My last 改稿版
皮下の冷戦 07

1

「すごい、すごいです! こんなに洗練された技、初めて見ました……っ」
 澪は頬を子供みたいに赤くして、やけに興奮気味だ。思ってもいない反応に、甚爾は少々気圧された。
「あのっ、お願いです。最後の寸勁……、あれだけでも、もう一度見せて……」
「面倒臭ぇ。帰る」
 言い切る前に三節棍を投げ渡し、澪はそれを受け取るものの尚食い下がろうと甚爾に纏わり付く。
「そんなこと言わずに……!」

 甚爾は澪の横を抜けて無視しようとするが、諦めずに彼女は服の袖に向かって手を伸ばしてきた。それを横目に手を避けようとした時、互いの指先が触れる。

「わ……っ」
 音を立てて三節棍が床に落ちた。
 彼女はみるみるうちに顔全体を赤く上気させ、目を丸くしていた。その視線の見つめる先は澪自身の手だ。
 そしてはたと顔を上げた澪は、甚爾と視線が交わるや、途端に顔を背け、落ちた棍を拾い上げた。

「今回は、諦めます。つぎ……、次の任務の時に、しっかり見学させてもらうとします」

(……指先が触れただけだぞ。そこまで動揺するもんか?)

 男慣れしていないにも程がある。彼にはまだ、澪の反応が吉なのか凶なのかの判断がつかなかった。
 澪の慕情を利用するという計画において、相手に既成観念が無い分、上手く刷り込ませれば傀儡にするのは容易い。だが一方で、距離を詰めすぎれば拒絶されかねない。
 面倒だ、という諦めが思考を掠めた。

 にわかに着信音が鳴り響く。
 澪は携帯を取り出して画面を見遣り、たちまち嬉しそうに表情を緩める。しかし甚爾が視線を向けているのに気付くと、口元を引き締めて通話に応じた。

「先生、お疲れ様です。……ありがとうございます、大丈夫です」
 少しだけ、澪の声が震えているように聞こえた。甘えの胚胎を感じさせる、聞いたことのない声音だ。
「……はい。今終えた所なので、まだ現地にいますよ」
 澪はわざと通話の音量を落としているようで、電話の相手は男である事くらいしか判別できなかった。
 四日間の間で澪が通話による連絡を取り合っていたのは補助監督の安曇だけだ。それ以外で会話をしている様子は見受けられなかった。
 澪の性格からして交友関係が希薄とは考えづらい。だとしたら、予測不能の事態が起きた際に、周囲を巻き込まぬよう制限していると考えられる。
 そこから推察するに、電話の相手は澪から絶大な信頼を寄せられており、尚且つ高専の関係者に違いない。
 甦生の段取りや游雲の提供を手伝ったのも、この「先生」とかいう存在ではないだろうか。
 先生というくらいだから、教員だろう。だが高専にそんな奇特な権力者がいただろうか。
 疑問に答えるように、ほんのわずかだが、脳裏で白い光がちらつく。反射的に彼の表情は苦々しく歪んだ。

「はい、勿論喜んで承ります! では失礼します」
 声高々に告げて通話を終えた後、甚爾に向き直った澪は、さも申し訳なさそうに見上げてくる。

「あの。一仕事終えたところ、大変申し上げにくいのですが」
「近場もついでに行ってこい、だろ。いいぜ、それも片付けてやるよ」
「良かった。ありがとうございます!」
「縛りのこと、忘れんなよ」
「当然です! お任せください!」

 澪は無邪気に相好を崩す。
 どうせ、交わした縛りは、両者の利害を分かち合えている……だなんて楽観的に捉えているのだろう。
 任務中の試みは失敗に終わったが、彼の彼の本当の狙いは任務後の要求にある。
 この後、澪は一体どんな反応を返し、どう表情を崩すのか。萎みかけていた気概が、期待で刺激されていく。
 密かに熱を帯びるその感情は、澪を恨む心が発してるのか、矜持が働いている所為なのか、理由は知ったことではない。

