あやし奇譚 | ナノ


影 03










座敷の中央に眠るように倒れる食満。
無感情にそれを見下ろした平太は、静かに障子を閉めた。





平太が歩き出す。
先程、食満と二人で歩いた廊下を一人で戻る。


人気が無く、灯りの一つも灯されていない廊下はどこまでも暗く、足元さえも覚束無い。
それでも平太の足取りには迷いがなく、深藍色に包まれた屋敷の廊下を滑るようにして前に進む。先程までと違って真っ直ぐに前を見据えて歩くその顔は、暗闇の中でより一層青白く浮かんで見えた。












「…何してるんだ」

先程三人が別れた座敷から然程離れていない廊下を、文次郎が歩いていた。
突如一人で文次郎の前に現れた平太に驚いたようだ。平太を見下ろす文次郎の目が細められる。



「あいつはどうした?」

食満が傍にいないことを訝って、文次郎が問いかける。
先程の相手の様子を思い出し、文次郎としては努めて穏やかな声を出したつもりであった。

しかし平太はその問いには答えず、文次郎の傍へと近付いてくる。
先程は顔を合わせることすら嫌がっていたというのに、今はそんな様子は微塵も見せずに、文次郎を真っ直ぐに見上げ歩み寄ってくる。


平太が文次郎の小袖の裾を掴み、くいと引く。
何か伝えたいことでもあるのだろうか。だが、それだけでは文次郎には分からない。

平太は喋らない。小さな口は言葉を紡ぐように開閉を繰り返しているが、そこからは何の音も聞こえない。
食満は平太の動作や表情の僅かな変化からその意図を読み取っていたようだが、こういった存在と接することに慣れていない文次郎には、そんな器用な芸当は出来ないのだ。



「…何だ」

文次郎が短く問いかけると、平太が裾を掴む指に力を込めた。
反対の手で廊下の先を指差し、ぐいぐいと袖を引く。

この動作の意味は分かった。
何処か行きたいところがあるらしい。それも、文次郎と共に。



平太は、じっと指差した先を見つめている。

―これは何を問うても無駄か。


「分かった…。一緒に行くから、あまり引くな」

子供というものの行動は、文次郎には理解し難い。
溜息一つと共に、文次郎は平太の指差す先へと共に歩き出した。










平太が先導するように前を歩き、それに数歩遅れて文次郎が付いていく。
二人の間には繋がれる手もなく、掛けられる言葉もない。

普通であればその場に立ち尽くすことがやっとであり、動くこともままならない程の暗闇の中を、二人は歩いていく。
狐妖であり、普段から夜通し野を越え山を越え鍛錬に明け暮れる文次郎は夜目が効く。灯りなど無くとも前を行く平太の後を追う位は容易いし、周囲の様子も昼間と変わらずよく見える。

日が落ちてから、文次郎は妙な空気の変化を感じていた。
見えない蒸気のようなものが、肌に吸いつき、纏わりつくような感覚。
一つ息を吸い込むだけでも、やけに身体が重く感じられる。
そんな季節でもないだろうに。どんよりと湿った不快感を伴う重い空気は、梅雨の季節のそれを思い出させる。

すっかりと日の落ちた庭先に生温い風が吹き込む。それは、庭沿いの廊下を歩く二人にも吹きあたる。文次郎の額に垂れる黒髪が、風にさよさよと揺すられた。

しかし、緩やかに吹きぬけていくような風にあてられながらも、周囲に漂う息苦しい程に重厚な空気はそこに留まったまま、移り行く気配がない。


雲間から、僅かに星明りが覗く。
月の見えない今夜は、それが唯一の光源となって、庭先に並ぶ木々の葉の揺れる様子や、無言で歩く二人の輪郭を映し出す。

文次郎が、ふと前を歩く平太の影に視線を落とす。
持ち主の姿を真似るように動くそれは、ささやかな量の光源に対して、随分と深い闇色をしているような気がした。










平太の足が止まり、静かにその場に佇んだ。
文次郎が周囲を見渡せば、平太が案内してきたこの場所は、先程鞠と水風船を投げつけられたあの座敷の前だった。

ほぼ屋敷中の座敷を調べた文次郎たちは、まだこの座敷にだけは立ち入ってなかった。丁度入ろうとしたところにあんな悪戯をしかけられたものだから、頭にきてそのまま中を調べずに次に進んでしまったのだ。



