「久方ぶりの小さなお客様。どうか私の言葉をお聞き下さい。あれに近付いては、いけません」 繰り返される制止の言葉に、少女ははっと我に返る。 その少年は、たった今少女が通り過ぎたばかりの白石の道の脇に立っていた。 「こちらへ、どうぞお戻り下さい」 少年が少女へと呼びかける。 変声期を過ぎたばかりのような、僅かに擦れて少し低い少年その声。 それと反する、大人のように丁寧で、落ち着きのある言葉遣い。 酷く不似合いな二つが重なる少年の言葉は、不思議な程に耳によく響いた。 白石の道の半ばで立ち尽くした少女は、どちらに寄るべきかと迷った。 視界の果てで、遠く輪郭だけを浮き上がらせる社は、未だ神秘的な藤紫色の靄を纏いそこに建っていた。 あの色の違う靄は何なのだろう。 あそこには何があるのだろうと、少女の中の好奇心は疼き続けている。 けれど、突然に現れた少年もまた、少女の心を惹くに十分な程奇妙な出で立ちをしていた。 少年は全身に白い装束を纏い、顔には白い布を巻いていた。 少女はその装束と同じものを見たことがあった。 つい最近、村でそれを着ている人がいたのだ。 それは着ていたのは、村一番の年寄りだった。 ある日突然動かなくなったその人の、最後の旅路の為にと、皆が集まり着替えさせているのを見たのだ。 少女は知らなかったが、その衣の名は経帷子という。 死者を葬るとき、死者に着せられる浄衣の名だった。 白い靄に囲まれた白石の道の脇に、真っ白な装束を着て佇む少年。 それならば、少女が気付かずその横を通り抜けてしまったことにも頷けたかもしれない。 けれど少年は、その衣の上から紺桔梗色の上張を羽織っていた。 斑無くその一色で染め抜かれた上張の鮮やかな色合いは、一面を白に包まれた空間の中では尚更に強く視界に映りこみ、とても見過ごすことなど出来そうにない。 だからこそ、より少女は不思議に思った。 一体、この少年は何処から現れたのかと。 少女は、少年の方へと行くことにした。 流動する白石を踏み締めゆっくりと歩み寄れば、少年がすっと手を差し出してきた。 ほっそりとして、色白い少年の手。 日に焼けて、祖父の畑仕事の手伝いで肌の荒れた少女の手とは、まるで違う手。 導くように差し伸べられた少年の手を取ろうとした少女はその違いに気付き、不意に湧き出た恥ずかしさから重ねることを躊躇する。 けれど、構わず伸びてきた少年の手が、中空で戸惑う少女の手を包んだ。 それは不思議な感触であった。 確かに何かに触れている、何かに包まれているという感覚はある。 けれどそれに温度が感じられない。生きている重みが感じられない。 綿や布のようなものでゆったりと包まれているような。 肌に吸い付く濃厚な靄の中に手を差し込んだかのような。 少女の手を取る少年の掌は、そんな奇妙な感触であった。 少女の手を取り自分の方へと引き寄せた少年は、そのまま少女を自分の隣へと導いた。 白石の道の端。色のついた靄に包まれた社と少女との間に自分の身体を挟むようにして立ち位置を変え、そこで少女の手を離す。 少女は、間近に立って改めて少年の様子を伺った。 少年の背丈は、少女よりも幾らか高かった。 少女の村に住む、少女よりも二つ三つ年上の少年らに体格は近い。 けれど、少女を見つければ追いかけ苛めてくる意地の悪い子供である彼らとこの少年では、纏う雰囲気がまるで違う。 見かけの姿は歳若い少年であるのに、凛と背筋を伸ばし静かに佇むその姿には、まるでこの場所の入り口で見上げたあの鳥居のような不思議な存在感があった。 少女を自らの傍へと引き寄せその手を離してから、少年はずっと前方の白石の道を見据えていた。 実際には、顔を覆い隠す布に遮られ少年の視線を追う事は出来ないのだが、何となく、少女はそう感じた。 ザラザラと波のさざめくような小さな音を立てて変動する白石の紋様をじっと眺めながら。