2

 帰宅の後、甚爾が風呂から出ると、リビングに澪の姿は無かった。
 寝室からかすかに声が聞こえてくる。通話中のようだが警戒しているらしく、かなり声量を抑えて話をしている。またあの「先生」とかいう奴だろうか。
 気配を殺して寝室へ向かい、扉の前に立った。室内を跳ね返る音から判断するに、澪は入り口に背を向けている。音を立てずに中へ入ると、予想通りの位置で澪がベッドに腰掛けていた。
 警戒している割には随分と穏やかな声で、無防備にすら感じる。扉を背に、甚爾は彼女の小さな背中を眺めた。

「それにしても、よく私の番号が分かりましたね。真依さんですか?」
(女の名前……友人の一人か)
 口ぶりからして、電話の相手は「先生」ではない。たちまち甚爾の関心は失せて、立ち去ろうとドアノブに手をかけるが、ふいに静止した。

「……いいえ、迷惑だなんて。声が聞けて……とても嬉しいです」
 思わず甚爾は振り返った。その円やかな声は、昼間の通話の時とも違う。相手は誰なのか。じわじわと関心が募っていく。

「……ふふ、縁起でもないことを言いますね。でも、私は大丈夫ですよ」
 親や家族に甘えている風ではない。ただの友人とも思えない。
 男の経験がない女だと踏んでいたが、まさか間違いだったか。ここで相手に励まされ、精神的に安定すれば面倒だ。
 しかし、甚爾の身内に懸念が広がると同時に、澪の声が陰り出す。

「やっぱり分かりますか? その通りです。上手くいかない事ばかりで……未熟でした」
 それは心から吐き出す弱音。そんな風に聞き取れた。常に余裕に満ちて軽薄そうな態度が嘘のようだ。

「まだまだ私は貴方の役に立てそうにないです。だけど、必ず私も上って行きます」
 今度は凛とした声に一変した。ころころと絶え間なく澪の表情が変わる様が見えて来そうな会話だ。
 いつの間にか、甚爾は会話の内容よりも、純真で慎ましげな音に意識を引き寄せられていた。

「はい……! 早く、憲紀に、みんなに会いたい……。だから、頑張ります」

 通話を終えた澪は画面を見下ろす。ふいに見えた横顔を支配しているのは、明確な安堵と信頼。間違ってもこちらに見せることはない表情だ。
 すると、余韻を残したままの瞳が向いた。視線が交わった途端、彼女は怯えたように目を見開く。
 たちまち甚爾の心緒は我に返ったように冷め、次いで動揺を誘う言葉を吐き出した。

「処女ぶってた癖に、いんのかよ。男」
「しょ……!?」
 顔を赤らめて澪は口を噤む。
「変な言い方しないで下さい!」
「しばらく会ってねぇのか。……非術師か?」
「…………。随分しっかりと聞いていらっしゃったんですね」
「ああ、オマエに興味があるんでな」
「嘘がお上手ですね」
「……嘘じゃないとしたらどうする?」

 甚爾は部屋の奥へと歩みを進め、澪の隣に腰掛ける。そして彼女に覆い被さってしまいそうなほどに体を寄せた。相対する眼は警戒を露わにし、抵抗するように睨み返してくる。

「貴方が私の人間関係を探ろうとしているのは分かっています。……同時に私の弱みを探っていることも。ですからそう易々とお話ししませんよ」
 見当違いの用心だが、そう思いたいのなら思わせておけばいい。こちらには何のデメリットもない。
 そう頭では割り切っていたのに、明らかに剣呑を帯びた声が、なぜか気に食わなかった。
「そうか」と短く言葉を返して、身を離し、寝室を後にした。

3

「今週は沢山任務が入っていますので、明日もよろしくお願いします。ではまた明日」
 一日の終わりに差し掛かった時刻にて。澪はソファーに座る甚爾に向かって満面の笑みを向ける。続けて「おやすみなさい」と言い、背を向けた。
 だが彼女は任務への協力の引き換えである要求を消化していない。
 わざとなのか本当に忘れているのか。甚爾は引き留めもせず無言で目を向けていた。

 澪は軽快な足取りで扉の前まで行き、そして半分だけ開いて不意に静止する。一呼吸置いて瞬時に振り向き、駆け足で甚爾の前に戻って来ると、滑り込みながら床に正座をした。

「わっ……すれてた……!」
 どうやら演技ではなく本気で交換条件を忘れていたらしい。
 縛りを破った場合、澪にどんな反動が及ぶのかを見るのも一興だろうと考えていたので、これはこれで残念ではある。

