青い幻燈
この学校の生物部は廃部され、のこったのは水が入った綺麗な水槽だけで、その広すぎる水槽の中にはグッピーという魚が10匹ほど悠々自適に泳いでいる。魚が泳ぐたびにキラキラと揺れる水面と魚の尾鰭が綺麗だ。こいつらの世話はぼくがしている。
生物の先生に、頼まれたぼく(別にぼくは生物部でもなんでもないのだけれど)は仕方なくグッピーの世話のすることをなった。世話をしたら生物の単位をやるなんて言われたらやらないわけにはいかないさ。サボりまくってた、なんて青春を爆発させてた時代がぼくにもあったもので。
それに、魚は嫌いというわけでもなかったから。小さな頃に飼っていた金魚が大好きだったから、魚を見るのはすきなほうだった。水族館はぼくにとって幸せをもたらしてくれるもので、この生物室の小さなアクアリウムもまたぼくに小さな安らぎを与えてくれていた。もし、ぼくがこの子達を見捨ててしまえば、この子達は生きていけるかわからないのならちゃんと飼ったことはないけれど世話をしてやりたいと思うから。
そしてぼくは今日もまた、水を綺麗にしたり餌をやったり、本を見ながら手探り状態でグッピーの世話をしている。
「餌やるの?」
水槽の横から声が聞こえた。斜め上からみると、水槽のかげから黒髪がすこしのぞいている。ああ、今日もいたのかなんて愚問だとはおもう。だけれど、いつも通りのやり取りをするためにぼくは彼女に声をかけた。
「そうだけど、やりたいの?」
「ううん、別にやりたくない」
いつも通りの受け答えにちょっとホッとして、グッピーの餌の蓋を閉めた。ぼくと会話をする間すら身動き一つしない彼女は、興味深げに水槽を覗いている。グッピー以外に何が見えるというわけでもなさそうだから、彼女はグッピーを見ているのだと思いたい。ただ、いつも彼女はグッピーの動きを見ているわけではなさそうなのだけれど。
彼女はぼくがグッピーに餌をやりはじめたころからずっと水槽の横にいた。もしかしたら、ずっと前からいたのかもしれない。足があるから幽霊ではない。だけど、彼女は幽霊のようなものだ。
多分、彼女は保健室登校の子だ。
何回か保健室にサボりに行った時に後姿だけは見たことがあるような気がする。ただ、確かに放課後だけはいなかった気がしてここに来ていたのかなと今なら推測ができる。
白い手足に、長い黒髪。水槽越しに彼女を見てみれば彼女は笑うこともしない。
「何を見ているの」
「グッピー以外に何があるの」
彼女は笑った。それは、初めて見る笑顔。グッピー以上にぼくが癒されたということは、彼女にはいうことはなかったけれど。
ある時、授業前の移動の時間に彼女をみた。笑っていた。
生物の教師と笑いあっている彼女。ぼくが話しかけても、笑ったのは結局あの一度だけだったのに、彼女はぼくが見たこともない満面の笑みで笑っていた。彼女と先生は本当に幸せそうで、もしかしたらだなんてはためから思ってしまうほど。
だけれど、なぜ笑っているのか、ぼくにはわからなかった。
「あいつ。何で授業でてねえのに笑ってるんだよ。俺らが無駄なことやってるみたいで腹立つ」
一緒に移動していたクラスメイトが唾を吐いた。彼女には聞こえていないだろう声で。
「知らないよ、行こう」
自分でも冷え冷えとした声でぼくは吐き捨て、彼の腕をつかんで走った。
その日の放課後、生物室には彼女の姿はなかった。
冬の夕暮れは早い。無機質な床の上でゆらゆらとゆれるカーテンと自分の影に思わず苦笑いする。ああ、彼女が今ここに居てもどうしようもなかったのかもしれない。
ぼくは緑色の古びた丸い椅子に腰掛けて水槽を眺める。緑色や赤色の水草の森がたゆたう中、今日もグッピーは悠然と泳いで居た。ぼくの気持ちなんて考えもしてくれずに、世界はぼくを置いてけぼりにするのだ。……彼女みたいに。
「何で笑ったの……なんて、そんなの聞けるはずもないよな。だって、聞いたら」
笑った理由がわかったら、今度こそ立ち直れなくなるかもしれない。彼女はきっとぼくの気持ちになんて気づいていないのだから。残念なことに、彼女とぼくの接点は極めて薄い。何故この気持ちを僕が持ったのかはわからない。水槽越しのゆらゆらとゆれるまんまるな目が宝石みたいに見えたから、なんて子供みたいな一目惚れは信じたくない。
プチリ
小さな嫌なおとがした。気づけばぼくは立ち上がっていて、グッピーを一匹、ピンセットで捻り潰していた。滴る血が水槽に。他のグッピーは餌と勘違いしたのか、水と違う色の液体に少しずつ寄ってきた。
怖くなってピンセットから手を離せば、ピンセットとグッピーは水槽の中に落ち、他のグッピーはそれに群がった。その恐ろしい光景に目を背けて、ぼくは生物室から逃げ出した。
「倉木が死んだ」
そんな話をきいたのはぼくが生物室に行かなくなってから10日もたたない頃だった。
「お前、何か心当たりないか? 生物室の常連だっただろう、倉木は」
「……いえ、それほど仲は良くなかったものですから」
朝、学校に行くと担任に呼び出された。呼ばれた場所に行けば警察と担任の質問ぜめにあった。彼女、倉木が死んだ、そのことについてのお話。
「倉木は死んだんですか」
噛みしめるように、言葉を紡いだ。結局ぼくが倉木を見たのはあの、笑顔が最後だったのだけれど。
「ああ、しかも他殺だ。だれがやったのかはわからないし」
「どうしてころされたんですか? 倉木はそんな殺されるような人間に見えないのに」
「知らないよ。だからお前に聞いてるんだよ」
「そんなのぼくが知ってるわけないじゃないですか」
いらっとして反論してみれば、人が一人死んでるんだぞ、なんて詰られた。
数分取り調べされてから、久しぶりに生物室に顔をだした。大型の水槽の中にはゆらゆらと水草が揺れている。
その前に、倉木の姿は当然ながらない。
「お、久しぶりだなー蟹江」
「先生」
生物の教師は今日もだらけた白衣で、後ろに何かを引きずりながら生物室に入ってきた。
「それ、どうしたんですか」
「倉木が飼ってたカミツキガメ。家じゃあ世話できんだろうし、せめてここで飼ってやろうと思ってなぁ。ほれ、グッピーも全滅してしまったし」
よくみてみれば、グッピーは全部いなくなっていた。当たり前か、だって世話をする人がいなかったのだから。
「先生、ぼくにカミツキガメの世話をさせて下さい」
「ん? いいのか」
「はい。倉木が育てていたのなら、ぼくが育てたいんです」
「……そうかわかった。明日、また飼い方の本を持ってきてやるからよろしくな」
笑顔の先生にうなずいて、ぼくは鱗のついたピンセットをポケットにこっそりとしまった。
彼女を殺したのはだれ?
「アクアマリン」、手帖さまへ提出
遅れてすいませんでした…
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