My last 改稿版
恋で殴り、愛で蹴る 24

1

 大食堂や共同浴場、各客室に至るまで、澪は勇足で先導する。怪奇現象の多発地点だとか、いわくの深い場所の祓除はおおかた済んだ。蔓延る呪霊を片付けていく手際は、彼女自信が満足のいく内容だった。
 
 道中、何度か四級程度の呪霊が後方に現れたが、その度に学生二人が堅実に応戦してくれたことも、満足の要因だ。
 少々戦い方に粗さはあるが、実戦で研磨されていくであろう立ち回りだった。喜ばしいことに、成長を感じられる場面がいくつもあったので、呪術師としてのこれからに期待が膨らむ。
 喜ばしいことは、もう一つある。それは甚爾が祓った呪霊が、今の所出だしの一体のみという事だ。

(この調子なら今回の任務は成功。妹尾さんと垂水さんもまだまだ余裕がありそうだし、一回くらいは前に出てもらっても良いかもしれない)
 しかし、最上階へ続く階段を登りながら壁の案内表示を仰ぎ見て、澪は眉間にかすかな皺を寄せる。
(……呪いの気配が強くなった)

 この先にある余興場は、心霊スポットとしての目玉だ。認知度が高い分、どうやら呪いの蓄積も他所に比べて随分厚い様子である。
(そう簡単には終わらせてくれない、ということか)

 階段を登り切ると、これまで館内で見つけた呪いとは比にならない濃厚な気配が先にあった。自身よりも強い呪霊がいるのか。それとも多数の呪いが広い空間に蠢いているのか。
 普段ならある程度把握できるはずの探知が鈍っていて判然としない。自覚はないが、身体が疲弊しているサインなのだろう。
(ここが正念場、ということですね)

 余興場の斜向かいに厨房があるが、そこにも敵がいるらしかった。だがこちらは余興場に比べれば大したことはなさそうだ。
 余興場へ行く前に自分が片付けてしまうか、それとも妹尾と垂水にここは任せてみようか……。
 判断に悩みつつ、澪は後ろを振り返った。すると学生は両名とも厨房の方を向いていて、敵を睨みつけるかのように剣呑な表情をしていた。
(もう自分たちの相手を意識し始めてる。これなら任せても良さそう)
 逡巡を払い、澪は相貌をゆるく綻ばせた。

「厨房の呪霊は二人にお任せします。ですが、危険だと判断したら、叫ぶなり何かしら合図して下さい。すぐに行きます」
 妹尾と垂水はそれぞれに頷きと返事を返すと、指示された部屋に足を向ける。その横顔が少しの緊張を孕んでいた。見兼ねて「その前に」と二人を呼び止めた。

「プチアドバイスです。妹尾さんの術式は空間と状況の把握が肝ですから、撹乱も兼ねたやや広めの間合いと足取りを意識すれば、より有利に立ち回れる場面が見えてきますよ」
「……それから。垂水さんはかなり反応速度が速いです。もっと攻撃を引き付けても余裕を持って見切れます。呪霊の大きく無駄な挙動につられて不要な動作を抑え、相手の初動をよく見てみましょうか」
「……はい!」
 妹尾は強張っていた表情を少し緩め、垂水は目を幼く輝かせて笑顔を見せる。
 まるで指導者に向けるかのような真摯な眼差しに、澪は面映さを覚えつつ、二人の背を見送った。

(……偉そうなことを言ったからには、私も首尾よくやらなければ)
 表情を引き締めて、己の向かうべき場所を正視した。これまでの経験を鑑みると、短期の洞察と正確な判断が重要となる。それから体力と呪力を温存しながら戦うことも攻略の鍵だ。
 にわかに、無言を貫いていた甚爾の声が背後から聞こえてきた。

「その呪力量で対処しきれんのか」
(…………。痛いところをついてくるなぁ)

 振り向けば、すぐに視線が交わる。こちらを見下ろす視線は、一瞬で澪の機微を感じ取ったのだろう、口唇が不敵な笑みを形取った。

「手伝ってやろうか」
 その発言に優しさなど一滴も含まれていないのは瞭然だ。むしろ「オマエじゃ無理だろうから助けてやらんこともない」と、蔑んでいる語気である。
 しかし今の澪には、甚爾が何を謀っていたとしても憂いとはならない。それどころか、挑発さえも気合の燃料となる。

