My last 改稿版
皮下の冷戦 03

1

 沈んだ筈の意識が浮上していく。
 この肉体は容易く死に至らない。高すぎる身体機能を煩わしく思った。

(……。いや、違う)

 意識が、体の熱が、生を維持するあらゆる機能が死の淵から遠ざかっている。
 彼の意識が戻ったのは、肉体が回復し始めていたからだ。天与の肉体を持つ彼の自己治癒力は確かに高い。とはいえ、この回復の速さは異常だ。
 仰臥したままに目を開くと、傍らで澪が膝を付いて胸元の傷に向かい何かを施している。彼女は視線に気付くと緩やかに微笑を向けてきた。

 「私、呪霊よりも嫌われていたんですね。予想外でした」
 体の反応はまだ鈍い。起き上がることは出来ず、澪の手元はよく見えなかった。しかし首を傾け視界を変えると、空の輸血バッグが幾つか床に置かれているのが見えた。

「私の血液です。甦らせた人間にのみ、外的損傷の修復効果があります」
「…………余計な事すんな」
「残念ですが、そう簡単には逃がしませんよ」

 だが、余裕そうに笑う澪の表情は、徐々に険しい色に変わっていく。空になった容器がまた一つ増え、澪の手は止まる。
「……。もっと採っておけば良かったかなぁ……」
 どうやら持ち合わせていた血液が尽きたらしい。彼の身体の深い傷は、半分も癒えていない。再生が止まった傷口から再び血が溢れ出した。
 澪の表情や行動から察するに、ここで息絶えれば、再度の甦生は不可と見受けられる。
 最期に見るのが不愉快な女であるのはこの際目を瞑る。心底悔しがる顔を見ながらくたばってやる。甚爾は嘲りを込めて、片端の口角を上げた。

「大丈夫。まだここにあります」
 澪は薄く相好を崩すと、左腕の袖を捲って白い肌を空気に晒す。次いで鞄の中から何かを取り出した。
 僅かに震える手の内にあるのは、呪符が貼られた短刀であった。鞘から刀身を抜いた瞬間、澪の手が大きく震え出した。
 彼女は細く長い息を吐き、意を決したように表情を険しくした。腕の内側へと、ガタガタと手を震わせながら刃を立てる。……そして勢いよく引き下ろした。

 短い呻きが耳に届く。
 どう見ても力を込め過ぎだ。深く裂かれた澪の腕からは、だらだらと多量の血が溢れ出す。彼女はその傷口を甚爾の裂傷に押し当てた。
 粘り気のある水音を立てて傷口が触れ合う。にわかに体が異様に昂り始めるのを甚爾は知覚した。
 まるで血の交わりを悦んでいるかのような、妙に生き生きとした高揚だった。……そして信じ難いことに、彼の体は嬉々として澪の血を飲み込んでいた。無意識に顔をしかめた。
 生を求める肉体と、死を望む心の乖離が不快だった。

 澪は歯を食いしばりながら、甚爾を睨むように見下ろす。彼の頭の真横に腕を置き、懸命に身体を支えていた。少しずつ、眼前の呼吸が荒くなっていき、爪が苦しげに地面を引っ掻く音がした。
 ふいに澪は甚爾に顔を寄せ、口唇を端正に湾曲させた。目の奥を朦朧に澱ませながらも、狂気とも凄艶とも感じさせる表情がそこにあった。

「これからは、もっと……。私を恨んで下さいね」
 そう言って、彼女は支える糸が切れたかのように弱々しく頽れた。残念ながら、澪の鮮血を受け入れた傷は完治していた。

2

 澪は甚爾に被さったまま、呻吟はおろか微動もしない。息はあるが出血は収まっていないようなので、放置していれば勝手に死ぬ。
 上体は何の支障もなく起こせた。澪の体を軽く押し退けると、あっさりと床に転がった。
 仰向けになった姿体に目を落とせば、愁眉の相貌が目に入る。顔色はどんどん血の色が引いて、死人の色に近づいていく。
 逃さないと言い放った本人が死んでは何の意味もない。己の命を削ってでも生かそうとする意味が分からない。あまりの馬鹿馬鹿しさに嘲笑すら浮かばなかった。
 消えかける生命を見下ろしていると、外から駆け足が聞こえた。間もなくして扉が開け放たれ、室内に声が響く。