平太が障子の向こう、座敷の中を指差す。


「ここに何かあるってのか?」

文次郎の問いに、平太が首を縦に振る。しかし、頷いた平太はその場から動かない。文次郎に先に入れということだろうか。





意図の読み取れない平太の行動に若干の煩わしさを感じながら、文次郎が平太の脇を抜け、座敷の中へと入る。




そこは、子供部屋のようだった。

勉強用らしい文机と燭台。そこに重ねて置かれた数冊の書物。畳の上には文次郎が投げつけられたものとよく似た鞠やお手玉、ガラス製のおはじき。棚や壁沿いに無造作に並べられた何体もの人形。他にも、室内で遊ぶ為の玩具が幾種も揃っている。
玩具の数も種類もそれなり揃った中の様子は、如何にも裕福な家の子供部屋という感じだが、雑に扱われたような様子はなく、どれも小奇麗にその形を保っている。

それらは無造作に部屋の片隅に寄せられ、長く使われた様子はない。

ここは店主の子供の部屋か。
母屋の中でこのような部屋は他に見当たらなかったし、あのくらいの年齢の店主にならば、子の一人や二人はいてもおかしくないだろう。
初めに聞いた店主の話では、怪異が本格的に酷くなってから店の者達に暇を出したと言っていた。恐らく、店主自身の妻や子も一緒に避難させたのだろう。その残りがこれという訳か。

がらんとして玩具だけが忘れ去られたように残る部屋は、他の部屋に比べてより一層侘しさを感じさせる。
しかし、それ以外にこれと言って気になる点もない。おかしなものも感じない。


ここに何があるのか。何を文次郎に見せたかったのか。

そう平太に問いなおそうと、文次郎が振り返る。










しかし、そこに平太の姿は無かった。

文次郎が開け放してきた障子の向こうには、誰の姿もない。
深い闇色に包まれる廊下と、庭の景色が見えるだけだ。

文次郎が訝しげに眉を寄せる。
座敷の中程まで進めていた足を、障子の方へと戻す。










そんな文次郎の頭上。
座敷の天井一面を、異様なほど大きく黒い影が覆っていた。



その影の中心がゆっくりと弛む。
重力に従って下方に滴を垂らすように。

弛んだ影の中から、何か白いものが覗く。
それは、血の気が無く、闇に映える程青白い、平太の肌であった。

水面から顔を突き出すように、鼻先から音もなく影を突き破り外に出た平太は、障子へ歩み寄る文次郎の背中を、虚ろに開いた目で追った。

蝋色の霞がかかったかのようなその瞳には精気がなかった。
まるで夢現を彷徨っているかのように、平太自身の意思も感じられない。

文次郎の背を追っていた瞳が、無防備に向けられたその首筋を捉える。
顔の全体を影から出した平太の小さな口が、呼吸をするよう僅かに開く。
そこからは、鋭く尖った獣の歯が覗いていた。


平太の身体が影から完全に抜け出る。
しかし、その身体は重力に反するように天井に広がる影に貼りついたまま、そこに留まる。

平太が四肢を折り、頭を伏せ、小さく身を屈める。
ぎちりと歯を噛み締め、目標を定める。
その姿は、獣が獲物を仕留める時のそれに似ていた。



そして、次の瞬間。
見えないバネに突き飛ばされるかのように影を蹴った平太は、真っ直ぐに、文次郎の首筋に向かって飛びかかった。















「何の真似だ」


文次郎の声が、冷たく響く。

鍛え上げられたその腕の先には、文次郎に向かって牙をむく、平太の細首が捉えられていた。






火薬で押し出された弾丸の如き速度で文次郎に飛びかかった平太の身体は、狙いとした首筋に届く遥か手前で何かに叩き落とされ、次の瞬間には、畳の上へと仰向けに押さえつけられていた。


「気付かれないとでも思ったか。この程度で」

文次郎は、奇襲を失敗しても尚その首を噛み千切ろうと向かってくる平太の頭を、首ごと片手で抑え、爪を付きたてようと振り上げられる細腕を二本まとめて捻りあげ、体勢を立て直そうと暴れる下半身を、右の膝を圧し掛からせることで抑え込む。

四肢全ての動きを封じこまれているというのに、それでも平太は暴れ続ける。
虚ろに開かれたままの瞳には未だ精気も意思も感じられない。
身体だけが、何か別の衝動に突き動かされ操られるかのように、只々文次郎だけを狙って無意味な抵抗を続けている。

心と体の支配権が、何処か遠いところにいってしまったような平太のその様子は見ているだけでも恐ろしく、そして胸の奥底から痛ましさが湧きあがってくる。


「もう一度聞く。そしてこれが最後だ」

しかし、そんな平太の様子を見下ろしながらも、文次郎の視線には一切の感情が籠らない。
殺意を持って自分に牙を向けてきた者を相手に、加える手心は持ち合わせていないのだ。