「ご心配なく。いつにも増して調子がいいので!」
 言い放った彼女の笑顔は、挑発を買ったつもりはなく、ひとえに清らかな自信に満ちていた。
「甚爾さんは適当な所で楽にしていてください。では行ってきます!」

 明朗な余韻を背に残し、駆け出した。
 閉ざされた両開きの扉の前まで来た瞬間、木製のそれが屑を撒き散らして砕ける。破片に紛れて現れたのは、木枝のような指を広げた巨大な手だった。
 澪は、その手を地面すれすれまで身を低くしながら避け、滑り込むように場内へと入っていく。
 入口間際で待ち伏せていたのは、垂れた皮膚のようなヒダが無数に折り重なった巨体の呪霊で、象のように太い二本足が生えていた。目や口らしきものは見当たらず、体躯のてっぺんから長い腕が二本伸びている。
 しなやかな動作で懐に入り込みながら、澪はその大きな的に向かい、体重と捻りの威力を乗せた正突きを入れ込む。……手応えはない。けれども素早い反撃がくる訳でもなかった。
 ならば、と足運びをやや右斜めに移し、呪霊の巨体を横切る導線で四発叩く。すると突きの余波で捲れ上がった肉の下に、巨大な眼球があった。

(……見つけた)
 瞬間、襞を爪先で蹴り上げつつ体躯を捻る。剥き出しになった目玉に背を向けながら、一瞬にして地に両手をつき顔と胸元にかけての上体を地に付けるように姿勢を低く落とす。そこから重々しい瞼目掛け、踵で蹴り上げた。
 弱点の読みは的中だ。呪霊は怪奇な声を上げ、後方に倒れ込みながら霧散していった。

(あと、四体)

 気分は好調の波にうまく乗っている。余興場を見渡しながら、残りの標的を目視する澪の面持ちは楽しげだった。
 河川の清流のように迷いなく、足は次の敵に向かう。取り囲まれることを想定しながら、最も適切な立ち回りを瞬時に予測した。
 四方の攻撃を的確に避け、次第に立ち回りの精度が高まるのを感じながら、手こずることなく二体、三体と、敵の数を減らしていく。

 数分も経たないうちに、残るは一体となった。クモのように手足が長く、芋虫のような胴体を持つ呪霊だった。中型の犬ほどの小柄な体躯で、さほど強くはない呪いだ。
 しかし交戦の最中、とどめで放った上段の蹴りの狙いが、わずかに胴体から逸れてしまった。

(さすがに、体がついてこなくなってきた……)
 すぐさま追撃を繰り出すが、相手に低く体勢を取られて避けられる。
 反撃を予期し、慌てて間合いを取りなおしたが、突進の勢いで前進してきた呪霊は、澪に攻撃することなく、あっさりと真横を擦り抜けていった。

「え……?」
 呪霊の向かう先を振り向けば、そこは出入り口。壁際には甚爾がいる。
 どうやら標的を変更したようだ。瞬間、首筋から血が抜かれるような感覚が駆け抜ける。

 澪の脳裏に浮かんだのは、飛び散る赤。戦いを放棄した甚爾が、呪霊に肉叢をえぐられる情景。
……忘れかけていた。彼が死への躊躇いを持っていないことを。籠絡うんぬんは澪の目を眩ます為の囮で、本命は落命による解放。その可能性を完全に見落としていた。

(だめ。絶対に、それだけは……!)
 勢いよく地を蹴り追いかける。敵も弱っているので、動きは鈍いが、澪の足はもつれかけていて、呪霊よりももっと遅い。
 呪霊はもう甚爾の目前まで迫っている。けれどもあと三歩、澪の間合いは届かない。
(…………間に合わない!)
――甚爾さん……っ」

 矢庭、澪の真横を重い風が抜けていった。
 呪霊の姿は忽然と失せ、視界に映ったのは、軽く片足を上げる甚爾だった。彼は視線が交わった瞬間、余裕に満ちた片笑みを見せる。

