My last 改稿版
旱天の葛の葉 -3-

『聡明の戯れ』

「あれ。五条先生普通にいるじゃん」
 高専へと戻ってきた五条が校舎に入ろうとしたその時、後方から聞こえてきた声に足を止めた。振り返ると、入り口に二人の学生の姿がある。一年生の垂水と妹尾だ。
 垂水が目を丸くして不思議そうにしているのに対し、妹尾は身を細めて訝しげに口を開く。
「…………まさか俺達の引率サボったんじゃ……」

 その言葉に五条はふと思い出す。今日は彼等を高専の卒業生である澪に託していたのだ。理由は二つ。澪たちの様子を偵察に行ってもらうため。それからとある所用を済ませるため。
 もちろん、澪は他人を巻き込みたくないがゆえに、極力単独で行動しようとしているのは知っていた。ただ、今の彼女にとってはその方が精神的に危険だと判断した。先日から珍しく安曇がやたらと澪の心配をしており、食事も喉を通らないくらいに気落ちしていたので、状況は芳しくないのだろう。
 自分が会いに行くべきかとも考えたが、うっかり伏黒甚爾を排除してしまいそうな気がしたので、あえて多忙なふりをして、何も知らない学生を遣ったということだ。

「いやだなー、邪推しないでよ。片が付いたからここにいるんだってば」
「四国八十八ケ所を巡回する超激務って……。それそんなに早く終われるんですか?」
「まだ君達にはわからないだろうけど、大人はやろうと思えばなんだって出来るんだよ。ところでさ」
 問いかけに早口で答えながら、少年たちに口を挟まれまいと、五条は強引に言葉を結んで話題を逸らす。
「今日の任務はどうだった?」
「それならバッチリっす!」

 途端に垂水が目を輝かせたので、内容を詳しく聞いてみる。拙い説明ながらも、彼らにとって今日の任務が有意義だったことがわかった。
(澪なら二人に怪我させることはないだろうと思っていたけど、杞憂だったかな)
 学生達が話す澪からのアドバイスは的確だ。少々彼らに甘いように思える所はあるが、冷静かつ慎重に指導に努めていたようである。
 彼女が自力で立ち直ったと判断してもいいだろう。もっと揉めるだろうと予想していたが、彼女なりに着々と成長しているということだ。労いを込めて今夜あたり連絡をしてみよう、なんて笑みをこぼしたその時、穏和な思考を止める一言を垂水が発した。

「それで、すげーびっくりしたんだけど、澪さんって……」
「垂水!」
 すかさず妹尾が遮った。その声音の険しさに顔を向ければ、彼は気まずそうに視線を逸らした。
「ん? 澪がなんかやらかした?」
「い、いえ。任務には特に関係ない話なんで……」
「それ逆に聞きたいなー。教えてよ」
「ええと……」

 そうして半ば強引に、今回の任務後の顛末を聞き出したのだが、彼らの語りを聞いた五条の身内では、小さな亀裂の音が鳴った。
(……あの男、澪を弄んでるな)
 澪のわかりやすい性格ゆえに、恋心は本人にもうバレてしまったのだろう。
 いつかのように、あの男は精神を削ることを目的としていたのだろうが、おそらくその目論見は澪が葛藤を乗り越えたことで失敗した。だがそれをいいことに、容赦無く彼女の純粋な心を弄び、羞恥を煽って楽しんでいる。そんな憶測が過ぎる。

(だとしたら、やっぱりアイツは害でしかないか? 澪には悪いけど、早々に消しておいた方が……、……ただ、澪が懸命に抗おうとしているのなら、尚早かも知れない。あの男はどうなったって知らないけど、澪の意思は尊重してやりたい。もしもあの子に抗う意思があるのなら勝たせてやりたいし、なんかムカつくから相手を存分に振り回して欲しいし。……よし。伏黒甚爾を処分するかどうかは、本人から話を聞いた上で判断するとして。……ひとまずこの場は、澪のの威厳を守るために先生が一肌脱いであげよう)

 この間〇.二秒。
 五条は神妙な空気を作るべく努めた。声調を低く抑え、思案している風に口元に手を添える。
「うん。そっか…………」
 すると、途端に少年たちは顔を合わせて不思議がっている様子を見せた。この反応ならいける。そう直感した五条は、何かを隠していると言わんばかりの辿々しい口調で言葉を続けた。
「二人とも、びっくりしたよね。……ただ、澪なりにいつも一生懸命やってくれてるからさ。あんまり毛嫌いしないであげて欲しいかな……」
「あ、あの、……何か、事情があるんですか……?」

 即興の釣り針に、早速妹尾が引っ掛かってくれた。
 これならば、即興の腹案通りに話が進むだろうと、五条は口元に添えた手を離す。口角を下げつつ重深い溜息をつき二、三秒の後に口を開いた。

