「あんの馬鹿野郎っ!!」 野狐と共に屋根の上へと消えた文次郎に向かって食満が怒声を上げる。 何をやっているんだ、あいつは! 必要でない助けに入り、挙句自分が危機に陥るなど。 これを馬鹿と言わずに何と言う。 そんなに自分は危なっかしいか。弱く見えるか。頼りないか。 酷く侮辱されたに等しい怒りが食満の胸に込み上げる。 しかしその怒りは、勝手な行動を取った文次郎に対してのものなのか、それとも手助けを受けてしまう隙のあった自分に対してなのか分からなかった。 「…作兵衛、平太を頼む」 食満は抱えていた平太の身体を、仙蔵の傍にしゃがみ込んでいた作兵衛へと預ける。 震えながらもはっきりと頷いて、作兵衛が平太を受け取った。 作兵衛の腕の中で、平太は眠るように瞳を閉じたまま横になっている。 あの宿屋で母に見守られながらすやすやと眠っていた、人間の平太と同じその顔。 しかし、順調に快方に向かっている様子だったあちらに比べ、こちらの平太の顔からは見るごとに生気が失われていく。 あれ程の高さから乱暴に落とされても意識は戻らず、相変わらずに青白い顔や着物から覗く手足の至る所には、以前には見られなかった無数の染みが浮き上がっていた。 治りかけの鬱血の跡のように黄変した皮膚の染み。 食満はそれに似たモノを何処かで見た覚えがあるのだが、思い出せない。 そもそも、平太の本体は店主の子供が大切にしていた人形であるはずだ。 その人形は、先程見た様子では顔に無数のヒビが入り、腹部には大きな穴が開いていた。 このように、黄変した染みなど浮かんではいなかった。 付喪神とその本体は表裏一体。 ならば、平太にも人形と同じ損傷が起きるのが普通であるのだ。 これは一体どういうことなのか。平太に何が起こっているのか。 食満には分からなかった。 ただ一つ確かなのは、一刻も早く野狐から本体を取り戻さなければ、更に危険な状態になりかねない、ということだ。 食満は、手に握った袋槍の茎をきつく握りしめる。 「待て、留三郎」 野狐と文次郎を追って屋根へと上がろうとした食満を、仙蔵が呼びとめた。 「私に、考えがある」 一方で、文次郎を銜えたまま屋根を飛び越えた野狐は、上空へ向かって必死に身を捩り上昇していた。 その鼻先で、突如炎が弾けた。 先手を打って仙蔵が張っていた結界の炎だった。 野狐に食いつかれたままの文次郎の背にも、炎の熱が伝わる。 しかし、皮膚を溶かして肉を焼かれ、悲鳴を上げる野狐程のものではない。 仙蔵の炎は、的確に、標的である野狐だけを焼いていた。 耐えきれずに野狐が口を開き、文次郎の肩に食い込んでいた牙が引き抜かれた。 炎に弾かれ、ぐらりと傾いた野狐の身体が母屋の屋根の上へと落ちていく。 野狐と共に落下しながら、文次郎は緩んだ野狐の尾の拘束を力任せに解いた。 その身体の下敷きにならぬよう衝突の寸前で辛うじて抜けだした文次郎は、穴の開いた肩を庇いながら瓦の上を転がった。 全身にかなりの痛みと衝撃が突きぬけるが、文次郎はすぐに体勢を立て直し野狐へと向かう。 『おのれ…おのれ、忌々しい…!どいつもこいつも忌々しい!私の邪魔ばかりをしおって!みな大人しく私の餌となっていればいいものを!力を寄越せばいいものを!』 文次郎と同様に瓦の上をがらがらと転がった野狐が、怒りの咆哮をあげて身を起こす。 猛り狂うその両目からは、僅かに残っていた知性が完全に消え去っていた。 