 理解した。こちらが呪霊に追いつくよりも先に、甚爾は一歩前に出て、敵を蹴飛ばしたのだと。……ボールを軽く蹴り返すかのような、さもない動作で。
 甚爾の肉体に呪力が宿っていたのなら、この一撃で呪霊を祓えていただろう。澪が思わず息を飲むと、次に彼は半身ほど振りかぶり、三節棍を槍のように連ねて投げ飛ばした。
 澄んだ風切音が、呪霊が飛んで行ったのと同じ軌跡で駆けていく。直後、後方で甲高い衝突音が鳴った。
 振り返ると、游雲で串刺しにされた呪霊が、奥の壁に張り付けられていた。

「大分加減したつもりだったが、手応えも何もねぇな」
 きっと、澪が仕留め損なった呪霊などは、こんなにも瑣末なものだと示しているのだろう。けれども、彼の皮肉は澪の心に安堵を与えていた。

(……よかった。甚爾さん、もう命を捨てるつもりはないんだ……)
 身体がほっと温まるような心地を覚え、その場に座り込みそうになる。しかし、彼女はゆくりなく肝心なことを思い出した。

「…………って、違う!」
 躓きながら大急ぎで駆け出し、遠い呪霊に向かって手を伸ばしたが、もう遅い。
 壁に縫い付けられた体躯は、ぴくりとも動かなくなると、煙の如く消え失せる。残ったのはひび割れた壁と深く突き刺さる游雲だけ。澪はその場でがくりと崩れ落ち、膝をついて項垂れた。

「二回、確定……」
「良かったな。二回で済んで」
 へたり込む澪に、淡々とした声が背中に落ちてくる。
「…………はい」
 詰めが甘い自分の所為なので致し方ない。今更決まってしまったことを嘆いても無意味だろう。

 それよりも、この一件で確信した。
 出会って間も無くの彼は、何でも良いので澪から解放される術を求めていた様子だったが、現在の目的は「澪の籠絡のみ」へと切り替わったらしい。
 ついでに要所要所で羞恥を煽ってくるという、地味な嫌がらせ付きだ。
 とはいえ、甚爾を失うことに比べたら、大したことはない。これで良かったんだ、と気を取り直し、学生達に任せた部屋へ向かうべく立ち上がった。

「じゃ、早速もらうとするか」
 にわかに肩を掴まれて、強引に体を反転させられた。焦って体勢を整えようとした澪は、足にうまく力が入らず、後ろによろめいた。けれども背中に甚爾の手が回ってきて、そっと支えられる。
 甚爾が何を欲しているのかも、この一瞬のうちに何が起きているのかも処理できず、澪の頭の中はひたすらに真っ白だった。

 そんな困惑を無視し、甚爾はおもむろに背を屈めて顔を近づけてきた。そこでようやく澪の理解が追いつく。
「きゅ、急に、何を仰るんですか!?」
 ぐっと胸を押し返し、抵抗を試みるが大した意味はない。
「きっちり祓っただろ。何か問題あんのか」
「……い、え。祓ったことについては何も、ありませんが……」
 問題はそこではない、と続けようとするも、交わる視線に気恥ずかしさが増して、言葉が出てこない。しどろもどろしている内に、逃げ道を塞ぐ追撃をくらわされる。

「ああ……。このあと、ガキ共の前で披露しようって魂胆か。いい趣味してんな」
「はい!? 全然違いますけど!」
「だったら家でゆっくり堪能するつもりか」
「ちっっっがいますよ!!」

 まるでこちらが楽しみにしているかのような物言いは聞き捨てならない。……実際、楽しむ心積りではあるが、今はまだ、乗り越えるべき試練のようなものなのだ。
 とはいえ、甚爾が譲歩してくれる可能性はなさそうなので、ゴネて無闇に時間を潰すのは建設的ではないだろう。
 学生二人の様子も気になるし、何より甚爾の視線は澪の対抗心をやけに煽ってくる。売られた喧嘩は買う他ない。

