My last 改稿版
恋で殴り、愛で蹴る 23

1

 後悔の澱が積もっていた頭の中に、新たな水脈が巡り出す。
(また、焦って……目的も、自分自身も見失ってた)
(今の私はどういう状況にあるのか、落ち着いて考えてみよう……) 

 散らかったまま放置されていたものを片付けるように、澪はゆっくりと思考の整理を始めた。

 甚爾は自分に好意を向けている訳ではなく、澪を翻弄して消耗させる目的で行動している。現状敵対関係にあると言っても相違ない。
 とはいえ、条件付きではあるものの任務を代行してもらう為の土台はある。
 本来の完璧な流れ通りとはいかないが、計画は少しずつ前に進んでいる。

(計画の実行がゴールじゃない。その先にある憲紀と先生との約束を果たすこと、家族の幸せを守ることがゴールなんだ)
(障害物もない、ただ真っ直ぐで平坦な道なんてなかった。それなら、遠回りになっても新しい道を探して行けばいい)

 目的を見失わずにいれば、何度道程が変わっても辿り着ければ成功なのだ。
 彼を自分の思い通りに操ることは出来ないが、澪自身のものの捉え方や行動は如何様にも変えられる。そう自覚した途端、目の前が明るく開けたような感覚を得た。

(…………私は、甚爾さんが怖いんじゃなくて、経験したことのないこの感情そのものを恐れている)
(恋をしている自分を隠したくて、自分自身の心から目を逸らして、逃げたかった。……初めての感情が不可解で、怖かったから)
(でも、私自身のことなのに、何を怖がる必要があるんだろう)
(私は甚爾さんが好きで、ただそばにいるだけで嬉しくて、嘘でも触れられると喜んでしまうだけ。それだけ……)

 小さな穴から見ていた景色、それが眼前の障害物がなくなり視界全体に広がっていく。拒絶していた感情を受け入れた心境は、野花が遥かに咲く平原のようだった。

(漠然としてた私の本当の姿、今在る私の位置、それが少し分かってきた。だから、大丈夫)

 膝を抱え、服に涙を染み込ませながらも、澪は自己の受容と決意を固めていく。不得手な心理の駆け引きなどはやめて、真っ向から彼と……それから自分の心と向き合うべきだ、と。
 伏せていた顔を上げ、閉ざされた扉を見据えた。

(だから……。まずはちゃんと謝ろう)
 いつの間にか床に落ちていた携帯を拾い上げ、時刻を確認する。
 思っていたより時間が経っていた。深更にも関わらず自分の都合だけで謝罪に出向くのは無礼かも知れない。伝えるべきことは明日の朝だ、と気を取り直した。

(また、恵先輩に助けられちゃいましたね)
 ゆっくりと過去の思い出を脳裏に浮かべ、新たな元気の素に口をつける。ゼリーが喉を通り、澪は自然と頬を緩ませた。

(……そうだ。今ここで挫けてしまったら、恵先輩に甚爾さんのことを伝えられなくなっちゃう。こんなところで自分を見失ってる場合じゃない!)

 二つ目の元気の素を飲み切った澪の瞳は、深更を逆転させそうな強い光を孕んでいた。
 状況は好転した訳ではないが、背水が迫ってくるのなら意を決して前に飛び込んでみるのも、また一つの選択。きっとこれは振り返らずに先へ先へとひたすら前進する為の試練なのだ。

(大丈夫。私ならできる。この恋を克服してやります!)

 あっという間に、澪の熱意は完全に復活した。けれども、意気込みが強すぎる余り、今度は意識が冴え冴えとして眠れなくなってしまった。
 しかし今の澪には睡眠不足などは何の障壁でもない。如何なる試練が訪れようとも、確実に乗り越えていこうという自信で満ちていた。

