My last 改稿版
恋で殴り、愛で蹴る 22

1

 彼女は自身の弱さを自覚している。
 だからこそ一度焦り出せば、自ずから精神を削ってしまうことがしばしばあった。特に浮き沈みが激しかったのは、高専の二年生になったばかりの時分だ。

 入学後丸一年、ひとえに任務と鍛錬、そして呪術の学びに費やした。宣言通りの「血反吐まみれ」とまではいかずとも、反吐ならばたびたび人目を忍んで吐き出す位には、己を厳しく追い込んでいたつもりだった。
 しかし結果は一年生の終わりに、なんとか三級に昇級する程度。焦燥感が少しずつ募っていった。
 一つ上の学年を仰げば、三名全員が羨望の高みに届いている。その上の学生達も同様、皆それぞれに卓抜した才や等級を持っている。実力を見れば、当然の処遇だ。その無情な事実を、誰よりも自分が一番理解していた。

(私では、先輩達に追いつくなんて夢のまた夢。私だけが、未だに先生を任務に同行させてる。誰かに頼ってばかりでこんなに弱いくせに、呪術界を……加茂家を変えることなんて無理なんじゃ……)

 考えるほど、目的が遠ざかって見えなくなっていく。目的はおろか、自分がどこにいるのかさえも見失っていた。それは、自分があまりにも弱い所為だと思えてならない。
 彼女は弱く情けない自分が嫌いだ。間違っても、そんな自分を大好きな人達には絶対に晒したくない。ゆえに誰にも打ち明けられないまま、呑気で明るく構えているように振る舞い続けた。
 けれど未熟で不安定な心に、虚勢を保ち続けられる余裕は残っていない。
 いよいよ澪の焦りは、整合性のない行動という形で、表に現れるようになってしまった。

「……野薔薇達の任務に付いて行きたい?」
「はい……」
 校舎で五条を呼び止めた澪の表情は曇っていた。

 一級術師である先輩達の任務は、例え単独であっても最低準一級以上の呪霊を相手取る任がほとんどだ。それも、目的である一体のみの祓除とも限らない。
 何とか三級と認められている人間が随行するなど、余りに無謀だという自覚は勿論ある。むしろ自信なんて一欠片も持ち合わせていなかった。
「高次元の任務を経験して、少しでも早く二級に上がりたいんです」
「……いいよ。ただし、引き受けてくれる先輩がいれば。だけどね」

 五条は普段通りの軽い調子で返した。もっと深く理由を問われるだろうと思って、言い訳がましい理屈を提げてきた澪だったが、思わず返答に窮する。
「澪のお願いは僕から三人に伝えとくよ。引き受けてくれる先輩がいたら、こっちで段取りもしておいてあげよう」
 戸惑う澪をよそに、そう言って五条は頭に手を置いてきた。普段ならば彼の親切っぷりに疑念を抱いただろう。しかしこの時の澪は自分のことに必死で、何も疑うことなく成り行きを師に委ねたのであった。

2

「皆快く了承してくれたよ。でも僕の判断で、恵の任務に付いて行ってもらうことにしたから」
 教室に一人。雀色時に染まる空をぼんやりと眺めていると、唐突に現れた五条が実に明るい声音でそう言い切った。
 澪は思わず面食らった。聞き違いではないだろうかとおずおず口を開く。
「…………恵先輩の、任務……ですか?」
「嫌だった?」
「いえ、と、とんでもないです! ありがとうございます……!」

 二重の驚きが内心で弾けていた。無鉄砲な申し出を真っ先に断りそうなのは、まさに今名を挙げられたその人であろうと予想していたからだ。

 澪には同級生がいない為、任務は引率に近い形で五条が請け負ってくれていた。とはいえ彼も多忙なので、先輩が同行してくれることも多々ある。そんな時は一つ上の学年の三人と共に行動することがほとんどだったので、彼らとの交流は特に深い。
 三人の中でも、特に合理的で常に冷静さを指摘してくるのは恵だった。そこそこ調子が良い内容であっても、決して澪を驕らせはしない。
 彼が同行してくれる任務ではいつも以上に気が引き締まるし、決して考えなしの無謀な試みはしない。相手と自身の強さの見極め方や、戦略的に状況を判断する思考法は、彼から教わったと言っても過言ではない。
 だからこそ、こんなにも無謀な我儘はいの一番に恵から一蹴される確信があったのだ。

