My last 改稿版
皮下の冷戦 06

1

 整理された思考が辿り着いた、最も有効な手段。
それは「縛り」による互いの利害の擦り合わせだ。

 任務への協力の対価として、甚爾の要求を受け入れさせる。「戦え」という命令の回避と機能の隠蔽にも繋がるので、決して妥協案ではない。むしろ最善だと言えよう。
 要求の内容は金銭が妥当だ。甚爾の経歴を知っている澪ならば、怪しむことはない。
 しかし甚爾は理由無き疑心が膨らむ心地を覚えていた。

 まるで模範解答に誘導されているような気味の悪さと、重大な何かを見落としているようで得心がいかない。
 もしも、こちらから縛りを申し出させる為にわざと観察させていたのだとしたら。いいように利用されているのはこっちの方だ。
 しかし、権威も実力もない澪にとって、リスクを取らなければ加茂家への復讐は成し得ないというのも、また事実。

 だがもっと効率の良いやり方があるだろう。
 仮に甚爾が澪の思うままに任務を熟したとして、それが術師本人の評価に直結するとは限らない。まして甚爾の存在そのものが評価されるかどうかも怪しい。
 加茂の小間使いである犬と、呪力を一切持たない猿を頑なに認めない人間達が統率せしめる構造は健在。
 詰まるところ、降霊対象に甚爾を選んだこと自体が間違いだ。
 少し考えれば分かりそうなものだが、何か理由があるのか。澪が隠していることが関係あるのなら、それを暴くまではもうしばらく様子を見る必要がありそうだ。

2
 
 最悪の共生が始まってから四日が経過した。今日は澪が朝から慌ただしい。寝坊した様子である。
 彼女の寝起きは引く程悪く、毎回約束の時間ギリギリというペースだ。とはいえ、これほど焦っているのは初めて見る。
「明日は遠出するので、朝から出発ですよ。時間が来たら支度が出来ていなくても強制連行ですから」と言った昨夜の余裕綽々の姿とは真逆の有様だ。甚爾はダイニングチェアに腰掛け、論うような眼差しで、部屋から部屋へと駆け回る様を眺めていた。

「…………あれ、私何を取りに来たんだっけ。……ああ、そうでした」
 澪は呟きながら右顧左眄、気もそぞろに甚爾の前を通り過ぎようとしたが、その矢先。
「あっ……」
 真っ平らの床でなぜか躓いた。
 放っておいても自力で体勢を立て直せるだろうが、甚爾の身内に一考が浮かぶ。命令について確認しておきたい事もあるので丁度良いだろう。

 彼は立ち上がりながら、触れない高さで澪の前に片腕を差し出す。すると、何の遮りもなく甚爾の腕の内側に、細い肩が乗った。
 今日までの間、本人に気付かれないように試してみたが、命令は未だに適用されたままだ。恐らくは解除されない限り何日でも遵守させられるのだろう。
 しかし澪から触れてくる分には問題がない。ならば、澪の体がこちらに近づくよう仕向けた場合はどうか。
 結果、澪の命令は術師本人に似て、妙に抜けているということが分かった。
 もしくはこの肉体が術式のエラーを引き起こしている可能性も有り得る。

 ふと支えた澪を見遣ると、あれだけ慌ただしく動き回っていた体が、腕に凭れたまま微動もしなくなっていた。
 腕を持ち上げて傾きかけた体を起こしてやると、澪は自分の顔を隠すように俯かせる。そして声を絞り出すように言った。

「あ……りがとう、ございます」
 にわかに、違和感を胚胎した妙な空気が流れ出す。
「…………。あ! もう時間がないです、安曇さんに怒られる!」

 ぱっと腕から離れた澪は、再び慌ただしく部屋を駆ける。その調子は一見普段通りだが、一切甚爾を目に入れないよう意識しているのは明らかだった。……今回のように、何度か引っ掛かる仕草や反応がなかったわけではない。だが今の態度で、甚爾の身内には確信が浮かび上がってきていた。