少年は身じろぎもせずに立ち尽くし、何の言葉も発しなかった。 ちらちらと少女が視線を送っても、こちらに意識を向けてくれる様子もない。 まるで、もう隣に居る少女の存在など忘れてしまったかのような少年の態度に、少女は少し機嫌を損ね、少年の意識を引こうと手を伸ばした。 少年の羽織る上張を掴もうと手を伸ばし、その時にふと、少女は視線を落とした。 先程少女の手を取り導いてくれた少年の手は、羽織った上張の袖に隠れて見えなかった。 けれど、その袖からは細く長い、縄のようなものが一本伸びていた。 そういえばと、先程差し伸べられた少年の手首には何かが巻きついていたことを思い出す。 ぐるりと手首を一周し、結び目をつけて地面へと垂れていたそれ。 よく見れば、少年の上張の裾から覗く、白い脚絆に覆われた両足からもそれは伸びていた。 ならば、少女の位置からは死角になって見えないもう一方の手首にも、同じようにあるのかもしれない。 これは一体なんだろうと縄の先を目で追えば、それらは全て白石の道の外へと続いていた。 それより先の縄の行方は、一寸先も見通せない程に濃厚な靄に包まれ追う事が出来なかった。 「どうかなさいましたか?」 少年の四肢に繋がる縄に意識を取られていた少女に、再び唐突に少年が声を掛けた。 ぴくりと、驚いた少女の肩が揺れる。 縄から目を離し少年の方を見上げれば、少年は未だ前方の道に敷き詰められた白石の紋様へと顔を向けていた。 けれど、先程までとは違い、確かにこちらに向けられている少年の意識を感じる。 「お帰りにならないのですか?」 少年は相変わらずに丁寧な言葉遣いで少女に尋ねてくる。 「それとも…、あなたは何か御役目を与えられてここにいらっしゃったのですか?」 少女には、少年の言う意味が分からなかった。 『おやくめ』とは一体なんだろうと不思議に思いながら、少女は違うと答えた。 いつものように山の中を歩いていたら、突然に見たこともない鳥居を見つけたこと。 好奇心からそれを潜ったら、こんな不思議な場所に出たこと。 深くは考えずに前に進んでいたら、綺麗な色の靄に囲まれた、不思議な社を見つけたこと。 それに駆け寄ろうとしたら、少年に引き止められたことを、少女は説明した。 「そう…ですか。ならば良いのです。いいえ、その方が良いのです」 少女の話を聞いて、少年は納得したように頷いた。 少年のその返事の意味はやはり少女には分からなかったが、その時の少年の口調が、まるで安堵したかのようにほんの少しだけ和らいでいたことだけは分かった。 「そういえば『そちら』は今、彼岸の中頃でしたね。ならば偶々門を見つけて迷い込んでしまう事もあるかもしれない。あなた様は特に、小さな身体に見合わぬ大きな御力をお持ちのようですし」 少女に聞かせる為と言うよりは、一人思い出し呟くかのように少年は言った。 「この先には、あちらに見える社以外にあなた様の興味を引けるようなものは何もございません」 続けて少年が言う。 その言葉は、遠回しに『ここから去れ』と言っているように少女には聞こえた。 けれど、少女はまだ帰りたくはなかった。 社のことはまだ気になる。 でも今はそれ以上に、この場所のことが、この少年のことが知りたくてたまらなかった。 少女には分かっていた。 この少年は人ではないと。 少女が時折見かけてしまう、奇怪で奇異なこの世以外のモノの類なのだろうと。 それでも何故か、少女はこの少年のことをもっと知りたいと思った。 もう少しこの場にいていいかと、少女は訊ねた。 「何故?」 少年は問い返す。 話がしたいからと、少女は告げた。 「…」 少年は暫し黙り込み 「もてなしの言葉も持たぬ、私などもでよろしければ…」 少年は、そう恭しく答えた。 [back/title/next] |