「白主さん……!」
 現れたのは安曇だった。心許なさそうに辺りを見渡し、こちらに目を向けた途端、血相を変えて駆け寄ってくる。
「…………。悪運の強い奴」
 吐き捨てる甚爾を尻目に、安曇は澪の体を抱き上げ腕の傷を確認すると、止血処置を施し始めた。
 手際良く済ませて鞄に荷物を纏め、軽々と澪を抱えて立ち上がった。最後に甚爾へと向き直る。
「高専に戻ります。……来て、いただけますか」
 澪が生きている限り、甚爾は法則に縛られ続ける。仮に拒否した所で、あの気持ちの悪い感覚を味わわされるだけだ。諦めの息を吐き、立ち上がった。

 高専に到着すると、澪は安曇に抱えられ、医務室へと運び込まれた。治療に立ち会うつもりのない甚爾は、離れていられるぎりぎりの範囲を保ちながら、外に出ていた。
 腰掛けられそうな生垣の縁に座り、濃紺の空に黒々と輪郭を描く仏塔を眺める。
 画策は失敗だ。馬鹿そうな奴だと思っていたが、見当が外れた。あの女はイカれてる。ああいうタイプこそ、侮っていると痛い目を見る。
 状況は芳しくないと思い知らされる一方だ。諦めが脳裏を過るが、何故か本能的な思考がそれを許さなかった。

 澪から逃れる為に出来得る手立ては、今のところ二択。呪詛師に暗殺させるか、罠に嵌めて自滅に追い込むかだ。
 しかしどちらにしても一人では実行不可能。綿密な計画と協力者が必要だ。しかも前者は今の状態では実現は不可能。
 生前関わりのあった仲介役が今も健在ならば、暗殺依頼のハードルだけは下がるだろう。だが大きな問題は、甚爾の手元に金という名の信用が一切無いことである。

 仲介役の男との付き合いは十年以上あり、取引における信用関係は堅実に構築されていた。だが信頼での繋がりは蜘蛛の糸ほどもない。
 原則に縛られ「術師殺し」としての役割もこなせない今、仮に仲介役に接触出来た所で相手にもされないのは目に見えている。他にも連絡手段の入手、行動範囲の拡張など、課題も山積みだ。

 甚爾は組まれた膝に肘を立てて頬杖を付く。
 ならばどうすべきか。その答えはもう出ている。妥当なのは後者だと。
 どんな罠にどうやって嵌めるのか、それを明らかにする為に澪の情報を集める。
 屈服した振りをして信頼関係を作り、油断させる。
 時間はかかるものの、相手の警戒が薄くなれば情報はボロボロと落ちてきて、相手の胸懐が無防備になる瞬間が必ず来る。敵を知り尽くした上で、隙が生まれるのを見計らい、素早く叩く。これこそ戦略の定石。
……それは分かっている。分かっているが、極力澪との接触を避けたいという我意が、この選択の邪魔をしていた。

 理屈を抜きにして、あの女には従いたくないし、偽りでも関係を深めない方が良い気がしてならない。そんな合理性を欠いた感情が胸中に居座っていた。それはある意味、澪への対抗心に近いものかも知れない。
 内包する真意など知った事ではないが、澪は甚爾に「恨め」と告げた。
 ならば望み通りにしてやろう。そう思った。易々と言い放った言葉を後悔させてやる。そんな闘志めいた感情が、冷静な思考の壁となっていた。

 思考がまとまらない。一度目を閉じる。そして左腕と脇腹、それぞれに触れる。そこには確かに彼の肉体が傷ひとつないままに在った。
(…………あの日。いつもの自分を見失って無様に負けただろうが)
 己を叱咤する言葉を浮かべる。二度と思い出したくない光景が、情緒が、澱の中から這い出そうとするのを抑え込んだ。

