あやし奇譚 | ナノ


人形 01










文次郎の身体が宙に浮く。
笑い声に合わせてふらふらと遊ぶように揺れていた尾が、一斉に文次郎へと襲いかかったのだ。




鈍器を振り下ろすような空気を切る音と共に、異形の尾が鞭のように束ねられ叩きつけられる。文次郎は咄嗟に腕を交差させ急所を庇うが、衝撃全ては殺し切れずに薙ぎ飛ばされた。


クぁハハッ!

至極楽しそうに、異形が笑い声を上げる。



「文じっ…!」

食満が吹き飛ばされた文次郎を追おうとする。
それを阻むように、食満の足元の畳に何かが突き刺さった。



『何処いクノ?』

先程文次郎を吹き飛ばした尾が、今度は鋭く尖った杭のように形を変え、食満の周囲を囲むようにして畳に打ち付けられていた。
囲われた食満へと囁き掛ける、子供のように甲高い声。しかしその声からは、子供のものとは到底思えないおぞましい悪意の響きを感じる。


(くそっ…)

これでは動けない。
けたけたと、囲いの中の食満の姿を嘲笑うかのような声が響く。
何処が声の発生源なのか分からない。
周囲を数十の口が囲み、それらが一斉に声を発しているような。たった一つの声が囲いの中を乱反射し響き合っているような。重なり合い響き合って、凄まじい声量となって鼓膜を揺らす笑い声に、耳どころか頭までおかしくなりそうだった。

平衡感覚を狂わせるようなその声に、再び食満の足元から力が抜けそうになる。
倒れてなるものかと何とか踏みとどまる食満を、今度は強力な目眩が襲う。
先程平太に掛けられた術を解かずに無理やり動きまわっている副作用だった。

一瞬、食満の目の前の景色が霞む。
その僅かな隙を見逃さず、囲いを作る畳に突き刺さった尾の一本から触手が伸び、食満の首に強く巻きついた。


「っく…かはっ!」

気道と血管を同時に締め上げられ、食満の口から呻きと空気が漏れる。
首に巻きつく触手を引き剥がそうと指を立てるが、ギリギリと締め上げてくるその力は強力で、意識の朦朧としている今の状態ではとても引き剥がせそうにない。



『美味シソう、イィ匂イ、食べテイィ?、いぃよネ、イぃよ、イタダきまぁす』

掛け合いでもするかのように、幾つもの声が続けて囁く。
酸素が足りず白みがかって来た食満の視界に、ニタリと笑みを浮かべる真っ黒な異形の顔が広がる。
かぱりと、異形が口を開いた。その中は、異形の獣の身体を模っている渦よりも、更にドロドロと醜く渦巻き、淀んだ色をしている。


頭どころか、身体ごと一口で呑みこまれてしまいそうな程大きく醜いそれが食満に迫る。



「っ…!?」

咄嗟に食満が目を閉じたその時。


ザクリと音を立て、食満を囲んでいた異形の尾が全て断ち切られた。

異形と食満の間に割り込むように、狐妖の姿に戻った文次郎が身を滑りこませたのだ。
文次郎の鋭い爪が、食満の首に巻き付いたままだった触手をも一太刀で切り刻む。
一瞬で細切れにされた触手はざらざらと煙のように崩れ空中に消えた。



『痛いぃ』

異形が、子供がむずかるような声を上げる。

触手から解放された食満は、ふらつく足に力を込め、ぐねぐねと身を捩る異形から距離を取る。息を吸いこもうとして失敗し、激しく咳き込む。止まりかけていた血流が急速に脳まで回ることで、更に目眩は酷くなる。
膝をつき、必死に呼吸を繰り返す食満を狙って再び触手が伸びる。



それを、横から飛び出て体当たりで食満を吹き飛ばした文次郎が代わりに受ける。
ガキンッという牙を合わせる固い音。文次郎が触手をかみ砕いたのだ。

先程と同様に崩れ消えていく触手。文次郎はかみ砕いた牙の間に残る不快なそれを吐きだし、異形と正面から相対した。

文次郎に弾き飛ばされた食満は、座敷の隅まで畳の上を滑り、壁に背をぶつける寸前に辛うじて身を起こした。
乱暴な扱いと吹き飛ばされた身体の痛みに眉を顰めた食満だが、視線の先で異形と相対する文次郎の姿を見て動きを止める。




文次郎は異形に向かって低く唸り牙を剥いていた。
黒々とした毛並みの全身には朱色の文様が濃く浮かびあがり、その文様の上を身体の中を循環する妖力の流れを表わすかのように淡く光が走る。
その身体を何倍にも大きく見せるように扇状に広げられた四本の尾先は、それぞれが刃のように研ぎ澄まされて、油断なく異形に狙いを定めている。