2

 朝を迎え、洗面室で自身の泣き腫らした顔を見つめながら苦笑いを浮かべる。

「面白いくらいに酷い顔ですね」
 けれども彼女の心が頽れる予兆はない。むしろ足取りは軽く、意気揚々とリビングの扉を開け放った。

「おはようございます」
 反応は無い。まだ寝ているのだろうかと部屋の奥のソファーを見遣ると彼はそこにいた。対面するテレビからは清々しい声が流れている。こちらを見向きもずに画面を眺める面持ちは、心底つまらなそうだった。
 澪はソファーに小走りで向かい、素早く彼の足元に正座し見上げた。

「朝です! おはようございます!」
「うるせぇ。聞こえてる」
 そこでようやく彼は澪に視線を落とす。切長で凛々しい目付きは、改めて見るとその端正さのみならず、覇気が篭っていなくとも鋭い威圧を感じる。しかし怯んでなどいられない。
 緊張に固まりそうな体の力を抜きながら、見下してくる瞳を真摯に見つめた。
 甚爾はというと、返事は無く眉ひとつ動かない。しかし目を逸らしはしなかった。それを見て、澪はそっと口を開いた。
「……昨日は、申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げる。しかと陳謝し、顔を上げれば、相対する瞳に一瞬だけ情緒の揺れのようなものが見受けられた。しかし余韻もなくそれはすぐに消えてしまったので、彼の感情は少しも読み取れなかった。
 それから、なんの反応も返ってこない。懸命に澪は言葉を続けた。

「こう見えてちゃんと反省しているんです。……だから、どうしたら許して頂けるか、教えてくれませんか」
「反省とか許すとか、なんの話だよ」
「昨日の夜の話です」
 すると甚爾は意味が分からないといった表情をする。……無理もない。彼からすれば、昨日あれほど感情を剥き出しにした人間が、翌日けろっとしていれば、状況についていけないだろう。
 己の非を受け入れるように、ゆっくり呼吸をしながら、澪は話を進めた。

「昨日、貴方に酷い言葉をぶつけたでしょう? でも、あれは貴方に向けたかった言葉じゃないんです。本当は、不甲斐ない私自身を論っていた言葉。貴方は何も悪くないのに……、八つ当たりをしてしまったんです」
「…………」
「だからお詫びをさせてください。自己満足かも知れませんが、それでもけじめをつけたいのです」
「どうでもいい」

 問答無用で門扉を閉ざす物言いだった。けれども澪は慌てて食い下がる。
「た、例えば……何か欲しいものとかは……」
「この軟禁状態で、自由以外に欲しいもんなんてあると思うか?」
「う……。それなら、もう少し自由になれた時のため、とか……。任務の後の報酬を実用的なものにするなんてどうでしょう……? 直球ですけど、呪霊一体につき十万……いえ、二十万円とか」
 すると甚爾は澪から目を逸らしてテレビの方に視線を戻してしまった。きっと、惰性で見る番組以下の話だと思われているのだろう。

(……また、焦ってしまった。……これじゃ全然謝罪になってない……)
 許されたい、自分の失敗の片をつけたい、そんな感情が先走ってしまった結果だ。
 居た堪れなさに悄然としながら、窺うようにテレビに視線を向けた。画面に映画の予告映像が流れている。人気のある少女漫画の実写映画らしい。自分には程遠く、御伽話のようにも思える世界だ。

 夕暮れの校舎、少女が意を決して男子に口付けするそぶりをして映像は途切れる。気になる続きは映画館で、というお決まりの構成だ。
(いかにも、フィクションって感じだなぁ……)
 自分から意中の相手に触れる……しかも口唇で。もはやフィクションかつファンタジーの世界だ。舞台は日本の高校ということらしいが、少なくとも、自分の身にはこれまでそんな抒情的な瞬間は訪れなかった。……そしてこれからも起こり得ない。
 ほんのわずかに、心底で寂しさが滲む。

「……実用的ね」
 不意に鼻で笑う声が聞こえた。甚爾の方を向けば、ついさっきまで至極つまらなさそうにしていたのが嘘のように、悪巧みを思い付いたと言いたげな笑みを浮かべている。
…………嫌な予感がする。
 不穏な直感に応えるように、彼は澪に視線を向けた。