(恵先輩が断らなかった理由は分からない。でも、せっかくチャンスを与えられたのだから、無駄にしてはならない……。先生にも、恵先輩にも、引き受けてよかったと思ってもらえる働きをしなくては)

 果たして勢いに任せたこの行動は今後にどう作用するのか。実戦で上手く立ち回れるのか。感謝の反面、己の我儘に対してじわじわと不安が増していた。
 そして迎えた結果は、彼女にとって目も当てられない無様なものとなる。

3

 最低限、足手纏いにだけはならないようにと意気込んだ当日。
 澪は力みすぎた結果、何をしても空回ってばかりだった。次第に集中が途切れて呪力操作が乱雑となり、三級程度の呪霊の祓除にさえ手こずった。

……そして、もたつく間に近づいてきていた呪霊に背後を取られ、危うく致命傷を負わされそうになった所を恵の式神に救われ、現在に至る。

 怪鳥の姿を象る式神は、射抜くような突進と電撃で澪に襲いかかってきた呪霊を倒してくれた。それから、間髪入れずに大きな翼で彼女を抱き、後退していく。恐らく澪を呪霊から守り遠ざける旨の命令を与えられたのだろう。
 式神は、恵の立ち回りが見える位置まで下がると、澪の傍で周囲を見回し警戒していた。その姿を見て、澪は動き回ろうとはせずにその場に留まった。彼等の配慮を無視して再び呪霊に挑めば、最悪の場合、式神を失う事態を招きかねない。

(足手纏い……)
 ぽつりと心で呟けば、胸の痛みと同時に腕にも痛みが走る。視線を落とせば、裂けた服に血が滲んでいた。
(何も出来ないくせに、怪我だけはするなんて……なんて情けないんだろう)
 思わず視界がぼんやりと霞んできて、唇をかみしめながら負った傷の止血に専念した。
 それから遠巻きに恵と呪霊の戦闘を見ながら率直に感じたのは、物理的な距離以上に遥かな力量の差。腕に負った傷とは別の痛みに表情を歪めながら、戦いの収束をただ見守った。
(私は、一体何をしにここに来たんだろう……。何もできないくせに)

「……鵺さん、ありがとうございました」
 恵が一帯の呪霊を祓除し終えたのを確認し、ずっと傍で控えていた式神に向かい頭を下げた。
「私は、もう大丈夫です」
 けれども鵺は主の元へは戻ろうとせず、仮面の間から覗く表情のない目をじっと澪に向けたまま動かない。
 こちらが歩き出すのを待っているのだろうか。そっと歩き出せば、大きな体が気遣わしげに後を着いて来た。重症者でも労るような式神の素振りは、自分がどれだけ足を引っ張る存在なのかを澪に強く自覚させた。恵の元へ戻る彼女の足は、罪人の足枷が付いているかのように重い。

 躊躇いがちにやって来た澪と鵺をそれぞれ見遣った恵は、わずかに腕を持ち上げながら式神に視線を向ける。すると式神はゆったりとした動作で彼の許へと近づき、大きな翼を窄めたままに首を垂れ、どこか誇らしそうに主の掌へと頭を寄せる。それを柔らかく撫でる彼は「よくやった」と優しげな声音で告げ、影の内に戻した。
 次に視線は澪に向く。彼がものを言う前に、澪は勢いよく腰を折り深々と頭を下げ、誠意を込めて声を張った。

「我儘を言った挙句、ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした……!」
「いや。……鵺が間に合って良かった」
 思いの外淡白な返事に疑問を覚えた矢庭「それより」と声が降ってきたので、顔を上げると、恵は澪の腕に目を向けている。慌てて大きく腕を振り回した。

「軽傷です! 止血しておけば問題ありません!」
 実際まだ血は止まりきっておらず、腕を動かす度に傷口が歪んで痛みが脳に響く。けれどもこれ以上無様な姿を見せたくはない。その一心で笑顔を向け続けた。しかし心はどんどん深みへと沈み込んでいく。