しかし、そんな文次郎の全力での威嚇に対面しても、周囲に満ちる異形の笑い声は鎮まる気配がない。
触手や尾を断ち切られる痛みに身を捩り悲鳴を上げていても、その姿からは遊びの延長であるかのような余裕が感じられる。



文次郎を中心として放たれる妖力が、重く周囲に圧し掛かる。
その足元の畳が、重さに耐えきれずにミシミシと音を立て崩れた瞬間。

文次郎が地を蹴った。



異形に向かって文次郎が飛びかかる。
引き絞られた弓から放たれた矢のようなそれを、ゆらりと身を捩り異形が避ける。
しかし避けられても、文次郎はすれ違いざまにその牙と爪で異形を切り刻む。
脇をすり抜けていった文次郎を追って異形が身体を捩るより早く、背後にあった襖を蹴った文次郎は再び異形へと飛びかかる。

壁から、床から、天井から。
あらゆる角度から、跳弾のように跳ねかえり文次郎は異形の身体を切り刻む。
部屋中に広がる禍々しい渦で形作られた異形の獣の身体は、狐妖としては大柄な文次郎の更に二回りほども大きいが、その分動きも反応も遅いようで、四方八方から不規則に襲いかかる文次郎の動きには付いて行くことが出来ない。



クあァぁぁ…くアァぁァ…

ボロボロに身を切り刻まれていく異形が、悲鳴とも唸り声とも取れない声を出す。


タン、と文次郎が天井で足を止める。
異形は完全に文次郎の姿を見失っており、その目は座敷の見当違いの方へと向けられている。
グンと足に力を込め、文次郎が異形へと飛びかかる。トドメを刺そうとしたのだろう。




「馬鹿野郎!!」

しかし、そんな文次郎へ向けて食満が叫び声を上げる。
と同時に、明後日の方向へと向けられていた異形の顔が、突如文次郎の正面に現れた。


「!?」

背面から飛びかかった文次郎を捉えた異形の目が、ニタリと笑みの形に歪む。

文次郎の爪と牙でボロボロに引き裂かれたはずの異形の身体は、いつの間にか元通りに戻っていた。
まるで実体のない煙を切り裂いていたかのように、そこに先程までの傷跡は一切ない。

異形へ向かって飛びかかった文次郎の背後に、初めに文次郎に半ば程から断ち切られたはずの尾が、再び全て生え揃い回り込んでいた。
六本全てを束ねて鋭く尾先を尖らせた尾は大きな槍先のように変形し、その狙いを文次郎へと定めている。


食満に遅れて文次郎がそれに気付く。
しかし、既に文次郎の身体は空中に飛び出した後であり、勢いのついた状態では何処にも避ける術はない。


「文次郎ッ!!」

食満が叫ぶ。助けに入ろうと力の入らない足を踏み出す。しかし、間に合わない。



『バぁいばぁい』

異形が最後にくすりと笑い、自らへ飛びかかってくる文次郎の身体に向けて、貫く様に回転を加えながら尾を突き出した。










『あァ?』

その時、異形の動きが止まった。
そして奇妙な声を上げる。
気の抜けたようなそれは、場違いに素っ頓狂な声であった。



『ああァッあ嗚呼ぁぁアァッ!!』

そして次の瞬間、絶えず鳴り響いていた異形の笑い声が凄まじい悲鳴へと変わる。
ぶるぶるとその全身が激しく震えたかと思うと、座敷中に広がっていた異形を模る渦が中心に向かって急速に萎んでいく。

まるで逆再生の映像でも見ているかのような。
違うのは、元は座敷にあった玩具の中から噴き出してきていたはずの渦が、それらの中には戻らず、異形の中心、只一点のみに集中して吸い込まれていくということだ。



禍々しい渦から引き離された玩具達が、次々と畳の上に落ちていく。
そして、悲鳴と共に渦の最後の一片が吸い込まれ消滅した。


渦の消えたその場所には、平太がいた。

先程文次郎に倒された時と同じように力無く畳の上に横たわった平太は、その胸の上に一体の人形を抱えていた。

座敷にあった人形の中の一体であろうか。
通常女人の姿を模る衣裳人形としては珍しい、幼い男児の姿を模した人形だった。

ぱたりと、首を倒した平太が食満を見る。
その顔は、元々血色のよく無かった前までと比べて更に青ざめ、小さな胸と肩だけが、酷く消耗した後のように大きく上下に揺れていた。



