あやし奇譚 | ナノ


晴天のち人魚 02







人魚とは。

人や妖や神や仏が。
その他幾千万の魑魅魍魎が混在するこの小さな島国の中でも、最も神秘的な生き物の一つと伝え聞く。



広く一般的に伝聞されるその特徴とは

上は人間。下は魚。
その姿と気まぐれに奏でられる歌声は、性を問わずにあらゆる生き物を虜とする美しさであり、人知の及ばぬ海原と海底を住処とし、不当に足を踏み入れ乱そうとする者達の命を無情に奪い去る。

陸地でしか生きられない人々にとってあまりにも希少過ぎるその姿を目撃することは、吉兆の報せとも、凶兆の前触れとも謂れ、岩礁に打ち上げられた人魚の児を害した村が一晩の内に波に飲まれ消えたという噂や、救った人魚に差し出された血肉を食らい人魚と寿命を共にし、以降八百年を越えて未だに生き続ける娘の伝説など、人魚に関わる伝聞は、その希少さに反するかのように世に溢れている。

その中で、真実の伝聞はどれ程あるのだろうか。
浜辺に打ち寄せる砂粒の中に混じった碧玉の欠片を探すかのようなそれを、確かめられる者はいない。

敢えて一つ、膨大なそれらから最も多くに共通する要素を真実として仮定するのならば、人魚という生き物は、人々の生の流れを変え、奪い、また与えるだけの、摩訶不思議で恐ろしい力を持っているということ。

それを鵜呑みにして、人魚を捕らえその力を得ようとする強欲な人間は少なくはなかった。
けれど、その者達が望むものを手に入れたという話は終ぞ聞かない。
寧ろ、人魚を追い求めたが故に財を食い潰し、奇怪な事件に巻き込まれ、結果身を滅ぼしたという噂ばかりが世間を巡る。


そんな噂と憶測、伝承ばかりが巡り廻っていく中で、人魚という生き物の神秘性は、広くこの国中に根付いていた。
















それなのに。



「大変申し訳ありませんでした」



今、食満の目の前でそれは見事な土下座姿を披露している人魚・伊作の姿は、前述した人魚についての概説、その信憑性全てを無に返してしまう。

元々世にも希少な存在である人魚の、それに付け足しての土下座姿など、一体この光景に対する希少価値というものはどれ程であろうか。
前例のないこと故何とも言えないものではあるが、一つだけ確かなのは、この光景を目にしてしまえば、世間一般の人々が憧れ心に抱く耽美的な人魚の像というものが、木っ端微塵に粉砕してしまうだろうということだ。





だが、そんな世にも珍妙な目の前の光景も、それを苦々しく見下ろす食満にとっては見慣れた光景の一つである。


「…お前は何で、いつもいつもいつもいつも、まともに戻ってこれないんだ?」

万感の思いを搾り出すかのような食満の声。
その脳裏には、今回に限らず、毎度度肝を抜かすような方法で帰還してきた伊作の過去の姿と、それに伴い発生した食満家周辺の被害風景が思い返されていた。



「俺、言ったよな。こっちに戻るときは事前に知らせるようにって。迎えに行くから、直接家まで来ないで近場で待ってろって。何でそれでも毎回、予告無しで直で来るんだ」

水柱による井戸の釣瓶、滑車の中破、水桶の大破。
水浸しになった洗濯物全てのやり直しと、井戸周辺の掃除。
上空から水柱と激突し地上に打ち付けられた伊作自身の打ち身十数箇所。
これが今回の主な被害だ。

これら双方の被害を少しでも抑える為の食満からの提案だったというのに、どうやら伊作にはそれが届いていないようだった。



「…突然帰った方がびっくりして喜んでもらえるかなぁ…なんて思いまして」
「びっくりはしてるよ。毎回。心底。でも多分お前が目指してるのとは違うやつだ」

対面し続ける床に向かって溢される篭った声の伊作の言い分に、溜息交じりで食満は切り返す。





「…大体なんで空から降ってきたんだ?」

先の騒動でたっぷりと水飛沫を浴びた頭髪から滴る湿気を被った手拭でガシガシと拭いながら、食満が問う。
恐る恐ると顔を挙げ、上目で食満の様子を伺った伊作は、場を少しでも和まそうとへなりと頬を緩めて答える。


