My last 改稿版
皮下の冷戦 05

1

 白主澪という女は、偽りを纏っている。
 馬鹿馬鹿しい発言や、素直で偽りのない眼差し、熱と艶を帯びた仕草、予測不能な言動に甚爾は振り回されはじめていた。
 しかし、相手に隙や弱みとなるものは無しと判断するには尚早だ。どこかに綻びはある。実に気乗りがしないが、もうしばらく時間を掛けて澪を観察していく他ない。
 四六時中側にいなければならない時点で面倒だというのに、命令の存在を隠して生活する必要もある。立たされた状況は、彼に次々と問題を与えてくる。全部を放り出したいのに、あの女はそれさえも許さない。

 夜が明け、目覚めてからも甚爾は思案していた。
 どうせ朝から騒々しいはずだ。「元気だけが取り柄です」と言わんばかりの陽気の様が目に浮かぶのが不快だった。
 しかし、あれこれと口出しされる前に、収納から適当に服を漁り、ある程度の身支度を済ませてはみたが、そろそろ時刻は午前十一時になるというのに、寝室から物音もしてこなかった。

 実は部屋で急死していた……などという都合の良い展開は流石に起こり得ないだろうし、放っておいても損をすることは何もない。
 それなのに、ゆくりなく昨晩の姿がふと脳裏をよぎり、なぜか様子を確かめてみるか、という気が起こった。
 理性的な思考は「その必要はない、無闇に近寄らない方がいい」と告げている。一方で得体の知れない感情が「生きてるか死んでるの確認だけなら問題は起こらないだろう」と彼の腰を上げさせたのだった。

2

 寝室も他の内装と同様に、品が良く洗練された内装だ。ベッドの他にはナイトテーブルと照明、横長のフットスツールがあるのみ。部屋の中央に堂々と有るベッドは、大人三人でも寝転がれる広さで、縦幅も甚爾の背丈を優に超えている。見れば見るほど存在感の塊である。
 澪はその中心で無防備な横顔を枕に預けていた。小柄な彼女が占める面積に対して、やたらと余白が広い。贅沢というより無駄の多い使い方だ。

 近付き見下ろしてみても、澪は一向に目覚める気配がない。
 妙な寝ぼけ癖があっても、寝相だけは大人しいようだ。濃く落ち着いた色味のシーツは横寝の姿体を覆い隠して、ベッドの脇まで悠々と裾を伸ばしている。
 それを雑に捲ってみても、澪は身じろぎもせずに体を小さく上下させて深い呼吸を続けていた。
……昨日に比べると、多少は顔色が良くなっている。
 そう思った時、右手に違和感を覚えた。視線を落とせば、澪に向かって己の手が伸びていた。そのつもりもなければ、命令の所為で触れられないことは分かっているのに、なぜか。

――「わざわざ触って確かめなくとも、この女は生きている。もう部屋を出るべきだ」
 そんな声が内心で響くが、甚爾が取った行動は真逆だった。……それが失敗のはじまりだった。

「……起きろ」
 すると彼女は瞼を固く閉じたまま、声にもならない微かな唸りを返す。
 次いでベッドの脇に腰掛け、再び呼び掛けても、返ってくるのは「うー」とか「む……」とかいう子供みたいな声のみだ。
 寝顔を覗き込むが、澪は駄々を捏ねているように、眉間に皺を寄せる。
 もうこれ以上することもない。むしろ寝たままでいてくれた方が、関わる時間が減る。もういいだろう。
 背を向け立ち上がろうとした折柄だった。

「…………いかないで」
 寂しげな細い声。つい動きを止めると、腰に澪の腕が追いすがってきた。

……彼の脳裏に一つの情景が浮かび上がる。
 随分と過去のことだ。
 最愛を失った彼は、我が子の世話を他人に押し付ける為、新たな配偶者を適当に見繕った。そして段々と家を留守にすることが増えた。行き先なんてものは特にない。適当にフラフラして金を使い、金が無くなれば女のところで寝て、また別の場所へ。そんな絵に描いた落魄の生活を送っていた時の記憶。
 家を出ると、後ろから服の裾を引かれた。
 振り返って見下ろせば、そこにいたのは彼の子だった。幼い瞳は何かを言いたそうに、しかし言葉は無く、ただ見上げていた。
 甚爾も同じく言葉無く、そして感情も無く、小さな主張を見ていた。
 短い無音が流れて、やがて裾を握る手はそっと離れた。
 稚い面持ちは俯き、諦めたように背を向ける。けれどもひどく名残惜しそうに、何かを察して欲しそうに、半身だけ振りかえった。
 それでも甚爾は何も言わずに見下ろしていた。もう互いの視線が交わることはなかった。

