My last 改稿版
恋で殴り、愛で蹴る 25

1

 学生達と別れ帰路に就いた。
 車内では、澪が不貞腐れた様子で安曇に語りかけていた。その内容は、本日の任務の行程を振り返っているようであるが、たびたび「甚爾さんのせいで」と言う前置きが添えられている。間接的な苦情らしかったが、当事者たる甚爾は終始無視を決め込んでいた。

 游雲を無事に救出した後、高専の学生たちの様子は一変した。
 垂水は根掘り葉掘り聞きたい、といった好奇の目で澪を見ており、妹尾は子供を不審者に近づけまいとする母親のように、垂水を制止していた。
 さすがの澪も、これ以上の弁解は災いを生むと理解したのだろう。何も語らずそそくさと車に乗り込んだのだった。

 そういう訳で、車が走り始めて二十分程までは延々と文句が流れていた。だが甚爾は勿論、安曇さえも相槌を打たない。少しずつ語り疲れた様子で澪の口数は減っていった。

「だから甚爾さんのせいで…………、たちうおが……たまごやきに…………」

 いよいよ澪は閉口して項垂れる。車内は抑えられた走行音が小さく広がるのみで、ひとえに静かになった。
 低く耳に障らない一定の走行音、柔らか過ぎず固過ぎず、心地良いシートの質感。郊外を往く高速道路の景色は、森かトンネルばかりで目を引くものが一切無い。
 澪が喋らなければ誰も言葉を発しない。ふいに甚爾が横目で見ると、懸命に睡魔と戦う頭が揺れていた。だが耐えていられるのも時間の問題だろう。
 そんな事を思っているうちに、澪の身体が傾いてきた。しかも、なぜかドアの方ではなく甚爾の方に、だ。
 押し返してやってもよかったが、なにぶん二、三時間の道中は暇で仕方がない。起きた時の反応を観察するくらいの暇つぶしがあってもいいだろう。少しずつ落ちてくる彼女の頭をただ眺めていた。

 すると五分もしない内に、澪の身体はがくんと倒れ込む。咄嗟に甚爾は、落ちてきた肩と頭を自身の膝のすぐ上で受け止めた。
 自分で支えておきながら、彼自身がその行動に驚いていた。唖然としながら澪の顔を上から軽く覗き込むと、心底穏やかな寝顔が見えた。閉じ切った目蓋はぴくりとも動く気配がない。

(……どうすんだ、これ)
 このまま起こそうか反対側に押し返そうか……、だが彼が選んだのはどちらでもなかった。

 支えた頭をゆっくりと自身の膝の上に下ろしてやる。すると、異様に冷たい頬の温度が伝わってきた。いつかの夜のように凍えた体温だ。指先で髪を掬いながら上向きの頬に触れると、やはりこちらも冷え切っていた。
 まさか死んでいるのでは、と疑問が過ぎれば、それに応えるように澪が身じろぎ、緩慢に腕が動き出す。
 持ち上がった澪の手が、頬の上にある甚爾の手の甲に触れた。その掌も人らしい体温はなく、彼の温度をみるみるうちに奪っていく。
 にわかに、膝の上で安心し切ったようなため息が聞こえてきた。
 あれだけ警戒していたくせに、頭の切り替えが早いのか、それとも極端に子供じみているだけなのか。
(……開き直ったとはいえ、ここまで無防備になれる神経が分からん)

 もう一つ、分からないことがある。視線を落としたまま、彼は想起する。
――あの夜、なぜ自分は澪から逃げたのか、と。

 計画通り、澪が消耗していたのは明白だった。あの時が澪を陥落させるのにもっとも好機であることも理解していた。
 澪が突然怒りながら泣き出すという反応には一瞬戸惑ったが、上手く説き伏せ情交に至る方法は、その場で容易く思いついただろう。
 ゆっくりと宥めてやって、偽りの言葉を囁き、そばで慰めてやる。ただそれだけで澪は容易く身体を開く。その上で丁重に扱う素振りを見せておけば、今頃この女の心までもが手中に収まっていたはずだった。
 それが出来なかった理由がいまだに分からない。

 堂々巡りの思考を放棄するように、澪に触れる手を裏返す。少しずつ温度を共有し始めた手のひらが重なったその時、澪の指先が少しずつ動き、ぎこちなく彼の指を握った。

――期待と、拒絶、それから孤独感。
 そんな感情がふと心底から蘇り、途端に甚爾は手を引っ込める。
(それは、違うだろ)
 彼は身内の答えを否定した。――澪が無抵抗で自分を受け入れる、だなんて期待はおろか、拒絶の言葉に動揺するわけがない。
(子供みたいに泣き喚く女を相手にしていることが、馬鹿馬鹿しく思えてきた。だからやめた。それだけだ)