 目を開けた時、彼はいつも通りの冷静さを取り戻し始めていた。とはいえ、服従の振りをして澪と仲良しこよしなんてのはまっぴらゴメンだ。
 その代わり、嫌悪や反抗心だけは一旦仕舞い込むとする。まずは感情を表に出さずに様子を伺うことにした。

「お待たせしました。無事復活です」
 一縷の「あわよくば」を期待し二時間強を待ったが、澪は平然とした足取りで校舎から出てきた。赤黒く染まった左袖を捲って、傷一つない素肌を見せてくる。
「お互い服がボロボロですね。取っ組み合いの喧嘩でもしたみたいです」
 そう言って屈託無い笑みを向けてくるが、甚爾は座ったまま正面を見上げるだけで反応は返さない。すると、彼女は背を屈めて近づいてくる。

「でも、貴方の方が劣勢みたい」
 澪は声音を低く落とし、細い指先で引き裂かれた服をそっとなぞる。見下ろす視線は実に好戦的な色を帯びていた。
「……今はな」
 口をついて出た言葉に、甚爾はかすかに眼を見張った。安い挑発を受けるつもりはない、はずだった。この女への恨みが、無自覚に肥大し始めているのだろうか。だとしたら、その感情はあからさまに出すべきではない。彼は見失いかけた冷静の思考を手繰り寄せる。

「あ、そうそう。言い忘れていましたが、私達はこれから一緒に暮らす事になります。改めて、よろしくお願いしますね」
「……はあ?」
 ついさっきの「嫌悪は一旦仕舞い、感情を表に出さない」という意思はどこへやら、甚爾は最速で不服を顔全体に出した。

「夕飯を調達しながら家に帰りましょうか。安曇さんが車で待っていてくれていますから、そろそろ行きますよ」
 思い切り表情を歪める甚爾を気にする素振りはなく、澪は背を向けて歩き出す。細く長い息をついて、彼は重い腰を上げて後に続いた。

 車に乗り込むと、安曇が愛想なく助手席に置かれたビニール袋を後部に差し出す。受け取った澪は、中を覗き込み、途端に純粋めいた喜色に相貌を染める。
「ありがとうございます! 今度ご飯ご馳走します!」
「いえ結構です」
「冷たいなぁ。あ、音楽掛けていいですか?」
「急に歌い出すから駄目です。黙って座っててください」
 あちこちに飛んでいく会話を安曇は動じることなく全てあしらった。澪は、小さく口を尖らせつつ乗り出していた体を引っ込めて背を座席に預ける。

「分かりましたよ。家に着くまで大人しくしてます」
 そう言って袋の中身を膝の上に乗せた。取り出されたのは特に何の変哲もない市販のゼリー飲料が三つ。「どれにしようかな」と弾んだ声音を発しているが、そこまで喜ぶほどの物でもないだろう。
 容器の口を開けて飲み始めてからの彼女は玩具を与えられて夢中になる子供さながらに静かだった。
 適当に夕飯を購入し、澪の家に到着した時には安曇が袋を預かっていたので、宣言の通り大人しく、しかも全て飲み干したらしい。まんまと物で釣られるあたり、さながらというよりは正に子供だ。
 しかし、それが彼女の本質かどうかは断定できない。澪の腹の内を知るにはまだまだ骨が折れそうである。

3

 到着したのは都内のマンションで、中へ入ると、広々としたエントランスラウンジに出迎えられた。澪の案内のまま進むと、住居へ立ち入るまでに三段階の防犯設備が待ち受けていた。
 明らかな新築、駅近の立地、こんな場所に、こんな女が住んでいるというのはにわかに信じ難い。
 玄関に入っても、人が住んでいるにおいが全くしない。まるでモデルハウスのような生活感の感じられない家だった。靴を脱いで澪よりも先に入ろうとしたその時だった。

