文次郎は声の聞こえた方を探る。 「こっちだ、文次郎」 廊下の向こうから食満の声。そしてこちらに向かって手招きする、手だけが見えた。 文次郎が腰を上げ、食満の手招きする方へと向かう。 障子をあけ、声の聞こえた座敷の中に入ると。 日が傾き、うす暗く、影の多い座敷の中。そこに食満がいた。 そしてその影に隠れるようにして、もう一人も。 「大丈夫だ」 見下ろす文次郎の視線から逃げるように影から出て来ない子供に、食満が声を掛ける。 普段文次郎に向けられるものとはあまりに違う柔らかな食満の声色に、自分に掛けられた訳ではないのに、何故か文次郎の胸がむず痒くなる。 おずおずと、食満の腰辺りから小さな瞳が覗く。 食満の小袖をしっかりと握りしめ、食満の腰と腕の隙間から顔半分だけを出した子供が文次郎を見上げてくる。 一瞬だけ目が合うが、それはすぐに逸らされ、子供は再び食満の後ろへと隠れてしまう。 食満の着物を引く子供の指に、ぎゅうと小さな力が入るのが分かった。 「…何だ」 文次郎の声が、やや低めに響く。 子供がぴくりと肩を震わせるのが気配で分かったが、文次郎は敢えて気にしなかった。 「平太だ」 「は?」 「こいつの名前、平太って言うんだ。教えてもらった」 文次郎が聞いたのは、自分をわざわざ呼んだのは何の用か、ということであったのだが、問いの内容を勘違いしたらしい食満は、嬉しそうに子供の名前を告げた。 「ほら、お前も名乗れ。礼儀だろう」 食満が促す。 何故そんなことをしなければならないと、文次郎が目線で訴える。 文次郎のような妖は、軽々しく己の名を告げられない。相手の正体もこちらへの敵意もはっきりとしない状況ならば尚更だ。 しかし、口を噤む文次郎をぎろりと睨みつけてくる食満はそんなことはお構いなしらしい。 「…文次郎だ」 文次郎が名を名乗る。 如何にも渋々といった風の素っ気無いその言い方。 普段ならば、「何だ小さい子に対してその態度は!」と、即座に喧嘩腰へと切り替わる場面だが、何故かやたらと上機嫌な食満は気にする風でもない。 文次郎の気分が一気に不機嫌に傾く。 折角名乗ってやったというのに、食満の腰元に抱きつき、嫌々をするように頭を振る平太は聞いていたのかも怪しいし、食満はそんな平太に意識の大半を持っていかれている。 正直言って、気に食わない。 「…で、何の用だ」 喋るごとに文次郎の声が低くなっていく。 そうだそうだ、と思い出したように口にした食満は、自分の後ろに隠れようとする平太を文次郎の前へと押し出す。 「平太がな、お前に謝りたいんだと」 食満が平太の傍にしゃがみ込み目線を合わせる。 「さっきの悪戯のこと、謝るんだよな。な、平太」 食満に背を支えられ、笑顔で後押しされ。不安そうに俯いて文次郎の前に立っていた平太が顔を上げる。食満や文次郎の腰程までの高さから、小さな瞳が文次郎を見上げてくる。文次郎がそれを見返す。 悪戯とは、鞠と水風船を投げつけてきたことか。文次郎の頭の中に、あの時の苛立ちが蘇ってくる。大人しく謝罪してくるのなら許してやるかと、文次郎は子供からの言葉を待った。 しかし子供はふいと顔を逸らし振り返ると、すぐ傍にいた食満の首元へと抱きついてしまう。 「どうした、平太?」 食満が問うが、平太は再び首を振るばかりで何も喋ろうとしない。 文次郎の額に、びしりと一本、青筋が浮かんだ。 「…留三郎、ちょっと来い」 ごっこ遊びのようなそれに付き合っていられなくなった文次郎がその場を離れて、食満を呼ぶ。 自分から離れようとしない平太に何事かを話しかけ、何とか抱きついてくる腕を外した食満が文次郎の方へと近付いてくる。 