 澪の言動は、子供に見紛う幼さを孕むことがしばしばある。
 これほど稚拙な相手に本気となる必要があるのか。そんな疑問が身内で生まれた途端、沸き立った情動が冷めた。この女を籠絡するという目論見さえも、馬鹿馬鹿しいと思うほどに。
 冷静に考えれば、澪の掲げる目的の実現は無理がある。敵も自ずと増える道だ。高い望みに脆い精神が押し潰されるか、阻む勢力に淘汰されるか。はっきり言えば、未来はこの二択だろう。
 ならば、返って不要な手出しはせず澪の望むままにさせておく方が、解放へと向かう近道かも知れない。

 甚爾にとって白主澪という女は、真剣に相手にするまでもない存在に成り下がったのだ。
 そんなことを知らない澪は、愚かにも無意味な闘志を燃やしているが、彼にとっては暇つぶしに過ぎない。……そうでなければならない。

 彼は窓の外に視線を向けた。
 そうしてしばらく車が走っていき、一時間ほどが経過しただろうか。澪が不意にみじろぎ、寝ぼけたような声をちいさく伸ばした。
 だが起き上がりはせず、なにかを手探しするように甚爾の膝に触れた。次いで何を思ったか撫でてきた。
 自分が枕にしているものが何なのかを全く理解できていないらしい。指で腿をぐっと押してきて、それから呆れるくらいに寝ぼけた声で呟く。
「…………かたい……」

「文句言うな」
 甚爾は無視を決め込むつもりだったが、気付いた時には声を落としていた。あまりにも気の抜けた言い方に、思わず苦笑が零れてしまった。
「んむ……」
 不満そうな声を返してきた澪だったが、固い枕でも我慢するつもりなのか、また息が深くなっていく。
 無意識に彼の掌は澪の頭に触れていた。

(ただの子供だな)
 甚爾の手なら、片手で容易く掴めてしまう小さい頭だ。こんなでも一応身体は成熟しているようなので、幼い子供のそれよりはずっと大きい。だがその柔らかな髪に触れていると、差異のない稚さを感じる。緩やかに頭の形に沿って撫でてみると、滑らかで細い幾重の触感がやけに心地いい。
 彼の掌は何度も同じ場所を往復する。そのたびに胸中へと薄くて生温かい何かが折り重なっていく。不思議といつまでも飽きが来なくて、なぜか手が止まらない。
 ふいに澪が深い息をついた。その音が安堵と満足を帯びているように聞こえた。

……次の瞬間、澪は勢いよく起き上がる。そして甚爾の方を振り仰ぎ、目が合うや否や、半ばドアに背をぶつけるようにしてシートの端へと逃げていった。

 すると、夢うつつが覚醒に切り替わるように、あるいは視界を覆う半透明の薄皮が爆ぜたように、甚爾の意識は引き戻される。

「……白主さん。危ないから急に暴れないように」
「あっ……。はい、申し訳ありません……」

 低い声音の安曇に嗜められ、澪はすごすごと元の位置に座り直した。
 そんなやりとりを眺めながら、甚爾は危うく息をつきそうになる。催眠じみた危うさから解放されたことに、正直安堵した。掌に残る余韻を追っ払うように、鼻で笑ってみせる。

「眠いんだろ。遠慮しなくてもいいぜ」
 嘲りを顔に浮かべ、挑発気味に膝を緩慢にたたけば、警戒心剥き出しの眼が見上げてくる。
「ノーノーノーセンキューです、どうもありがとうございました!」
 澪はややドア側に体を傾け、顔を窓側に背けた。また無言の時間が戻ってきた。しかし外の景色は似たような野山しか見せない。
 十分も経たないうちに、ゴツと窓の方から硬い音がした。どうやら澪は二戦目も睡魔に勝ちを譲ったようである。

 高速に乗ってからも澪の体勢は変わらず、窓際に凭れかかっている。今度は不用意にこちらへ倒れ込んでくることはなさそうだ。
 だが、不意に横目で彼女を見た時、その眉根が寝苦しそうに歪んでいるのが見えた。
(素直じゃねぇ女……)

