My last 改稿版
皮下の冷戦 02

1

 外へ出ると、落ち始めた陽光が辺りを雀色に染め始めていた。見覚えのある寺社がそこらに佇立している。彼はこの場所を知っていた。
 星漿体の暗殺。その折に潜入した機関、東京都立呪術高等専門学校。建造物の配置が入れ替わっていても、当時より彼が記憶していた景観と殆ど差異が無かったのですぐに分かった。

 この地を澪は慣れた足取りで進んでいく。澪の素性は呪詛師ではなく、高専に所属する術師と見て間違いない。
 そして如何にも育ちが良さそうに見える挙措と、どこかで聞いたことがある、白主という姓。どうせそれなりの名家の娘といったところだろう。
 少しずつ周囲を形成する世界が浮き彫りになっていくが、こんなものは反射的な情報整理の産物に過ぎない。ひとえに彼は無感情だった。

 敷地内の駐車場には、数台の黒い国産高級車が並んでおり、その内の一台の傍らにスーツを着た痩身の人物が立っていた。

「安曇さん、お待たせしました!」
 澪はスーツの人物に向かって大きく手を振る。相手はこちらの方へ向くと小さく会釈を返し、変わらずその場で直立を貫いていた。

「彼は私の専属補助監督の安曇さんです。……よろしくお願いしますね」
 安曇はいかにも生真面目そうな出立ちで、背丈は成人の男の平均程。けれども一見女に見間違える中性的な相貌だった。それ以外は至って普通。特段警戒する必要はなさそうだ。

「よろしくお願いします。あと私は白主さんの専属じゃありません」
「まあまあ。細かいことはいいじゃないですか。……あ。ちなみに彼は無理矢理甦生されてご機嫌斜めですから、気を付けて下さいね」
「……わかりました」

 常に笑みの張り付いている澪とは対照的に、無表情の安曇は早々に運転席へと回って行く。
「安曇さんはいつもあんな感じなので、気にしなくても大丈夫ですよ」
「気にするべきはオマエだろ」と、思わず頭の中に異論が浮かんだが、言葉にするのはやめた。澪を一瞥し、無言のまま後部席へと乗り込んだ。

 山道を下りしばらく経つと、車内から見える景色が郊外から市街地へと移り変わる。夕陽は地の底に沈み、代わりに人工の光が次々と照り浮かんでいく。
 
 甚爾は窓の外を眺めるのみで、車内には全く見向きもしていない。だが隣に座る女は、意も介さずやたらと語りかけてきた。
 聞いてもいない事だったが、現在は二〇二三年の四月十日。澪は先月高専東京校を卒業したばかりの二級術師だという。モラトリアムがどうのこうのと言っていたが、途中から彼は聞き流していた。
 全てが、知った所でどうにもならない不要な情報だった。

 しかし、窓の縁から縁へと繰り返し流れる光を見ながら「二〇二三年」という情報が彼の思考に引っかかっていた。次第に記憶が波立っていく。脳裏に浮かんだのは「伏黒」と自身の名を口にした制服姿の少年。二度目の死を迎える直前に見た、我が子の姿。

……高専の制服を着ていた。あれの所在も、この女ならば知っているのか。もう成人程の歳にはなっているのだろうか、と、柄にもなく彼は茫漠と惟る。

(……知ってどうすんだよ)
 かつて金に変えようとしたあげく、生年月日でさえとうに記憶の何処かで風化してしまっている。あまつさえ、己が付けた名前さえも忘れかけていた時期もある。その程度の関係性で、今更何が出来るというのか。……何をしたいというのか。
 あらゆるものを捨ててきた人間は、郷愁を抱けども何も成すことは出来ない。

「もっと抵抗されるかと思っていましたが、案外大人しいのですね」
 澪の声が、静かな走行音を遮った。
「と言っても、原則の効力を体感すれば、無理もないでしょうけれど」
 宵闇に不釣り合いの明るい声音。甚爾はかすかに苛立った。
「……。結局テメェの傀儡にされんなら、魂なんて要らなかっただろ」

 視線を窓の外に向けたまま吐き捨てる。会話などさらさらする気も無かったのだが、どうも自分は感傷的になっているらしい。実に鬱陶しい感情だ。
 もう口は開くまいと、口を固く閉ざした矢庭だった。

「貴方の肉体って、ランチプレートみたいじゃないですか」
「は?」
 斜め上を通り越して、異空間から切り込まれた返答に、思わず甚爾は顔を横に向ける。
「一つの注文でミニサラダやスープ、それからドリンクもついてきます」
「…………」
「でも、困ったことに、時々サンドイッチ系のランチを頼むと、ピクルスがついてきちゃう場合がありますよね。……私、ピクルスは苦手なんです。だったら初めから苦手なものが入っていないサラダとサンドイッチを一品ずつ注文すれば、食べ残しをしなくて済みますよね」