 結局、あの子供が何を訴えたかったのかは、分からず終いだ。あの日以来、甚爾が家に帰る事は二度と無かったからだ。……仮に帰ったとしても、知ろうとはしなかっただろうが。
 だがそんな記憶は、彼にとって取るに足らない過去でしかない。なぜ今になって、しかもこの状況下で突然思い起こされたのか、全くもって不明瞭である。

 くだらない情景を思考から追い出し、呆れた息をつく。それから立ちあがろうとしたが、体が動かない。
 それはお馴染みの、原則に身体を支配されている時と同じ感覚だ。

(まさか……)
 澪の一言が頭の中で反響する。
――「いかないで」

「…………マジか、この馬鹿」
 最悪なことに、寝言でさえも命令が発動してしまうことが判明した。
 しがみついている澪に「離せ」と何度呼びかけても、気だるい唸り声を繰り返すばかり。寝起きが悪いにも程がある。

(……そもそもコイツ、本当に寝てんのか?)
 実は狸寝入りで、甚爾を馬鹿にしている可能性も否めない。腰を捻って、しがみついたままの澪を見遣る。
 しかし彼女は息が出来るのか疑問に思える程、ぴったりと甚爾の体に顔を埋めていて、顔は見えなかった。
 安心したような深い息が聞こえてくる。本当に寝ぼけているだけらしい。
 どうしたものかと元の形に上体を戻そうとしたが、またしても身体が静止。今度は腰から上が振り返った姿勢のまま固まった。

(意味が分からん。ポンコツ呪術師が……)
「いかないで」という命令は、どうやら離れていく素振りでさえも認めない模様だ。
 半端な体勢で一体何時間後か分からない彼女の起床まで不動を保つというのは、彼と言えども地味にしんどい。
 命令による二つの制限を抱える彼が、身を捩りながら最終的に到達した最善は、かなり不本意ながら、……添い寝だった。

 澪に向き合って横臥し、ベッドに肘を立てる。手の平に頭を乗せ、溜息を吐いた。
 すると澪は気持ち良さそうに身じろいで、甚爾の体を抱き直した。人を抱き枕と思っているのか、胸の柔らかさや大きさが伝わってくるくらいに体を密着させ、足まで絡めてくる始末だ。
 男の本能が反応しても可笑しくない状況下にある甚爾だが、そんなことより、澪が起きてからどう対処するかを考えねばならない。余計なことに頭を悩ませる羽目になってしまった。

3

 しばらくして、澪が身じろぎ出す。彼女は深い吐息と共に細い声を伸ばした。
 甚爾の腰に回した腕を緩め、やっと顔を離した。

「う、んん……?」
 目を開き、不思議そうな顔をする。二、三度目を瞬かせながら、片手を顔の前に持ってきて、甚爾の腹に触れ、そして指でぐいぐいと押す。

「朝から鬱陶しい女だな」
 嘲笑を込めて甚爾が言うと、澪は大きく体を震わせ、勢いよく顔を上げる。確と視線を交えれば、間の抜けた表情のまま、澪は固まった。
 次の瞬間、一秒前まで寝呆け眼だったとは思えない俊敏な身のこなしで、澪はベッドの端まで後退していった。

「なッ、なな、何してるんですか!?」
「オマエがしがみついてきたんだよ」
「はい!? そんなの知りません! それに、だとしてもそんなっ、ずっと側にいてくれなくてもいいですから! ……ってそもそもなぜこの部屋に!?」
「俺の自由だろ。……にしても、ここまで寝起きの悪い女は初めて見た」
 甚爾は起き上がって首や肩周りを回す。それから揶揄の表情を澪に向けた。

「そ、れは、どうもすみませんでしたね……」
 少々不貞腐れたような面持ちをする澪に対し、わずかな引っ掛かりを覚えたが、追求する間も無く彼女は腕を大きく振って顔をしかめた。

「うわあ、とっても右腕が痺れてる! トトロにしがみ付いて飛ぶ夢を見てたんですけど、まさか貴方だったとは!」
 朝っぱらから訳の分からない女だ。無視してさっさとこの部屋から出て行けないものか、と顔を背けようとすると、あっさりと体が動いた。
(この馬鹿が起きたからか? ……いや、さっきの「側にいてくれなくてもいい」の方か。)

 澪の命令は、どうやら本人が撤回を意図していなくても解除が可能らしい。
 朝から澪に振り回されたのは癪に障るが、これは思わぬ収穫だ。
 例えば「触らないで」という枷は、甚爾が触れることを肯定する言葉を吐かせれば無効に出来るというわけだ。