「ここだけの話にしてくれる?」
……その内容たるや、誰がどう聞いてもフィクションだと思われそうな大恋愛である。
 甚爾と澪は名家の古い慣習の末、澪が十六になって間も無く当人同士が望まない形で夫婦となった。始めの内は両者とも相手を信頼せずに接していたが、交わる時間の中で少しずつ愛を育み誠の伴侶となる。
 しかし、ようやく心を通わせた二人に悲劇が起こった。とある任務の折、夫である甚爾と死別することになってしまったのだ。
 それから絶望と悲しみを乗り越えて決心した澪は、今年の四月にようやく降霊術を成功させ再会を果たした。
 だが代償は大きかった。甦った甚爾は呪力供給しないと生命を保っていられない体となってしまったのである。彼ほどの肉体と魂を現世に留めるには多くの呪力が必要であり、戦うという行動による呪力消費は生命維持の比ではない。あの二人にとって、最も効率的な供給方法が接吻なのだ。
 そんな話を滔々と学生に伝えた。勿論九割は嘘だ。

「そうなんですか? でも、何だかお互い張り合ってるような雰囲気で、とてもそんな過去があるようには見えなかったけどな……」
 納得いかない様子で妹尾が呟いた。当然の疑問である。
「あー……。あれはね。そう見えちゃうよね」
 無理はない。何せ設定がガタガタの即興話なのだから。
 矛盾が起こらないよう、ここからどう話を繋げようか、五条は指で弧を描き、言いたい単語を失念している素振りで食い繋ぐ。
「それはさ、あれだよ。えーっと。……そう、ほら。記憶喪失だから」
「記憶喪失?」
「これも甦生の代償ってやつ。覚えてないんだよ、あの人は。澪がどれだけ苦労したかも、自分達がどれだけ愛を育んだかもね……」

 甦生した人間は術式を施した者にまつわる記憶の一切を失うという設定を追加してみせた。すると急に垂水の表情に影が落ちる。彼にしては珍しく、五条が語り出してから一言も発さず大人しく聞いている。
 けれども相方の妹尾は、どうにも信じられないといった表情で眉をひそめていた。
「だったら、お互いの関係をきちんと打ち明ければいいじゃないですか」
「……分かってないなぁ、妹尾!」
 憤りを内包した声調で、垂水が妹尾を睨み付けた。
 にわかに視線を突き立てられた妹尾は目を丸くしており、五条もまた、意図せぬ展開に開きかけた口を閉ざした。

「お前は、右も左もわからないような状態で、いきなり見ず知らずの女の人に、あなたと私は愛し合う夫婦でした。なんて言われて信じられる?」
「い、……いや」
「むしろ何を言ってるんだこいつはって混乱するでしょ?」
「そ、そう、思う……」
「旦那さんを困らせることも、信じてもらえないこともわかってるから、澪さんは真実を伝えてないんだよ。それに……」
 何かを堪えるように垂水は拳を握りしめる。
「きっといつか、思い出してもらえる日が来るって信じてるからこそ、複雑な思いに悩みながらも待ってるんだ……! 旦那さんが本当の意味で自分の元に帰ってくるのを!!」

 何だかよく分からないが、即興の恋愛物語が垂水の心にささったらしい。あえて補足せずとも、少年はぐんぐんと考察と架空の物語を広めながら、学友に力説していく。
 五条は一切首を突っ込まず、正に垂水の察する通りと言わんばかりに深く頷きながら、熱弁を見守った。

 ようやくして垂水の話が終えた時、なんと妹尾が少々目を潤ませていた。予期せぬ語り手のお陰で、澪の悪印象の改ざんは完璧ということだ。
 とどめと言わんばかりに、五条は空を仰ぎながら布越しに目頭を抑え、あたかも感極まっている風を装う。
「澪は。……愛する人に再び会えただけで幸せだって、そう、言ってたね……」
 やり過ぎたかと思ったものの、学生二人の反応は更に悲恋に没入したらしく、眉根を下げてこちらを見上げていた。特に妹尾は悔しそうに眉間を歪めている。

「すみませんでした。五条先生。俺そんな事情も知らないで……白主さんに失礼なことを……」
「周りに気を遣わせたくないからって、澪は僕以外には話さないつもりらしいから。君が気にすることはないよ」
「だったらせめて、今度は澪さん達の邪魔をしないように気を付けます!」
 五条は内心で拳を握った。彼らの中では次回があるということだ。これで今後も一年生の指導を澪に押し付け……もとい、指導の勉強をさせてやれる。

「澪に代わって礼を言うよ」
「いえ、五条先生。俺達の方こそ誤解を正してもらえて、良かったです。本当にありがとうございます」
「いいよ。……あ。でもこの話を聞いたことは秘密にしておいてね」
「勿論です。誰にも口外しません」
 妹尾は深々頷く。その眼差しは真剣そのもので、垂水も同じく背を伸ばして敬礼を返した。
 軽く手を上げ、彼らに背を向け歩き出す五条は、笑いを堪えるのにただただ必死であった。