 だが、自分にはなんの関係もない。彼の思考は至極冷淡に戻っていた。澪から目を逸らし、煌々とトンネルを照らす電灯の隊列を眺める。トンネルを抜け、車が真っ暗な夜道に放り出されると窓ガラスに澪の姿が映っているのを認めてしまった。
 それからは、視線を窓の外の黒い山々に向けようとも、どうしても彼女の姿だけが目につく。まだあの寝苦しそうな顔をしているのか。どれだけ方向転換を試みても、思考の行き先はどうやっても変わらず、とうとう彼は観念の息をついた。

 少しだけ澪の方へと座る位置を寄せる。それから、相変わらず眉をひそめて眠る澪へと手を伸ばした。
 肩を抱くようにして、澪の身体をゆっくりとこちらに寄せる。シートに背中を擦り合わせながら、上体がするすると素直に寄ってくる。落ちそうに揺れた頭を支え、膝の上に下ろす。その間、澪は不満そうな唸りを上げることも、身じろぐこともなく、ただ大人しかった。
 眼下の肢体が深い息を続けているのを確認しながら、甚爾は横顔を窺い見た。眉根の不満は綺麗さっぱりなくなっていた。
 その時、彼がふいに浮かべたのは笑みは、嘲笑だったのだろうか。

2

「白主さん。着きましたよ」
 マンションに到着し、安曇が声を掛けるも澪は反応しない。
 安曇はシートに座ったまま、上体を捻って振り返る。一瞬彼がぎょっとした表情を見せるが、すぐに無表情に切り替わり、何事もなかったかのように何度も澪を揺する。しかし、澪は不満そうに顔をしかめて小さく唸るだけだった。
 小さくため息をついた安曇は、車を降りると澪が座っていた方のドアを開けた。寝転がったままの体を起き上がらせようと腕を掴んだ矢庭、彼女はもぞもぞと動き出す。起きるのかと思いきや、甚爾の方へと身を寄せ、腰にしがみついて抵抗したのだった。
 そんなやりとりを無関心で眺めていた甚爾だったが、安曇の表情がいよいよ焦りを滲ませてきたので、軽く手を上げて制止した。

「無駄だ。しばらく起きねぇよ」
「ですが……」
「このまま連れて帰る」
 まだ十日程度とはいえ、澪がどれほど手を焼く人間なのかは大体分かった。ゆえに、コイツのわがままに振り回されているこの男が哀れに思っただけだ。決して澪への温情ではない。そういう感情を込めて甚爾は安曇へと視線を向ける。
「……わかりました」
 迷っている様子ではあったが、安曇は大人しく引き下がり、ドアを閉めた。

 時を交わさず、後方でトランクが開く音がした。連れて帰るとは言ったものの、甚爾はどうやったら澪を車から下ろせるのかという正解を持っているわけではない。まずは声をかけてみる。
「離せ」
 すると、澪は顔を当時の身体に押し付けながら首を振った。思いがけず想起したのは、いかないでと言われた時のことだ。こちらの主張を通そうとすれば、同じ轍を踏むことになる。腰に絡みついた腕を解こうにも、二の腕を掴んだ途端に一気に抱きつく力が強まった。これも逆効果だということだ。
 よほど人肌から離れたくないのか、またはトラウマでもあるのか。どちらにしても、術式の三原則もあるこの状況で、置いていかれることなどあり得ないと、なぜ分からないのか。……理解に苦しむ。

 甚爾はため息がちに零した。
「…………どこにも行かねぇよ」
「ん、……む」
 寝ぼけた返事のあと、素直に澪は腕の力を抜いた。この反応に甚爾は思わず面食らった。
 本当に彼のいうことを聞いたのか、半信半疑で彼女の身体を起こしてみれば、もう抵抗する様子は見られなかった。シートに背を預けさせる間も、静かな寝息を立てながら大人しくしていた。

 後席から降りた甚爾は、安曇から荷物を受け取ると反対側へまわり、後部のドアを開けて膝をつき屈んだ。元の位置に座らせた澪の背と膝裏に手を差し込み、ゆっくり引き寄せる。横抱きに抱えて立ち上がった。
……視界の端で、安曇が目を丸くしていた。
 本当なら、適当に車内から引っ張り出し、服を掴んで荷物のように運んだってかまわない。ただ、乱雑な扱いは三原則に引っかかる可能性がある。自分の行動を修正させられることの方が不快だから、あえて丁重に扱っているに過ぎない。それだけだ。彼は言い訳じみた反論を頭の中で述べた。

