My last 改稿版
皮下の冷戦 04

1

 リビングに戻ると、開けた扉の前で澪が正座をして待っていた。甚爾は思わず怪訝な表情を浮かべる。

「すみません。もう一台ベッド買うのを忘れていました」
 どうやら反省の意を込めた正座らしい。衣服の用意にはあれだけ余念がないというのに、随分大きな物忘れである。呆れながらも彼は部屋の奥にあるソファーに視線を向けた。
「それに寝室の用意もうっかりしてまして……。申し訳ありませんが、明日……」
「必要ない。そこで寝る」
 澪が提示する物事を素直に受け取り続けていては、命令の機能に感づかれるリスクも増す。指示に繋がる発言をさせない、というのが当面の基本行動であるので、彼が自ら選択しているように見せかけられるのは好都合だ。
 また、彼は大して寝場所に対する拘りがない。
 女の住居を転々としながら生活していた時分は、散らかった部屋の真ん中で女と並んで寝る事もあれば、広々足を伸ばして快適に横になれる寝室など、寝床は様々だった。
 彼は居住空間ではなく、文無しを受け入れてくれる女の性分に住んでいたので、睡眠が取れる場所があればそれで十分だ。

「そうですか! これすっごく座り心地いいんですよ。もちろん寝転がってもいい感じです」
 甚爾の視線の後を追ってソファーに駆け寄った澪は、軽く飛び込むように座り込む。彼女が座ると、尚更家具が大きく見えた。楽しそうに揺れる体はぴたりと動きを止め、小さく首を傾げた。
「貴方の体格でも寝るには問題はなさそうですけど……、体を痛めちゃいそうじゃないですか?」
 つい数時間前に死にかけたのを忘れているかのような気楽な笑みだ。ただし、随分と血を失ったようで、顔色は目に見えて悪い。死にかけの自分を見捨てた人間に、これほど軽い調子で接せられる感性が不思議でならなかった。
 すると、ふと彼女の愛想笑いに一組の男女の姿が重なった。
(……ああ、思い出した。この能天気そうでヘラヘラした笑い方。……あの、白主か。ようやく繋がった)

 甚爾が「白主」という名を初めて聞いたのは、まだ禪院の姓を捨てる前のこと。
 御三家が一つ、加茂家の人間の暗殺を請けた時のことだ。その標的自体は大したことはないが、代わりにかなり強力な結界術師に護られているのだと聞かされた。
 その術師というのが白主家の当主だった。当時の風貌から考えて、その男は澪の父親で間違いない。
 難攻不落と謳われていた結界を攻略すべく情報を集めていた際、加茂の敷地内で白主家の夫婦を見た。家の連中に見下され皮肉を吐かれても、男は馬鹿みたいに笑ったまま少しも堪えていない様子で振る舞っていた。
 正直、男よりも傍に連れ添う女の器量の良さに興味を惹かれたのだが、思い起こせばその女に澪の相貌はよく似ている。ただし、女が纏っていた儚さや淑やかさが澪には一切感じられないが。
 それはさておき、偶然の遭遇から、白主家は内輪で「犬」だとか「小間使い」と揶揄されている家系だと知った。
 御三家とその周辺の一族には泥沼の身内話がごまんとある。知りたくなくても勝手に舞い込んでくる情報も多い。あまりに多すぎるがゆえに防ぎようがなく、遮断しようとするだけ返って徒労となるのだ。
 しかし当時は、呪力も術式も持ち得たとて人間扱いされない哀れな奴もいるのかと、他人事ながら関心を引かれる所があったのも事実だった。
 暗殺は勿論成功したが、術式には随分手こずった。
 加茂家で見かけて以来、肝心な術師本人の足取りが全く掴めず、結界に関する情報収集も破壊も難航した。
 最終的に術式の攻略はやめて、守護されている人間の警戒網から穴を見出し、術式の範囲外へと誘き寄せて仕留めた。つまり加茂家の人間がバカだったお陰で成功した仕事だ。
 金は大量に入ったが、結界術式を打ち破るつもりでいたので、どうも釈然としなかった仕事でもある。
 この経験こそ白主という名が記憶の奥底で消えずにしぶとく残っていた大きな要因だろう。

 あの時は不要だった白主家の内情だが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
 今も加茂家が権威をふるっているのなら、澪の目的は十中八九加茂家への私怨が由来だろう。
 まずはこの話で突いて、精神的な強度を計る。そして澪の恐れているもの、最も触れられたくない部分を探る。ここであっさり弱みを見せるようなら、心を削るのも簡単だろう。これで共同生活の解消という一手に繋げていく。明確に彼の行動指針が決定した。