(……恵先輩がいなかったら、死んでいた。知識も、技術も……何も得られなかった。本当に、私は何をしたかったんだろう)
 自問にさえ答えられない。もしも、恵に同じ問いかけをされたら……。そう思うと恐怖が足元から滲み出す。けれど、澪の不安をよそに、恵は一言も咎める言葉を向けたりはしなかった。帰りの車内でも普段通りの無口を貫いており、先の任務の失態を言及する気配はない。

(どうして恵先輩は怒らないのだろう。いつもだったら、細かいくらいにあれこれ指摘してくれるのに。…………もしかして、私には何を言っても無駄だと諦めたから? 見限ってしまったから?)
 じわり、と身内に現れた、黒く纏わりつくものの感覚。それは、濁りきった嫌悪感。

 一時間ほどで高専に到着し、手短に感謝を述べて、澪はいそいそと医務室に向かった。
 車を降りる際に恵に呼び止められたが、適当な言い訳を見繕って、逃げるようにその場を後にしたのだ。見限りの言葉を向けられるのが怖かった。素直で前向きに受け止められる自信がなかった。
 硝子にも気遣いの言葉をかけてもらったが、気にしていない風を装って、治療を終えると足早に医務室を出る。
 無理やり夕食を胃袋に詰め込み、今日はもう寝てしまおうと自室へ戻ろうとしたが、廊下の途中で彼女は突然方向を変える。小走りに空室方面の手洗いに向かった。

 薄暗い個室に閉じこもり、咽頭まで迫り上がってきた胃の中身を全て戻した。
 腹の底で渦巻く幾多の感情が、澪の自律心を拒否して押し返しているかのようだった。

……彼女は自身の弱さを自覚している。
 自己否定が最も己を追い詰めることも、意思が折れそうになると体の全てが拒絶めいた反応を起こすことも。全てを理解していても止められない。
 吐き戻しては水で耐え凌ぎ、数日過ごすうちに高鳴る感情を鈍く心の淵に沈みこませ、普段通りの白主澪に戻る。
 それが不安定な精神状態に陥った際に唯一出来る対処だと思っていた。
 良法なんて知らない彼女は、気概が落ちる度にそんな不毛な行程をもう一月以上繰り返していた。だがその小手先の回避法も、いよいよ意味を成さなくなってきた。

(もう、嫌だ。…………違う。私はまだ挫けない。挫けられない)

「まだ、私は…………」
 掠れる声で呟いた。前向きな言葉を何度も何度も声に出して、どうにか自身を奮い立たせたくて必死だった。けれども身内で叫ぶ本心は、もう空元気すら受け付けてくれない。

(…………辛い、苦しい。父様、母様、憲紀。誰か助けて)

「違う、辛くない、苦しくない」

 口から出す小さな声に反して頭の中では悲痛な声が沸騰するように激しくなっていく。

(やめて。お願い、もう止まって)

 身内で暴れる不安が抑えられず、とうとう涙が溢れた。同時に嗚咽が迫り上がり、そして喉を焼かれるような痛みを伴い、吐く。

「誰か……、誰か」
――私の弱さに、気付いて。……許して。

4

 涙と嘔気が幾分かましになって自室に戻った。いつもなら、廊下で誰ともすれ違わないことに安堵する彼女だが、今日ばかりは、誰にも会えないことがひどく寂しく感じた。
 ベッドに体を沈ませ目を閉じるが、静寂が轟音となって耳元で延々と響いている。一向に眠りに就けない。

(今までどうにか隠して来たけれど、もう軽い体調不良では誤魔化せそうにない。野薔薇先輩も真希先輩も、遠出中で良かったかも……)
(…………。違う。本当は、すぐにでも二人に会いたい)

 ベッドから降り、部屋を出た。
 寮舎の外に出てあてもなく周囲を歩き回ったが、時間はもう夜の十二時を過ぎている。誰にも会えるわけがなかった。段々と疲れが歩みを鈍くしていき、諦めて寮の前に戻ってきたが、部屋に戻りたくはない。大きく息をついて、近くの生垣を囲う石積みに腰を下ろす。
 足元を見つめながら思った。誰かが偶然通りかかってくれないだろうかと。
 もう一層のこと、朝になって誰かが寮から出てくるか、任務を終えて帰ってくるのをひたすら待とうか。膝を抱えて胸に寄せ、膝小僧に頬を乗せる。すると一気に心細さが増して、勝手に涙が溢れてくる。