「今回は二つですね。ご要望をお聞かせ頂きましょうか」
「そうだな。……とりあえず、こっち来い」
 甚爾は足組みを解き、正座したままの澪を見下ろし指先で招く。
「ええと? もうここにいますが……?」
「そうじゃねぇ。ここに座れって言ってんだよ」
 自身の腿に手を置いて示す。すると澪は首を傾げて唖然としながら瞬きを二、三度繰り返す。そして引きつった笑みを返した。

「…………。冗談ですよね?」
 甚爾は口角を上げ、無言の返答をする。澪の面持ちはたちまち狼狽と上気の色を見せ、俯いた。
「嫌か?」
 一呼吸おいて澪はぎこちなく立ち上がる。緊迫で固くなっている声で返答した。
「いえ。……それがご要望なら。失礼します」

 そう言ったものの、澪は全面的に従うつもりはないらしい。なぜか真横を向いて、甚爾の片方の腿の上……というよりはほぼ膝に近い位置に腰を下ろす。しかし触れてはいるが体重はほとんど掛かっていない。
 要するに、ほぼ空気椅子の状態で持ち堪えようとしているのだ。加えて完全に背中を見せずに座ることで、甚爾の挙動を窺えるようにもしている。

 小賢しいようで浅慮な奴だ。
 甚爾は澪が乗っている方の腿をいきなり持ち上げた。すると、体を外側に向けている彼女は、一気に姿勢を崩して、背中から甚爾の足の間に倒れる。
 彼は澪の背の下に腕を差し込み、落ちてくる体を抱き止めた。

「なっ……何をするんです!? ちゃんと言う通りにしたじゃないですか!」
 顔を赤らめて抗議する澪を見下ろしながら、甚爾は鼻で笑った。
 これまで大して気に留めていなかったが、腕の中に収まる姿体は、態度に反して随分華奢だ。こんな小さな存在に翻弄され掛けていたとは、己の事ながら笑える。

「こうやって見ると、小せぇ身体だな」
「小さくないです。成人女性の平均くらいは何とかあります」
「そうか?」
「身長はさておき、体付きは一般の女性よりもそこそこ逞しいので無問題です」

 人に支えられておきながら、澪は握り拳を胸元に当て、自信満々に言い切った。
「……という訳で、一つ目はもうこれでいいですよね」
 早口に告げた澪は、いそいそと起き上がろうとするが、甚爾はさっと彼女の腹の前に手をやる。澪は慌てて掲げられた手首を両手で掴んだ。

「今度はなんですか!?」
「どの程度逞しいのか、確認してやろうと思ってな」
「結構です! 貴方がどう判断しても私が逞しいと思えば逞しいんです…っ」
「別に否定するつもりじゃねぇ。……さっき言っただろ。オマエに興味があるって」

 澪は眉をひそめ、訝しげな眼差しを甚爾に向けた。腹の前にある手をどかそうと、懸命に力を込めている。しかし甚爾の片腕は微動もしない。
 やがて彼女は抵抗をやめて小さく息をついた。

「……そこまで仰るなら、どうぞ。触れて頂いて結構です」
 澪は手の力を緩めながらも、釘を刺すように低い声で言葉を紡ぐ。
「これが二つ目ですからね。もう撤回は出来ませんよ」

 彼女は勝ち誇ったような顔で見返してくるが、まんまと策略に引っかかったのはそっちだ。
 近付く甚爾の指先は、何にも阻まれずに彼女の体に届く。命令の解除に成功した。後はこちらの好きなようにやらせてもらう。

 薄い腹に指が触れた途端、腕の中の体は小さく震えて強張る。そして顔を外側に背け、目を固く閉じた。
 次いで片手を甚爾の手首から離し、自身の目元に甲を掲げて顔を隠す。羞恥に耐えているらしかった。
 服を隔てて触れる身体は、相当体に力が入っているのもあって、確かに自負する程度には筋肉の弾力が認められる。それでもやはり強靭な肉体とは形容し難い。女の中ではまあまあ鍛えている部類という評価が妥当だ。
 布越しに腹筋の窪みを探り、なぞるように指を這わせると、澪は喉の奥で声を押し殺した。