「一ヶ月間」
 何の期間だろうか、と澪は首を傾げた。甚爾は指を一本立て、それから指先を澪の額に向けて翳した。
「呪霊一匹につき一回、オマエから来てもらおうか」
「え、と。どこに……でしょう」
 すると嘲笑うように彼の口角は上がる。誘導するように澪に見せている指先をやや曲げて自身の口唇に向けた。そして爪の先で軽く二、三度つつくように示した。
「ここに」

 瞬時に澪は大きく目を開く。
「それ! さっきのCM見て適当に考えたでしょう!?」
「適当じゃねぇ。計画の軌道修正には必要な工程だ」
「計画って……」
 つまりは澪の思慕を利用すること……籠絡への手段を彼も変えてきたということだ。
「一ヶ月もすりゃ嫌でも慣れるだろ」
「ンググ……!」

(酷い人だ! 私の心と体を弄んで利用することしか考えてない!)
(いや、私も彼の能力を利用しようとしているんだから、人のことは言えない……。似たもの同士の戦いということか……)
(でも、見方を変えてみれば……、男性に……甚爾さんに慣れることが出来たら、この感情の克服にも繋がるかも……!)

 とにかく今の澪は前向き思考が絶好調だった。視野が広がった頭は、逆境すらも己の成長の糧と捉えられるほどである。その上、頭の回転も速くなっていた。

(……そうだ。もしも甚爾さんが一体も呪霊を祓えなかったら……?)

 矢庭、逆転の作戦を閃いた。
 二人の間には任務における縛りがあるが、もしも甚爾が一体も呪霊を祓えなかったら、それは任務をこなせていないことになるのではないか。
 そうすれば、縛りに反したペナルティにより、形成逆転のチャンスが訪れる可能性は極めて高い。
 澪が全力で祓除に取り掛かることで、一体の祓除につき一回キスをする決まりも、任務の遂行の代わりに要求を受け入れる縛りも崩すことができる。一石二鳥だ。

 さっきまでの謙虚な姿勢はどこにいったのかと問い詰められるとやや心苦しいが、こんな時、敬愛する恩師ならばこう主張するだろう。
「陳謝し条件を慎んで受けた誠意と、己の利益に貪欲な性悪は、全くの無関係です」これをより簡潔な言い方に変えるなら「それはそれ、これはこれ」である。心理戦は苦手だが、こういう軽口は得意だ。

 澪は深く頷き、決意の微笑を湛える。
「……分かりました。私の誠意と心意気を存分にお伝えする為にも、受けて立ちます」
「何の勝負だよ」
「正直に白状致しますが。私はこれまで一切恋愛経験が無いのです」
「見りゃ分かる」
「うぐ…………。だ、だから! 過度な……ええと、せ、接触は私にとって危害と見なされるでしょう」
「あー……。セックスはもっとゆっくり慣らしてからが良いってことね。んなこと言われなくても分かってる」
「せっ!? ち! 違います! 私を追い込み、籠絡して破滅させるという計画はお見通しです! でも私は未熟とはいえ、三原則の効力だってあるのですから、そう簡単には崩されませんよってことです!」

 甚爾は澪になど微塵も興味なく、まして好意を抱くなど天地がひっくり返ってもあり得ない。
 そんな相手と、偽りでも恋人同士さながらに接せられる経験はこんな状況でなければありえないだろう。それなら一層の事、この状況を楽しめるよう、自分の心構えを変えればいい。
 籠絡とは体を弄ばれるのではなく、心を奪われ弄ばれることだ。
 どれだけ攻め込んでいるつもりでも、澪を楽しませているだけならば単なる奉仕となる。そうなれば自ずと甚爾も企みを諦めるだろう。
 澪の身内の心意気は、戦前の勇猛な兵さながら渾々と湧き立っていた。

「私は、貴方に心を乱され一度負けました。……貴方だけではなく、自分にも。でも、次はそうはいきません。だから受けて立つ、なのですよ」
「オマエの意気込みなんざどうでもいいが、……耐えられんなら耐えてみろ」
 対する甚爾は、取るに足らないといった態度でせせら笑うのだった。