 そのまま小さくなって動かずにいると、にわかに足音が聞こえてきた。こちらに近づいてきている。澪は弾かれたように顔を上げた。

(どうしよう。誰だろう。……やっぱり、部屋に……。だけど、もしも野薔薇先輩や真希先輩、悠仁先輩だったら。少しだけでいいから話がしたい)

 澪は意を決してその場に留まった。けれど期待に反し、外灯が照らす下に姿を現したのは恵であった。

(今、一番会うのが気まずい人だった……っ)

 居た堪れなさと焦りが胸中に広がっていく。
 恵はやや左上に目を向け、宿舎の方を軽く仰ぎ見ながら歩いている。まだ澪には気付いてはいなさそうだ。
 けれど彼が澪を見付けるのも時間の問題だ。少々距離が離れているとはいえ、澪が彼を認識出来ているのだから、相手は間も無くこちらに気付いてしまう。
 だからと言って、何の落ち度もない彼を二度も避けるのは余りにも無礼だ。

 ならば自分から話し掛ける他ない。それが普段の澪らしい最良の反応だ。
 上手く取り繕える自信は少しもないが、明かりの外で終始笑顔を作っておけば、酷い顔も多少は隠せるはず。軽く一言二言だけ、他愛無い言葉を交わして立ち去る。……何も難しいことじゃない。
 泥濘に嵌まり込んでいる感覚の足元が、少しでも軽快に見えるよう必死に動かしながら、小走りに近づいていく。すると間も無くして彼の視線は澪に向いた。

「恵先輩、夜食の調達ですか?」
 笑い掛けた瞬間、恵は目を大きく開き、たいそう驚いているかのような反応を見せた。
「…………。そう、だな。そんな所だ」
 すぐに表情の薄い面持ちに戻ったものの、どうも煮え切らない答え方だった。彼にしては珍しく、受け答えに逡巡しているように見受けられる。続いて彼の口唇が開いた。
「……傷の具合は」
 声音は普段の彼らしく穏やかだ。だがそれでも少しぎこちなさは残っている。
 彼の機微に気付いていない振りをしながら、澪は昼間と同じように大きく腕を回してみせた。
「この通り、硝子さんが完璧に治して下さいました!」
 すると「そうか」と、短い返事が夜道に落ち、少しの沈黙が生まれた。

 澪の身内に緊張が走る。恵が何かを伝えたい様子であるのは明白だ。彼は普段の淡々とした言動に反して、実に優しい気性を持っている。つまりその優しさが詰まりとなって、告げようとする言葉が出せずにいるのだ。
 やはり考えられるのは件の任務についての言及か。
(どうしよう。……もう部屋に戻ってしまおうかな。……そろそろ笑っているのも、限界……かも)
 怖気付いた澪が交錯する視線を逸らそうとする一方で、恵は迷いを払ったように澪を見据え、口を開いた。

「……自分じゃ気付いてないだろうけど、一年前に比べて白主は随分強くなった」
 途端、予想もしなかった言葉に澪は引き上げていた頬の力を失う。すがるように目の前の双眸を凝視した。
「これから先も、もっと成長していける」
「…………。でも、今日の任務……。自分より弱い呪霊すら、倒せませんでした……。何もできませんでした……」
 すると、交わる視線の先、彼の瞳は澪の願いに応えるように円やかな感情を浮かべた。
「緊張とか焦りで空回ってたんだろ。本来の力が発揮できなかっただけだ。そういうことは誰にだってある」
 澱みの底にそっと手が差し伸べられているような、そんな感覚に、澪は怖々と足を前に出した。
「本当に?…………恵先輩でも?」
「当然だ。……って、そんなことあんま言いたくねぇけど」
(恵先輩にも、上手くいかないことや、弱さが、ある……?)