「……。いいでしょう。そんなに欲しいのなら。お望み通り今すぐしてあげます」
 睨みを効かせ語気に棘を忍ばせる。するとふいに、地に足を付けている感覚が失せた。腿裏を支えられ、彼の片腕に抱え込まれたのだ。
 ほんの少し、澪の目線の方が高くなった。彼が若干こちらを仰ぎ見ているという俯瞰した視野に、意味もなく鼓動が喜ぶ。
(い、いつも見下ろされているから。だから。甚爾さんをちょっとだけ見下ろせる感覚が嬉しいだけ。そう、それだけ……)

 以前にも同じように抱えられたことがあったが、あの時は任務開始直後であり、甚爾の圧倒的な膂力や技量に圧倒されて、それどころではなかった。けれど、今回は状況が違う。
 何よりも、彼がこちらをじっと見つめてきていることが、澪の鼓動を激しく揺さぶる。
(ああ、私……、本当に、きす。するんだ。甚爾さんに……)
 今から何をするのかを改めて意識すると、みるみるうちに威勢はしぼむ。代わりに恥じらいが膨らみ出していった。

(ちょっと、待って……。ど、どうしよう。息はどうしたら……。それに。これ、顔を傾けなきゃだめ……?……あ、あと、目はいつ閉じたら……?)

 細かいことを考え出せば、返って何が正解なのかが分からなくなり、抱き上げられたまま惑溺に迷い込む。
 けれど相手に教えを乞うのは絶対に嫌だ。ともすれば頼りになるのは自身の記憶のみである。澪は甚爾を睨みつけて威嚇する振りをしつつ、必死に脳内を漁った。
 しかしながら彼女の経験相手は眼前の彼のみ。しかも、不意を突かれた口付けを、どんな風にされたかなんて事細かに覚えているわけがなかった。

 そればかりか、記憶を掘り起こそうとすればする程、鮮明になるのは自身の昂る情だけだ。目の前にある催促するような眼差しも相乗して、体の熱は上がっていく。

(こうなったら。なるようになってしまえ!)

 意を決すると同時に、ぎゅっと目を閉じ、逸る鼓動を押さえこむように息を止めた。
 いささか目を閉じるのが早すぎるのでは、と視界が暗くなってから気付いたものの、今更開けて確認するのも初心者丸出しで情けない。
「大丈夫、何とかなる」と身内で唱えながら、そのまま彼に触れるまでゆっくりと近づいていった。
 間もなくして、肌らしきものに触れた。

(…………。んん……?)
 どことなく触感に違和がある……気がする。さっと顔を離して目を開けると、自分が彼の正面よりもやや右側に逸れてしまっていたのが分かった。

(もしや……。私が触れたのは、頬?)

 かなり微妙な結果になってしまったが、決心と恥じらいとのせめぎ合いは、それはそれは白熱したものだった。今日一番頑張ったと言っても過言ではない。それを汲んでくれるかどうかは相手次第だが。

「は、判定は……!?」
 恐る恐る甚爾を窺えば、至極冷ややかな視線が返ってくる。
「失格」
「ぐっ……!」

2

 無情な宣告を受け、澪は振り出しに戻された。
 学生二人はきっとまだ呪霊と交戦中だというのに、これ以上あくせくしている余裕はない。
 失敗を経験したのだから、次はそれを生かして望むのみ。そんな気概を無理やり奮い立たせ、やや奥歯を噛み締め、ぎこちなく甚爾に近付いた。

 するとふいに、交わる冷笑の目が、こころもち楽しんでいるかのように細められた。
 ただそれだけの微細な瞼の動きだ。けれどもそれさえも、艶と叙情を帯びているように見紛った。
 彼の眼差しに身惚れた途端、澪の頭は上気するほど熱くなり、鼓動は喉元まで迫り上がってやじり出す。

 全身の筋肉が張り詰めた。そのくせ、心の底では高揚感が湧き立っている。厄介な雑念を振り解くように目を閉じた。
(喜んでいるのは、私だけ。勘違いしちゃだめ。……甚爾さんはなんとも思ってないんだから)

 先刻よりももっと遅く、じわじわと近づいていけば、唇の先にかすかな感触を得た。先程とは違い、それは薄い皮膚のようで、それから少し、柔らかい。気がする。知覚を得ると同時に、ばっと顔を離す。
 最早これは口付けと呼ぶに値するのか、本人ですら分からないほどの触れ合い。それでも澪にとっては大きな試練だった。
「ど、どうですか」
 怖々と問いかければ、彼の瞳は仕方がなさそうに交わりから逸れた。
「……。及第点ってことにしておいてやる」