3

 日が高く上り始めた頃、不意に携帯が鳴る。見遣れば画面に表示された名前は「五条悟」だ。

「先生!」
「澪。頼みたい事があるんだけど」
 業務連絡であっても、一番に畏敬の念を寄せる人からの連絡は嬉しい。五条の声が聞ける嬉しさを噛み締めながら応じた所、彼の第一声がそれであった。

「もちろんお引き受けします!」
「なんか、やけに元気だね」
「そうですか? いつもこんな感じですよ!」
「そう……。まあいいや。要件だけど、今日うちの新入生二人に澪の仕事見学させてやってくんない?」
「えっ……、新入生を……?」

 澪は逡巡した。いくら恩師の頼みであっても、まだ甚爾と自分は冷戦の最中だ。自分の計画とは無関係の、しかもまだ高専に入学して間もない学生との接触は危険ではないか。
 五条も澪の危惧を知っているはずなのに、何故。思わず答えに窮する。
「いえ、その……」
 甚爾に背を向け、思考の迷いに合わせて二、三歩足を動かす。……別室に移動して相談をした方がいいだろうか。
 迷いに眉をひそめたその時。するり、と抱きしめるように後ろから肩に腕が回される。予想もしなかった甚爾の行動に思わず鼓動が跳ねた。
 次いで、携帯を当てている方とは反対の耳元に声が落ちてくる。

「安心していいぜ。オマエの人間関係には興味ねぇからな」
 狙いはあくまで澪の籠絡であり、他人を巻き込むつもりはないとでも言いたいのか。しかし、言葉巧みに騙そうとする悪魔の囁きにも思える。
 返って脳内は迷いの坩堝と化した。

 けれど、次に聞こえてきたのは恩師の優しい声だ。
「大丈夫だよ、澪。僕がいる限り、ソイツの好きにはさせないし、君の事も守るから」
 彼にも甚爾の言葉が聞こえたのだろうか。自信に満ちた五条の言葉に、大きな安堵を覚える。すると、微かに澪を包む甚爾の腕に力がこもった、……ような気がした。

「……わかりました。今日の任務内容なら問題ないと思います」
 澪が答えると、ふいに甚爾の手が離れていき、身体が解放された。
「ありがと。いけそうなら軽く手伝わせてもいいし、なんならアドバイスとかもしてあげて」
「かしこまりました!」

 こんな風に引率の代行を頼まれるのは初めてではない。多忙な彼だからこそ良くある依頼だ。
 在学中も、五条が急遽遠方に出掛けなければならなくなった際には、半ば押し付けられる形で彼の受け持ちである一年生を自分の任務に連れて行っていた。
 その度に「五条先生の役に立てる!」と気合を入れて、あれこれと指導紛いの熱弁やら手解きをしたものだ。

「また先生とかいう奴か」
 澪から離れた甚爾は、もう既にソファーに深々と背を預けていた。見るからに横柄な座り方で、声音はあからさまに不満を孕んでいる。恩師の言葉で澪が動揺を抑え込んだことが気に食わないのだろう。
 ひとまず先制攻撃は回避できたということだ。澪は意気揚々と答える。

「はい! 今回は先生の代わりに一年生を任務に連れていきます! よく頼まれるんです。信頼されていますから!」
「仕事を押し付けられてるだけじゃね?」
「違います! 先生は私に期待してくださっているんです。先生に応えるため、貴方に邪魔はさせませんよ!」
「…………暑苦しい女だな。勝手に燃えてろ」

 その声調に若干の不機嫌な色が伺えた。それに、妙に突っかかってくることにも違和感を覚える。
(もしかして……。甚爾さん、焦っている……? それはつまり、現状は私の方が有利だという証拠!)