 澪がじっと見つめれば、気恥ずかしそうに、少しバツが悪そうに、恵は視線を逸らす。けれどもすぐに視線を戻し、優しい声音を紡いだ。
「だから、焦らなくても大丈夫だ」
 その口唇は、こころもち端を綻ばせているように見えた。大目に見ても微笑にさえ分類されないであろう薄い表情。
 けれどその眼差しは、澪の弱さを確と見据えた上で、深く許容しているような温かさを確かに内包していた。深く暗い懊悩から救われる心地だった。
(……ぜんぶ、気付いてくれていたんだ)

「恵先輩がそう言ってくださるのなら。……信じます」
 澪は無意識に取り繕う笑顔を捨てて、もう一歩踏み出す。少しだけ、弱い自分を許せたような気がした。
 外灯の明かりの下に入った彼女の面持ちは、安堵の笑顔で満ちていた。

5

 その後、別れるまでに交わした会話や時間はほんのわずかであったが、澪にとっては充実した休息だった。

 しばらく外の風に当たるつもりだと伝えると、恵は彼女が一人になりたいのを察した様子で、手に持っていた白いビニール袋を差し出してきた。
 高専の敷地外には、しばらく歩けばコンビニがある。きっと袋にはそこで買った物が入っているのだろうが、特に何とは告げられていない。

 宿舎に入っていく背を見送り、手元の袋の中を見ると、それぞれ異なるパッケージのゼリー飲料が三個入っていた。それらの容器には「鉄分」だとか「エネルギー」と表記されている。

(これ、私の為に……?)
 彼は澪が満足に食事を取れていないことも知っていたのだろうか。確かに、隠していたつもりの焦燥が見抜かれていたのだから、行動まで気付かれていても不思議ではない。けれど――

(いやいや。妙な気を起こしてはだめです。恵先輩がなんやかんや優しいのは、通常運転ですから。これはあくまで後輩へのフォローの範囲内……!)

「落ち着け、落ち着け」と何度も頭の中で復唱し、高鳴る鼓動と、どこかへ傾きそうな心を立て直す。
 そうして心虜が向かったのは、初めて口にするこの飲み物の存在だ。恵のお陰で、随分と心は軽くなったが、まだ体の不調は癒えていない。
 さすがに固形物などは一切喉を通る気がしないが、これはどうだろう。吐き戻すことがないよう大切に飲みたいが、喉は渇きを訴え空の腹が早く口をつけろと催促をしてくる。

 迷いながらも恐る恐る口を付けた瞬間、彼女は眼を丸くした。
 爽やかな果物の風味がほのかに広がる。口当たりは清涼で、舌の上を通る適度な甘さはさっぱりとしていて、全く不快さを感じさせない。
 ゼリーが喉を冷やしながら、するすると体の中心を伝っていく感覚が心地良い。
 飲み口から唇を離し、深く息をつく。

 身体の緊張が解され、心の軽さを感じれば、何度も自分に掛けられた言葉の数々が鮮明に思い出された。
(一人で焦って、勝手に誰も私に気付いていないなんて勘違いをしていた)
 そのどれもが、澪を理解し許容してくれている言葉だった。
(私の側には、この弱さを受け止めてくれる人がちゃんといたのに)

 今になってやっと彼女の身内に先輩達の声が響き出したのは、まるで自分のことしか見えていなかったからだろう。何度も優しい言葉を掛けてもらっていたのに、勝手に頭の片隅に追いやってしまった。
(どうして、周りも、自分さえも見えなくなる位に焦っていたんだろう。今日失敗したとして、私はまだ生きているのだから、どうとでもやり直しはできる)
(恵先輩の言う通り、私は私なりに進んでる。……だから、周りと比べて焦る必要なんてどこにも無かったんだ)
 即効性の燃料でも投入されたかのように、意識せずとも前向きな言葉が頭に浮かぶ。ゼリー飲料を飲み干す頃には、彼女の心はすっかり晴れやかになっていた。

……この日を境に、澪は小さな覚醒を手にした。燻りが嘘のように連日任務を迅速にこなせるようになり、ついに二級へと昇級したのである。
 そして昇級の通達と同時に、お祝いと称して二級術師となって最初の任務指示を五条から受けた。
 澪としても、自分に力がついたことをすぐにでも証明したくてうずうずしていた。五条もそれに気づいていたのだろう。早速等級に相当する仕事を与えてくるのは、実に彼らしい計らいだ。