暴れる野狐の身体から、微かに血の匂いが漂う。 先程食満の頬を掠めた際に付いたものだろう。 その血の匂いと、重なる痛みと怒りとで我を忘れているようだ。 先程内から爆発するように弾けた野狐の黒い身体は、狐妖の身体を模していた元の形をすっかりと失い、今ではドロドロとした液状のモノが中を流れる、管のようになっていた。 先端に野狐の白い頭をのせた管は、太く短い芋虫のような形を表面に張った薄い膜一枚で辛うじて保ち、その所々から手足や残った三本の尾が飛び出ている。 その膜の下で黒く渦巻くのは、今までに野狐が啜った血の、吸い取った力の持ち主である人や妖達の怨念か。 それとも膨れ上がり制御を失った野狐自身の四魂と、それが抱いた執念なのだろうか。 何と醜く、滑稽な。 これが野狐か。血狂いの行き着く先か。 こんなものが、こんなものに。 文次郎の胸中に、憐れみにも似た感想が浮かぶ。 怒りに任せて暴れる野狐を見据え、文次郎が構える。 噛みつかれた左肩の傷は然程深くない。 が、だらだらと肩から手の甲まで流れ落ちる出血が止まらない。 無理に動かせばここから悪化していくことは確実だ。 それでも、もう一本腕はある。 文次郎は懐に手を入れ獲物を探る。 しかし、探ってから漸く、先程袋槍を手放してしまったことを思い出した。 チッ、と舌を打つ。 舌を打った対象は、勿論自分だ。 食満の身体を野狐から伸びる触手が貫こうとしていた、あの時。 気が付いた時には、文次郎は袋槍を投げていた。 別に、仙蔵に言われた言葉を思い出したのではない。 ただ、想像してしまっただけだった。 食満の身体にあれ以上に野狐の付けた傷が増えることを。 その肩に、あんな醜いモノが突き刺さる場面を。 たったそれだけで、身体は勝手に動いていた。 そうして、優先順位を無視して動いた結果がこれだ。 全く、間抜けであると言うしかない。 文次郎の袋槍が触手を引き裂いた後、一瞬交わった食満との視線。 そして地に突き刺さった袋槍を拾いに背を向ける前、一瞬だけ浮かべた表情。 それを思い出して、文次郎は小さく息を吐いて目を伏せた。 失態の尻拭いは、せめて自分でする。 浮かんだ感情を振り払って、改めて文次郎は野狐へと向かう。 右手を前に、血の滴る左手を腰へと引いて、腰を落として構えを取る。 そんな文次郎の元へと、身を捩り暴れまわる野狐から何かが飛んで来た。 咄嗟に飛び退きそれを避ける。 黒くどろどろとしたそれは、野狐のはち切れんばかりに膨らんだ身体の一部、体液のようなものだった。 強い瘴気を含むそれが、瓦ごと屋根を溶かす。 これは少々面倒だ。しかし、避けられないものではない。 ここで様子を見ているだけでは、いずれ無差別に、地表に向かっても体液を降らせ始めるかもしれない。 躊躇う時間も怖気づく余裕も、今はない。 文次郎が瓦を蹴る。 一斉にこちらに狙いをつけて降り注ぐ不浄の雨をしっかりと見据え、滴すら浴びぬようにと完璧に避けながら野狐に向かって駆ける。 『ぐあぁああああ!!』 文次郎を溶かすことしか頭にない野狐の叫びが周囲に響く。 不規則なそれを全て避けきった文次郎は、野狐の長い胴の下まで辿り着く。 おかしな位置から突き出た尾が、文次郎に向かって振り下ろされる。 それを横に避け、文次郎は野狐の尾に向かって拳を振りかぶった。 しかしそれを打ち付ける寸前、野狐の身体の中から人形の頭が覗く。 文次郎は、勢いのついた拳を振り切る寸前で止めた。 