2

「私、先に夕飯を済ませちゃったので、貴方もお好きな時にどうぞ」
「オマエ、白主って言ったな」
「……おや? 名前、覚えてくれたんですね」
 部屋を出ようとする足を止めて、澪は甚爾を見上げながら眦を細めた。その張り付いた薄笑がどこまで保てるか、と冷やかな蔑みを込めて甚爾は告げる。

「加茂のパシリの家系だろ」
「そうです、よくご存知で」
 澪の表情は崩れる気配がない。この程度の蔑みではまだ揺らがないようだ。
「当主の嫁が美人だったから覚えてた。見かけたのは随分前のことだけどな」
「へぇ……。って、それまさか私の母じゃないですか!? ちょっと複雑な気分です……」

 返答からはまだまだ余裕が感じられるが、それもここまでだ。
 疑似餌を揺らすように、彼は少しずつ彼女の心緒の刺激を開始する。

「車ん中で語ってた目的とやらは半分嘘だろ。力が欲しいのは、今まで自分を蔑んできた連中への復讐の為。本心はそんな所か」
「鋭いですねぇ」
 余裕な素振りで切り抜けるつもりだろうが、しかし内心で動揺が始まっているとしたら、じきに綻びが見えて来る筈だ。

「そのくせ、父親に大恥をかかせた男を選ぶとか。流石、呪術師ってやつはイカれてんな」
「……どういうことでしょう」
 食いついた。澪がかすかに目を見張ったのを彼は見逃さなかった。
「昔のことさ。当時の加茂家当主の親とかなんとかの暗殺依頼を受けたことがある。そいつを護衛してたのがオマエの父親だ。まあ、護られてる老いぼれがバカだったお陰で、俺は報酬を得られたが、オマエの家は取り潰しになるかどうかまで揉めたんだろ?」

 澪がこの事実を知らないと踏んで、最後の一言に虚偽の悪意を込めてみせた。すると、たちまち彼女の表情が曇りだす。分かりやすいほどに反応を見せる姿に笑いが込み上げて来そうだが、まだ勝利を確信するには尚早だ。

……腐っても御三家。あの加茂家を相手にするとならば、降霊術式は確かに強力だ。しかしどうにも澪の手段はあちこちが中途半端でお粗末に思えてならなかった。
 恐らく、加茂家への復讐は一族が澪に託したものではない。澪が独断で走り出した計画ではないか。そう仮定した甚爾は、澪が恐れているものの輪郭を掴み出していた。

「貴方が過去に何をしたかなんて、私達にはさして関係ないでしょう」
「まあそうかもな。……けどな、過去の失敗はともかく、オマエの目論見はしくじれば取り潰しどころじゃ済まねぇぞ」
「承知の上です」
「本気で飼い犬が主人に敵うと思ってんのか?」
「ええ。何事も、やってみなければ結果は分からないですから」
 強い語気の澪に対し、甚爾は笑いを含んで返す。萎縮することなく食らいついてくる気概に、わずかだが対抗心が灯る。
「甘やかされて育ったお嬢様にはわかんねぇだろうが、僅かでも芽を出そうもんなら、速攻潰されんのがオチだ」
「それも分かっていますよ。あの家の狡猾さは……」

 言葉を交わすたびに澪の口調が苛立ちを孕んでいく。甚爾は澪に近付いて行き、間近で見下ろす。それでも戦う意思を孕んだ眼差しを返してくる。

「オマエ程度じゃ加茂に敵わねぇ。分相応ってやつを考えろよ」
 向き合い見上げる瞳の内を探るように、その頬と横髪の隙間に指を差し込んだ。
「……ああ、それとも。権威に負けた者同士、傷でも舐め合うか? 女を慰めんのはまあまあ得意だぜ」
 彼女の頭に血が上りだしているのを手の内で感じた。しかし、奥歯を噛み締めて耐えている。まだこの女の沸点には届いていない。ならば、これはどうか。

「だが、オマエの暴走で白主家が一族全員処刑ってのも、それはそれで笑えるけどな」
 背を屈めて顔を近づけながら、澪の柔らかな頬を指の腹で撫でた。
 途端、一気に眼下の気配が張り詰める。

