My last 改稿版
旱天の葛の葉 -1-


1

「あ。丁度揃ってるね、みんな注目ー」
 教室に入ってきて早々、五条が声を飛ばす先にいたのは、現在高専の三年生である悠仁、野薔薇、恵だ。

「誰かさぁ。澪に協力してやってくんない? 先輩の任務に付いて行きたいんだって」

 いつもの軽い調子で告げた途端、野薔薇は僅かに表情を暗くした。
「……やっぱり、相当追い詰めてたのね」
 呟くように言ったのは野薔薇だった。
「もしかして、丁度話題に上がって感じ?」
 問えば野薔薇と悠仁が頷きを返す。
「あの子、大人しそうで結構我が強いのよね。だから、本人が気付かないうちは、外野が何を言っても無駄だってわかってるんだけど……」

 その口ぶりから、少なからず元気付けようと声を掛けてきたのだろう。だが、澪は変なところで他人に頼ることをしない。むしろ一線を引こうとする。
 どうせ「一人でやらなければ」なんて意固地になっているに違いないが、そういう時の彼女は頑なに己の感情を隠すので厄介だ。
 そんな手のかかる後輩に気を揉む先輩としての姿を見ていると、彼らの成長を実感する。つい感慨深さにひたりかけた五条だったが、その内心を笑みで隠し、穏やかな声調を向けた。

「そんなに深刻に受け止めなくても大丈夫だよ。よくあることじゃない? 周りに気を取られすぎて自分を見失ってる的なやつ」

 そう言っても野薔薇の面持ちは和らがない。
 今回の任務は、澪を連れて行くだけで終わりではない。任務中に彼女を守ること以上に、どう接するかが重要な任務。……そう考えているのだろう。しかし五条の思惑はもっと軽いものだった。

「澪みたいなタイプは、一回完全にへし折れた方が強くなる。だから、任務中にあの子が死にさえしなければ、それ以外のフォローも何もしなくていい」
 にわかに野薔薇と悠仁が目を丸くして、互いに顔を合わせ、それから再び五条に向き直る。
「……先生って。案外澪に甘いようで厳しいのね」
「そう? いつでも僕は生徒の成長を一番に考えてるだけさ。今の澪にとって、挫折は必要かつ重要な行程なんだよ」

 苦労をしているようで、澪は挫折を経験したことがない。初めから諦めているか、あるいは周囲に助けられてなんとか上手くいっているかだ。そろそろ自力で立ち上がる方法や、視野を広げるべき段階だろう。そう彼は踏んでいるからこそ、あえて突き放すつもりなのである。
 五条の自信に満ちた態度に感化されたのか、二人の生徒は決心したような眼差しを返す。
 それを見て、深々頷いた五条は口を開いた。

「と、いう訳で。澪は恵の任務に付いて行かせます!」
「えー! そう来る!?」
 思わず悠仁が声をあげたが、名指しされた当人の表情は微動もしない。その上、三人分の視線が一斉に集まるのを気にもとめず、淡々と返した。
「分かりました」

 一切動揺も指摘もない返答に、悠仁と野薔薇は面食らって目を見開いていた。予想しなかった恵の反応に、五条もまた、少しの驚きの色を表情に浮かばせていた。
 すると、一呼吸おいて野薔薇が咳払いを一つして、忠告めいた声音を発する。

「……伏黒。アンタ、分かってると思うけど」
 その剣呑な言い様に恵は頷きを返す。次いで彼女の言葉を代弁しようとするように口を開いた。
「ああ。必ず無事に――……」
「もし慰める振りして襲いでもしたら、真希さんにシバいてもらうからな」
「誰がするか」

 思い切り野薔薇を睨みつける恵を見ながら、五条はため息混じりに呟く。
「心配だなぁ」
「悪ノリしないでくれませんか」
「それもあるけどさ。なんだかんだ三人の中で恵が一番澪に甘そうだと思って」

 気を衒ってやろうといういたずら心で恵を指名した五条であるが、今更内心で引っ掛かりを覚えていた。
 三人の中では恵が最も論理的で冷静だ。いつもの彼なら、こんな要望など速攻で断ってくるはず。
 しかし一方で、この生徒は考え事が多い時ほどいつも以上に喋らなくなる。恵も澪の様子が心配で仕方がないのではないか。そんな憶測が浮かぶ。

「……アンタにだけは言われたくない」
 不満気に恵がにらみをきかせると、野薔薇と悠仁の視線も同じ方向へと向かってくる。
「まあ確かに、普段先生が一番澪を甘やかしてるわよね」
「あ。今回の任務を伏黒に任せるのって、白主がヘコむところを見てらんないから、とか?」
 三人の学生の視線が「有り得る」と無言の結論を胚胎し始めた。

 こういう時の彼らの勘の鋭さは厄介だ。
 厳密には、これ以上澪を消沈させたくないので、うっかり任務中に手を貸してしまいそうだから。というのが正解だ。
 今回の役目も、自分がもう少し彼女と距離を置ける関係性だったのなら、迷わず買って出ただろう。しかし己を律する自信が毛頭ない。相違なく、この場の誰よりも澪に甘いのは自分なのだから。