「えっと…、ちょっと僕が水不足で干からびかけちゃって…近場の水場まで乱太郎の風で運んで貰ってたら、いきなり烏の大群に追いかけられて…、びっくりした乱太郎が風から落ちちゃって、乱太郎がいなくなったから集めてた風も散っていって、結果僕も落ちました」
「…何でそうなった?」
「光り物を持ってたからかなぁ…。あと、僕半分は魚だし。…美味しそうだったとか?水がなくなっちゃったのは、道中、怪我をして倒れている人がいてね、その治療に使ったんだ。ほんとは補給してから発ちたかったんだけど、その後すぐに、またちょっとした騒ぎに巻き込まれちゃって、水筒自体壊れて…」

ずらずらと続く事の経緯を聞き入れていた食満の頭が、鈍く痛む。
つっこみ所があり過ぎて、聞き返す気にもならない。
はぁ…と重々しい息を吐き、未だ続いている伊作の説明を遮る。



「…もういい。ようは、いつも通りだったんだな」
「うん」

食満の確認に、伊作が頷く。
傍から聞いていれば、よくぞ無事で(最後の最後で無事ではなくなったが)ここまで辿り着けたなと涙を滲ませそうになる不遇の連続を、『いつも通り』とあっさり頷くその様子。
いつまで経っても変わらないその姿に、食満の精神的疲労も変わらず積もる。

だがそれと共に、『ああこれでこそ伊作だな』と、共に過ごしていた昔を思い返すような懐かしさをもまた抱く。


黙り込んだ食満の様子をチラチラと伺う伊作の不安げな視線に、次第に意識して作っていた顰め面が緩んでいく。
自分の甘さを自覚しながらも、食満は伊作の名を呼んで、そわそわと視線を泳がせていた顔をこちらへ向けさせる。
一つ、今度は表情を切り替える為の息を吐いて



「…五体満足で帰って来たんだから、今回は許してやるよ。…お疲れさん。おかえり」

ふと笑みを浮かべ、少しの照れを滲ませながら。伊作に向かって、食満は言った。



「…ただいま、留三郎!!」

それを受けた伊作は、ぱっと顔面を輝かせ、照れも臆面も無い満面の笑みでもって食満へとそう返したのだった。












人の世でも妖の世でも珍しい『人魚』である伊作は、文次郎や仙蔵と同じ、食満の幼馴染の妖の一人であった。


その外見は、いたって普通の人の青年と変わらない。

外見の年の頃は、食満と同じ十五から六程。
頭頂部辺りで結っても腰上程の長さのある癖のついた頭髪は日に透ける琥珀色で、顔立ちは少し猫科の動物に似ている。
そこに浮かべる表情は基本がにこやかな笑み。
その笑みは仙蔵のような妖艶な色気を持つものではなく、どちらかと言うと見るものを和ませ、心温かにするようなもので。それらからなる全体的な印象としては、何処の集落にも一人はいる、人に好かれ人の好い、好青年。つまりは『普通』だ。

一般的に人魚と言えば、それに纏わる伝承の内容から『人心を惑わす妖惑的な外見』を想像するものだが、伊作に限ってそれは当て嵌まらない。



けれど、その姿は『普通』であっても、伊作には一部『特別』な部分がある。
『異端』と言い表した方が近いかもしれない。

始めに並べた解説の中で、『人魚とは人知の及ばぬ海原と海底を住処とする生き物である』と述べた。
半分は人の姿でありながらも歴とした妖の一種であり、海洋生物の性質を強く残し、そして過去にあった目撃の情報や伝聞が全て水辺に集中していることから、それは確かであろう。