「触らないで」
 触れる手を雑に払い、彼女は怒気を孕んだ目で甚爾を睨む。

「私たちの未来を勝手に決めないでください。貴方と違って、私は絶対に諦めない。そうやって悲観的にしか考えられない貴方になんて、……何も期待してない」

 澪は声を荒げる事はなかったが、低く唸るような声音には強い憤りが乗せられている。
 一族を貶める言葉こそ、この女にとっての最たる侮辱らしい。そして言葉とは裏腹に、澪は己の行動による一族の破滅を恐れている。早々にこの女の弱点を知り得たのは大きな収穫だ。
 確信めいた笑みを返す甚爾に一切の反応をせず、澪は身を翻して足早に部屋を出て行ったのだった。

3

 能天気な馬鹿は演じていただけで、思ったよりも澪の情緒は揺らぎやすく脆い。安い挑発にまんまと乗ってくる辺り、精神的に未熟だ。この調子なら共同生活の問題は早々に決着がつくだろう。やはりこういう削り方の方が性に合っている。彼の頭の回転は速度を増す。後々罠に嵌める為に役立ちそうな材料も見えてきた。

「……冷た!」
 思案は途中で寸断された。扉と廊下を隔てているにも関わらず、洗面室の方から澪の叫声がここまで聞こえて来たのだ。
 かすかに甚爾の身内に嫌な予感が過ぎる。
(まさか水でも被ったか?……いや、流石にそれはないだろ)
 仕切り直すべく、彼はさっさと食事を済ませてソファーに寝転がった。

 次はどう煽ってやろうかと考えていると、二十分程で部屋着に着替えた澪が戻って来た。
 横寝のまま起き上がりもせず、甚爾は正面にやってきた姿を見遣る。
 彼女の髪は濡れたままで、相貌は風呂で温まったようには見えない。それどころか、先ほど以上に血色を失っていた。

(コイツ……なんでわざわざ戻ってきた)
 普通なら自分をこき下ろした相手の顔など見たくはないだろう。風呂から上がればさっさと寝室に引っ込むと思っていたのだが、いちいち行動から思考が読み取れない女だ。
 部屋に物を忘れて渋々取りに来たという風でもなく、どこか物申したそうに甚爾を見据えていた。一言二言、文句でも言ってやろうという魂胆か。
 だが真っ直ぐに向けられた瞳に怒りは露ほども感じられない。真っ白な顔色に相反して、力強い生気さえ読み取れる。

 先ほどの嫌な予感が再び過ぎる。
 この女は物理的に頭を冷やすべく、本当に風呂場で水を被ってきたのではないか。だとしたら余りにも馬鹿が過ぎるが、この女なら有り得なくもない気がする。
 奇行の真意はさて置き、澪がこの短時間で冷静さを取り戻したのだとしたら、状況は芳しくない。
 身内で回る思考を眉根に出さぬよう、表情無く甚爾は彼女を正視する。澪はその場で正座をすると、真摯な眼差しを向けてきた。

「酷いことを言ってしまって、申し訳ありませんでした」
 深々と澪は頭を下げる。
「……は?」
 思わず甚爾は起き上がった。疑問が浮かぶ。この女は一体なぜ、何に対して謝ってきているのか、と。

「貴方の推察は概ね正しいです。でも、期待をしていないというのは嘘です。私は、同情などではなく、本気で貴方の力を買っています。……貴方でなければ私の目的は成し得ないと、信じているから」

 甚爾はただ呆気にとられていた。相対する瞳には憤りの余韻すら残っていない。
 煽ったのはこちらだ。それなのに、この女は「期待していない」なんて些細な買い言葉を省みて、冷静さを取り戻したというのか。意味が分からない。奇襲返しによって形勢を逆転されたようで屈辱的ですらある。

「貴方への仕打ちは身勝手が過ぎると分かっています。私をどれほど恨んでも構いません。でも。……だからこそ、決して悪い思いはさせません。それだけは分かって下さい」

 甚爾の心境など知りもしない澪は、少しの淀みもない言葉をつらつらと述べた。
 だが、その澄んだ眼差しの奥が内包するのは、偽善めいた自己完結の押し付けに過ぎない。甚爾は皮肉を込めて嘲笑を返す。