(信じがたいが、この女が隠そうとしているのは……)
 甚爾は背後から仕留めるように告げる。
「……澪」
 瞬間、こちらを振り返る視線が交錯する。かすかに紅潮を帯びていく彼女の表情から、感情が透けて見えた。
 灯台下暗しとはよく言ったもので、興味の範疇から逸脱した女に対し、ここまで己が鈍感であったとは、自嘲さえ込み上げてくる心地だ。
 名を呼ばれただけで好意を露わにするこの女は、男性経験はおろか、交際経験さえもないに違いない。男に迫られるということも知らなさそうだ。
 その弱点を攻めないという手はない。それどころか、女を良いように扱うのは昔から彼の得手の一つなのだ。
 澪の心を利用して、手玉に取る方法が……勝ち筋が見えてきた。

「どうかしましたか」
 澪は普段通りの笑みを見せる。だが内心では、必死に動揺を隠しているのだと思うと滑稽だ。
 しかし甚爾もまた隠さなければならないものがある。命令の存在を悟られれば、窮地に陥る状況にあるのは変わりない。逸る内心を諌めながら、淡々とした口調で提案を投げ掛けた。

「戦ってやる。その代わり任務の都度要求に応じろ。ただし戦うってのは、あくまで俺に向かってくる呪霊への対処を放棄しないって意味だ。テメェの身はテメェで守れよ」
「……なるほど。それで、要求というのは金銭でしょうか?」
「金とは限らねぇ。そん時の気分次第だな」
 澪は考え込むように口を閉ざしたが、僅かな時間を経て返答を呈示した。

「こちらが用意、対応可能な範囲内である事と、法外ではない単位と内容ならば。それから三原則の主導権は譲れません。それでも宜しいですか?」
「ああ。それで良いぜ」
「わかりました。では今日の任務から、よろしくお願いします」

 縛りを持ちかけられるのを予期していたかのような迷いのない口振りだ。しかし、甚爾が持ちかける要求までは予測していないだろう。
 澪がどれほど警戒していようが関係ない。交換条件が受け入れられた時点で、こちらの優勢は確定した。

3

 安曇の運転する車は、郊外へと続く国道を進み、森林の奥へと誘うような荒れた道に入る。間もなくして停止した。
 先にある目的地には歩いて進む必要がある。かろうじて道としての形を留める先にあったのは、破壊されたバリケードだ。
 立ち入りを推奨していないにも関わらず、頻繁な人の出入りが認められるのは、不躾な好奇心が押し寄せた結果だろう。

 バリケードを越えた奥にあるのは、心霊スポットとして名高い廃墟だ。
 進む途中には、木々に侵食し尽くされたゲートらしきものが待ち構えており、そこでようやく建物の全貌が見えてきた。

 ここには、かつて郊外に有りがちな休憩施設があった。しかし事業は潰れ、次に宿泊施設兼飲食店として作り替えられた。しばらく経ってその店も閉業となった後、この地で殺人事件が起きたのだという。
 事件を端緒に様々な悪評が広まった結果、被害者の怨念が彷徨っているだとか、怨念に呼び寄せられた霊が襲ってくる、気が触れた者が焼身自殺をしたなど、多くの曰くが蔓延る地と成った。
 そんな危険物件をあえて放置する理由はない。つまりここは呪霊祓除の巡回地のひとつである。
 ゆえに呪霊が発生しても、二級術師が単独で倒せる程度の強さでしかない、……と、澪が偉そうに車内で語っていた。

 朽ちかけた建物は、遊び半分で訪れた人間によって、ガラスというガラスは全て破られている。そして壁という壁には低俗な落書きが散見される。あけすけに言えば汚くて見苦しい場所だった。
 ふと、甚爾はこちらを監視する視線を感じ取った。
 見上げれば、二階の部屋の暗がりで、こちらの様子を窺っている呪霊が見えた。登って来いと誘っているかのようでもある。

「この様子では、一階には何もいなさそうですねぇ」
 澪も気付いているようだが、一切気に留めることなく、骨組みだけになった壁を通り抜けて中へと入っていった。やたらと狭い廊下を通り、広間らしき場所に入るや否や、突然声が響き渡る。
「あー! 階段が無くなってる……っ」

 意図的に撤去されたのか、来訪者に壊されたのか。二階に上がる階段は部屋のどこにもない。階段の基礎だったものは、底が抜けて左右の壁だけが天井に吊り下がっているだけだ。