「…平太!」

食満が平太へ駆け寄る。
身体中が痛み、踏み出す足からは力が抜けて崩れ落ちそうになる。
それにも構わず、食満は平太の傍へ向かった。


しかし、そんな食満に平太が手を伸ばす。
その手の平が、押し出すような形で食満に向けられる。
ぐんと、食満の身体が後ろに傾いた。
まるで見えない手が食満を掴み地面に引き摺り倒そうとしているかのような、強い力がのし掛るのを感じる。

先程、術を掛けられた時と同じだ。
食満は傾く身体を立て直そうと力を込めようとした。
しかし、吸いつけられるように畳へと倒れていく身体は、食満の意思を聞いてはくれない。


それでも食満は、平太に向かって手を伸ばす。
視界が水平に近付き、平太の姿が視界から消える寸前。
食満に向けられた平太の顔は、今にも泣き出してしまいそうに歪んでいた。










「ッ痛!」

食満は激しく尻もちをついた。

立ちあがった状態から受け身も取らずに打ち付けた尻と腰に、かなりの痛みが走る。
咄嗟に打ち付けた場所に手をやり、さすろうとして


「…えっ?」

食満は目を見開いた。




その手の先に触れたのは、座敷の畳の目ではなく、砂利と砂であった。
身を起こした食満の目前にあったのは、玩具が散らばり異形が暴れたせいでボロボロになったあの座敷ではなく、数刻前に潜った、暖簾も看板も出ていない古道具屋の門であった。


「どういうことだ…」

呆然として食満が呟く。
食満は一人、屋敷の外へと放り出されていたのだ。


(さっきのはなんだ。これはなんだ。平太がやったのか。何で。二人は何処だ。とにかく、中に戻らなければ)

食満の頭に一瞬で様々な疑問が過ぎるが、それを考えるよりも先に、食満は店の戸に手を掛ける。
しかし、入る時にはすんなりと開いたそれは、地に張り付き壁と同化してしまったかのようにびくともしなかった。


「何で…何で開かないんだ!平太ッ!…文次郎ッ!」

どんなに力を込めて引いても、戸は動かない。
食満は拳を握りしめ、がんがんとその戸を叩く。ここにいない、平太と文次郎の名を何度も呼びながら。
夜になって、益々静まりかえった店の前の通りには他の誰の気配もない。
ボロボロの食満が大声を張り上げても、誰も気にする者はいなかった。



何度も二人の名を呼ぶ。
しかしその呼びかけには何の答えもなく、固く閉ざされた戸は食満を再び屋敷の中に招き入れてくれはしない。

平太は、文次郎はどうなったのだ。まだ屋敷の中か。何故自分だけがここにいる。何故入れないんだ。何故。何故。何故。
食満の心を、不安と焦燥ばかりが満たしていく。

文次郎は無事なのか。
食満には、あの異形は文次郎の身体を貫く直前に動きを止め悲鳴を上げ始めたように見えた。その隙に、文次郎であれば逃げだせたはずだ。
しかしそれはあくまで食満の願望による錯覚で、もしかしたら間に合わず、あの異形の尾に刺し貫かれていたのかもしれない。
食満には分からない。

食満の頭に、最後に見た平太の顔が思い浮かぶ。
泣きだす寸前のような、内から込み上げる何かに耐えるような顔。
あの時と、同じ顔だった。

食満に、平太が術を掛けた時。
食満を異形の現れた子供部屋から遠く離れた座敷へと連れていき、背後から襲いかかった影から突き飛ばして食満を庇ってくれた時に、薄れゆく意識の中で、同じ表情を浮かべた平太を見た。



「…くそっ!」

何が大丈夫だ。助けてやるだ。助けられたのは俺じゃないか。
食満は、ぎりりと歯噛みして自分の失態を悔いた。

皮膚を爪が食い破るほどに強く拳を握り、己への苛立ちを戸に打ち付ける。
その衝撃にすら耐えられず、力の入らない足ががくりと崩れる。
ずるずると、開かない戸に額と血の滲んだ掌を摺りつけその場にしゃがみ込む。

食満がこんな状態でなければ、文次郎だってあんな風に不覚をとりはしなかったはずだ。
窮地に陥ったとしても手助け出来た筈なのだ。

俺のせいで。俺のせいで。
食満の胸に、心臓を氷で突き刺されたかのような痛みが走る。
ぎゅっと顰めた目の周りに熱が集まり、溢れ出しそうだった。



「…文次郎ッ!」

蹲って、食満はここにいない黒孤の名を呼んだ。










「湿気た声で呼ぶな、バカタレが」

膝に顔を埋めた食満の傍に、黒い塊が降ってくる。
わざとらしく大きな音を立てて間近に降りてきたそれに、びくりと食満の肩が跳ねた。


「お前、気付いたんならもっと早くに教えろ。死にかけたじゃねぇか。あと、誰が馬鹿野郎だ」

足元の土砂を舞い上げ着地した文次郎は、いつもと変わらない挑発文句を食満に投げつけてくる。
先程の座敷の中での、咄嗟の食満の叫びのことを言っているのだろう。
けれど、ぽかんとして文次郎の顔を見上げている食満には、何の事を言っているのか咄嗟に理解出来なかった。