「悪い思いはさせない? 何一つ成功してない癖に大層な自信だな」
「そうでしょう? お見せ出来ないのが残念なくらい特大ですよ」

 澪は言葉に乗せた悪意を無視し、表面上の意味のままに捉えて返してきた。こちらの気が抜けてしまうくらいに無垢な笑顔を添え付けて。

「……根拠もねぇ癖に」
 これ以上何を言っても揺るがないのを覚りながら、それでも彼が反論をやめないのは、腹いせでも悪足掻きでもある。これ以上会話を続けて何の意味があるのか、と冷静に論う身内の声を認めながらも、口に出さずにはいられなかった。

「ご存知ありませんか? 根拠のない自信程、強いものはないんですよ。……とはいえ。あそこまで言われると、流石のつよつよメンタルの私でもちょっと傷つきますが」
「それこそ大嘘だろ」
「いえいえ。ですから、ここはお互い謝罪し合って、スッキリさっぱり水に流そうじゃないですか」

 これ以上話していてはこの女のペースに流されるだけだ。諦めて、甚爾は顔を背けた。すると背後で小さく笑う音が聞こえてくる。
「私、髪を乾かしてきます」

 そして足音が遠ざかって行った……、かと思いきや、なぜかぱたぱたと戻ってくる。
「そうだ、これだけは言わせて下さい。貴方は先ほど権威に負けたと仰いましたけど、これには異議アリアリです」
 視線だけで澪を見る。彼女の相貌は微笑を湛えていたが、自信に満ちているようには見えなかった。
「……まだ負けてなんかいませんよ。私も、貴方も」
 あやすような、慰めるような。……あるいは母が子に見せるような、そういう表情だと思った。

 それから互いに言葉を交えることなく、彼女は部屋から出ていった。

4

 時間を置いて、澪は再びリビングにやって来ると、甚爾が机の上に置きっぱなしにしていた容器を片付ける。次いで収納から毛布を取り出し、甚爾に差し出した。

「暖かいからって何も掛けないと風邪引いちゃいますよ」
 彼は仰向けに寝転がったままに毛布を受け取るも、乱雑にソファーの背凭れに引っ掛けた。
 その態度に何を言うでもなく澪の足音は遠ざかっていく。
「もう電気消しちゃってもいいですか?」

「……無謀な野心なんて捨てて、加茂に尻尾振って生きてた方が楽だろ」
 声の主には一瞥もくれず、問いかけにも答えず、甚爾は淡々と吐き捨てた。
 時を交わさずに聞こえてきたのは、穏やかな声だった。

「確かに。貴方の言う通りかも知れませんね。……でも」
 ゆっくりと、澪が近づいてくる音がする。

「努力も、抗いも、思考さえも放棄しながら生きて……」
 間近で音が止む。真横に顔を向ければ、しゃがみ込む澪と視線が交わった。

「そんな人生は幸せですか?」
 その言葉は、受け取り方によっては挑発に聞こえてもおかしくはない。それなのに、またしても澪の相貌に別の面影が重なる。途端に目を逸らすことも、反論することも出来なくなった。
 有りし日に向けられた慈悲深い眼差しによく似ている。……そう錯覚してしまったからだ。

「…………さあな」
 甚爾が視線を逸らすと、澪の方が慌てたように立ち上がり、咳払いをした。
「そ、そうそう。この家の中に限っては行動範囲は制限しませんので、安心して下さい。……おやすみなさい」

 部屋の明かりが落ち、扉が閉まる音を最後に、部屋は無音に包まれた。甚爾は黒い天井を仰ぎ惟る。
「幸せ」と澪は言ったが、実に下らない価値観だ。
 それを願うことがどれほど無意味で馬鹿げているかを彼は識っている。

5

 目を閉じて次なる画策を脳内に描く真夜中。
 廊下から扉が開く音を聞き取った甚爾は、目蓋を持ち上げる。
 それから間も無くしてリビングの扉が開いた。澪が水でも飲みに来たのだろうと、再び目を閉じたものの、足音はキッチンを素通りしてこちらに近づいて来る。

 首を持ち上げて見ると、ふらふらとした足取りで近づいてくる影が、暗闇に朧の輪郭を浮かべていた。勿論影の正体は澪で相違無い。だがその面持ちに、あの笑顔は張り付いてはいなかった。
 それどころか、どこか虚な表情でもあり、不安や焦燥といった感情が滲んでいるようにも見えた。まるで初めての場所に惑う子供のように、左右を見回している。
 多分、寝惚けているだけだ。放っておけばいい。その程度の関心しか湧かず、甚爾は横向きに寝直した。
 澪は電気も付けないまま、ゆっくりとソファーへと近づいてくる。そして、腰掛けた。
 当然、甚爾は譲ることも場所を空けてやることもしていない。つまり彼女の体が乗ったのは、座面ではなく甚爾の脇腹の上だ。上から疲れ果てたような深く長い溜息が聞こえてきた。