本来の文次郎に与えられた任を優先させるのならば、このまま拳を振り切るべきだ。 しかしそれは出来なかった。 文次郎とて、平太の生まれ、そして行動の真意を知り何も感じなかった訳ではないのだ。 出来ることならば、あの小さな付喪神を消滅させたくはない。 もしも手遅れだとしても、せめて囚われた本体を野狐から解放してやりたい。 それ位には、文次郎も平太の身を案じるようになっていた。 そしてなにより、食満は平太を救う為ならば、自ら進んで野狐の前に身を晒すだろう。 危険だと周囲が忠告しても、本人が頭で理解していても、平太を救うまでは決してあきらめないだろう。 だからこそ、そんな食満の性分をよく知る文次郎は先程、野狐へ致命傷を与えることよりも人形の奪還を優先させ、援護する仙蔵もそれを良しとしたのだ。 人形を盾にされ攻撃できず体勢を崩した文次郎が、それでも次の手を打とうと足場を変えようとしたその目の前に、どろりと大きな体液の塊が落下する。 瓦を蹴って逃げるが、足場の悪さから思うように距離が取れず、無数の小さな滴が着地点から飛び散り、文次郎に襲いかかる。 「っく…!!」 避け切れずに付着した数滴が、肩の傷口に触れてしまった。 固い瓦すらも溶かす酸のような体液は、着物ごと肌を溶かし傷口を焼く。 痛みに文次郎が呻く。 その一瞬の隙に、ずるりと文次郎を追って伸びてきた野狐の触手に、足を絡め取られてしまった。 『力だ力だ力だ力だ力だ。力があれば何でも出来るのだ。生も死も服従も支配も思いのままだ。毎日毎日、神だ仏だ大妖だなどと頭を下げて命令され、ほいほいと使いまわされることもないのだ。主にも分かる筈だ、潮江の餓鬼!』 傷口の痛みと、巻きつく触手の締め付けに顔を顰める文次郎の眼前に、野狐の顔が迫る。 朱色の隈取りが溶けて頬を流れるその顔は、まるで血の涙を流し嘆いているかのようだった。 先程仙蔵が挑発の為に投げかけた言葉の通り、この野狐の正体は、数百年と仕えた主に老いを理由として主従の契約を解かれ捨てられた、憐れな老狐だ。 狐妖の習性と掟通りに、生涯ただ一人と定め必死に仕えた主に、多少力が衰えた程度で、何の情も掛けられずに捨てられた老狐は、老いた身体から失われていく力に固執し、若き者達が秘める力に嫉妬し、そうしてそれを取り戻そうとした。 そんな時に、偶々他者の血に触れ力を得る簡単な方法を知ってしまった。 そうして手に入れた不浄の力でも構わなかったのだろう。もう一度主に必要とされるのならば。 しかし、数多の血を啜り貪るうちに、そんな初志は身に溜め込んだ穢れにかき消されてしまった。 残ったのはひたすらに力のみを求める狂気と、自らを捨てた者への恨みだけ。 なんと惨めで憐れな、まるで狐妖という種族自体の末路を示すかのような、老狐の生き様だろうか。 「…悪いが、さっぱり分からんな」 しかしそれでも、理性を失い、残された執念のみに付き動かされ野狐の口から出る狐妖を否定する言葉には、とてもではないが文次郎は同意出来ない。 「確かに俺も力は欲しいが、俺はお前とは違う」 文次郎は、力が欲しい。 狐妖としての務めを果たす為。潮江の家柄を保つため。 常に今より上を目指し、己の目標、理想を現実のものとする為に力を求め続けている。 しかし、それはこのように血に狂って手に入れるものではない。 自らの心身の鍛練によって、日々少しずつ身につけていくものなのだ。 