 いよいよ仕切り直しの一戦が本格的に始まるが、好調なスタートをきれそうだ。
 恩師の大事な教え子を任されているという緊張感も相まって、身内で気合が滾っている。すぐさま安曇と連絡を取り、遠方の目的地へと向かったのだった。

4

 赴いた先は数十年前に廃墟と化した観光ホテルだ。移動中に詳細情報を確認していた為、ある程度の規模は想像はしていたものの、実際前にすると要塞のような威圧感を覚える大きさだった。
 かなり知名度の高い廃墟らしく、歴史が長いだけあって真偽不明の噂話も多い。今回の任務は突発的な問題発生ではなく巡回作業だ。……しかし。

(こういう場所は大概、低級が各所にたむろっているんですよね……)

 不穏な兆しを覚えつつも、既に到着していた男子学生二名と合流した。
 高身長で大人しそうな容貌の一人は妹尾と名乗る。それから、やや制服を着崩し人懐こい笑みを向ける学生は垂水と言った。二人とも現在は三級術師であるらしい。
 両名とも特に緊張している様子はなく、それどころか垂水に至っては澪と甚爾に興味深々な様子で距離を詰めてきた。

「澪さん可愛いですね、歳近そうですけど何歳ですか!」
 そう言った次の瞬間には横に目を向ける。
「もしかして服の下、超バキバキなんじゃないですか! 毎日筋トレ何時間やってます?」
 そして極め付けは「二人はどういう関係なんですか!」と目を輝かせながら矢継ぎ早に問い掛けてきた。

 無反応に見下ろす甚爾にも物怖じしていない垂水の様子に澪が瞠目していると、人懐っこい彼の首根っこを妹尾が掴み、後方に下がらせた。

「すみません。この人誰にでもこんな感じで……」
 まるで保護者の如く申し訳なさそうに妹尾は頭を下げる。入学前からの付き合いなのかは定かではないが、関係は良好そうだ。

「気にしないで下さい。では早速入りましょうか」
 二人に笑みを向け、次いで游雲をバッグから取り出し甚爾を見上げる。彼は学生の微笑ましいやりとりなど全く眼中に無かったようで、先にある廃墟を見据えていた。しかし澪が見ていることに気付くと、視線だけを向けてくる。
 恐らく相当な数の呪霊が中に潜んでいるのを察知したのだろう。勝ち誇ったかのような緩い嘲笑いを向けてきた。

 何も知らない人間が見れば、涼しげで凛々しい微笑だと見惚れるに違いない。しかし澪の目にはそうは映っていない。秀麗な面持ちを正視しながら、彼女も瞳に闘争心を宿して挑発を受け取り笑った。

 正面玄関に立ち入ると、にわかに脇から勢い付いて飛び出してきた呪霊に出迎えられるという形で任務が始まった。
 痩せ細って皮膚の下の骨が突き出しているような体格に、人頭を逆さまに取り付けられた大きな異形だった。
 敵は甚爾へと一直線に迫った。飛び掛かる巨体は大きさの割に動きが素早く、あっという間に甚爾の間近に達したが、同じくあっという間に霧散した。

 祓ったのは狙われていた当人である。
 その動作に一つも余分な動きは無かった。もはや構えもせずに、游雲の一節を軽く手首を捻って振ったのみだ。まるで小虫を軽く払うかのような手振りだが、相手は二級は固いと判断出来る呪霊だった。

「おおー! すげー!」
 背で少年達の感嘆を聞きつつ、澪も内心で舌を巻く。
(改めて見ると、やっぱりこの人はすごい。私が戦う体勢に入っている間に、一瞬で祓った……。何をしたのかさえ、目で追いきれなかった)
 こんなにもさもない動作でさえ、力量の圧倒的な差を痛感する。澪の身内では、決して届かないとしても、この人に近づきたいという熱意が激ってきた。
(…………って、それより! 今ので一回確定しちゃってませんか!?)