(いや、普通気付くだろ。わざとやってんのか……この女)
 意図はどうあれ、とにかく不愉快だし、何より邪魔だ。押し除けようと手を伸ばすが、彼女に触れることなく腕が硬直する。
 突き飛ばすつもりでも殴るつもりでもない。一体何の原則が働いているのか。……ふと記憶を漁れば、怒りを露わにした澪の眼差しが浮かぶ。

(ああ……、しくじったな。さっきの、触らないで、ってやつか)
 命令には警戒していたつもりだったが、失態だ。面白いくらいに反応を見せ、逃げようとする澪を追い詰めすぎたのだ。熱くなりすぎていた。……らしくない。
 だが、この程度の命令なら、大した危機にはならないだろう。甚爾から澪に触れることなど、今後は頼まれてもしない。ひとまずはこの状況をどうするかが問題だ。

「いつまで寝惚けてんだよ。どけ」
 聞こえていないのか無視しているのか、澪はこちらを見向きもしない。両手で顔を覆って、項垂れたまま動かなかった。

 強引に起き上がってしまおうかと思ったが、力が入らない。澪が受け身を取れない体勢ゆえか、危害の方の原則に引っ掛かってしまったらしい。
 ならば、と身を捩ってみれば、今度は動くことができた。だが彼が仰向けになっても、下の体が動くのに合わせて上の身体がずれただけで、身体は腹の真上に移動しただけだった。
 そこでようやく澪が顔をもたげる。鈍い動作で甚爾の方に視線が向けられた。
……生気のない淀んだ瞳だった。何もかもを失ったかのような、諦めのような、実に情けない双眸だった。

「つまんねぇ当てつけをすんな。さっさと降りろ」
 甚爾が低く言うと、彼女の目は驚いたように大きく見開かれた。そして、彼の体に縋り付くように、身を低く寄せてくる。
 目の前のものを確かめるように、探るように、澪は体に触れてきた。胸元、首、頬と、手のひらを滑らせていく。その掌は、寒気を覚えるほどに温度を失っていた。

 頬に添えられた澪の肌は、少しずつ甚爾の体温を吸い取っていく。昼間とは真逆の状況だ。
 互いの温度が混じわるほどに、澪の眼差しが帯びる生気は強まっていく。
 澪は彼の頬に手を添えたまま、もう片腕を彼の頭の傍に付き、瞳を覗き込んできた。
 鼻先が触れ合いそうなところまで近づかれても、甚爾は動けなかった。清らかな湖面が凪いでいるような色に、目を奪われる。

「……甚爾さん」

……本当に、この女は、白主澪なのだろうか。
 その微笑い方をする女は、この世でたった一人しか、彼は知らない。
 けれど、眼前の女は全くの別人だ。声も相貌も体の形も、全部が違う。頭では理解していても、無自覚の劣情が身内に蘇った。
 澪の肩から髪の一房が滑り落ちる音がした。芳烈な香りがたつような錯覚と、髪が体に触れただけで期待を膨らませようとする身体に抗えない。

 はたとした瞬間。冷たくて柔らかな薄い皮膚が、彼の口唇に触れていた。ほんの一瞬のことだった。
 甚爾が抵抗するまでもなく、澪の温度はすぐに離れていき、同時に腹の上の重みも失せた。
 ゆったりとした歩みで影を揺らしながら、彼女は何事もなかったかのように扉の方へ向かっていく。

 思わず起き上がった。けれど、彼女の背が扉に遮られるまで、彼は面食らって呆然としていた。
 幻覚じみた今の出来事を整理しようにも、一から十まで澪の行動の意味はあちこちへ散らばるばかりで纏まらない。
 果たして、夢見心地の無意味な行動か。それともこちらを惑わす奇策か。

……空想を広げても埒があかない。もう考えるのも面倒だ。今のは不意に突風が通り抜けただけ。さもないことだ。……そうであるべきだ。
 困惑を放棄した彼は、ソファーに身を投げるように沈み込ませ、目を閉じた。
 微睡に至るまで、得体の知れない”何か”で満ちた澪の微笑が、ずっと目蓋の裏に焼き付いていた。