その食満の後を追うように、子供の視線もついてくる。 文次郎の時には一瞬で逸らされたそれは、片時も食満から外れない。 食満が自分から離れていってしまうのが不安で堪らない、とありありと語るその視線。 僅かな間にこれとは、随分と懐かれたものだ。 一体どんな手を使ったのか、文次郎には想像出来ない。 「何か見つかったか?」 平太に話し声が届かない程度の距離をとって二人は向き合う。 食満が問いに、文次郎は首を振って答えた。 「お前こそどうなんだ。…あいつは何だ」 文次郎がちらりと平太の方に視線をやる。 今はこちらに意識を向けていない平太は、座敷の畳の上に座り込み、手に持った笛をいじっている。食満が持っていたものに良く似たそれが、初めて二人が出会った時に食満が平太に渡したものなのだろう。笛で暇つぶしの一人遊びに興じるその姿は、一見すればごく普通の人の子と然程変わらない。 「平太は、付喪神だ」 食満が答える。 「今のところこの屋敷の中で唯一の、な。まだ本体が何かは分からないが、それなりに古く、力もあるもののはずだ」 背丈や外見の様子からみて、平太は人であれば十歳程だろう。 立派な屋敷に住みついているからか。良家の子息にように短い髷を結い、身に纏うものもそれなりに質の良いものだ。 文次郎は、食満が可愛がって面倒を見ている、二人の小さな付喪神のことを思い出した。あの二人は見かけこそ平太と同じ幼い子供の姿をしているが、実際には生まれてから数十、数百と歳を重ねている。 付喪神というのは、生まれたばかりのころは、それぞれの本体の形を模したり、雑鬼や魑魅魍魎に近い姿をしている。人の手に渡り、人と密接に接していく長い年月の中で、少しずつ人の形に近付き変化していくのが通常らしい。 食満の話通りであれば、平太は生まれてから間もない筈。 それが、ここまで人としての形がはっきりとしているということは、元となる何かが人型であるか。それとも、この屋敷の家人の誰かを真似て自ら形作っているのかもしれない。 そんなことが出来るのならば、本体の方はそれなりの年月の経った古い物か、力を持つ物だろうということか。 「…だが、このままだと、平太は消える」 食満が、平太に聞こえないよう話す声を潜める。 文次郎と同じように平太へと向けられた視線は、痛みを感じているかのように僅かに顰められていた。 「そのようだな」 文次郎にも、一目見てすぐにそれは感じられた。 平太ははっきりとしているのはその姿形だけであり、発する気配は初めに感じた時と同じく、今にも消えてしまいそうな程弱々しく揺らいでいる。 人であっても、妖であっても、種類は違えど必ず感じられる生命力というものが、平太からは殆ど感じられない。 気弱そうな、大人しそうな造形の顔には血の気がなく、病に侵され床に伏せる病人のそれに近い。 食満程平太に情をうつしていない文次郎は、冷静にそれらを見て取ることが出来た。 「…お前、平太の本体を探して来てくれないか?」 僅かに口籠るような間をあけて、食満が文次郎へと頼む。 「このままだと、平太はゆっくり弱るだけだ。多分、長く本体に戻っていないんだと思う。一度本体に戻って休ませないと、今の状態で少しでも傷つきでもしたら、平太はすぐに消えちまうだろう」 「お前が探した方が早いんじゃないか?」 「俺は、平太を見てる。実は、遊んでやりながら探そうとしたんだが、やんわりと邪魔された。どうも俺には見つけられたくないらしい。でも、このまま消えさせる訳にはいかない」 食満の頼みに、文次郎は黙り込む。 正直、乗り気ではない。 