再び人型に変化して現れた文次郎は、至って普段通りであった。
口端や小袖からの覗く手足には、多少皮膚が裂けて血の滲む箇所はあったが、食満を不機嫌そうに見下ろす隈だらけの顔はいつも通り凶悪な人相で、首元に覗く首飾りの下の腹の辺りにも、穴は開いていなかった。



「…何泣いてんだ」

名を呼ばれたから出てきてやったのに、傍に立つ文次郎を凝視して何も答えない食満を訝しげに見下ろしていた文次郎は、その食満の目じりから一粒だけ、早まったかのように流れ落ちた水滴を見て、ぎょっと後ずさる。

文次郎のその言葉で、漸く食満は我に返る。


「ち、ちげぇ!!これは…お前がこんな至近距離で土埃舞い上げるから目に入ったんだよ!汚れたじゃねぇか!ちょっとは仙蔵を見習って優雅な着地の仕方でも練習しやがれ!!」

「んな!?あんなしなしなとした女みたいな動き出来るか!そもそも俺とあいつじゃ体重も体格も違うんだから、比べんじゃねぇよ!そんなぼろぼろの成りをしているくせに、今更構わんだろうが!寧ろちょっとは埃でも被って大人しくしてろ!」

「何だと!!」

「何だ!!」

慌てて目元をぬぐった食満が、その勢いのまま文次郎へと噛みつく。
不意打ちの食満の涙に驚いていた文次郎もすぐさまそれに乗ってくる。
あっという間に睨み合いが始まり、二人を囲む空気はいつもの流れを取り戻していた。







「…って、平太は!?中はどうなってんだ!?お前どうやってここまで出てきたんだ!?」

そのままの流れで掴み合いを開始しかけて、はっと食満が思い出す。
僅かな望みをかけて再び店の戸へ手を伸ばすが、やはりそこは固く閉ざされたままだった。



「分からん。俺が見たのはお前を外に追い出した後、あいつが影の中に消えるところだけだ。その後すぐに俺も屋敷からはじき出された。屋敷全体の戸や窓全て見て来たが、どれもダメだ。今はこの中には入れない」

「そんな…」

ならば一体どうすればいい。
と、項垂れ頭を抱えた食満の身体が、ふいに宙に浮く。




「っ何すんだよ!?」

突然の浮遊感は、文次郎が食満の胴へと腕を回し持ち上げたせいであった。
自分と同程度の体格の食満を、文次郎はひょいと持ち上げ肩へと担ぎ上げる。
まるで俵でも担ぐかのようなその持ち上げ方と唐突に取らされた体勢の恥ずかしさに、食満が抗議の声を上げる。


「屋敷の周囲を見て回っている間に、仙蔵から連絡があった。この近くの宿に作兵衛と共に来ているらしい。見せたいものもあるからこっちに来いだとよ」

そう答えて、食満を抱えたまま文次郎が歩き出す。
未だ上手く身体を動かせない食満を一応気遣ってのこの体勢なのだろうが、食満には納得できない。


「でも、先に平太を…!」

「中に入れないんじゃ、どうにも打てる手はないだろうが。こういうのを破るのは仙蔵の大得意だ」

屋敷から離れたくないと文次郎の背を叩いて抗議する食満に、文次郎が言う。

確かに自分達だけではどうにも出来ない。それは分かっている。
それでも屋敷の中に残る平太のことが気にかかってしょうがない。



「やっぱり俺は残る…!お前が仙蔵を連れてくるまで待ってるから」

どんどんと屋敷から離れていく文次郎の足を止めようと食満が言い募る。

文次郎は、肩に添えられた食満の掌を横目で見る。
力一杯何度も開かない戸に叩きつけたその手の側面も、きつく握りしめたせいで掌に食い込んだのだろう爪の先も、血に塗れていた。
そんなものを見せられて、食満が文次郎達が戻るまで何も無茶をせず大人しく待っていると、誰が信じられるというのか。



「…仙蔵と合流したら、俺達が捜していたものも、あいつの正体も全て話してやるから、取り敢えず黙ってろ」

そう言うと文次郎は食満を乱暴に抱え直し、抗議の声が上がる前にと二人分の重さを受け止め、風に乗って人気のない通りを走り出した。











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