「お前は、何だ」

短く発せられた問い。


「この屋敷で何をしている」

「怪異の元凶は、やはりお前か」

「お前は、初めから俺を狙っていたな。何故だ」


続けて、幾つかの問いを重ねる。しかし、やはり平太は答えない。
届かないことにも気付いていないのか、文次郎の喉仏を食い千切ろうと何度も噛みあわせられる牙の生えたその口からは、ひぃひぃという息の漏れる音しか聞こえない。
もしもそれが音になっていたのだとしても、きっと獣のような唸り声しか聞こえはしないのだろう。



「…あいつは、どうした」

平太を押さえつける文次郎の手に、ぎりりと力が籠る。
淡々としていた声に僅かに怒りの色が混じり、見下ろすその視線には更に冷たさが増す。


「気配は感じられるから、死んではおらんようだが。何処かに閉じ込めでもしてきたか」

平太を抑え込む力は緩めず、屋敷内に気を飛ばす。屋敷全体に霞がかかっているな妙な気配が広がり、酷く探しにくい。
漸く見つけた食満の気は、平時よりも弱かった。単に意識を失っているだけか、何らかの異常を来しているのか。今の状態では判別することが出来なかった。


「さっきまでのあれは、全て演技か?あいつはお前を信用しきっていたからな。碌な抵抗もしなかったんだろう。その姿で油断を誘い、あいつを…留三郎を騙したのか?」

食満の名を出した瞬間。
僅かに、平太の抵抗が治まった。
虚ろに宙を彷徨っていた平太の視点が、一瞬だけ文次郎へと定まった。
獣のように歪み牙をむいていた平太の表情に、無邪気に笛を弄って遊んでいた時の影が戻ってくる。
ばらばらになっていた平太の心身が、その瞬間だけ重なったようだった。



「っ!?」

文次郎の頬を何かが掠める。
隙をついて拘束を解いた平太の手が薙ぎ払われ、その先に鋭く突き出た爪が文次郎の肌を裂いたのだ。

僅かな間心身の統率を取り戻したかのように見えた平太の様子は、再び狂ったように暴れまわる先程までに戻っていた。





「…いい加減にしろ」

裂けた肌の隙間から、文次郎の頬を鮮血が伝う。



「格の違いが分からんか」

逆光の中で、冷たく平太を見下ろす文次郎の瞳が銀色の光を発し、その光の中で瞳孔が細く鋭く形を変える。目下だけでなく、顔全体に朱色の文様のような隈取りがはっきりと浮かび上がる。

文次郎の背後に、真っ黒な四本の尾がふわりと広がった。
先程文次郎を狙い飛びかかった平太を空中でたたき落としたそれは、柔らかな毛皮に包まれているはずなのに、その毛一本一本が逆立つ針の形をした鱗で出来ているかのように、障子の隙間から覗く星明りを受けて、鋼のような光沢を放っていた。


文次郎が高めた妖力を解放すると、ずわりと空気が重くなる。
周囲の音が消え、痛いほどの耳鳴りが響く。

平太の四肢を封じていた手足を退け、文次郎が立ちあがる。
しかし平太は倒れ込んだまま起き上ろうとはせず、先程まで滅茶苦茶に暴れていた手足も、今は畳に吸いつくように押しつけられている。

みしりと、何かが軋むような音がする。
物理的な力で抑えつけられていた先程以上の強さで、平太の全身に文次郎の妖力が押しかかる。それは、生まれてそう間もない只の付喪神である平太にとっては、指先一つ分も抗うことの出来ない、桁違いの圧であった。








文次郎が、高めた妖力を元の位置に戻す。
万全の状態ではないのに無理に高め解放したせいか、軽い眩暈を起こすが踏みとどまり、畳の上に倒れ伏す平太の様子を見遣る。

平太の動きは、完全に止まっていた。
気を失うようにして、目を閉じ横になっている。
虚ろな瞳は力無く閉じられ、上下する胸の動きで辛うじて息があるのが分かる。

浅い呼吸を繰り返す口の中にも、文次郎の血のついた指先にも、先程まで生えていたはずの牙や爪はない。荒れ狂う先程までの姿が嘘であったかのように、只の弱り切った人の子の姿の平太がそこにいた。