「………ん……っ」
 手の平を添え、中心を軽く撫で、少しずつ上にずらしていく。
「ふ、……ぅ」
 甚爾の手首を離さずにいる手に力が籠り、彼女は悶えるように身を捩った。
 その折柄、首元を隠していた髪が流れ、白い首筋が無防備に曝される。整った頸が少女らしさを残しながらも、彼女が女である色香を同時に見せつけてくるようだった。

 性格はともかく、この女の器量と体付きは申し分ない。欲を言えば背丈はもう少し欲しい所だが、反応が良好ならばなんの問題もない。
 澪に迫ることで精神的な負荷と恋心を揺さぶる腹案に、それほど乗り気ではなかった彼だったが、これなら十分楽しめそうだ。そんな劣情が浮かぶ。
 毎回こういう反応を見せてくれるのなら、共生から解放され、籠絡した後も、肉体関係を持ち続けてもいい。
 淫靡な思考を巡らせながら、弄っていた手を一旦離した。
……その矢庭。
 突然澪はがくりと脱力し、液体の如く甚爾の膝からずり落ちる。そして一切受け身を取ることなく、床に転がった。

「…………は?」
 状況がいまいち飲み込めない。気絶にしては余りにも唐突で不自然だ。かと言って、意図的に本人がこの行動を取ったのだとしたら、もはや正気の沙汰ではない。
 甚爾は呆気に取られたまま、足元に転がっている澪を見下ろしていた。
 すると、床に転がったまま、小声で澪が語りかけてくる。

「……今。私は、余りに過度なスキンシップのショックにより気絶しています」

(…………いやそういう雰囲気じゃなかっただろ。発想が馬鹿過ぎて付き合いきれねぇ)
 縛りはもう使えない。ゆえにこれ以上迫ると拒まれる可能性がある。彼は溜息すら出ないほど冷め切った情緒に沈黙するしかなかった。

 完全に気を削がれた甚爾は、彼女をリビングからさっさと追い出した。
 追い出されるのを待っていました、と言わんばかりに足早で寝室に向かった様子から、あの奇行は計算されたものだった察する。してやられたようだ。

 意表を突かれた時点で色情の趣は乱れ、流れは澪のペースに切り替わってしまっていたのだ。
 馬鹿で処女っぽい癖に、妙な所で鼻が効く。もたもたしていると、さすがにこの馬鹿でも好意を利用する目論見がバレそうだ。
 ひとまず今回の接触は、命令の解除が果たせただけでも及第点。任務代行の縛りと彼女の好意がある限り、主導権は彼の手のうちにある。

 人間は精神的余裕が薄らぐ程、希望的観測に縋る傾向がある。
 だから澪の警戒は長くは続かない。いずれ焦燥しきって思考を止める場面が必ず訪れる。その時に澪が逃げ出すか、それとも大人しく身を捧げて食われるかの二択だ。
 むしろ、彼は前者ではなく後者を望みつつあった。

 相手の手数がどれ程あるのかは知り得ないが、どんな奇策を打ってくるのか興味が湧いてきた。全ての策をへし折って、屈服させてやりたい。まるで戦でも交えているかのような血気が彼の奥底で滾りはじめていた。

4

 連日任務を予定に入れてしまったことを、隣に座るこの女は相当後悔しているだろう。
 そんな憶測を身内に抱きながら、甚爾は放つ張り詰めた気配を確と感じ取っていた。

……縛りが成立してから二日目の任務が終わり、寝支度を済ませた澪に対して甚爾が告げた要求は「一時間、隣に座っていろ」だ。
 何かされるのではと気を張っているらしく、澪は少々間を開けてソファーに座ったが、甚爾はそれ以上注文をつける事なく、むしろ腰を下ろした澪を一瞥したきり、腕を組んだまま背凭れに体を預けて目を閉じるのだった。

 今回、甚爾は元より彼女に触れるつもりは一切ない。しかしそれを知る由もない澪にとっては、いつ何が起こるのかが全く読めない状況だ。
 今日は彼女を精神的に消耗させるのが目的である為、この反応は良好である。

 無言の時間に耐えかねた澪はテレビを付け、間も無くして演技かかった男女の会話が流れ出した。
  澪の緊張の気配は、目を閉じていてもはっきりと甚爾に伝わっている。借りてきた猫みたいな態度を嘲笑ってやりたいが、今は極力会話も抑えておきたい。
 ただし、甚爾への意識だけはさせておきたいので、彼はふと目蓋を開けて、隣の彼女を横目に見遣る。
 すると、視線を気取った澪が、恐々とこちらに目を向ける。間も無くして視線がぶつかった。
 澪はへらへらと急拵えの不完全な笑みを浮かべて正面に視線を戻したが、甚爾は追撃の如く、腕と肩が触れそうな近さに距離を詰めて座り直した。