「と……うじ、さ……」
 微かに目蓋が動いたので起きるのかと思いきや、澪が首に手を回してきて、抱きすがってきた。間近で安曇が驚愕の声を上げた。……今更引き剥がしてもしょうがない。迂闊に抵抗してややこしい命令を見に受ける方が面倒だ。
 甚爾は衒いもなくエントランスに向かってスタスタと歩き出した。

 抱きかかえた体が冷え切っているのが服越しでもわかる。澪がやたらとくっついてくるのは、恐らく暖を取りたいだけだろう。そんな本能的な行動にいちいち反応するほどウブでも馬鹿でもない。
 澪は全く覚えていない様子だったが、いつかの真夜中も、この女の身体は死人のように冷え切っていた。あれも無意識に熱を求める行動だったのだろう。いわゆる生存本能というやつだ。彼は乱雑に結論を片付けて、身内の片隅に追いやった。

3

 ベッドに澪の身体を下ろす時、にわかに不安が過る。
(こいつまさか、またくっついたまま寝ようとすんじゃねぇだろうな)
 起きてからの盛大な反応を笑ってやるのはいいとして、澪が起きるまでじっとしていなければならないのはあまりに退屈だ。
 澪は我儘を言うことなく、するりと首に回した腕を解いた。
 頬に触れてみるが、体温はさして上がってはいないようだった。どうも呪力が不足すると身体が冷える体質らしかった。ついでに寝起きもやたらと悪い。タチの悪い体質だ。
 彼が内心で毒付いているのを知ってか知らずか、澪は甘えるように顔を傾けた。

(甘えてる訳じゃない。……コイツは、寒さをなんとかしたくて必死なだけだ)
 澪からの好意は認めている。だが、この無意識の求めの真相は否定したかった。
 意識がなくても甚爾を認識していて、それでいて無意識に欲している……もしもそうなのだとしたら、この女の感情は思慕だとか好意だとかの範囲を超えていることになる。
……触れてはならないものに触れているような気がしてきた。頬に添えた手を離し、安らかな寝顔から顔を背け、部屋を出た。

4

 一時間後、リビングの扉が開く音がした。彼でなければ聞き逃していたであろう小さな音だった。
 ソファーに座ったまま、甚爾は顔を音の方に向けた。扉の向こうで澪がこちらを覗いていた。まるで敵地を偵察しているかのような目が少し鬱陶しい。

「何だよ」
「……何を企んでいるのかと思いまして」
「企んでる? 何を」
「今、安曇さんに聞きました。甚爾さんが私をここまで運んでくれたって。……なぜですか」
 ついさっきまで見せていた素直さや甘えたそぶりは幻覚だった……そう思えるほど、澪の表情は怪訝に染まっている。
(…………なぜもクソも。駄々をこねたのはオマエだろうが)
 善意だとか温情だとかの発想には至らず、ハナから疑われるのはどうにも不服だった。
 ストレートに文句を投げつけてやってもいいが、もっと澪を当惑させてやりたい。こちらは散々澪の我儘に翻弄されたのだから、今度はこっちが振り回してやる。彼はそんな気分になってきていた。

「知りたいのか」
 片笑みを浮かべながら問えば、澪の眸は警戒の色を濃くする。しかし数秒後には、不意に好奇心が芽生えたようで、次第に視線が迷い始め、最後にはこくりと頷いた。

「いいぜ。こっちに来れば教えてやらんこともない」
 途端に澪はぎゅっと眉間に皺を寄せ、顔の半分を扉で隠す。隻眼の視線は、甚爾から逃げるように下方を見つめた。少しずつ彼女の扱い方を心得てきた甚爾は、わざとらしく鼻で笑ってみせた。
「ビビリが」

 すると扉は勢いよく開け放たれ、澪の抗議するような声が響き渡る。
「ビビってません! 今、そちらに行きますけど! 目の前に立つだけですから!!」
 想像通りの反応だった。ずかずかと足音がしてきそうな身振りでやってくると、甚爾の目の前で澪は仁王立ちをする。

「それから、今、こっちに来いって言いましたよね? 言う通りにしたので、今日の任務分のご要望はこれにて完了ですから!」
「来いなんて言ってねーよ。要望は明日に持ち越す」
「え……!?……まっ、また私を嵌めましたね!?」
「オマエが勝手に勘違いしただけだろ」
「うぬぐ……!! じゃあそういうことでいいです! でも教えてくれるって約束はしましたもん! 貴方の企みをお聞かせいただきましょうか!」