文次郎は食満とは違う。 今にも消えそうな一人の妖のことをそこまで親身になっては考えない。 自ら正体も明かさない相手を、そう簡単に信用など出来ない。 もしもそいつが何かを企んでいるとしたら。食満は違うと言い切ったが、この屋敷で起っている怪異に関わりがあったら。子供の姿で、食満を騙しているのだとしたら。 ほいほいと手助けしてやるのは、文次郎にとっても、食満にとっても危険である可能性がある。 文次郎が断りの言葉を口にしようとした時。 笛の音が鳴った。 それは、食満の作った笛の音だった。 食満と文次郎が、揃って笛の音の鳴る方に顔を向ける。 そこには、暇を持て余したのか、先程まで手の中で弄っていた笛を口に銜え、懸命に息を吹き込む平太がいた。 「上手だな。練習したのか?」 食満が笑いかけると、平太は笛を銜えたまま、こくりと頷いた。 小さな肩で大きく息を吸い込み、平太がまた笛を吹く。 無意識に心惹きつけられるような不思議な鳥の歌声と共に、食満が見せたものと同じ、小さな色とりどりの小鳥たちが舞い上がる。 吹き込む息の量に合わせるかのように、食満の時よりも大分数の少ないそれらは、真っ直ぐに文次郎の方へと向かってくると、着物の襟に隠れる首飾りの中へと迷いなく飛び込んでいく。 鳥達が飛び込んだ文次郎の首飾りが淡く発光する。 文次郎の目元に、再び薄く朱色の隈取りが浮かび上がる。 文次郎の内から、取り込んだ鳥の分だけ妖力が湧いてくる。 相変わらず仕組みがよく分からん。 文次郎は淡い光を宿し、ゆっくりと妖力を回復し続ける己の首飾りを見降ろして、心中で考えた。 先程は、食満が笛を吹いたからあのような現象が起ったのだと思った。 しかし、文次郎をよく知りもしない平太が吹いても同じことが起った。 ちらりと、文次郎は平太を窺った。 一体どんな反応をしているものかと。 恐らく平太は、文次郎を食満と同じ人だと思い込んでいただろう。 しかし、今の現象と文次郎の顔にはっきりと浮かぶ隈取りは、文次郎が平太と同じ人外のものであるという証明になってしまった。 同じ存在であるのなら、本能的に自分と文次郎の間に、どれ程の力の差があるかを感じとるはずだ。 先程以上の速さで避けられるか、若しくは畏怖の表情を浮かべて怯えられるか。 どちらにせよ、面倒そうな予感しかしない。 しかし、予想外なことに。 平太は別段変った様子もなく、文次郎を見返してきた。 気弱そうに見えた青白い顔はそのままだが、少し垂れがちな大きな瞳が不思議そうにぱちぱちと瞬きを繰り返して、文次郎を、その首飾りを見つめている。 文次郎がじっと視線を送っても、今度は逸らされることもなく、隠れられることもない。 よく理解していないのか、鈍いだけなのか。 あまりにも変わりがなく、ごく普通の子供と同じような表情に、文次郎は一気に毒気を抜かれる。 「…探してきてやる」 文次郎が食満へ伝える。 こんな弱り切った小さな妖一人を、無駄に警戒するのも馬鹿らしい。 それに、もしも何か企みがあるのだとしても、それが自分達に影響を及ぼす前に処理してしまえばいいのだ。 多少手を貸すぐらい、なんともないだろう。 「借りは返さんと、気分が悪いんでな」 発光のおさまった首飾りを指して、文次郎はそのまま座敷を出て行った。 平太の本体を探しに文次郎が座敷を出て。 食満と平太も、並んで別の部屋へと移動していた。 二人の手はしっかりと繋がれ、平太が食満を先導するように僅かに前を歩く。 文次郎を見送った後、食満は平太へと向き直り、次は何をして遊びたいかと尋ねた。 すると、平太は食満の手を取り不意に立ち上がった。 