「よかったぁ……」
 緊張が僅かに解けた途端、浮かび上がってきたのは疑問だ。
(あれ? これ、もしかして。…………私、初めて自分からキスしたのでは?)
 一呼吸を挟んで己を省みる。相違なく、初めてだ。
 しかも、こんなに薄暗くて埃っぽく、廃れた一室で、だ。微塵も抒情的な要素が見出せない。しかも、引率すべき学生二人をほったらかして。
 澪は支えが切れたように俯いて、細々と呟いた。

「自分からの初めてなのに。状況で済ますなんて……。ちょっとショック……」
「いや、初めてじゃねぇだろ」
「え!?」

 勢いよく顔を上げた。甚爾の眼差しは「何をとぼけたことを抜かしているのか」という呆れを孕んでいた。
 しかし澪には思い当たる記憶がない。
……いや、あった。正確には「キスしそうになったこと」があった。恐らく彼はそのことを言及しているのだろう。

 それは邂逅を果たしたあの日、澪は無意識ながら、甦ったばかりの甚爾に口付けようと随分近くまで顔を寄せた。
 彼が目を開けたのは澪が離れた直後。あの時、既に甚爾の意識はあって、澪が間近にいた気配を読み取っていたとしてもおかしくはない。
 これまで指摘されることが無かったので、てっきり彼に意識はなかったものだとばかり思い込んでいた。
 しかし彼は勘違いをしている。澪は大きく首を横に振りながら訴える。

「違うんです! 貴方の勘違いです! あ、あれは未遂なんです!」
「は?」
 すると甚爾の面持ちは、たちまち怪訝そうに歪む。
 例えるなら、血塗れの死体の傍で包丁を握り「私はやっていない」と弁明する人間と相対する、刑事の如き目。
 しかしやっていないものは本当にやっていない。

「その……。確かに甚爾さんに触れようとはしましたよ? でもあれは術式が成功した直後で、自分でも抑えられないくらい高揚してて。見ている内にああ綺麗だなって思いながら、つい。き、き……すをしようと身体が動いてしまいましたけれど、でもあの時の私は恋に耐性なんてなかったし……、蠱惑的な魅力に抗えなかったというか……、いえでも! 私の目的はそういうことをするためじゃないんです。だからだめだと思ってちゃんと触れる直前で我に返って踏み止まったんです! だから本当にやっていません、本当なんです!」

 必死な支離滅裂の口上を見据える彼の眼差しは、絶対零度の温度に急降下した。
「とんでもねぇ女だとは思っていたが、まさかそこまでだったとはな」
「いえ、ですから今言った通り!……あれは、未遂……で」
 どうも会話が噛み合っていないような違和感に、言葉は尻すぼみになって止まる。
 彼の口振りは、まるで今初めてその事実を知ったかのようではないか?

「…………まさか! 私を揶揄ったんですか!?」
 はじめから、彼には確証など無かったのだ。ただ澪を揶揄いたいがための嘘。それに自ら引っかかりに行った自分は、なんと間抜けなことだろう。
 余計な弁解などせず、しらを切って「いえ本当に初めてですよ」と淡白に答えておけば「そうか」とたった二言で終わる会話に過ぎなかったのだ。

 しかし、引き気味だった割に、そこまで新事実に心が引かれなかったようだ。彼は「……まあいい」と単調な一言だけを寄越してきた。
 もしや情状酌量の余地をもらえるかも、と希望を込めて澪は頭を起こすが、その情緒は容赦なくはたき落とされる。

「それより、もう一回残ってるだろ」
「それも今ですか!?」
「早くしねぇと、そろそろあいつら来るかもな。それともオマエの助けを待ってんのか」
「う……」
 彼がまるで他人事のように厨房の方向へ顔を向ければ、澪の焦りは煽られる。
 けれども考えるまでもなく、優先すべきは学生二人の命だ。もう一度澪は腹を括った。