 隣の体が小さく跳ねる。窺い見れば、澪は顔も視線も真正面に固定したまま、両の拳を膝の上で硬く握っていた。緊張で浅くなっていく隣の呼吸を聞きながら、甚爾は再び目を閉じた。

……漸くして番組の終わりを示す歌が流れ、また少し時が経って次の番組が始まっても、澪は一向に一言も発さなければ動きもしない。
 瞼を上げる。横を見れば、彼女は目を閉じる前に見た時と同じ状態で固まっていた。

「澪」
「…………は、い」
「一時間経った」
「……えっ?」
 まるで額でも弾かれたかのような面持ちで彼女は甚爾をまじまじと見つめた。

「何かされるとでも思ってたのか?……ああ、期待してたのか」
「ちがいます! 少しも思っていません! 今日はお疲れ様でしたではおやすみなさい!」
 澪は早口に言い切ると、尻尾を巻いて逃げるを体現する勢いでリビングから出て行ったのだった。

5

「それでは、今日も張り切っていきましょう!」

  距離は触れるほどに近くとも何もしない、という要求を繰り返し、三日が経った。
 朝から思い切りリビングの扉を開け放って現れた澪は、腕を掲げて一人高らかに告げた。
 反応を全く返さないままに甚爾が立ち上がると、澪は見慣れた薄笑みで見上げてくる。

「今日も少し遠出になりますから、朝食を摂りがてら目的地に向かいましょう。何か食べたいものはありますか?」
「特にない」
「じゃあ好きに決めちゃいます。今私のお腹は何腹ですかねぇ」

 眉間に小さな皺を寄せながら、澪は顎に手を当てて背を向けた。
 その様子から、澪はこちらが思っている以上に消耗している事を察した。笑うことで隠しているつもりなのだろうが、目元に疲労が感じられて、顔色も悪い。何日もまともに寝ていないのだろう。やたらと朝から騒々しいのは空元気だということだ。

(だったら、そろそろ動いてもいいか)
 前を行こうとする彼女に手を伸ばす。背を屈めて引き止めるように後ろから抱き竦めた。

「な、んですか……」
 顔を覗き込めば、彼女は忽ち顔全体を紅潮させて唇を小刻みに振るわせ、分かりやすい動揺を示す。
 こちらが背を屈めて近付くと、半ば振り返るように身を捩り、出来る限り背を逸らして遠ざかろうとした。甚爾は鷹揚な手つきで、彼女の顎から頬にかけてを掌で包むように収め、身動きが出来ないように片腕に力を込めて抱き込む。

 身体は離れようとしていても、揺れる瞳は甚爾を見つめたままだった。
 ゆっくりと鼻先を近づければ、抵抗する力もしだいに弱まっていく。
 そして観念したように彼女が目蓋を伏せたのを確認し、食むように口唇を重ねた。
 柔らかな肌に触れたまま、小さな身体をさらに抱き寄せれば、腕の中でびくりと強張った。しかし、決して抵抗も突き放す素振りも見せない。

 唇を離し、体を解放しても、澪は放心の表情でこちらを仰いだまま停止していた。甚爾は何でもないように横を通り抜け、部屋を出る。
 振り向いてみると、彼女はいまだに微動たにせず立ち尽くしていた。

「朝飯、行くんだろ」
「…………は、い」
 一拍置いて呟くように答えた澪は、顔を俯かせて駆け寄ってくる。面持ちは見えずとも髪の隙間から覗く耳は真っ赤になっていた。
 不意打ちはかなり効いたらしい。その日澪は平常を装ってはいたものの、明らかに困惑していて、一日中甚爾と目を合わそうとはしなかったのだった。

 白主澪という女は、大人然として気丈に振る舞おうとしているが、その本質は拙さが抜けきっていない子供だ。加えて慕情にあっけなく流される精神の弱い女でもある。
 本能が告げている。澪が拒む事は決してない。目論見の底に堕ちて来る日は近いと。