれは、やはり何処か少し低く響き、愛想がなく聞こえた。 謝られる筋合いなどない。 勝手になどと気にする必要もない。 髪を梳く。 その程度のことに、第三者の許可を求める必要も、口を出す権利もありはしない。 仙蔵らしくもなく、おかしなことを言うものだ。 そう胸中で思いながら食満の視線は仙蔵を見返すことは出来ず、胡坐をかいた自身の足元に落ちたままだった。 「いつもなのか?」 そんなことを聞いてどうすると、後悔しながらも口をついて出てしまったそれに、仙蔵が答える。 「いいや、偶にさ」 案の定、短く返ってきた答えを聞いてもそれをどうすることも出来ずに、話が途切れてしまう。 「上手いぞ、あいつは。まぁ私が指導をしてやったというのもあるが、奴には目的があるからな。上達したのさ」 沈黙を埋める為にか、問い返してもいないのに仙蔵が続けて話した。 正直あまり聞ききたいとは思わなかった。 仙蔵と文次郎の、二人の間の事情など。 それが例え、髪梳きだなんて、そんな程度のものだとしても。 「目的…?」 けれど、目的という、その単語には僅かな引っ掛かりを感じて聞き返す。 「奴には、他に髪を梳いてやりたい奴がいるのさ。私はその練習台だ」 思わず顔を上げて見上げれば、仙蔵と目が合った。 湯上りから間もないのか、ほんのりと色づいた頬に笑みを浮かべ、至極愉快そうにこちらを見ている。 桃色の頬に白い寝着、そこに散らばる艶やかな黒髪。 相変わらずに、本当に同じ年頃の同性なのかと疑いたくなる程に色気のある男だ。 それは食満ではどう足掻いても、どう誤魔化しても、纏うことのできない色気だ。 「その証拠に、奴は私から頼んでも決して櫛を受け取ってはくれんぞ」 からりと、出来るだけ静かに長屋の戸を開いた。 同室の伊作は、今日は薬を煎じることもなく早めの就寝についてくれたらしい。 すっかりと湯冷めした身体をさすりながら、闇に慣れた目で荷の散乱する床を凝らし、避けながら、敷いておいた自分の床へ辿り着く。 薄い布団を捲って身を滑り込ませ、暖を取るようにぎゅうと手足を抱えて目を閉じる。 しかし、いくら待っても眠気は訪れず。 ごろごろと何度目かの寝返りを打ったところで床を抜け出す。 畳みの上で膝をついて這い、小物に溢れた文机へと辿り着く。 冷たい木目の机上へと頬をつけ、もたれ掛かる。 ぱさりと、水気を軽くふき取り自然に乾燥するに任せたまま、手入れもしていない荒れた不揃いな髪の毛が、視界の中へと垂れてきた。 文机の上に詰まれた小物の山に手を伸ばし、カタカタとそこを探る。 暫し探って静かに抜き出したのは、小さな櫛だ。 文次郎が手に持ち、仙蔵の髪に通されていたのと同じ簡素な作りの小さな櫛。 だが、これはあの櫛のように、わざわざ布に来るんで丁寧に保管しなければならないほど質の良い物ではない。 確か、何かの用事で町へと買出しに出た際。 そういえば長年使っていた櫛が折れたのだっけ。ついでだから購入しておくか。と つりの余りで買い、実際何度かしか使っていないようなものだ。 闇の中で、輪郭のみが浮かぶその櫛をぼんやりと暫し眺め。 そっと、ぼさぼさで荒れ放題の髪へと伸ばす。 けれど、髪を櫛へと通す前に、思い止まりそれを後ろに放った。 小さく軽いそれは、めくれた布団の上に音も無く落ち、沈んだ。 何かが込み上げ、飲み込む為に下を向き、文机の上に両腕を乗せて俯いた。 目を閉じれば、先程の光景が目に浮かぶ。 仙蔵の、さらりと流れる艶やかな髪。 自分の痛みきった、ぼさぼさの髪とは比べ物にならない。 (髪を梳いてやりたい奴) 先程の、仙蔵の言葉を思い返す。 そんなのは、どう考えたって懸想の相手ではないか。 それも、床を共にしたいと思う程の。 (気持ちが悪い。そんなものの練習に同室の友を使うなど) 心の中で舌を出し、そう扱き下ろす。 羨ましいなどとは決して思わない。 あのように真剣に、穏やかな手つきで触れられることが、髪を梳かれることが。 例え練習台であったとしても、身代わりであったとしても羨ましいなどと。 練習台にも、身代わりにもなれない自分には、そんな権利はないのだ。 ずぅ、と鼻を啜る小さな音が漏れた。 「…髪伸ばすかな」 何でもないことのように呟いてみても、虚しさと悲しみは只広がるばかりだった。 最初は、文次郎さんのフェチの話のつもりで書き始めたのですが、深夜のノリで進めていったらやっぱりいつも通りのじんめりとした感じになってしまいました。 [main] |