 定刻となり、澪は期待と少しの緊張を胸に、待機する車へと乗り込む。すると驚くことに、そこには同乗者がいたのだった。

6

「……恵先輩の任務にお供させてもらえるとは思いませんでした」
 任務を終得て帰路を走る車の後部座席にて、澪は隣の彼に告げる。
 二級術師として初の単独任務かと思いきや、乗り込んだ車には既に恵が乗車していた。彼女に与えられた任務は、恵が請け負う任の後援に就くことだったのだ。

「五条先生に、絶対役に立つからって売り込まれた」
 やや溜息混じりに答える面持ちから、相当しつこく付き纏われたのだろうと容易く想像出来た。けれど軽薄を携える師の内心に、澪への信頼があったことを惟ると、胸の内が小躍りを始めそうになる。

「受け入れて下さって、本当にありがとうございます」
 そう言って緩く笑むと、恵は横目でこちらを見遣る。その瞳には苛立ちだとか失望のような色は全く見受けられない。都合の良い錯覚かも知れないが、優しい許容が映っているように見えた。
 車内に満ちる閑やかな空気は、今回の任務がいかに効率良く処理出来たかを物語っている。

 二時間前。山深くの廃村に赴いた二人は、さっそく呪霊の群に出迎えられた。しかし、ほとんどは二、三級程度であり、目的の上級呪霊は村の奥にいるらしかった。
 数体の呪霊を相手にしながら、澪は確信を得た。今の自分なら、この場の呪霊を相手にしても問題ない、と。すぐさま周囲の呪霊は自分が引き受けるので目的とする呪霊の元へ行ってもらえないかと恵に提案した。
 気合を込めて、「この程度なら無問題です!」と伝えれば、頷きを一つ返した彼は、迷わず先へと突き進んで行ったのだった。

 彼の躊躇いない判断に、嬉しさと驚きが半々に生まれた。先日失態を晒した人間をこんなにもあっさり信じてしまって良いのかという疑問だ。けれども己の言葉に偽りはなく、不安もない。きっと彼はその気概を汲み取ってくれたのだろう。
 呪霊に囲まれようとも澪の調子は至って良好で、恵が戻ってくる頃合いには、一帯の呪霊を片付け終えていたのである。

 思い出してみると、まだまだ反省点はあるが、それでも澪にとっては成功だ。以前の失態が嘘のように身体が自由に動いていた。
「ですが、それはそうと……。確かに二級以下の呪霊はお任せくださいって言いましたけどね。本当に全部任されるとは思いませんでしたよ」
 背もたれに深く背を預けながら息をつく。
 好調であることは間違いないが、疲労感が今までになく濃い。無自覚ながら澪は一杯一杯だったのだ。そんなぎりぎりの状態であった人間に、よく場を託してくれたものだと思う。

「白主なら問題ないと判断した」
 恵は正面を向いたまま、衒いのない声調で言ったが、そこまで断言できる要素に自覚はない。彼は「なんとなく」や「直感」で物事を判断することは極めて少ない人だ。澪は眉尻を下げて、首を傾げた。
「……。少し前、あれほどご迷惑をお掛けしたのに……?」
 疑念を込めて問えば、彼はこちらに顔を向けた。

「口角」
「え?」
「口角が上がってる時の白主は大丈夫なんだよ」
「……んん?」
「逆の時は自滅もあり得るけどな」
 どうにも理解が追いつかない。まるで以前から見慣れているかのような口振りだが、澪は意図して表情を変えて戦ってなどいない、筈だ。
 隣に向かって、乗り出すように身体を傾けた。

「ちょっと待って下さい。つまり私、調子が良い時はにやけ顔で呪霊と戦っていたということですか!?」
「わざとじゃないのか」
……恵の性格上、嘘をついて澪を揶揄っているとは考え辛い。この反応からして、どうやら澪の奇怪な癖は事実であるらしい。慌てて首を横に振る。