 口付けの回避みならず、縛りを破らせる画策もいきなり挫かれた。しかし悔しがっている暇はない。
 ふいに濃くなった気配に上を見遣ると、二、三級と見受けられる呪霊達が階上からこちらを見下ろしていた。

 混戦に持ち込むのは良策とは言えない。学生に無理はさせられないし、これ以上甚爾に呪霊を祓わせたくもない。
 ならば澪がこの先一体も敵を取り溢さずに進むのが最良だ。先陣を切った澪が正面の敵全てを仕留めれば、背を取ろうとするのは壁を抜けられる弱い呪霊のみ。
 学生二人にそれらの相手をさせれば力量も測れるし、それ次第では三級か二級一体と戦わせることで訓練にもなるだろう。
 甚爾は余裕がある分、澪や学生達から呪霊を横取りすることはしない筈。効率良く上手く立ち回れば彼の戦果を呪霊一体に抑えられる。
 振り向きながら少年二人に目を向ければ、彼らも臨戦態勢となっているらしく表情が引き締まっていた。澪の期待は更に高まる。

「ここは私が先んじて進みますから後ろはお任せしていいですか?」
「はい!」
「甚爾さんは真ん中です。……二人共、もたもたしていると活躍する間も無くこの方が全て祓ってしまいますからね」

 やる気のありそうな彼らなので、こう言っておけば士気も上がるだろう。甚爾はというと、返事はないものの今の所澪の意向に沿うつもりのようである。
 この程度の呪いには本能的に人を襲う反射はあれど、陣形を組んだり策を講じる知能はない。
 多少頭を使ってくる狡猾な個体もいるが、予想可能で稚拙な行動が殆どだ。今回の場合は迅速に敵の数を減らすのが肝なので、手当たり次第発見した呪霊を祓う方法でいく。

(よし。ではいざ、作戦開始!)

 階上の呪霊の数は六。
 群れているだけあって個々の強さは大した事はない。問題なく一人で相手に出来るだろう。
 しかし過信は禁物だ。極力後方には一体も回さないようにしたい。掃討は一分以内且つ一体ずつ迅速に行う。
 その為には一体につき三、四撃で仕留めねばならないので、あえて今は背後への意識を一旦遮断する。
 群れの全体を視認しながらも、手始めに今にも飛び降りてきそうな一体へと照準を定めた。

 呪力を一点に集める作業に僅かでも乱れが生じれば攻撃の威力が大幅に落ちる。階段を駆け上がりながら、二手、三手先の戦況を予測し、まずは一体目を相手取る。
(この相手は問題なし、次はあっちの呪霊の方が反応が早そうだから…………)
 高速で巡る思考に合わせ、体躯はしなやかに動く。ある種の心地よさを感じながら、澪は最小限の動作と正確な間を以って、呪霊達を確実に祓っていった。
 そして目標通り、一分にも満たない時間の中で、最後の一体が霧散する。
(後方に呪霊を漏らすことなく、尚且つ迅速。うんうん。出だしは能率良く完璧な運び、さすが私です)

 自画自賛を頬に浮かべ、ぱっと振り返る。
「では皆さん、先に進みま…………、あれ!?」
 なんと後ろには誰もいなかった。
 慌てて一階を見下ろすと、三人はその場から一歩も動いていない。つまるところ、彼等は澪が奮戦する姿を下からただ眺めていたということだ。
 甚爾はさて置き、素直そうな学生二人まで着いて来ていないとはどういうことか。

 学生二人と目が合えば、妹尾はどこか居た堪れそうにし、垂水は澪の方に手を振りながら「澪さんかっこいー!」と陽気に声を上げた。
「何故誰も付いて来ていないのですか!」
「えっと……、白主さんが呪霊を片付けるまでは動かなくてもいいと……」
 そう言って恐る恐る甚爾に目を向けたのは妹尾だ。澪はすかさず「何故勝手に指示をしてるのか」と抗議込めて甚爾に視線を飛ばす。すると彼は薄い笑みを湛えた。

「こいつらにオマエの力量を見せておこうと思ってな。飛ばし過ぎて途中でへばんなよ」
 下にいるのは相手なのに、何故か高みから見物されているような心持ちにさせられる。
 けれどもそれは思い込みではないことは澪が最も自覚している。こちらの本気など、彼の力量の一割にも満たないのだから。実力を嘲られても何も言い返せない。
 埋められない能力差に閉口せざるを得ないのが口惜しいが、それでも彼女の気概はまだまだ潤沢だ。
「無問題です! ほら、皆さん先へ行きますよ!」