他者のものを奪い身に付けたものでは、文次郎の望むところには辿りつけない。 この野狐へと堕ちた老狐と同じなどでは、決してないのだ。 『分かる筈だ!主は、私と同じだろぅ!』 しかし、文次郎の否定に更に言葉を重ねて、野狐が言う。 『主は、私と同じ一度は地に堕ちたものではないか!『祟られ屋敷の呪い仔』が!』 野狐の口から出た名称に、文次郎の動きが止まる。 その反応を驚愕ととった野狐が更に言葉を繋げる。 『知っているぞ私は。まだ仔狐の頃、どこぞの神だか大妖に主は祟りを受けただろう! ずたぼろの状態で里へ戻った主を周囲は腫れ物扱いし、生家には見捨てられ、地を這いつくばって身を竦めていた主は恨んだだろう、己を捨てた者どもを!その後、潮江の家の者が奇病で死に絶え主一人が残った時、皆が主がもたらした災いだと口にした。その時に求めたのだろう、力を!身の内に巣食っただろう、闇が!私達は同じだ!』 数十年も昔の話。 狐妖の里でも一部しか知らぬ文次郎の生家に纏わる話を引き出し、老狐が喚く。 「…違う」 絞り出すように一言、文次郎が言葉を返す。 『違わん!力を求めて、何が悪い!受け入れぬ周囲が悪いのだ!』 打ち消す勢いで声を上げる老狐の言葉には、文次郎を追いたてる意と共に、堕ちていく自身を身捨てた周囲の者への怨嗟の念が込められていた。 『お主は確かに一度狂いかけた!里の上役らが、主の処分を検討していたことも私は知っているのだ。なのに何故主はそこから戻れた!私と同じに堕ちて来ない!』 文次郎は俯いている。 野狐から目を背け、唇を噛み締めている。 己の言葉に痛めつけられる文次郎の様子を見て、野狐が間近に寄せた首を傾げて、にたりと笑い、激昂していた口調が僅かな落ち着きを取り戻す。 しかし、俯いた文次郎の顔ばかりを窺っていた野狐は気付かなかった。 文次郎の頭部で結われた黒髪の先端が、ゆっくりと白色に変わり始めていたことを。 『…教えておくれよ。私と主で、一体何が違うのか。何が主を引き戻した?どうすれば、私のこの老い崩れゆく身体は再び力を取り戻すのかぃ?哀れな婆を救う為と思って、さぁ…』 文次郎の耳元で、弱々しく声を震わせた老婆が囁く。 だらだらと血の涙を流し続けるその顔には、歪んだ笑みが張り付いている。 野狐の言葉に合わせ、ずるずると、文次郎の足に絡みついていた身体を伝って触手が這い上る。 身体を這う不快な感触にも、文次郎は反応を示さない。 探るような動きのそれが、文次郎の小袖の合わせの部分、そこに仕舞われていた首飾りを見つけた。 野狐の暗い光を発する目が、首飾りへと吸い寄せられる。 『これかぇ、主を繋ぎとめておるのは。何とも奇妙な品よの。一体誰の作じゃ。…中に、何か入っとるのぉ』 野狐が首飾りを覗き込み、その中を見透かそうとしているかのように目を細めた。 『…魂じゃあ、魂が入っとる。それも人間の。そいつで以て、荒ぶる主の四魂を鎮めておるのか。なんじゃ、主とて私と同じく、他者の命で以て自己の命を繋ぎとめておるのではないか』 げらげらと嘲笑を上げた野狐が、首飾りへと手を伸ばした。 転瞬、首飾りが強烈な光を放つ。 文次郎の身体を這い首飾りに触れようとしていた野狐の触手が、光に弾かれるように引き剥がされた。 光は間近に顔を寄せていた野狐の瞳の中にも入り込み、その眼窩の中を焼いた。 『ぎゃあっ!!』 眼球を焼かれる激痛に身を引きかけた野狐の顔を、血の滴る文次郎の手がわし掴む。 