 無駄に堂々とした仁王立ちをする澪は、びしっと腰に手を当てて意味不明な威嚇をしてきた。簡単に挑発に乗ってきて、実にしょうもないことでムキになる反応が面白い。
 甚爾はソファーから背を離し、澪の背に手を回すと、かなり強めに引き寄せた。

「のわぁ!?」
 思い切り前のめりになった澪は、慌ててソファーの背に手をつき、甚爾の身体を跨いで膝立ちになった。半ば覆い被さっているような体勢だ。
「それもオマエの思い込みだろ。はじめから約束すら成立してねぇ」
 そう言って仰げば、深い水の色をした瞳がほのかに揺らいだ。

「……ずるい……」
 眉尻を下げて、何かを堪えるかのような面持ちだった。また泣かれるのでは、と予期した途端、甚爾は無意識に目を逸らし、ふれる手を離した。解放された彼女が去っていくのを待っていたが、澪は跨った姿勢のまま、一向に彼の前から離れようとはしない。

「……あの、甚爾さん?」
 その声音は、彼の心を覗き込もうとしているようだった。純粋な疑問と、配慮が込められているような、そういう音であるように聞こえた。……かつての最愛の尋ね方に、非道く似ている、と。

(どうせまた何を企んでんのか疑ってるに決まってる。……勘違いすんなよ)
 自分を陥れようとする相手を心配する馬鹿がどこの世界にいるというのか。一言、嘲る言葉を吐いてやれば、この勘違いは消えるはずだ。甚爾は視線を彼女に戻す。
 すると、澪は少し腰をひかせて甚爾の上から退いた。それからそっと隣に座り込んで、小さく首を傾ける。
「どうかしたのですか?」

……煩わしい。
 いちいちこの世にいない人間と他人を重ねて、感傷に浸ろうとする自分自身も、警戒心をほったらかして心の底から「心配だ」という感情を見せつけてくるこの女も。
「……何もねぇよ」
「でも」

 さっさと離れていってくれ。そんなことを思いながら、彼はわざとらしく澪の眼を見ながら手を伸ばす。手の平を澪の耳元に添え、耳の真後ろに触れるか触れないかの間際に指先を通しながら髪を梳いた。澪は大きく肩を振るわせる。だが甚爾の思惑に反して、逃げようとするそぶりはない。
 ただまっすぐにこちらを見つめる眼差しが鬱陶しかった。

 甚爾は人差し指で、指に絡むひとふさを掬い取り、親指で撫でる。房の内に指の腹を沈ませれば、指が動く度に照り返す艶が揺れ、束が少しずつ乱れていく。ばらばらになって指の上からこぼれ落ちそうになるのを、中指で絡め取る。
 指先同士の間に挟んで緩慢に撫でたり、細やかに指を動かし捻ってみたり、爪の上を滑らせてみたりと弄ぶ。窺い見た澪の表情は、淫靡な行為を目の当たりにしているかのごとく、甚爾の指先を凝視しながら真っ赤に染まっていく。
 だがそれでも逃げてはいかない。むしろ、その眼差しは何かを期待しているようでもあり、待っているようでもあった。

 身内に苛立ちが増す。深く入り込もうとすれば怖がって泣き出すくせに、こうして無防備に彼を引き込もうとする、その矛盾が理解できない。
 捕らえた髪の房を放す。澪に抵抗する気がないのなら、今度こそ手籠にしても構わないだろう。半ば投げやりな情動のまま、甚爾は彼女のうなじに手を伸ばす。髪の中に手を突っ込んで、掌に頭を抱え込み、互いの鼻先を近づける。
 しかし、口唇が触れ合うことはなかった。なぜかそれ以上近づきたくなくて、彼はすんでのところで止まっていた。

――あ……っ」
 にわかに澪が正気をとりもどしたように、声を上げる。甚爾が顔を離せば、彼女は勢いよく立ち上がって部屋の角まで後ずさっていった。
「まっ、また私を嵌めようとしましたね!? もう引っかかりませんから!!」

 ようやく見せた予想通りの反応に嘲笑を浮かべながらも、甚爾はふと己の指先に視線を落とす。
 指先に残る柔らかな余韻に気を取られ、言葉を失った。双方の間に奇妙な沈黙が生まれた。

「……と、とりあえず、お腹が空いたから一旦休戦ですよ! 今日の食事を決めます!」
 澪は大袈裟に手を叩く。慌てた手つきで携帯を操作しながら、これはどうかあれはどうかと延々と一人で喋り続けていた。