金魚姉弟

母は、北原白秋が好きだった。






「白秋のさ、金魚って、知ってる?」

文芸部の部室。本など何もなく、ただ、ほぼ物置のようになっている場所。埃とカビ臭い匂いが充満して、けっしていい環境とはいえない。寧ろ悪場所。だけれど、僕はそんな環境をまあまあ気に入っている。彼女の存在すらなければ。
僕を見つめる、少し赤く髪を染めた派手な少女と、本を読む黒縁メガネでダサい僕。
共通点はそう、ふたりとも「白秋」に少し関連する名前の持ち主だということか。

「朱夏」と「玄冬」

授業で習った時に何故この名前になったのか納得ができた。白秋に関係があるから。玄冬なんて自分の名前、古めかしすぎて僕はあまり好きではない。
文学少女でもないのに、ここにいる彼女ーー朱夏は名前の通りの色の派手な髪を耳にかけて、眉をしかめ不満げな顔をしてこっちを向いた。

「ねえ? ひとのはなしを聞いてくれないの? 」

「僕には、朱夏さんの話を聞くよりも大切なことがあるので」

感情のこもっていない返しをすれば、朱夏は無表情で、酷いね。ゲンくんは。だなんてつぶやく。どうせこんな反応をされることくらいわかっていたのだから、やめておけば良かったのに。

ゲンくんとは僕のことに他ならない。少しうるさい彼女は、多分黙らせることなどできやしないので僕はとりあえず無視した。いや、無視しかできないのだ。僕には、彼女を拒絶することなどできない。無視以外で、彼女を遮断する方法なんて思いつかない。

僕は白秋も朱夏も……好きじゃない。

ただ、一人だけの文芸部の部室に、本来は帰宅部であるはずの彼女がいること自体煩わしかった。できるだけ早く出て行ってくれればいい。……僕は君のことが嫌いなのだから、絶対に。

朱夏は僕の異父姉に当たる。僕は、朱夏の母の、浮気によってできた子供だった。

朱夏の家庭は僕ができたことで壊れた。僕は、朱夏の母の顔を知らない。朱夏もだ。

朱夏の母は、僕を産んだ後、すぐに死んだ。
僕が、彼女を殺したのだ。元来体が弱かった彼女は、子供を一人産んだだけでも奇跡だったのに、二人も産んでしまったから。僕が生まれたから、彼女はしんだ。朱夏の父も、僕の父も、朱夏の母を愛していたから。当然僕を恨んでいる。
今では父さんは、普段は気丈に一人で僕を育ててくれているけれど、それでもたまに、仏間すらない小さな家で、母の面影を僕に見ているのを知っていた。勝手だ、とは思わない。
ただ、お前なんか生まれてこなければ良かったとも言われない。母の面影が少しでもある僕に、父はそんな言葉を吐くことは出来ない。僕と父との間のこの妙な空洞はどちらかが死んでも横たわり続けるだろう。
姉にあたる朱夏とは、僕は出来れば会いたくはなかった。当然だろう、彼女から、母親を奪ったのは僕なのだから。そして、僕の父は彼女の母の浮気相手なのだ。「自分の母親」の本当の子供になんて会いたくないに決まっている。
目立たないように地の底で息を殺して生きてきた。父も、朱夏の父も朱夏の母との思い出が眠るこの地から離れられないらしく、僕は自然と朱夏と同じ学校になっていた。だから、僕は彼女に会わないように心がけていたのだ。
なのに、ついに見つかってしまったのだ。ついこの前、この部室で待ち伏せていた朱夏に。
最悪の気分だった。だって、そう、朱夏は多分彼女の母によく似ていた。
彼女の母の写真は家にはなかったけれど、昔どこかで一度だけ見たことがあった。艶のある髪に何かを拒むようなきつい眉。大きな目。少しだけ高めの鼻。写真の中の、朱夏の母とそっくりな彼女は、劣化コピーの僕とは違い、完璧なコピーなのだなと感じた。
だから彼女のことが僕は嫌いなのだ。こんなところに、逃げ込んでもおって来て、母親の姿を僕に見せつけて存在だけで責めてくる彼女が。

ぼんやりと空を見上げる。夕陽はもう地平線に落ちかけている。部室に差し込む光も橙から赤へと変化している。読んでいた本に栞を挟んで閉じると、無表情に手遊びをしている朱夏に声をかけた。

「朱夏さん、はやくかえったほうがいいですよ。お父さんが心配します」

「あの人の事なんて別にいいのよ。私は、ゲンくんといる方がたのしい」

僕の気持ちなど素知らぬ顔で朱夏はぼくの持っていた本を取り上げた。彼女は斜陽だなんて若いのに暗いわよと、笑って机に本を置いた。僕はすぐにそれを取り返す。

「僕は朱夏さんのことが嫌いです」

本を本棚に片付け、部室を少し掃除しながらはっきりとそう答えると、朱夏はため息をついた。

「でも、私はゲンくんのことが好きだよ……。はじめて見たときから。一目惚れだったんだから」

真剣そうな声で、目を笑わせずに朱夏は笑う。

(嘘に決まっている。そうやって彼女は僕を惑わせるのだ。彼女の母を殺した僕を。)

僕からの反応がないことに目を細めて彼女は笑った。金魚の歌をしっているか、と呟く。知らない、なんて僕が答えないうちに彼女は口ずさみはじめた。……この歌を僕が知らない訳がないのに、はじめてきく人に語りかけるように、満面の笑みで。

「母さん、母さん、どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。
母さん、歸らぬ、さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。
まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
金魚をニ匹締め殺す。
なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
金魚を三匹捻ぢ殺す。
涙がこぼれる、日は暮れる。
紅い金魚も死ぬ死ぬ。
母さん怖いよ、眼が光る。
ピカピカ、金魚の眼が光る。」

彼女が唄ったのは白秋の詩。僕にとっては意味のない詩。そして彼女にとっても。

「白秋のね、この歌が一番私は好きだな」

彼女のいいたいことは理解している、だけどそんなことばは聞きたくなかった。母そっくりのその口からは。

「……嘘だ」

「だってね、ほら。母さんがこなくて、なにかを苛めたい気持ちはさ、私、よくわかるから」

「朱夏さん」

もうやめてくれと僕は喚く、そんな反応を見せるたびに彼女は魅惑的な顔をした。

「ゲンくんのこと、私大好きだよ……。殺したいくらいに」

目を細めて彼女は笑う、眼鏡の奥で僕は目を伏せる。
僕の初恋は朱夏だ。入学式の時、朱夏の正体を知らないままに美しい人だと思ったことが今思えば間違いだった。
朱夏の初恋は僕。この事実を聞かされたのは今から少し前、だけれどそれ以前から僕に話しかける彼女の目は笑っていなかった。……僕をみてはいなかった。
これは互いに母の遺伝子を求めあっているだけの無駄な行為なんてわかっている。

青春なんて言葉、この恋には、似合わない。だって、僕らの間には青春なんて言葉は入っていないのだから……それで、丸く収まるものじゃないことはお互い理解している。

痛い頬、眼鏡の落ちる音、キスは血の味がした。

母に似た強気な彼女の瞳。白秋を口ずさむ、その唇。

僕の恋と視界は、それだけに囚われていた。








魚の耳様に提出。お題「カラフル」
遺伝子的恋愛の話。




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