流れ出す血と、先程の体液で爛れた傷口が引き攣る痛みにも構わず力を篭める文次郎の指が野狐の顔へ食い込み、骨ごと砕かんとするかのように締め上げる。 『あああぁぁあああ!!』 焼けた目と、軋む頭蓋の痛みに野狐が悲鳴を上げ続ける。 「汚ねぇ手で触るな」 野狐に己の過去を語られてから、ずっと口を閉ざしていた文次郎が言葉を発する。 その声は、子供部屋で襲いかかってきた平太を押さえつけた時とは比べ物にならない程に低く冷たく、感情のないものだった。 文次郎の掌に大部分を覆われた野狐の視界の端で、何かが光る。 天に浮かぶ淡い中黄色の月を光を受けて光を放つのは、文次郎の尾だった。 しかし、黒狐である筈の文次郎の尾は、白く染まっていた。 その色は白狐の仙蔵のものとは違う。 灰白色に近いその毛並みが放つ光は、例えて銀白。 白狐の白磁の毛並みが放つ光とは全く異質のものであった。 その色を視界に入れた瞬間、野狐の脳裏にぞくりとした悪寒が走る。 血に狂い殆どが掻き消え、今では僅かな断片しか残らない自身の千年に及ぶ記憶を必死に探り、そこに同じ色の記憶を見つけ出す。 『馬鹿なっ…主のような餓鬼が…』 数百も昔の記憶と、現在視界に映り込むものの完璧な一致に、野狐が震えあがる。 「うるせぇ」 しかし、先程までとは態度を一転させ恐れ戦く野狐の驚愕の言葉は、今の文次郎にとっては只の耳障りな音としか聞こえていないようだった。 ギシギシと、野狐の頭を掴む指に更に力が込められる。 毛に覆われた頭皮を突き破り、頭蓋を握り砕かんとするかのようなその力に、再び野狐が悲鳴を上げる。 必死にもがき逃れようとする野狐を見遣る文次郎の瞳は、その毛並みと同じく白銀色に染まっていた。 色も眼差しも氷のような冷たさを感じさせるその瞳は、感情を押し殺しているというよりは、感情そのものを何処かに置き忘れたかのように、人格そのものを失っていた。 怒りと血に狂い、理性を失っていた野狐の中に残った生き物としての本能が、死への恐怖を強烈に発する。 ごきりと、文次郎の指の関節が鳴る。 野狐の口から、言葉に表現しきれない悲鳴が立ちあがった。 「こっんの、馬鹿たれがー!!」 喚き散らす野狐の悲鳴を引き裂き、野狐と文次郎の間へと躍り出た食満の怒声が響く。 文次郎の口癖を真似て拳を振り下ろした食満が殴ったのは、文次郎の頬だった。 容赦のない不意打ちのそれに文次郎は綺麗に殴り飛ばされ、傾斜した屋根の上を飛んだ。 受け身も取らずに瓦の上を数回跳ねた文次郎の身体は、屋根から落ちるギリギリの位置まで転がり止まった。 まるで打ち捨てられた人形のように、ごろりと力無くうつ伏せに倒れた文次郎の白銀色に染まった頭髪や尾に怯みもせず、憤怒の表情で見遣った食満は、そのまま身を返し文次郎の手から解放された野狐へと向き直る。 ぱしりと、逆の手で握っていた袋槍を利き手へと持ちかえ、文次郎が殴り飛ばされる際にその手に引かれて体勢を崩した野狐がこちらへと向き直る前に、瓦の上をのたうつ胴の元へと飛び掛る。 上半身を捻り、勢いと体重を乗せて突き出した袋槍は、体表を覆う薄い膜を破り、深くまで突き刺さった。 文次郎が、再三響いた野狐の悲鳴を聞いて飛び起きる。 それとほぼ同時に、食満が野狐を突き刺した袋槍を引き抜いた。 ぱんぱんに肉を詰めた腸詰のような野狐の身体、そこに食満が開けた穴から体液が噴き出した。 