「あ。ちゃんとスリッパ履いて下さいね」
 そんな何気ない言葉など、当然ながら彼は無視するつもりだ。マットの上に置かれたそれを踏み越えようとした、その時。
 体の自由が突然奪われ、澪に言われた通りに足が動いた。咄嗟に驚愕を押し殺して何事も無かったように取り繕ったが、瞬時に彼は理解した。
 命令は完全に無効になっていた訳ではなかったのだ、と。

 命令の強制力を身を持って知った彼の身内に焦りが生じた。三原則よりもこちらの方が余程厄介だ。
 もしも「戦え」という命令を彼の体が動くまで何度も出せば、いつかこちらの意思に反して体が遵守を示してしまう可能性がある。そうなれば、こちらのアドバンテージはゼロになる。否、それどころか詰みだ。

 わずかに振り返り澪の様子を窺う。幸い靴を収納棚に仕舞っている最中で、こちらに背を向けていた。加えて言及する素振りもない。
 甚爾は平然を装い、横に伸びた廊下を見遣りリビングであろう方向の扉に向かって歩き出す。すると後ろから「おや? ちゃんと履いてる……」と呟く声が耳に届いた。……新たな確信を得た。

 三原則と同様、命令も術師本人は発動を感覚的に知る事が出来ないのだ。
 ならば、命令になりかねない発言を回避する為に振る舞い、例え命令に従ってしまっても、己の意志で行動しているものだと相手に思い込ませればいい。この程度のイレギュラーなら、仲良しこよしの振りをしなくても十分やっていける。
 むしろこの場で命令の効力が完全に死んでいないと知れたのは吉だ。
 まずは命令の存在がバレないようにする。その為に、この共同生活を解消させることが先決。彼は冷静に判断した。後ろに続く澪のゆったりとした足音を聞きながら扉を開ける。

 中は随分広いリビングダイニングで、黒や濃い色の木製の家具を基調とした落ち着きのある内装だ。十分な広さのカウンターキッチンが入り口近くにあり、部屋の奥を見渡せば、壁掛けの巨大なテレビと、それに向かい合う随分大きなソファー、間近には小ぶりのローテーブルが置かれている。ソファーのやや後方には四つの椅子が囲むやや小さめの丸テーブルがあった。主な家具はその程度だ。その他には僅かな緑を演出する観葉植物が一つと、ソファーとテレビの間に敷かれた絨毯だけだった。その全てはシンプルだが上等な物で統一されている。

(……大方、援助は優秀な親から受けている。ってところか)
 三月まで学生だった身分には明らかに不相応な家。考えられるのは親の過剰なまでの寵愛だろう。恵まれた人間は、無条件に自由で贅沢な生活を享受できるというのは、時が流れても変わらないらしい。

「さて、では他のお部屋や収納をご案内いたしましょう!」
 思考を蹴散らす明るい声音に振り向くと、澪はこちらに満面の笑みを向けていた。
 無感情に付いていけば、書庫と化している一室や、それから使っていなさそうなトレーニング用の器具が何種も占める一室など、この家の間取りを案内された。
 最後に見せられたのは、洋室程の広さのあるウォークインクローゼット。その広い収納にはずらりと男物の服だけが並んでいた。衣服の群れの前で仁王立ちする澪が一言。
「どうです? これ全部貴方のものなのですよ!」

 余程のことでは動じない性分の彼でも、これには軽く引いた。
 しかも、どの服も彼が絶対に選ぶことのない品の良さそうな意匠のものばかりである。一瞬目を疑ったがスーツまで数着あった。唯一の救いがあるとしたら、奇抜な色のものは無いことくらいだ。

「それから、靴も洋服に合わせて各種取り揃えています! こっちに専用の靴棚が……」
 これ以上付き合っていては夜が更けそうだ。彼は手で空を軽く払う。
「もういい。オマエの血のにおいが服に染みついて気持ち悪い」

 あくまで己の意思の赴くままに行動していると彼女の目に映るように、早々に洗面室へ足を向けた。
 澪は特に引き止める事もなく「ごゆっくり」と間延びした声で見送った。
 他人の生活に溶け込むのは得意な彼であるが、この新たな生活に慣れるには時間が掛かりそうだ。