だが、その人魚である筈の伊作は今こうして、地上の、食満の目の前にいる。

足を生やし、衣服を纏い、人に扮し。
一見しては見分けがつかない程にそこに馴染んでいる。
その身に纏う衣は旅人の装いによく似ており、日に焼けた肌に、細身ながらしっかりと筋肉のついた手足。
自らの足で野を越え山を越え、歩き続ける内に自然と身に付いたそれらも、全国を行脚する生業の者達に共通する。



そう。
伊作は、人魚でありながら水辺を離れ、全国各地を自らの足で渡り歩く旅人なのである。



何故そんなことを、と不思議に思うだろう。

人魚に限らず、海辺を住処とする妖が地上で生活するということは難しい。
危険だからだ。

生きる為に不可欠な水がある場所は限られている。
能力を制限され、もしも正体を見破られてしまった際には、身を隠す術も守る術も限られる。
その上伊作にはもう一つ、人魚であることが災いしてのある負の要素が上乗せされている。

だがそれら全てを承知して、伊作はある目的の為に旅を続けている。





「留三郎…もう怒ってないかい?」

頭を挙げ、改めて食満と対面した伊作は、確認するかのように聞いた。


「…初めからそんな怒ってねぇよ」

苦笑と共に食満は返す。
本音を言えば、そんな風に顔色を伺う位ならば最初から自分の言うことを守っていればいいものと少し呆れはしていたが、それは怒りの感情ではない。
照れのせいで素直に出せはしないが、食満は伊作の突然の、そして久しぶりの来訪を喜んでいるのだ。



食満にとって、伊作は『特別』である。
幼馴染であるということとはまた別に。文次郎や仙蔵達ともまた違って、だ。

かつて、食満が今よりずっと幼く、一人きりで過ごして頃。
初めて手を差し伸べ救ってくれた兄のような存在。
今ではその関係はすっかりと逆転してしまったが、家族同然に想い合っていることに変わりない相手。

その顔が久方ぶりに見れたことに、変わらない相手の様子を確認できた再会の場に、喜び以外の負の感情を引き摺り続けるのはもったいない。





「良かったぁー!じゃあ…」

食満の言葉に、再び伊作は笑みを浮かべ胸を撫で下ろし、そして








「傷診せて?」

その笑みを変えぬまま、そう言った。










伊作のその言葉に、今度は食満の表情が強張る。


「な…」

「怪我してるよね?」

何のことだと。しらを切ろうとした食満の言葉は、食い込むような伊作の言葉に遮られる。
一応は問いの形を取っているが、明らかな核心のもとの発せられているそれ。
食満の項に、じわりと冷や汗が浮かぶ。



「いくら匂いの薄いものを使っていても、薬の臭いに僕が気づかない筈ないじゃないか。いつもと違う手甲付きの腕抜きまでつけて。さっきから微妙に右手を庇って動かしてるし、僕の死角に持っていくようにしてるよね。子供達に怪我を悟られたくなかったのは分かるけれど、手当てはちゃんとしているんだよね?もししてないんだったら…」

「してるっ!!してるから!!」

「じゃあ診せて」

すらすらと指摘を述べる伊作。
ニコニコと笑うその顔も声質も先程までと何一つ変わっていないように見えるのに、何故かその背後に纏う空気がおかしい。有無を言わさぬ威圧感がある。





冒頭、伊作が頭を下げ、食満がそれを見下ろしていた時とは逆に。
今は、伊作が笑みで威圧を掛け、食満は萎縮し目を泳がせている。
そうして暫し沈黙の間が空いて

「大したことないんだが、ちょっと火傷を…な?」

観念した食満が、腕抜きの留め具を外し、その腕を差し出し診せた。


「…」

伊作は、笑みのまま無言で、食満の腕の様子を診る。

「留三郎?」

そして、笑みのまま食満の名を呼ぶ。
まるで貼り付けたかのように変わらない、にこやかなその笑み。
けれど、食満はその顔に何か悪寒のようなものを感じ、反射的に身を引こうとした。








「どこがちょっとなのさ!!!」

しかしそれより一瞬早く、伊作が食満の腕をわし掴む。
その色白い腕の表面に無数に浮いた、火傷の痕を避けて。



「なんで包帯も巻いてないの!不衛生じゃないか!薬も最低限しか使ってないみたいだし、そもそもこれ普通の火傷じゃないでしょう!酷いところなんか水脹れになっちゃってるじゃないか!」