…………澪の例えを要約すると、甚爾の降霊における不測の事態を防ぐには、肉体情報と魂の両方を降ろすのが大前提。その上でのリスクヘッジこそが最適解だと言いたいのだと思われる。
 一度目に甚爾が降ろされた折、術師の老婆は「肉体の情報しか降ろしていない」と酷く狼狽していた。
 肉体情報を降ろした媒体の人間が、天与の肉体を制御しきれなかったのだ。弱い魂は類稀な肉体情報に上書きされてしまい、術師の意に反して、肉体の主導は甚爾に渡ってしまった。
 結論を分かりやすくする為の例えのはずが、返って分かり辛い。ここまで意味不明な会話を理解できているのは奇跡に近いだろう。

「それに私は欲張りなので、単品でがっつり二、三人向けのサラダを食べたいのです」
……話が予期せぬ方向に進んでいる気がする。この女の意図を汲み取ったつもりでいたが違ったようだ。甚爾は憮然としながら口を開いた。
「何の話」
「貴方の話ですよ」
 当然だろうと言いたげに平然と彼女は答える。
「……結論としては、リスク回避も勿論大切です。ですが、何より私の目的の為に必要なのは、伏黒甚爾さんそのものだという事です」
「サラダの例えの意味は」
 返ってきたのは満面の笑みだけだった。

(多分、……いや十中八九、こいつは馬鹿だ。目的の為だとか抜かしてるが、それもどうでもいい。どうせどこかで聞いたような陳腐で下らない理由だろ)

「それで、私の目的なんですけどね」
「興味ねぇ」
「ですよね。でも話したいから言います」

 もはや無視してもこの女は己が満足するまでは誰にも止められないらしい。運転手の安曇の淡白な態度にも納得する。甚爾は呆れて返す言葉を捻出する気が起きず、冷ややかな視線だけを送った。

「手練れの術師が制御出来なかった超人を完璧に甦らせ、服従させることで、私の術式の偉大さに満足したいのです。そして功績をバンバン上げ、ついでに一級にまで昇級できたら権力行使をしまくり、色々安泰万々歳です」

 ここまで来ればただの馬鹿の方がまだマシだ。こいつは一方的に意味不明で利己的な主張を押し通そうとする性格の悪い馬鹿だ。馬鹿の括りの中でも最も厄介な部類に属する。
 対話は無意味だ。自身を甦らせたのが金で動く呪詛師であった方がまだマシな意思疎通ができただろう。
 甚爾は、これ以降一切澪を見ることも、その言葉に耳を傾ける事もなく、現地に到着するまで窓の外を眺め続けていた。

2
 
 見据えるは閑静な住宅街の一角に立つ、いかにも不気味な外観と成り果てた廃墟。大豪邸とまではいかないが、塀で囲まれ正面に大きな門を構える邸宅だ。家は門より十数メートルは先にある。
 左右に好き放題葉を伸ばす草木が、かつて立派な庭だったであろう面影を覆い隠していた。

 安曇がトランクからやけに大きなボストンバッグを取り出し、澪に受け渡す。
 その間、彼女は意外にも真面目な顔付きで屋敷を眺めていた。
 錆びついた門を通って敷地内に入り、玄関に伸びる石畳を二、三歩歩いた所で澪が立ち止まった。それから地面に視線を落としまま動かない。
 もちろん呪霊はそこにはいない。いるとすればバッタが一匹、石畳の上にいるだけだ。彼女の横に安曇が並ぶと、虫は慌てたように草むらへと逃げていった。

「白主さん。……どうですか?」
「三級程度、数は一か二という所ですね」
「軽すぎましたか?」
 彼女は穏やかに隣に笑いかけた。
「いいえ、最適ですよ。流石安曇さんです」
「……そうですか。では帳を下ろします」

 薄い反応を返して安曇が進み出で、呪文を唱え出す。澪は口元を手の平で覆いながら、甚爾の傍に寄ってくる。
「あれはちょっと照れていますね」
 呑気で緊張感のない女だ。特に交わす言葉もないので、空から垂れ下がってくる黒の結界を眺めていると、澪が「あっ」と小さく声を上げた。
 
「忘れないうちに……、どうぞ」
 澪はバッグから三節棍の呪具を取り出し、甚爾へと差し出した。目にした途端、甚爾の心中に驚愕が弾ける。

(游雲……。本物か?)
 それは特級に分類される呪具と色形全てが同じだった。
 簡単に手に入る代物ではないのは、かつての持ち主であった自分が最も理解している。こんな女が所有しているとは到底思えない。しかし、感じる気配は確かに彼の知り得る呪具のものだった。

「今は高専の所有物なんです。折角なら扱い慣れている物の方が良いかと思いまして、借用したのですよ」
 疑念を残しつつも手に取れば、その感触も、伝わってくる呪力の気配も、游雲そのものであった。
「五年前に貴方が壊してしまってから、三年かけて修復したみたいですよ。今度は削ったり引きちぎったりしないで下さいね」
 甚爾には游雲を破壊した記憶がない。おそらく一度目の降霊術式が暴走する最中、何らかの形で手にし、そして破壊したのだろう。