 二階の廊下は施設の構造上、日中にも関わらず薄暗い。
 奥がどうなっているのかはここからでは見渡せないし、二階の呪霊たちは一向に降りてくる気配が無い。上に行かなければ、この仕事は終われない。
 しかし、壁には手を引っ掛けられそうなものや梯子は見当たらなかった。甚爾はともかく、澪は自力で登れそうにない高さだ。

(こいつを置いて行った方がさっさと事は済むが、……どうするかな)
 思案するやいなや、甚爾の頭に小さな悪巧みが生じた。
……澪を揶揄いながら反応を見つつ、つまらない低級呪霊相手への微々たるハンデにもなる。多少の退屈しのぎにはなる奇策だ。
 そんな企みを知らない澪は、小さくため息をついて、鞄から呪具を取り出した。

「私は外階段から上に行きます。今だけ行動範囲を広げますから、一旦別行動に……」
「呪具はそれしかねぇのか」
 澪の言葉を遮りながら游雲を見遣った。するとお得意の緊張感のない表情が返ってくる。
「……ここだけの話。私、料理が全く出来ないんですよ。恥ずかしながら包丁の扱いが恐ろしく壊滅的で」
(また訳のわからん話が始まった……)

 澪特有の不要な前振りだ。嘘か本当か分からないので聞き流した方が賢明である。
「苦手意識ゆえか、刃物を見るとつい拒否反応が出ちゃうんです。大半の呪具は、ヒカリモノとかナガイノじゃないですか。ですから……」
「ああ……、ハイハイ」

 これ以上は聞く必要が無い。おおかた、特級呪具一つを用意するのに手一杯なのを適当な理由で誤魔化したいのだろう。甚爾は手先でさっさと呪具を寄越せと合図した。

「……ま、鋭利な武器が欲しけりゃ自分で用意しろって事だな」
 游雲を手に取り、外に向かっていく澪の背を眺めながら、甚爾は眼前に三節棍を掲げる。そして棍の端と端を強めに打ち付けた。
 周囲に甲高い音が反響する。そして澪が叫び声を上げながら転がるようにして駆け付けた。

「ちょっと何してるんですか! ギンギンするのやめて下さい!?」
「何だその言い方」

 甚爾は五年ほど前に降霊された際、游雲の先端同士を打ち付ける事で鋭利に研ぎ、呪霊を討ち果たした。けれど当人にその記憶はほとんど残っておらず、游雲を破壊したのは彼の意思ではない。
 間違っても本来の用途を失う程に破壊し、力づくで扱うなど、彼が正気なら決して起こさない行動だ。ゆえに今もこの呪具を傷つけるつもりなんてない。これも奇策のうちである。
 澪も甚爾が狂気めいた行動を再び起こすとは思ってもいなかったのだろう。目をむき出し、必死の形相だ。

「まさか、傷つけてなんていませんよね……!?」
 急に真っ青になった澪は、恐る恐る棍に手を伸ばしてきた。権力者の手引きがあれど、游雲が破損した場合の責任は相当重いらしい。それは好都合だ。
 甚爾は棍を一纏りに右手で持ち直し、澪の手が届かない位置まで高く掲げた。

「何焦ってんだよ。困ることでもあんのか?」
「大有りですよ、游雲の価値は貴方もご存知でしょう!? それに私言いましたよね!? 削ったり引きちぎったりしないで下さいって!」
 どれだけ彼女が手を伸ばしても微妙に届かない位置で、見せびらかすようにゆらゆらと游雲を振ってみせる。澪は猫みたいに手を振り、游雲を奪い取ることに夢中になっていく。
「元は俺のもんだろ。どう扱おうが俺の勝手だ」
「ちっがいます!! 現在の所有者は高専なんですっ!」

 いよいよ痺れを切らしたようで、澪は一瞬目つきを鋭くした。そして、ぐっと深く膝を屈めて勢いよく飛び上がる。

(……思った通り、こういうしょうもねぇ挑発には簡単に引っかかってくるな)
 澪の行動は予想通りだ。彼女の腕が棍を掴むよりも早く、彼は右手に持っていた游雲を反対の手に移し、膝を屈める。
 次いで澪の腿裏に触れない程度に腕を滑り込ませ、落下によって彼女の体が腕に触れた瞬間、素早く腕を曲げて持ち上げた。
「……へ、あっ!? わっ!?」
 思惑通り、澪の身体は彼の腕に乗った。仰け反った上体を安定させようと、慌てて甚爾の首に腕を絡ませてしがみ付いてくる。
「い、いきなり何なんですかっ」
 片腕で澪を抱えたまま、甚爾は二階の入り口を見上げながら笑みを浮かべた。
「大人しくしてろよ」

