17

―――1……2……

30数えれば水から上がっている。
ピアーズはそう言った。

名前は無心で数を数える。

『………』

だが澄ました顔を装っても、緊張、痛み、恐怖に侵された肺は普段の7割も膨らんではくれなかった。

名前の体感時間15秒程経った頃だろうか、ピアーズの背に寄せる顔が歪み始める。
彼女はこれまでにない恐怖を感じた。酸素がほしいと、水を吸い込みたがる口を必死にすぼめる。

いくつ数えたかもわからなくなってしまった。

そろそろ…いやまだ、ピアーズに浮上する気配はない。


『(―――…?)』

名前はふと、肩を引かれた気がした。そしてうっすら目を開ける。

―――コポッ…

淡い光に照らされた青白い潰れた顔。目が語る。水を吸いすぎた皮膚はふやけて膨れて面影を消してしまっていた。


『―――ッ!?!?』

死体に驚いた名前の口から籠った悲鳴と、大きな酸素の塊が消えていく、と同時に、彼女は思わずピアーズにしがみついてた手を離してしまった。

そこは死の洞窟。全てが明確に捉えられる。見渡せばあちらこちらに無惨な亡骸が漂っている。


――――もう限界ッ…!!

陸は見えない。
名前は自分の喉に掻きむしるように爪を立て、最後の希望を口から吐ききった。


『―――――――』

肺を満たすのは冷たい水ではなくて、あるはずのない温かい少し濃度の薄い酸素。

吸いきれない空気が泡となって漏れる。添えるように頬を包むのは大きな両手。柔らかい唇。
静かに勢いよく吹き込まれる息は長く十分な酸素を供給した。

水中でも力強い眼差しは長い睫毛に隠れながらも、人魚のように人を魅了して止まない。


そして体は急浮上、気付いた時には名前の顔は水面から出ていた。遅れた時が追い付くように、彼女は慌ただしく呼吸を再開する。
なるほど、本来ならこの梯子を登って上がる場所が浸水してしまっていたのか。
ピアーズは水面から僅かに飛び出した梯子に掴まって、溺れないよう名前を抱えた。


「はっ…、ちょっと危なかったね」

あれだけ息を吐いたのにピアーズの呼吸は極端に乱れる様子を見せなかった。寧ろ余裕を窺わせる。

水の中で一息つく間もなく、名前は彼に押し上げられ、なんとか陸にのぼるとまた彼の力を借りて抱き起こされた。
待っていたのは再び白い最先端の世界。ここの構造はつぎはぎだらけだ。

「大丈夫…なわけないか」

『………』

彼の唇に目が行き、意識してしまった後ろめたさに目を伏せる。

尋常でない顔の火照り。
お礼の言葉すら出てこなくて、名前は問題ないことを伝えるために、取り敢えず顔を上げて見せた。


「…さ、行こう。寒いだろ。着替えがある部屋を見つけておいたんだ。そこで濡れた包帯も換えよう」

ピアーズは淡々としていた。
それはそうだ。勝手に意識しているのは名前の方だけ。
あれは救命行為であって、恋人達がするようなキスやらそういう部類には入らないわけであって。

――入らないわけであって…

『(………)』

何事もなかったように背負われる名前は、感触の名残ある唇をきゅっと結んだ。

酷く悶々とするので、ついでに疚しい瞼もきつく結んだ。


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