「…水脹れ出来たら、水抜いとけばいいんだろう?」

「駄目ーーー!!!黴菌が入っちゃうでしょっ!!化膿してもっと酷いことになったらどうするの!!火傷ってのは深度によって処置が違うんだから!!的確に、早い段階で処置しなきゃ完治に時間がかかったり、最悪痕が残って消えなくなっちゃったりするんだからね!!!」

「…いいよ痕ぐらい。女でもないし、気にしないし」

「僕が気にするし留三郎も気にして!!駄目だからね!!留三郎の綺麗な肌に痕が残るのなんか許さないから!!」

「…綺麗ってなぁ」


食満の腕を取りながら一気に激昂した伊作は、その腕に広がる火傷の痕を診ながら叫び続ける。
今にも頭を抱えて天を仰ぎかねないその様子に若干引き気味で答えながら、食満は隠れて息を吐いた。





先程話した、伊作が危険を冒してまで旅を続ける理由。

それは、医術を学ぶ為だ。
人、動物、妖、全ての者達の傷を癒す術、技術と知識を学び、そして実践する為だ。

有り得ないと思うだろう。妖が、人魚が医術を学ぶなど。
人の命を容易に奪える力を持つ存在が、自ら苦行の道に飛び込み、その潜在的な力とは真逆の術を学んで身につけるなど。

けれど事実であった。
伊作は、確かな理由と決意の元に、目的を持って旅を続けている。
だから伊作は、『異端』なのだ。



そんな苦行の道を進んでまで医術を学ぶ伊作は、他人の『怪我』に対して特別に敏感だった。
そして、食満にとって伊作が特別な存在であるように、伊作にとって食満もまた特別に想う存在である。

結果、その二つの特別が重なる『食満』の『怪我』に関して伊作はこのように、異様な程の過剰反応を示すのだ。





「どうしたのこの火傷!何があったの!…もしかしてまた文次郎かい!?」

取り乱す伊作の口から不意に出た名に、思わず食満は肩を揺らし反応してしまう。
それは決して肯定の意味ではなく別の理由からの動揺だったが、今の伊作には正しくその意味を捉えることが出来なかった。


「やっぱり文次郎なんだね!!また喧嘩したの!?あれだけ控えるように言ったのに、殴る蹴るだけじゃなくこんな火傷まで留三郎に負わせるなんてっ!!!あいつ、とうとう口から溶解液でも吐き出すようになったのかい!?鍛錬馬鹿の脳筋野郎だけど卑怯な真似だけはしないと思っていたのに僕の留三郎にこんな怪我をさせて…もう許せない!!我慢できない!!その怪我の分、僕が代わりに復讐してやる!!!」

留まる所を知らず高まり続ける伊作の思考は、次第におかしな方向へと逸れていく。


「待て待て待て!!違うから!これは文次郎がやったんじゃない!!」

そのままの勢いで立ち上がり何処かへ行こうとする伊作を、慌てて食満は引き止める。


「ホント!?ホントに文次郎は関係ないの?」

食満の怪我の元凶を文次郎とすっかり決め付けていた伊作は、訝しんで問い返す。



「関係な…くはないけど、ちょっとこの前、色々あったんだ」

説明するから、頼むから鎮まってくれと。
そう言って食満は、先日の、野狐と平太に関する出来事を話し始めた。















「そんなことがあったの…」

食満の話を聞き終えて、伊作が呟く。
その様子は、話を始める前と比べて随分と落ち着いていた。


「事情は分かったよ。勘違いしてごめん。僕の知らない間に、君の方でも色々あったんだね。でも、それでも怪我の治療はちゃんとしないと駄目だ」

先程の荒々しさを取り払い、そっと食満の腕を取った伊作の、野狐の体液を浴びて出来た火傷を痕を見下ろす瞳は悲しげだった。


「…悪い」

純粋に食満を心配する伊作の感情が伝わって、食満もまた素直に謝る。
そんな食満を見て、伊作は何かを言いかけるように口を開く。
言うべきか、飲み込むべきかを暫し迷って、そして言葉を続ける。