 甚爾はベッドから降りて扉に向かう。すると澪の叫ぶ声が追い掛けてきた。
「あの! 今、何時です!? 今日は午後一で安曇さんが迎えに来るんです!」
「十二時」
 扉の向こうで、澪が大慌てに支度を始める音が響く。

4

 今回の任務は急遽場所を変更して近場の廃校となった。校内で彷徨っている非術師の救助と呪霊の対処にあたるのだという。
 昨日の真夜中、高校生の男女七名が肝試しと称し校内に立ち入り、呪霊と遭遇。錯乱のまま散り散りになってしまったという。命からがら逃げ出した一人を偶然窓が発見したことで発覚した。
 現地に向かう途中、四名は校舎から自力で脱出し保護されたと連絡が入ったが、残る二名は未だに取り残されたままだ。

「せっかくなので私の仕事ぶりを見ていただきましょう。楽しみにしていて下さいね」
 廃校に着くと、澪は薄い笑みを見せてきた。どうせなんの面白味もないのだろうが、何かしらの情報は得られるかも知れない。渋々後をついて行った。

「助けに参りましたよ。隠れている方は出て来て下さい」
 急ぐ様子もなく普段の調子で歩き回りながら、澪はツアー案内かのように通りの良い声を放つ。
 道すがら低級の呪霊が数体襲って来たが、彼女に容易く蹴散らされた。前回と同じ轍は踏まないと言わんばかりに、呪霊が現れてからの瞬間の立ち回りが早い。やはりつまらない任務となりそうだ。

 学生が一人も見つからないまま、三階にやってきた。
 そして一直線に伸びる廊下の端まで辿り着く。澪は音楽室と表されている扉の前で立ち止まった。
 広い奥部屋の為、扉のガラス窓からは室内の全容は見えない。しかし呪霊の気配があった。
 同時に、甚爾は二人の人間の気配と位置も察知していた。果たして澪はこれを気取っているだろうか。場合によってはいくらか面白いものが見られるかも知れない。乾いた期待が湧いた。

「お待たせしました!」
 澪は全く緊張感のない声調で教室の扉を開け放つ。中は静まり返っており、一見すると無人だった。
 しかし奥のピアノの影でかすかに蠢くものがある。顔は鼻先辺りまでしか見えないが、それは間違いなく人の形で、少年の相貌であった。仄暗い室内であっても、その目が恐怖で震えているのは歴然だ。
 澪は少年に向かって、ずかずかと教室の中心を通って進んで行く。
 甚爾は室内一帯が見渡せる位置で足を止め、彼女の動向を眺めた。

「私、人間。怖がらないで。ほら、もう出て来ても大丈夫ですよ」
 その言葉に反応するように、身を潜める男子学生の顔が持ち上がっていく。そして、その背後でもう一つ、姿を現したものがあった。
 学生の頭を鷲掴む一体の呪霊だ。
 魚類を想起させる流線型の頭部に、剥き出しの眼球が四つ備わった異形の姿。頭部から直接手足が生えており、関節部分に人間のような口唇がある。それが歯を見せながら笑みを象っていた。

「なるほど」
 低くなる言葉と反して口の端を持ち上げた澪は、躊躇いなく人質を取った呪霊に向かい歩みを進めようとする。
 一方の呪霊は、嘲るように正面に向かって指を指す。それは対峙する澪に向けられているのではなく、彼女の背後、部屋の奥の準備室から現れた呪霊を指していた。

「分かっていますよ」
 挟み撃ち程度の策略は予想しやすいだろう。ただし澪はまだ呪霊が示す本当の意味に気付いていない。甚爾は彼女の余裕が何処まで続くのかと冷めた目を向けていた。
「……――たすっ、たすけて!」
甲高く叫ぶ声が響き、わずかに目を開いて澪が背後を向く。
 そこには爛れた脂肪の塊のように、皮膚が頭から足元まで襞となっている大柄の異形が、野太い両腕で少女を抱えていた。
 二つの命を掲げる二体の呪霊に挟まれた澪を、甚爾は変わらず距離を取ったまま眺めていた。これからどんなことが起ころうとも傍観に徹するつもりだ。
 澪はこの程度の状況も処理できない無能なのか、それとも辛くも勝利を収めるのか。力量を測るにも好都合な展開だ。ついでに窮地に陥り死んでくれればなおよし。

 すると、澪は迷わず魚頭の呪霊に向き直った。明らかに戦意を向けて近付いて来ているのは、後から現れた呪霊にもかかわらず、だ。
 彼女の目は正面の一点を見据え、今にも襲い掛かろうと威圧を放っている。
 相対する呪霊が一瞬尻込みした瞬間、澪の後ろの呪霊が攻撃を放ってきた。彼女の背後で太い腕が高く持ち上げられたかと思うと、薄く鋭利な皮膚が澪の頸めがけて滑り落ちる。