4

 甚爾は棍の端に余白を持たせて握り、僅かに膝を落とす。次の瞬間軽々と跳躍した。澪は「ぴっ……」と変な驚嘆を溢し、身を寄せてくる。
 跳び上がった体が二階に届くと同時に、待ち構えていた呪霊の気配が濃くなった。
 直後、右側から一体の呪霊が近づく気配を感じ取った。目視せずとも、彼は敵の正確な位置までを瞬時に把握した。
 游雲の軌道を確保すべく、澪を乗せたまま腕を高めに上げる。バランスを取ろうとする澪が、頭に抱きつくようにくっついてくるが、彼は気にも留めなかった。
 次いで、腰を右方に捻りながら棍を内側に振るった。一体を早々に祓うと、振った左腕を引き戻し何事も無かったように二階の廊下に着地する。

「ふぉあ……」
 澪は甚爾に抱えられている事をすっかり忘れているのか、彼の頭に思いっきり胸を乗せたまま、変な息をついている。さりげなく元の高さに右腕を戻しても、慌てる素振りもなく、大人しくしていた。
(もっと動揺するかと思ったが……、いまいち分かんねぇ女だな)
 少々白けながらも、甚爾は煤の臭いに乗って放たれる最も強い殺気の方向へ歩き出した。

 低級呪霊を片手で薙ぎ払いながら、甚爾は迷うことなく奥から二番目の部屋に向かう。そこは呪霊がこちらをのぞいていた部屋で、焼け焦げて骨組みが黒く剥き出しになっている場所だった。
 中に入ってみたが、何もいない。相当激しく燃えたのか、部屋全体は煤だらけで、未だに焦げた臭いが残っている。臭いに混じり、呪霊がここにいた跡も滞留していた。

(……窓から隣の部屋に移ったか)
 気配を追って、崩れそうな黒い壁に目をやった矢庭、そこを突き破って隣部屋から巨大なベッドが雪崩れ込んできた。
「随分強引な誘い方だな」
 甚爾は動じる事なく片足を軽く上げると、迫ってくる寝台の側面を足裏で受け止め、押し戻した。

 隣の部屋に突き刺さるように戻って行ったベッドが轟音を上げる。風圧やら衝撃やらで床底の煤が散った。
 大穴の空いた壁の向こうには、少し褪せているが真っ赤な色使いの部屋が広がっていた。しかし中にはベッドを放り込んできた呪霊の姿がない。
 煤の舞が落ちついていき、蹴り返した寝台がガタガタと音を立てて揺れ出した。どうやら呪霊は下敷きになっていたらしい。多少力がある反面、動きは鈍いのだろう。
 あえて待っていてやると、床と台の間の陰から、炭のように乾いた様相の腕が伸び、煤けたマットレスに引っ掛かった。

 ずるりとベッドに這い上がった呪霊が全貌を晒す。焼け爛れた色の表皮を纏い、痩せこけた人間を模したような上体は異様に長い。下肢にいくにつれて爬虫類に近い体つきになっていた。
 長い尾の先端は鉤爪状で、三又に分かれ、それぞれ意思を持っているかのように不揃いに蠢いている。しかし、どの尾も甚爾へと切先を向けて揺らめいていた。
 頭部には目鼻は無く、円形に縁取られた巨大な口が顔の全面を占めている。威嚇のつもりか、鮫のように尖った歯が外側に大きく開かれた。

 その時、甚爾はこちらに向かってくる新たな呪いを気取った。
 横に顔を向ければ、焼け焦げた入り口から覗き込むようにして一体の呪霊が現れた。全身が黒く長い体毛で覆われた、人の背丈ほどの呪霊だった。
 人語の一節を繰り返し呟いているが、一音ではない。数十の声が幾重にも発されている。口に当たる部分が複数あるのだろう。幅広い体躯のあちこちで体毛が揺れ動いていた。