食満が後ろに飛んでそれを避けるが、無数に飛び散る飛沫全てを避けることは出来ず、顔を庇って前に出した腕につけていた腕抜や小袖の裾はぼろぼろに溶け、引き戻すのが間に合わなかった袋槍を握る手の表面は、被った体液の飛沫で焼け爛れたいくつもの火傷の痕が出来た。 それでも、食満は火傷の痛みを感じさせない身軽さで宙を回り、素早く野狐から距離を取ると文次郎と同じ位置まで下がってきた。 「留三郎!!」 跳ね上がるように身を起こし、食満に駆け寄り文次郎が怒鳴りつける。 今にも先程食満に奪われた口癖の文句が飛び出してきそうなその表情は、派手に口を切って血の滲む口元意外、普段食満と掴み合っていがみ合う時と変わりなかった。 白銀色に変っていた筈の瞳も頭髪も、背後に伸びていた尾も、いつの間にか元の黒色へと戻っていた。 姿勢を低く構えたまま野狐に顔を向ける食満が、ちらりと横目で怒り心頭で睨みつけてくる文次郎の様子を確認し、何も言い返さず視線を前に戻した。 「おいっ!!」 「見ろ」 突然に殴り飛ばされたことへの非難も含めてではあるが、食満の身を案じて駆け寄った文次郎を無視する食満の態度に声を上げれば、くいと、食満が顎で前方を差す。 『お…おぉ…お』 つられて向けた視線の先では、しゅうしゅうと溶けて煙を上げる瓦の中で野狐が身を震わせていた。 しかし、その様子はどこかおかしい。 食満に付けられた傷口から体液が噴き出し幾分か萎んだ胴体が、ぶるぶると震えている。 胴の上に乗った野狐の頭が、だらりと口を開けうめき声をあげている。 きょろきょろと辺りを見渡すその仕草は、まるで何かを探し求めているかのようだった。 「奴に打ち込んだお前の獲物に、俺の血を塗っておいた」 野狐を油断なく睨みつけたまま、手に持った文次郎の袋槍を振り、穂先に残った体液を払い落として食満が言う。 文次郎の方へと返された小さな傷だらけの掌には、べったりと赤黒い血が付いていた。 「なっ!?」 文次郎が目を見開く。 今そんなことをすれば、血に狂った野狐を、更に荒ぶらせるだけだ。 それだけでなく、傷を負って追い込まれ更なる力を求める野狐の標的は、血を与えた食満に絞られる。 何故そんなことを。 そう尋ねる時間も与えずに、食満が文次郎の方を向く。 所々皮膚が爛れ、酷い火傷のように水膨れができ始めている手に持った袋槍の茎を、文次郎の胸へと押しつける。 「今度は間違うなよ」 押しつけられるままにそれを受け取った文次郎の前に、食満が進み出る。 振り返り、真っ直ぐに文次郎の目を見つめて、一言。 そして、食満は野狐へと向かって駆けだした。 素手で野狐へと向かう食満の背を見て、すぐに文次郎はその狙いを理解した。 一瞬遅れて、文次郎も駆けだす。 食満とは反対周りで。食満に意識を取られた野狐の、死角へと回り込むようにして。 『あぁ…あ…血ぃ…』 食満が野狐の前へと身を晒す。 その血の匂いに反応して、野狐がずるりと身体を這わせた。 しかし、先程文次郎の首飾りの光に目を焼かれたせいで一時的に視力が弱まっているのか、視覚だけでは正確に食満の姿を捉えることが出来ないようだ。 食満は野狐の触手に裂かれた頬から流れ落ちる血を手で拭う。 勢いよくその手を野狐へと振れば、飛び散った血が数滴、食満を探す野狐の頭へと届いた。 すんと鳴った野狐の鼻が、間近に香る濃厚な血の匂いを嗅ぎあてた。 『ああぁ…あああああああああぁああぁ!!』 野狐が、咆哮を上げる。 