「……わかりました、ではさっさとやりますよ!」
 潔く切り替えて……と言うより、もはや投げやりだった。けれども、澪がぐっと顔を近づけようとすると、彼はふいと顔を背け、口付けを避けた。

(なっ……!? 自分からしろと言ったくせに……!!)
 これには苛立ちを覚えざるを得ない。澪は確と両手を彼の頬に添え、きっちりと自分の方を向かせる。

「逃げないで下さい」
 甚爾は反論こそしてこないが、実に挑戦的で嘲るような笑みを返してきた。それがより一層、澪の対抗心に火をつけた。
 女の扱いに慣れているからといって優位に立てると思ったら大間違いだ。そんな反発を含み、半ば噛み付くように澪は口付けを落とす。
 その折柄だった。

「白主さん! 今終わりま……した」

 最悪の間である。
 駆けつける足音と共に、活気良く発された妹尾の言葉尻は、窄むように消えていく。彼等の目には、澪が無理やり甚爾の唇を奪っているように映っただろう。いたいけな学生を横目に、彼女は口唇を触れ合わせたままに硬直した。

(や……やられた……!!)
 甚爾がこの場で澪に口付けさせようとしたのは、地味な嫌がらせに分類されるという見解は間違いない。しかし真の目的は恥辱を与えるのではなく、これが狙いだったのだ。
(そうだ。さっき甚爾さん「二回で済んで」って言った……! この人はもう分かってたんだ、あの時点で、二人が呪霊に苦戦してないことを……!!)

 先輩術師としての威厳に繋がるはずの本日の努力は、この一瞬で木っ端微塵となった。
 しかも彼らは敬慕する五条が受け持つ一年生。十中八九、この事件は彼の耳に入ってしまう。
 しかしここで情けなく狼狽しては、それこそ甚爾の思うつぼだ。これ以上翻弄されてなるものか。
 澪はゆったりとした動作で口唇を離す。そして、無駄に髪を耳にかけ、妹尾と垂水の方を向いて意味ありげに微笑む。

「ふ……。お二人には理解出来ないかと思いますが、私の術式は特殊でして。実はこれを対価として彼を戦わせていたのですよ……」

 余裕かつミステリアスな演出のつもりだ。しかし当然学生の目は納得の色には染まらない。垂水は囃し立てたそうに妹尾と澪に視線を行き来させていて、妹尾は理解不能と言わんばかりに口を半開きに唖然としている。
 そして甚爾はというと、あえて見なくてもどんな面持ちかは分かり切っている。「何言い出してんだこいつ」という呆れ顔で間違いない。

(………………だめか……)
 華麗に先輩としての威厳を再燃させたかったが、結局学生からの評価は「任務中に男と睦み合う破廉恥な女」ではなく「破廉恥な術式を使う女」に変更となっただけだ。
 好奇と戸惑い、そして呆れの沈黙がこの場に漂っていた。
(うん……。いいです。もう、諦めます……)
 現実逃避を胸に抱き、あさっての方向を見た。すると、壁に突き刺さった游雲が視界に入る。

「あっ……!」
 幸いと言うべきか、こういう時の澪の精神は強靭である。
 自分に出来ることはやりきった。それでもどうにもならないことを引きずっても仕方がないと、早々に心を切り替えていた。
 軽々と甚爾の腕から降り「ちょっと待っていて下さい」と言い放った澪は、游雲の元へ駆け寄っていく。
 彼女にとっては自分が破廉恥と評されるよりも、特級呪具の安否の方が重大な問題なのである。

 二節目の半分まで埋もれている棍は、どうも外壁にまで到達しているらしかった。
 嫌な予感を覚えつつ、游雲を握る。くっと力を込めて引いてみたものの、壁に埋まった棍は微動だにしなかった。

「全力を込めても抜ける気がしない……」
 しかしながら、游雲をこんな状態にしてしまった張本人に訴えても、どうせ手伝ってはくれないだろう。
 懸命に全身を使いながら一気に力を込めたり少し捻りながら引っ張ったりと、ひとりで格闘している内に、後ろから足音が近付いてきた。
 きっと妹尾か垂水が見かねて手を貸しに来てくれたのかも、と期待に振り向こうとした時、後ろから澪の体を覆うような気配に硬直した。時を交わさず、真後ろから伸びてきた手が、棍を掴む。