「留三郎…。君は僕や文次郎達とは違うんだよ」

「…っ」

伊作の言葉に、はっとして食満が唇を噛む。


「君は強いよ。文次郎と互角に遣り合える位だものね。でも、いくら強くとも怪我をすることもあるし、君の場合はそれが僕達よりも容易に命にも関わる。身体の頑丈さや自己治癒力の違いが、ここで明確に現れる」

説き伏せるような伊作の口調。


「…分かってる」

今まで何度も忠告されてきたその言葉に、伏せられた食満の視線が、伊作に取られたままの自らの腕へと落ちた。








晩夏の頃に起こったあの野狐の騒動から、それなりの日数が経つ。
それなのに、野狐と対峙したあの時に焼け爛れた食満の腕の傷は、未だじゅくじゅくと疼き、痕も痛みもはっきりと残していた。


伊作から見れば粗末なものかもしれないが、これでも一応食満なりに傷の手当はしたのだ。
事情を知る作兵衛に補助してもらい、上手く子供達、特に平太には勘付かれないよう隠し、悪化を防ぐ為なるべく安静にもしていた。

けれど、傷が癒える速度は遅かった。
伊作が見抜いた通りに、野狐の爛れた体液で焼かれた傷は普通の火傷とは症状も処置も違うのかもしれない。薄々それにも気付いていた。

それでも食満は、大丈夫だと思っていた。
誰にも頼らず、自分の力で治せると思いたかった。

だって、自分の幼馴染達にはそれが出来るのだから。



あの件の後、数日程が経った頃だったか。
家に野狐を封じた人形の始末の報告に仙蔵と文次郎が共に訪ねて来た。
その時には、あの場で食満よりも数倍酷い怪我を負っていた筈の文次郎の身体は、殆ど完治していた。

あちらこちらに包帯を巻きつけ、塞がりかけの傷跡をありありと見せる食満の姿とは、まるで違うその姿と回復力。
見せ付けられ勝手に感じた劣等感に、食満は報告だけを聞いた後は、二人を早々に追い返してしまった。
敏いが故に食満の心情をも見通している仙蔵は、不快を示すこともなく遠まわしな労いの言葉だけを置いて去った。
仙蔵ほどに他者の心情を察する技量を持たない文次郎は、己とは一言も会話せず、目線すらも合わせようとしない食満の様子に大層腹を立てていたが、それでも食満の怪我への気遣いから余計な悶着を起こすこともなかった。

身体の具合など気にかけずいつも通りに喧嘩を吹っかけてくれた方が余程良いと、その後姿を見送って無意識に拳を握った食満の心情は、きっと誰よりも文次郎には伝わらない。

妖や付喪神達、人外の生き物達に囲まれての些細な日常の中で不意に感じさせられる、忘れかけていた皆と自分の確かな違い。
分かりきって割り切っていた筈のそれは、このように不意に、食満の心に小さな棘を刺す。





堪えるように俯いて唇を噛み続ける食満の姿に、伊作も顔を顰める。
伊作には、食満を傷付けるつもりなどない。
けれど、これは言わなければいけないことだった。

「…僕は嫌なんだ。僕が居ない間に君が怪我をしたら、僕はそれを治してあげられない。折角治療する術を学んできても、手遅れになっていたらどうしようもない。だから、治せるものはちゃんと治して欲しい。気に掛けて欲しい。そう思うのは、迷惑かい?」

食満には食満の思いがあるように、自分達にもそれがある。
譲ることは出来ないその思いの中で共通するのは、相手を大切だと思う感情。
失ってからでは全てが遅い。
例え小さな傷を植えつけることになっても、死んで二度と傷を癒せなくなるよりはずっといい。