黒く窪んで、血の涙を流した野狐の目が、下から睨みあげてくる食満の姿を、はっきりと捉えた。 捉えると同時に、食満の元へと野狐に残された全ての尾と手足が伸びてくる。 血を求めて我武者羅に繰り出されるそれは、威力も速さも、地上での比ではなかった。 「もっと欲しけりゃ、捕まえてみろ!!」 身を翻して飛び退いた食満が叫ぶ。 その声と血の匂いを頼りに野狐が尾や手足を振り回し、触手を伸ばして食満を追う。 ぶんぶんと大振りに、けれど無規則に容赦もなく繰り出されるそれらは、正直避けることすら厳しい。 それでも、食満は文次郎が目的を達するまでは野狐の注意を引きつけ続け、時間を稼がなければいけなかった。 食満へと襲いかかる野狐の全身が視界に入るよう、少し距離を取った場所で構えを取る文次郎は、野狐の管のような胴体へと意識を集中させていた。 おぞましい思念ばかりがどろどろと渦巻くその身体の中に、何か別の気配がないか必死で探る。 このように敵の前に身を晒した状態で全神経を探知に向けることは、食満が野狐の注意をその一身に引きうけてくれなければ出来なかった。 攻撃も出来ず、近距離で注意を引きつけながら野狐の手から逃げ続ける食満の負担がどれ程のものか、文次郎に分からない筈はない。 だからこそ一刻も早く手助けに入る為にも、文次郎は敢えて食満の姿を、それに襲い掛かる野狐の尾や手足を、意識から消した。 (…間違えるかよ) 今度は、感情に任せて動くことは出来ない。 判断を間違えた結果の最悪の事態は全て、文次郎ではなく食満に向かうのだから。 「!!」 急く心を抑えて野狐の中の気配を探り続けた文次郎が、漸く目的のものを見つける。 瓦を蹴った文次郎は、一足で野狐の背後へ回る。 冷静さを失い、食満を捉え血を啜ることしか頭にない野狐は、間近に迫った文次郎へと気付かない。 躊躇い無く、文次郎がその胴の恐らく尾に当たる部分へ向かって袋槍を払う。 ばくりと口を開いた傷口からは、噴き出すような勢いはなく、とろけだすようにして体液が毀れ出た。 その中から、平太の本体である人形の頭が覗いていた。 素早く人形を引っ張り上げる。 その腹の中で体液に塗れ、人形の衣装はぼろぼろに溶けていたが、人形自体はまだ完璧に壊れてはいなかった。 「留三郎っ!!」 野狐は既に痛覚も麻痺しているのか、文次郎に胴を裂かれても悲鳴も上げなかった。 ただ、食満だけを執拗に狙い続けている。 文次郎の声に反応して、食満が視線を向ける。 その手の中にある人形を見て、僅かに表情が緩む。 一瞬の気の緩み。 その間にも休みなく襲い掛かる野狐の触手に足を払われ、食満がその場に倒れた。 瓦ごと腹を突き破らんと振り下ろされる尾を、転がって避ける。 加勢に入ろうと文次郎が駆ける。 「来るな!!」 しかしそれを、食満が制した。 文次郎の速度が僅かに落ちる。 斜面を転がる勢いで身を起こした食満が、くるりと文次郎と野狐に背を向けた。 そのまま、軒先へと向かって食満が駆け出す。 文次郎よりも一瞬早く、野狐がその背を追った。 「とっ…!!」 文次郎がその名を呼ぶより先に、食満と、それを追う野狐が屋根から飛び降りた。 あとがき 詰め込み過ぎな気がひしひしと… 今回は、文次郎さんと食満先輩のターン。 食満先輩は、守られるだけの役割では終わりにしたくなかったのです。 次回で漸く最終話。もう少々、お付き合い下さいませ [back/title/next] |