 それにしても、希少な呪具の用意や甦生に際しての手厚い後援といい、彼女の背後に有能な術師、または権力者が付いているのは間違いない。それも澪がやけに大きな自信を持っていられる要因の一つということだ。
 だが、それだけの自信や協力者があって、なぜ自分を選んだのかが彼には理解できなかった。
 この通り、甚爾は呪力を全く持たぬがゆえに、呪具を用いなければ呪霊を祓えない。
 対呪霊の適任は呪術師に他ならない。だからこそ彼は呪術界において不適合とみなされ、人間として扱われなかったのだ。甚爾について調べ上げたのなら、呪術界における価値も澪は理解している筈だろう。
 仮にこの女が真の馬鹿だとしても、周りはなぜ止めなかったのか。理解に苦しむ。

(いや、理解なんてしなくていいだろ。もうじき終わることだ)
 余計な思案は放棄した。
 期待は薄いと予想しながらも、甚爾は最後の足掻きとして、棍の先端を自身の首元に向けてみる。
 頸椎を砕くつもりで押し込もうとするが、一向に力が入らない。自裁と自傷を阻止する原則も生きている。やはり取るべき行動は一択に限られているのだと諦めた。
 
3

 両開きの扉を通った先は、広間らしい立派な造りだったが、壊れた家具やごみが散らばり荒れている。
「お邪魔します。……って、もうお出迎えですか」
 人ならざるものの気配が上から近づいてくる。吹き抜けの空間を見上げると二階の廊下の奥から異形の姿が這い出てきた。
 
 牛の倍程に大きく肥えた体躯を、四本の足が支えている。しかし足の生え方は昆虫に似て胴体の真横から伸びており、尚且つ動物の足というよりは、腫れ上がった人間の手のようだった。太い指から伸びる鋭利な爪が鈍い光沢を放っていた。
 人の輪郭を模った頭部には、顔を形成する為の部位が、有り得ない向きと位置に並ぶ。首は無く、取って付けたような身体の作りだ。
 
 通常、呪力無くして呪霊の目視は不可能だ。しかし本来持って生まれる筈だった能力と引き換えに、超人的なまでに底上げされた五感は、呪霊の悍ましい姿を鮮明に甚爾の脳へと送り込んでくる。
 冷めた目で見上げていると、呪いの化身は、甚爾に狙いを定めたらしく、ぼそぼそと何かを呟きながら蜥蜴のように壁を伝って降りて来た。

 束ねて持っていた棍を一節の中心に握り直す。残る二節を床に向けて流すと、澪が後方に遠ざかって間合いの範囲内から出ていく。
 性格はさて置き、戦闘における空気だけは読めるらしい。手間が省けた。

 巨躯が一階へと降り立つと、時を移さず一気に迫ってきた。低級らしく分かりやすい動作で、鋭利な爪刃を振り上げた。その一連の挙動を甚爾は瞬き一つせずに正視する。
 握った手を緩めて、呪具を床に放った。
 彼は、無価値で無意味な生を長らえるより、低級呪霊に身を裂かれても、己の命が終わるのを望んだのだ。

――避けて!」
 澪の叫びを無視すれば、鋭利な切先が対角に振り抜かれた。肩から横腹まで抉られ、肉叢と血が飛び散り、床に打ち付けられる。

(……内臓にも届いてねぇのか。弱すぎる)
 深傷にも関わらず、甚爾はその場から一歩も動く事なく、眼前で蠢く殺気を見据えていた。
 再び呪霊が攻撃を仕掛ける気配が見えた。もう一振りで身体を真っ二つしてくれればいいのだが、この呪霊では無理だろう。
(まあいい。……これでクソみたいな茶番は幕引きだ)
 傷の深さと出血量からして目的の達成は確実。嬲られようが不様な死に様だろうが構わなかった。薄く息を付く。
……横薙ぎに迫る追撃を静観していた、その折柄。

 呪霊の関節が真逆に折れ曲がった。
 当然攻撃は甚爾に届かない。
 視線を動かせば、澪が足を真横に突き出しているのが見えた。一瞬で状況を判断し、間合いを詰め、踵を呪霊の関節の繋ぎ目に抉り当てたのだ。
 続いて間髪入れずに甚爾と敵の間に身を滑り込ませ、呪霊に背を向けながら顔を地面に沈み込ませるように体勢を低く取った。
 視界から失せる程に彼女の体が沈む。次の瞬間、異形の顎に向かって踵が突き上げられ、大きくのけ反る。
 伸び上がる足を素早く体に引き付けた澪は、バネのように俊敏に立ち上がり、横蹴りを呪霊の胴体に食い込ませた。華奢ながら、正確な体重移動とタイミング。相乗効果で巨体は真後ろに転倒した。

 澪は追撃の手を緩めない。素早い足捌きで間合いを詰めれば、呪霊は慌てたように起き上がる。そんな誘いにまんまと乗って、呪いは無闇に前進した。悪あがきの如く、胴体に隠していた新たな腕を広げて真横に振るが、全く搖動になっていない。
 澪は異形の腕を直前まで引き付けると、再び身を低く倒して避けた。

(……どうでもいい)

 澪が呪霊を倒そうが呪霊に倒されようが、甚爾の思考に浮かぶのはそれだけしかなかった。少しずつ身体の感覚が失せていく。
 生を拒むように仰げば、そのまま体は後方へと傾いていった。