沈んでいくのが太陽であるのかさえ、わからなかった。そこは海の匂いがする、海岸沿いにある小さなアパートの一室。私は締め切ったカーテンの裾を引っ張った。ふいに生まれたカーテンの隙間から差し込む光に思わず目を背ける。だけど握りしめた手を離すことはなかった。
今、何時だろう。一瞬、部屋に射したオレンジは外界に夕暮れを訪れたことを示していた。あと何分かな。そう思って、ぎゅっと手に力を込めたそのとき、そいつは来た。
「入りやすぜ」
コン、コン。乾いた音が二度響いてから、彼はいつものように右手にコンビニ袋をさげて私の部屋に入ってくる。
「そーご?」
「そうでさァ」
「おはよう」
「もうこんばんはの時間でィ」
つーか電気くらいつけろィ。そう言ってそーごが部屋の明かりをつける。パチン。部屋の真ん中に太陽が浮かぶ。眩しい。
「そーご、眩しいよ」
「目が悪くなりやすぜ」
「太陽はね、私の目を焼こうとするのよ。どうしてそーごは外が大丈夫なの」
「さーねィ」
「ねえそーご」
私もね、外に行ってみたいのよ。こぼれ落ちた言葉にそーごは何も答えなかった。不思議ね。こんなにも外に恋い焦がれているのに、私には太陽の光が痛かった。…ううん。太陽の光だけじゃない。部屋に浮かぶ、人間が作り出した疑似太陽でさえ私の身体にはあわない。理由はわからない。ただ昔からこうだったわけではないらしい。らしいというのは、私に昔の記憶はないからだ。
「太陽も光も大嫌い」
カーテンから手を離し、だらりと私は地面を見つける。そーごが買ってきたものを机に並べる音がした。私はその音を、振り向くことなく聞いていた。
◇ ◇ ◇
彼女は向日葵のような笑顔を浮かべる女の子だった。彼女は俺と、土方さんの幼なじみで俺の初恋の相手だった。
「………待ちなせェ」
ある日の夕方、忽然と彼女は実家から姿を消した。彼女の両親や俺、そして土方さんたちは一晩中彼女を探し回り、そして、息をきらせてチャリを乗り回していた俺がやっとの思いで彼女を見つけたのは、隣町の海岸だった。
砂浜を裸足で行く彼女の後ろ姿は、掴んだら風に浚われて消えてしまいそうで、壊れものに触れるように俺は彼女の名を呼んだ。その声に彼女は、ゆっくりと振り返る。同時に水平線の彼方から、太陽が昇るのが見えた。
「どこ行くんでィ」
「…総悟には、何でもお見通しみたいだね」
「俺は、どこに行くんだって聞いてるんでさァ」
「知ってるくせに」
「わからねえから聞いてるんでィ」
俺がそう言うと彼女は困ったように小さく笑って、それから口を閉じた。パシャリ、パシャリ。彼女が彼方へと歩いていく。パシャパシャパシャ。俺はそれを急いで追いかけた。行かせたらダメだと思った。行かせたら最後、彼女はきっと帰って来ない。
「ついて来ちゃダメ」
「…じゃあ、行くな」
「嫌だよ」
「何ででさァ」
「私、トシに失恋したの」
彼女は唐突に言った。その顔に悲しみはなくて、多分、俺の顔にも驚きも失望もなかったと思う。わかってたことだった。それがただ昨日今日に起きたというだけのこと。告白の結果も、多分、俺も彼女もわかっていたことだった。気に食わねえことに姉上と土方さんは思い合っている。それは俺たちから見ていても、明らかにわかるほどだった。だけどわからないのは彼女の行動。
「それが何でィ。何でそれがそんな行動に繋がるんでィ」
「んー…わかんない」
「わかんないって何でィ」
「だって、わかんないものはわかんないんだもん。けど、何かもう全部がイヤになって」
気がついたらここにいたの。突然ここで、沈む太陽と昇る太陽が見たくなってそれで。彼女は不自然にそこで言葉をきる。
「死のうと、思ったの」
それはまるで赤子のような短絡的な自己完結だった。土方さんにフられた彼女を狙おうだなんて、姑息な手を考えていた俺には想像もつかなかった終わり。
「バイバイ、総悟」
「好きなんでさァ!!」
彼女の言葉が言い終わったかどうかもわからないときに、気がつけば俺は、柄にもなくそう叫んでいた。彼女を引き留める言葉が他には浮かばなかった。彼女は俺の言葉に少しだけ目を見開いて、それからまるで初めからわかっていたかのような笑みを浮かべ、そして。
「ごめんね」
海に沈んだ。
◇ ◇ ◇
深い深い海に沈んでいく。私は暗い闇に落ちていく。私の名前を呼ぶ声が聞こえた。声の主が私の手を掴み、この命を引き留めようとする。やめて。やめて。これ以上もう私は光は見たくないの。太陽が昇り暖かく私を包み込もうとするのが苦しい。外には見たくないものがたくさんあるのよ。
「…………っ…。」
口内に水が広がる。鼻の奥まで入る海水が痛い。痛い。何が痛いというのか。この痛みは一体。
トシ。
ミツバさん。
二人の関係。
決して叶わない恋。
無垢な二人。
受け止められない総悟の純粋な恋心。
私は意識を失った。そして同時に幾千の記憶が無惨していく。手放したのは、情けない私という名の全て。それでも彼は私を見放したりはしなかった。願わくば、次に生まれ変わるときは彼を愛せる私であるように。
太陽も光も大嫌い
羨ましいほどに輝くそれは触れることも出来なくて、それならいっそ、小さな檻に閉じ込められて生きながら死んだ方がずっとマシだと思った。それから、こんなにも汚い私を一途に愛してくれる彼の隣りにずっと居られる自分であればどんなに良かったかと、ズルい私はそればかりを思っていた。それでも私は、彼だけは好きにはなれなかったのだ。
「そーご」
「…なんでさァ」
「ごめんね」
私の言葉に彼は泣いた。思い出すものがあるのだと、言った。その言葉に、私も泣いた。謝罪の理由はなんだっただろう。思い出せない思いがもどかしかった。
好きになれなくて、ごめんね。
(退場より再録)