「…平…太」

呆然としたように、平太を呼ぶ声。

振り返れば、障子の枠に寄りかかるようにして食満が立っていた。



文次郎が歩み寄る。
しかし、食満の視線は吸いつけられるように横たわる平太に向けられたまま動かない。
文次郎が食満へと手を伸ばす。その手を食満は叩き落とした。



「手前ぇ…、何…してやがる。何で…平太を」

文次郎の襟元を掴み上げ、食満が文次郎を睨みつける。その声は、文次郎への怒りに満ちていた。
文次郎が苛立たしげに舌打ちし、先程の食満と同じようにその手を振り払い、逆に食満の襟を掴んだ。


「お前こそ、何をしている。まだ分からんのか。こいつはお前と俺を襲ったんだぞ。その無様な様は何だ。誰がやったんだ?」

至近距離で見る食満の額には、細かい汗が浮かんでいた。
文次郎を睨みあげる瞳にも、掴みかかる腕にも力は殆ど入っていないようで、文次郎に襟元を掴みあげられながら支えられることで、辛うじて立っている状態だった。

恐らく、何かの術を掛けられているところを、無理矢理意識を保っているのだろう。
身体に相当な負担が掛っているだろうに、そんな無茶をしてまで、自分をそんな目に合わせた相手を探しに来て、挙句その相手の心配をする。
そんな食満の姿が、文次郎にとっては腹立たしくて堪らない。


「…違う、平太は」

何かを言い募ろうとした食満を、文次郎が掴んだ襟ごと突き放す。
力が入らず踏み止まれなかった食満は、障子に手を付き、何とか体勢を保った。





「仙蔵を呼ぶ」

そんな食満の姿から視線を逸らし、文次郎が言う。


「…なんでだ。何故ここで仙蔵が出てくる必要がある」

「こいつは、俺達が捜していたモノだ」

文次郎が、平太を視線で指す。


「恐らくこの屋敷の怪異の元凶もこいつだ。こいつさえいなくなれば怪異は収まる」

「いなくなればって…」

「…仙蔵が、始末する」

「んなこと…!」

「こいつだって、望まず操られ、周囲に害為すだけのモノになどなりたくないだろう」

「どういう意味だ…?」


食満には、文次郎の言っている意味が分からない。
文次郎が食満を見る。


「こいつは…」








 

キャハハッ


口を開きかけた文次郎の言葉を遮るように、笑い声が響いた。


甲高い、子供の笑い声に似たそれ。
突如響いたその声に、食満は座敷の中に、文次郎はすぐ傍に倒れ伏す平太へと素早く目を配る。

しかし、座敷の中には二人以外の動くものの姿は無く、畳の上に倒れたままの平太は先程からぴくりとも動いていない。




アハはひヒヒッくすくすきゃらきゃラあはハははははハははははははは



そうしている内に、部屋中から一斉に笑い声が溢れ出した。
高いものから低いもの、幼い子供のはしゃぎ回るような声から大人の男の含み笑い、老婆のようにしわがれた嘲笑の声まで。
ありとあらゆる笑い声が、座敷の中に響く。



「何だ…これ」

その声の持つ響きの気色悪さに、食満が思わず口元を押さえる。
足元がぐらりと歪むような感覚に襲われ、思わず膝を付く。

文次郎がそんな食満の前に立つ。腰を落とし、油断なく周囲を見渡す。


二人の視界の端で、何かが動いた。かたかたと小さな振動を始めたのは、座敷の隅に寄せて置かれていた玩具たちであった。
振動は一瞬の内に最大限にまで大きくなり、玩具達が誰に触られた訳でもないのに宙に飛びだす。


笑い声が、一層高まったその瞬間。
宙に浮いた玩具から、黒く禍禍しい渦が噴き出す。

渦は一か所に向かって集まると忽ちのうちに大きく膨れ上がり、渦を吐き出し続ける人形や鞠などの玩具を巻き込んだまま、何かの形をとった。



文次郎が驚きに目をむく。
それは、見慣れた獣の姿をしていた。

とがった耳を付けた獣の形をした淀んだ渦が、にたりと笑う。
笑ったように、見えた。
そして、また笑い声が高まる。

その獣の形をした渦の背後には、長く撓る尾が生えていた。
それは、文次郎の尾とよく似た形をしていた。

違うのは、その尾の数は全部で六本あるということだった。





『格ノちがイが分カランか?』



先程の文次郎の言葉を真似て、幼子のような仕草で小首を傾げた渦は、耳まで裂けたその口元を歪めて、二人に向けて笑った。









あとがき
相変わらず長いです。
書きながら、ちょっと悲しくなってしまいました。何でこんな展開になったんだろう、と…(あと、自分の表現力の限界の速さに)

早く皆幸せーにしてあげたいです。

皆さんにこの展開が受け入れて頂けるか不安ですが…苦情等は全て甘んじて受けますm(_ _;)m



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