 焼け爛れた呪霊と体毛に覆われた呪霊、双方同等レベルの呪霊だ。しかし甚爾にとっては何体増えようと取るに足らない弱さである。
 その割にはまるで逃げられないとでも言いたそうに堂々と立ちはだかっているのが鬱陶しい。

 それに、あえて密着する形で抱えていても、澪は大人しくしているだけで特に面白い反応もない。
 敵も澪も張り合いがない。退屈が過ぎる任務などさっさと終わらせるに尽きる。
 甚爾は腕から彼女を下ろし「隅で大人しくしてろ」と一言だけ告げた。すると、真剣な相貌で頷きをみせた澪は、呪霊達から一番遠い部屋の角へと下がっていった。

 ベッドに立つ呪霊に向かって歩み、入り口の呪霊に対して背を見せた。
 それに釣られて動き出したのは、当然ながら甚爾の背後を取った方の呪いだ。
 勿論彼はその挙動を読んでいる。人間の限界以上に情報を読み取れる各々の感覚器官は、近付く速度も敵の体勢や攻撃方法に至るまで、全てを正確に脳へと伝達した。
……真後ろの呪霊は一部の体毛を硬化、収縮させ、無数の針として甚爾の上体に突き刺そうとしている。

 甚爾は、先日学校で呪霊を相手取った澪が見せたものと同じ蹴り技を繰り出した。
 しかし明らかに彼の技は洗練の度合いが異なる。まず間合いが澪よりも広く、加えて彼女以上に沈み込んでから後方を蹴り上げる速度は俊敏で、一ミリの誤差なく直線的だ。
 そして何より異なるのは、呪力を一切持たずしても呪霊を弾け飛ばす膂力である。技術も肉体の完成度も、顕著に格の違いを見せつける一撃だった。

 背後で呪霊の体が弾け散るのは空気の流れで読み取っている。彼は後方を見向きもせず、悠然と立ち上がると寝台へ向かって前進を再開する。
 呪力帯びていない攻撃では、呪霊を祓えていないのは理解している。敢えて呪具を用いずに攻撃した理由は実に単純で、単なる気まぐれだ。
 全身が肉片と散らばる程に破壊されれば、修復には多少の時間を要する。それを計算した上で背後の呪霊が回復するまでにもう一体を祓う。退屈しのぎの些細なハンデだ。

 もう一体の呪霊は戦闘態勢を整えたようで、前のめりになりながら近付いてきた。甚爾が間合いに入った瞬間に細長い両腕を振りかぶった。
 だがその腕は甚爾には向かわず地面に突き立てられる。腕を支えに背を後方に仰け反らせ、長い三本の尾を鞭のようにしならせ三方から振るってきた。
 空を切る音を立てて尾が迫ってくるが、猫だましのような揺動を甚爾は普通に静観していた。彼の前では呪霊の全ての行動が静止しているように見えていたのだった。
 冷めた目で棍を一振りすれば、全ての尾が糸の如く引き千切れた。

 そこからの甚爾の一歩の射程は恐ろしく広く、そして恐ろしく速かった。間合いを詰めた彼は、呪霊が上体を引き起こすのに合わせて棍の先端を胴体へ向け、裏拳打ちの動作を取った。
 その打突をわざとらしく呪霊の体の手前で止め、一拍を置く。
 それから即座に極小の動作で切り替えて、打ち込んだのは己の拳による寸勁だ。
 大した力は込めていない。しかし足元から伝わる回転の波動は、人の域を逸脱しており、たちまち呪霊の体内を激しく破壊しながら駆け巡る。一瞬で内側から呪いを破裂させた。これが呪力を伴った攻撃なら祓除は完了であるが、呪力を持ち得ぬ彼は生身では呪霊を払えない。肉塊が集まろうとしている部分を游雲の端で小突けば、呆気なく呪霊は消えていった。

 振り返ると、蹴飛ばした呪霊は未だに散らばった体を修復出来ずに体毛と肉塊を蠢かせている。歩み寄って棍の端を軽く振るうと、風圧だけで黒い霧が消えていった。
 肩慣らしにもならない。あまりの退屈さに甚爾が息をつけば、隅で大人しくしていた澪がものすごい速さで駆け寄ってくる。
 そしてぴたりと彼の前で止まる。その相貌はまるで光を当てた宝石の如く輝いていて、じっと甚爾を見上げていた。