泣くような奴じゃなかった。俺はあいつの泣いてるところなんて、見たこともなかった。
真選組頓所の屋根の上で、縮まっていくのはあいつと俺たちとの間にある距離。気付いて、いなかったわけじゃねえ。あいつが攘夷志士の鼠であることには、俺たちはもう随分前から気付いていた。そしてその上で俺たちはあえてあいつ泳がせていた。俺たちには、確実にアイツを取り押さえられる明らかな証拠が要った。真選組唯一の女隊員であった、他隊員たちからの人望の厚いあいつを捕まえるための理由が、俺たちには要った。
なんて、そんなのはきっと俺たちの作った建て前に過ぎなくて、本当は多分、俺たちは、あいつが自ら攘夷志士との関わりを絶つことを待っていたのかもしれない。甘い、話だ。今から考えてみれば少し甘過ぎたんだ。だけど近藤さんはそれほどに、あいつのことをまるで娘のように大切にしていた。
(だけど、こいつは、それに応えなかった)
「ゴリラが父親とか、冗談でも止めてください。土方さん」
「てめえ……今の状況、わかっててそれ言ってんのか」
「だってゴリラが親ってのはちょっと…ねえ…」
「え、この状況で俺はゴリラ扱いなわけ!?おかしくない!?トシおかしくない!?」
「近藤さんは黙っててくれ。てめぇ、フザケんなよ。」
「フザケて、ないですよ。今から私、土方サンに殺されるんですよね?」
いつもと変わらないあいつの口調。平然とした笑顔。それがまるで、今この時が平和な日常のように錯覚させる。だが最後にアイツの口から結ばれた、殺されるという殺伐とした一言に、俺たちは一気に現実へと引き戻された。あいつは変わらず笑っていた。何が楽しいのかわからないくらいにあいつは笑い続けるから、俺たちは何度となくその笑顔に毒気を抜かれかけた。だが、それでもあいつを殺さなくてはいけないという現実は変わらない。
「私、売られたんですよね」
「答える義理はねぇ」
「土方サンのケチ。冥土の土産に教えてくれてもいいじゃないですか。何で死ぬのか、それくらい」
「…うるせぇ。これから死ぬ奴が、んなこと知っても仕方ねぇだろ」
「…三田、でしょう?三田が、私のことをチクったんです」
三田が自分を売った。何の憎しみも込められていない言葉であいつはあっけらかんとの言った。その言葉には、寸分の誤りもなかった。三田という男はアイツと同じ攘夷志士の鼠だった男だ。だが三田は、あいつを幕府に売ることによって上手く幕府の側へと転がり込んだ。それをこいつは知ってたのか。三田に売られたこと、まるでいつか自分が三田に売られることを知っていたかのように、あいつは何気ない言葉で言う。それが嫌に、気色悪くてたまらねえ。
「…裏切りものには、死だ」
「それは、オカシいですね。私は初めから敵です」
「鼠にも死に決まってんだろが」
「あはは、やっぱり私、死ぬんですね」
「たりめーだ」
「…そう、ですよね。だけどやっぱり、死にたくなかったな。死ぬの、怖いですし」
何が怖いだ。ちっとも怖そうな顔もしないで呟かれた言葉に、口では言い表せられねぇような不思議な感情が湧き上がる。悲しい、苦しい、ツラい。違う、似てるこどそのどれとも違う感情。…可笑しい。ただ鼠を一匹殺すために、俺は何で躊躇している?あと、たった一歩だ。あとたった一歩踏み込めば、刀を振って終わりなのに、俺はその一歩が踏み込めない。近藤さんをチラと見る。近藤さんの表情も、複雑そうだった。アイツ曰くの近藤さんは知能指数の低いゴリラなのに、だ。近藤さんも悩みに悩んでいる。
「近藤サン……土方、サン」
「……何だ」
「三田が私を売った理由、知ってますか?」
「んなこと、アイツが攘夷志士を見限っただけだろ」
「確かに…そう、かもしれません。だけど私は多分、三田は私が怖かったんだと思うんです」
あいつは言った。真選組にいるうちに、温かい真選組の雰囲気が好きになっていく自分がいたのだと。真選組の情報を、あまり攘夷志士に流さなくなってきていた自分がいたのだと。三田はきっと怖かったのだろう。いつか自分が、三田を裏切って真選組に三田を売るではないかと、三田はきっと、怖かったのだ。そこまで話してから、あいつの顔は初めて歪む。三田を、ユダにしてしまったのは私なんです。あいつは言った。仲間に不安な思いをさせた自分は最低だと、あいつは言った。俺は何故かそれが無性にムカついた。三田に申し訳なさそうにするアイツの表情は、本当に悲しげで、三田がアイツにこんな顔をさせられるのが不謹慎にも羨ましいと思った。それでも、あいつはまた笑う。
「近藤サン、今までお世話になりました」
近藤さんは泣いていた。怖いと言いつつアイツは平然と死を受け入れている顔をしていた。受け入れてないのは、もしかしたら俺たちの方だったのかもしれねぇ。その証拠に、俺たちはまだ一歩を踏み込めていない。
「土方サン」
「………何、」
近藤さんに続いて俺の名前を呼んだアイツは、俺が返事をするよりも早く落ちた。屋根の上から。まるでスローモーションのように、あいつが落ちていく。あいつを殺すはずだった手が思わずあいつに向かって伸びていた。俺と近藤さんは、そのまますぐに落ちていくアイツの手をどうしてか掴もうと追いかけていた。だが時は無情にも、途端に時間の流れを早くする。俺たちはアイツの腕を掴めなかった。その代わりに落ちていくアイツの笑顔が、よく見える。
「サ ヨ ナ ラ」
アイツの言葉が俺の耳まで届いたのは、それからまた少し時間が過ぎた後のことだった。最後のアイツの笑顔には、初めて見た涙が浮かんでいた。その理由は多分、アイツにしかわからない。俺は泣かなかった。だけどただ少し、どこか現実味のない頭のどこかで、もっと違う時代で違う形で出会えていれば俺たちは今も笑いあっていたのだろうかと、考えている自分がいた。
ユダが裏切った
(陶酔少女より再録)