「ま、大いに期待してるよ。恵クン!」
 五条は、都合の悪い雰囲気を振り払うように恵に近づいていくと、肩をバシバシと叩く。直後、思いっきり振り払われるが、損な役目を負わせる彼へのせめてもの償いに、その痛みは確と手のひらに受けることにした。

2

 翌日の朝、部屋から出て校舎に向かうと、入り口で澪の笑顔に出迎えられた。

「先生! おはようございます!」
「……あー、うん。おはよう」
 その面持ちは昨晩相当泣いたことを物語っていた。しかし、声や表情は見違えるほど明るいので、あまりのアンバランスさに五条は呆気に取られた。
 そんな心緒を知ってか知らずか、澪は深々を頭を下げる。

「報告が遅くなってしまって申し訳ありません。……昨日の任務、大失敗してしまいました」
 真摯な声音を落とし、次に彼女が顔を上げたとき、その眼差しに強い光が宿っているのを目の当たりにした。海の水面に陽光が反射しているような色だった。

「ですが、気付けたことが沢山あります。だから私、これからは自分に合ったペースで一歩ずつ、精進します」
 懸命に背伸びをしながら、澪は心意気を語る。ひと月以上見せてくることのなかった表情がそこにあった。
 むしろ、以前にも増して、眩さを覚えるくらいだ。熱意のこもる瞳に気を取られながらも、五条は一度だけ頷きを返した。

「ご迷惑をおかけしてしまいましたが、どうかこれからもご指導よろしくお願いします……!」
 再び澪は頭を下げた。恭しく垂れる頭に、彼はそっと手を置く。
「最初から、何があっても君を見限るつもりなんて、さらさらなかったよ」
 それからゆっくりと頭を持ち上げた澪は、こちらを見上げて嬉しそうに微笑む。それだけで、彼の内心も安堵で満たされ、穏やかに傾きそうになる。
 だがここでひとつ、疑問が生まれた。
……何がこんなにも早く澪を立ち直らせたのだろう、と。

 確かに彼女の精神力はそこそこ強い部類に入るが、それでもまだまだ未熟な子供。あれほど悄然としていたというのに、一夜でこんなにもあっさりと心の整理がつくものだろうか。
……考えられる要因は一つしかない。

「ところでさ。昨日、恵となんかあったの?」
「いえ、…………。恵先輩は、私を怒ったり、失敗を指摘したりはしませんでした。それどころか、ちゃんと私のことを分かってくれていて、それで……」
 ふと言い淀んだ澪は、口を開いたまま固まり、そしてじわじわとその頬を赤く染めていく。……果実が鮮やかに熟れるように。

「何でそこで赤くなるの?」
「え!? 私、顔赤いですか!?」
「うん。……で? 恵になにされたの?」
「いえ。なにも! これは、違うんです。私が変な勘違いをしそうになってしまいまして! でも間違いなく勘違いだなって、ちゃんと理解していますので無問題です! とにかく、先生が恵先輩を選んでくださったおかげで、立ち直れました! ありがとうございました、失礼しますっ」

 こちらが突っ込むまもなく早口で言い切ると、澪は逃げるようにその場から去っていった。かすかに彼の内心は澱む。その理由がよく分からないまま、校舎の中に入って行った。

3

 廊下で恵の姿を見かけ、その背に声を飛ばす。振り返った彼の相貌はいつも通り、感情が薄い。

「任務、大成功だったね。まさか一日で完全復活するとは思わなかったよ」
「そうですか。それなら良かったです」

 対する反応は淡白だった。しかし、五条はこの態度の違和を見逃さなかった。彼もまた、澪の心境を案じていたいたはず。……何もしなくていいという指示を流してしまうくらいには。
 そのくせ無関心を装うのはあまりに不自然だろう。
「昨日澪になんか言った?」
「……。特に言ってません」

 返答に一瞬の間があった。しかもこちらを全く見ようとしない。こういう時、恵は話を誤魔化すのが異様に下手なのだ。
 しかし、自分の指示を聞かなかったことに対しては、大して五条の心緒は揺れていない。
 それどころか、結果として恵の行動は正解だったと言えよう。しかしどことなく納得がいかず、茶化すような声で問うた。

「まさかとは思うけど、変なことしてないよね?」
「はあ? なんですか。変なことって」
「こう……、傷ついてる澪を慰めるふりして洗脳……みたいな」
「しませんよ。そういうことをしてそうなのはアンタの方でしょ」
「心外だなぁ。そんな悪い男に見える?」
「見えます。今年は新入生が入らなかったからって、二年の受け持ちを強引に奪い取ったとか」
「前にも言ったじゃん。それはあの子の安全の為に必要な、上層部向けのパフォーマンスなんだって」

 笑いを含めて言えば、にわかに恵は眉根を寄せた。
「…………どこまでがパフォーマンスなんだか」
「なんか今日はやけに突っかかってくるね」
「五条先生は他人をイラつかせる天才ですから」
「そりゃどうも。何にそんなイライラしてんの?」

 無視して歩き出す彼の後を追いながら、しつこく問いただしてみたが、結局真意が明かされることはなかった。