 だが肉片は、音を立てて床に突き刺さっただけだった。彼女は地に同化するが如く低く体を沈み込ませて避けていた。瞬く間に足を捌いて、巨体の真横に移動すると、素早く体を旋回させながら蹴りを放つ。
 肉が波紋を描き、体勢を崩す。澪は瞬時の原態復帰で次の攻撃態勢に移り、背後に回りながら三連撃を拳で抉り込んだ。その威力に弾かれた呪霊は、抱えた人質を手離し、前のめりに倒れ込む。
 女子学生が床に倒れ込むのを気にも留めず、澪は高く振り上げた踵を襞の塊に落とした。
 そして、ぐるりと再び魚頭の呪霊に向く。
「次はお前だ」と言わんばかりに、瞳は鋭く獰猛な光を孕む。
 敵は目に見えて気圧されていた。手の内にある人間を真正面に据えて示す。それでも小さな獣の如き視線は、人質に目もくれず、悠然と歩み寄っていく。

 間合いに入りかけた途端、呪霊は勢いよく少年を突き飛ばした。障害物代わりにして逃走しようとしたのだろうが、悪手だ。
 魚頭は突然その場で左右に首を振る。どうやら澪の姿を探しているようだ。
 甚爾の視界では、澪が倒れ込む少年の真下に一瞬で入り込む挙動が見えていた。しかし呪霊にとってその位置は死角。ゆえに彼女が突然姿を消したと勘違いしたのだろう。
 そして次に起こした呪霊の行動こそ、低級ならではの弱さと知性の低さを物語っていた。無闇に真横へ飛んで、窓の外へ向かおうとしたのだ。
 途端、待ち構えていたかのように生徒の影から鞭のような蹴りが飛び出す。目蓋の無い眼球に爪先が突き刺さった。
 足が引き抜かれた直後、呪霊は懲りもせず逃げの動作を続け、無様に背を向ける。
 澪の圏位は他の武術に比べて広い。身体の回転を交え素早く詰め寄り、両足で魚頭の足元を絡め取り転倒させた。構えを整え真下の頭部を直状に突くと、呪霊は黒い霧となって霧散した。

 倒れ込んだままの少年少女に、澪は歩み寄る。それぞれの生存を確認すると、甚爾の方へと駆け寄ってきた。

「どうですか。私について色々分かりました?」
「……体術の習熟と、呪力操作が噛み合ってねぇ。弱くはないが、強くもない。典型的な二級止まりの呪術師だな」
「その通りです!」

 さも嬉しそうに澪は手を叩く。
 明らかに低い評価を下したのだが、伝わっていないのか。……否、この問いかけには何らかの目論見があるのだろう。「他には?」と言わんばかりに、目が催促してきた。
 これ以上は興味もないしどうでもいい。甚爾が目を逸らすと、追いかけるように彼女の体が傾く。

「私は、実力がないくせに単独行動しかしません。だからたとえ緊急であっても、この程度の任務ばかりなんです。それに、索敵や嗅覚の的確さには自負がありますから、危険と判断した場合には迅速に撤退、救援を要請して切り抜けています。安全安心、命を大事に、が行動指針なのですよ」
 にこやかな眼差しは、明らかに考えろと命令している。
「でも。貴方はこんなに弱くはないでしょう?」
 澪の言動は不愉快で仕方がないが、いつもの癖で脳内は情報を整理し始めて答えを導き始めた。

「……俺を代わりに戦わせて、自分の実力以上の実績を積むのが目的なんだろ」
 言うやいなや、彼女は嬉しそうに微笑む。
「だが上級の任務を請ければオマエ自身が死ぬ可能性が増す。仮に準一級以上の呪霊相手に俺が戦闘を放棄すれば、二人揃ってお陀仏だ」
「貴方にはメリットしかないでしょう。もしや、私を心配してくださるのですか?」

 当然澪への心配などは毛頭ない。あるのは何を企んでいるのかという疑心だけだ。
「リスクを負ってまで任務を代行させる必要がどこにある? 安全安心とかいう指針はどこいった」
「保身を捨て、命を賭さなければ、私は上にいけないからですよ。私一人の力では、自分の身を守るだけで精一杯ですから……」
 悔しげに澪の眉間が歪む。しかし、すぐにぱっと表情を明るくして声を弾ませた。
「ま、何はともあれ、本日の任務はこれにて無事終了です!……今後のこと、よく考えておいてくださいね」

 無反応を返しても、彼女はもう表情を曇らせることはなかった。鼻歌まじりに上着から携帯電話を取り出して、意気揚々と安曇に報告をし始めた。