何処か行きたいところでもあるのかと問いかけた食満に対して、平太はこくりと頷き、急かすようにくいと腕を引いた。 「なあ、平太」 平太に合わせて歩幅を狭め、ゆっくりと小さな背を追いかける食満が声を掛ける。 「どうしてさっき、謝らなかったんだ?」 先程文次郎を呼びつけたのはその為だったのに。 そう訊ねても、何処かに向かって歩き続ける平太は反応を返さなかった。 「あいつな…見た目は怖いかもしれんが、中身はそれ程じゃないんだ。お前みたいな子供と接するのが慣れてないだけで、態度も目つきも悪いが、ちゃんと謝ればすぐに許してくれる。お前も、仲良くなれると思うぞ」 前を向いたままの平太が、ふるふると首を振って答えた。 「嫌か?でも、悪戯したら、ちゃんと謝らなきゃダメだぞ。あいつは頑丈だから別にいいが、他の人には鞠なんて投げると危ないからな」 再び平太が首を振る。 先程と同じ返事だが、何か違う気がする。 謝るのを嫌がっているというよりは、何かを否定したがっているような、そんな風に見える。 何か、平太の気持ちを汲み取り違いでもしているだろうか。 食満がそう考えた時。 ざわりと、何かが動くような音が聞こえた。 食満は、歩きながら外に顔を向ける。 日の殆ど落ちかけた庭先は薄暗い。平太が嫌うので灯りの類いは付けていないが、それそろ灯り無しでは動き回りにくい刻限になってきている。 さわさわと生温い風が吹いてきて、食満の髪と、庭に植えられた木々の葉が揺れる。 この音だったかな。 食満が先程の音を風の音だと判断した時に、カツンと、何かが床に落ちた。 食満の足もとまで転がってきたそれは、平太の笛だった。 いつの間にか足を止めた平太の手から、笛がこぼれ落ちたようだ。 しかし、平太にはそれを拾おうとする素振りがない。 立ちつくしたまま俯く平太は、そこから動こうとしない。 「平太?」 食満が声をかける。 繋がれたのとは逆の手で肩を叩く。 ぴくりと揺れた平太は、食満の方を振り返る。 「落としたぞ」 その手に、拾った笛を返してやる。 落としたことに気付いていなかったのか、手の中の笛をじっと見降ろし、それから大事そうに握り込んだ平太は、食満の顔を覗きこんできた。 どうかしたのか? そう声を掛ける前に、平太が繋いだ手を強い力で引っ張ってきた。 二人の体格差から痛い程の力ではなかったが、何かを急ぐかのような性急さでぐいぐいと手を引かれる。 何度声をかけても、平太はただ食満の手を引いて前に進むだけだった。 意図を汲み取りかねて、食満は平太のやりたいように身を任せることにする。 そのまま、平太は食満をある座敷の中へと連れていった。 部屋の中央まで連れて行き、そこに食満を座らせようとする。 食満は素直にそれに従った。 「どうした?」 畳に腰を下ろす食満を、平太は立ったまま見下ろす。 何処か様子のおかしい平太を見上げ、食満が尋ねる。 平太が手を伸ばし、食満に身を寄せてきた。 食満の頭を抱え込むように両手で抱きつく。 平太の身体で視界を塞がれてしまった食満は、平太の背中に手を回し、そこを撫でてやった。 「大丈夫だぞ。何も、怖くないぞ」 平太の身体は、僅かに震えていた。 宥めるように、食満が背を撫で声を掛ける。 締め切った座敷の障子に、庭から抜きこむ風が当たってカタカタと音を立てる。 いきなり、平太が食満を強い力で突き飛ばした。 不意を突かれて、食満の上体が後ろに傾く。 「平…!?」 平太の名を呼ぼうとした食満の視界いっぱいに 平太ごと食満を呑みこもうとする、真っ黒な影が広がった。 [back/title/next] |