だから伊作は、諦めず食満への忠告を繰り返す。





「…迷惑じゃない」

長い逡巡の間を置いて、ぽつりと食満が答えた。
伊作に叱られ黙り込んで、それでもちゃんとこちらの意も汲み、受け入れてくれる。
食満の姿に、幼い頃の影が重なって、頬を緩めた伊作はそっと笑みを浮かべた。



















「じゃあもう一回よく診せて。今度は腕以外も」

先程までのやり取りに区切りをつけるように一つ手を叩き、口調を明るいものへと変えて伊作が言う。


「…は?」

首を傾げた食満に、腕まくりをしながら伊作は擦り寄り、がしりとその肩を両手で押さえる。
気付いた時には、ぐいと力を込めて後に押し倒されていた。


「さっきの話じゃ、随分と暴れまわったみたいだし。身体の方にももしかしたら気付いていない怪我があるかもしれないじゃない。治せるものはちゃんと治さなきゃ。その為にはちゃんと確認しなきゃ。ね」

笑みを浮かべて、伊作は食満の小袖の前合わせに手を掛ける。



「いやいやいや!待て待て無いから!あったら気付くから!大丈夫だって!」

「いやいやいや。万が一があったら悪いからね。自分では見えない場所にとか、触れない場所にとか、あるかもしれないじゃない」

「何処を診るつもりなんだよ!」


押し倒された状態で、食満は着物を剥こうとする伊作の手を抑える。
口調こそ焦ったものだが、その表情にはあまり切迫した色は見られない。
伊作の手にあまり力が入っていなかったからだ。

幼い頃によくした、じゃれ合いを思い出すこの体勢とやり取り。
きっと、沈んでしまっていた食満の様子を察して、伊作なりの気遣いなのだろう。
お前が悪い訳じゃないのにと、有り難いような、情けないような微妙な気持ちになる。


感じた痛みは消えないけれど、今は取り合えず、伊作のこの気遣いに乗ることにした。
着物に掛かる伊作の手を押し返しながら、食満は笑みを見せる。
それを見て、伊作もまた笑みを深め、さらにじゃれ付いてくる。













「食満先輩ー、ただいま戻りまし…」

「伊作先輩ー、見つけてきまし…」

そんな二人の下へと、子供達が帰ってきた。




「おかえり、作兵衛」

「わー、ありがとう乱太郎!!助かったよ〜」

不自然に途切れた子供らの言葉尻には気付かず、じゃれ合いから、ぴたりと身を寄せた体勢のままの食満と伊作が揃って声を返す。
至って平素なその声と表情は、自分達が今とっている体勢のおかしさに、気が付いていないようだった。



戸口で立ち尽くし、目の前の光景を凝視した作兵衛の頬が俄かに朱に染まっていく。
そこら中を探し回り漸く見つけてきた、伊作達の旅荷物(上空からの落下の際に、伊作が放り投げてしまい紛失していた)を、思わず取り落としそうになって、慌てて抱えなおす。

はっと、自分の隣でぽかんと二人を見遣る乱太郎の存在を思い出し、素早く己の掌で乱太郎の眼前を覆う。
そして、二人に遅れてこちらに掛けて来る子供たちの足音を聞き取り、慌てて後ろ手に戸を閉め、自身の身体でそこを塞いだ。


「「?」」

そんな作兵衛の行動の意味も、相変わらずに体勢を変えない二人には届いていない。
顔の全面を朱に染めた作兵衛は、何と言って注意、若しくは自覚を促せばいいのか分からず、パクパクと口を開閉させた。





「…あの」

そんな中で、作兵衛にがっちりと目隠しをされた乱太郎が、戸惑いがちに口を開く。



「先輩、用件はもうお伝えしたのですか?確か…お願いしたいことがあると…」



「あ、そうだった」

「お願い?」

乱太郎の言葉に何かを思い出した伊作は、身体を起こし手を打つ。
聞き返した食満も、それを追って身を起こす。





「あのね、留三郎にちょっとお願いがあるんだ」









あとがき
相変わらず長い。
少しでもお話に奥行きを出せないかと常に試行錯誤中なのですが、中々難しいですね…。
キャラの関係性、お互いへの心情など、しっかり書いていきたいです。



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