 手元を見れば誰が後ろにいるのかは瞭然だった。けれどあまりにも距離が近くないか。澪はいまいち状況を上手く把握出来なかった。
 何より、彼が自発的に手助けに来るだなんて有り得ない。
 何故手を貸してくれるのか。それを考えると、えも言えぬ情緒の波打ちがさざめく。けれど内心を勘付かれてはならないと、澪は笑顔を浮かべて振り返った。

「ありがとうございます」
「非力だな」
 淡白な返しには明らかに嘲りが含まれている。
 しかし澪の目が受け入れるのは、彼の整った顔立ちの情報ばかりで「誰のせいでこうなっているのか」という言葉が咽頭から上がってこない。
(恋に毒されてる)
 確かにこれなら甚爾が籠絡してやろうと考えるのも無理はない。澪は自身の単純さに呆れた。
 そんな風に傍観的な分析していると、ゆくりなく冷静な思考が大きく崩された。棍を握る甚爾の手に強く力が籠ったのである。

「ち、ちょっと! それ、無理やり抜こうとしてませんか!?」
「じゃあどうすんだよ。他に方法なんかねぇだろ」
「途中で折れちゃったらどうするんです!」
「……折れねぇよ。心配すんな」
「でも。ま、待って下さい。せめてもう少し……優しく……!」

 慌てて彼の拳を両手で握り、制止しようと訴えた。
 だが甚爾は全く聞き入れる気配がなく、問答無用で腕を引こうとする。次第に壁の中から何かが削られる耳障りな音が聞こえ、ついに澪は声を上げて懇願する。
「やだ、甚爾さんっ、中でみしみし鳴って……。こ、壊れちゃう」
「うるせぇな。後で直せばいいだろ」
「修復にいくら掛かると思っているのですか! ああっ、だから、だめです……!」
 懸命な主張を無視する甚爾は、狼狽する姿を見て楽しんでいるかのような気色だった。

(これは……わざとやっているのでは……!?)
 澪が面白いくらいに慌てふためくからと、ぞんざいに特級呪具を扱われたらたまったものではない。腕にしがみ付き、のし掛かるようにして引く手を止めて訴え掛ける。

「いいですか甚爾さんっ。もしも游雲をうっかり破損させようものなら、莫大な借金を負った結果、私達は路頭に迷い、仲良く飢餓に苦しみ、人知れず死を共にする事になるのですよ! そう、この私と! 二人きりで!」
「そいつは最悪のエンディングだな」
 必死の説得は上手くいったらしい。拳の力が緩まるのを見計らって、澪はやんわりと游雲から彼の手を離し、自ら引き抜こうと棍を握り込んだ。
「そうでしょう? ですから少しは大事に……わっ」

 体重を掛けて引っ張ったところ、頑として壁に嵌まり込んでいた棍は、実にあっさりと抜けた。
 勢い付いた彼女の体は後方に仰反る。しかし甚爾が真後ろにいる為、その背は彼の体に受け止められた。
 思いがけず身を預ける恰好になってしまった。体勢を戻そうとするが、いきなり彼の腕に抱え込まれてしまう。
「…………!?」
 困惑に声も出せずにいると、次に真上から笑いを含んだ声が落ちてくる。

「わざとやってんのか?」
「や……っ、やっていません! というか、それは甚爾さんの方でしょう!」
 焦って腕の中から抜け出そうと身を捩るが、澪を離す気配が全くない。
「離して」と声を上げようとした矢庭、今度はあっさりと甚爾の体が離れた。
 しかし、澪の身内に生じたのは安心感ではなく不穏な予感。

 恐る恐る振り返るが、もう遅かった。
 広間の入り口から、明らかな軽蔑と物珍しそうな眼差しを向ける妹尾と垂水の面持ちが目に映る。
 そこでようやく、甚爾手助けに来た理由に親切心などは一欠片もなかったのだと察した。

「破廉恥な術式を使い、任務先で堂々と男といちゃつくロクでもない卒業生」
 出だしとしては最悪の印象を、幼気な少年の記憶に克明に刻み込んでしまったのは言うまでもない。