「違いますよ!…………いやでも無意識だとしても、それはそれでクレイジーな女でしょうか……!? うーん。皆に引かれてないかなぁ」
「引くほどのことか?」
「……。本当にそう思ってます?」
 目を細めながら訝しげに窺い見る。すると何をそんなに気にするのだろうという表情で、恵は小首を傾げた。これは間違いなく、さして気に留めることではない、と本気で思っている顔だ。
(うーん。そうはいっても、恵先輩ってちょっと天然っぽい所あるからなあ。……でも)

 澪は姿勢を直し、座席に深々と背を預けた。
「恵先輩が気にしないのなら、このままでいます」
 首を傾け、恵と視線を交わらせると、少しの悪戯心を湛えた幼い笑みを向ける。上がった自身の口角を指先で示した。

「ですが、もしも私の口がこうなっていない時は、少しだけ頼らせて下さいね」
「時と場合による」
「えー! そこはフッて笑って、任せろって顔して欲しいです!」
「調子に乗るな」

7

 口を尖らせ、澪が大袈裟に不満を表していると、運転席から伊地知の小さな笑い声が溢れた。すると途端に彼女の関心は急激に方向を転換させて、今度は運転手に向かって身を乗り出す。

「あっ! 伊地知さん。この交差点を左折した先にある薬局に寄って下さい」
「ええっ」
 しかし車は既に交差点を直進しかけている。当然ながら危険なので急な方向転換などせずにそのまま進んで行く。

「す、すみません」
「無問題です。ではここで少し止まって頂けますか? あのコンビニに行きます」
「えっ!?」
 再び澪は指示するがまたしても停止せずに素通りした。全く二人の拍子が合わない。と言うよりも澪が余りに自由過ぎるのであって、伊地知に落ち度は無い。
 すると呆れを孕んだ声が澪の背に掛かった。
「急に言うなよ」

 澪が振り返って恵を見遣ると「大人しく座ってろ」と指で示される。本人は全く悪気がないので、素直に従いながらも「今の急でした?」と疑問を浮かべる。
 彼女の補助監督を務めることの多い安曇なら、予測していたかのように指定した場所へと行ってくれる。そんな彼よりも歴の長い伊地知なら、造作もないことだと疑っていないのだ。
「当たり前だ。安曇さんじゃないんだから流石に無理だろ」

 その瞬間、僅かに伊地知の肩が消沈するように下がった。すかさず恵はしまったといった表情をするが、少々眉根を寄せながら悩ましそうな声で言う。
「あー……、いえ。あの人の白主に対する理解度が異常なだけなんで、別に気にすることじゃないです」
「そ、そうですか……」
「恵先輩のおっしゃる通りです! では伊地知さん! 買いたい物があるので薬局かコンビニに、ゴーゴゴーです!」
「白主、取り敢えず一旦黙れ」

8

 伊地知に我儘を聞いてもらい薬局に立ち寄った澪は、軽い足取りで店内を進む。さっそく目当ての商品を見つけると、機嫌を良くして商品をかごの中に次々と放り込んだ。
「白主」
 穏やかな声音に呼ばれて振り返ると、仕方がなさそうな面持ちで恵が立っていた。

「ただでさえあの人は普段五条先生の我儘に振り回されてんだから、あんま困らせんなよ」
「はい、申し訳ありません。……ついつい安曇さんにお願いする時の癖が出てしまいました」

 それは素の自分が出せるようになった良い傾向でもあるが、甘やかされて育ったが故の悪い面でもある。
 澪には叱られている感覚はあまりなく、むしろ諭してくれる言葉を嬉しく思っていた。

「伊地知さんには、お詫びのおやつをお渡しすることにします!」
 おやつと言いながらも目を向けた先にあるのは栄養ドリンクが並ぶ方面だ。あの小柄な瓶を携えている伊地知の姿をよく見かける。スナック菓子やスイーツの類より、きっとに彼にとっての“元気の素“はあれに違いない。
「どうでしょう?」と澪は同意を求めて笑顔を向けた。
「絶対分かってないだろ……」
 彼の目には反省しているとは映っていないようで、呆れたような溜息を零された。
 不意に、俯きがちな彼の視線の先で何かが彼の関心を引いたらしく、その瞳は疑問の色に変わった。
「……それ、そんなに好きだったのか」

 恵が目を向けているのは買い物かごに積み重なったゼリー飲料だ。
 澪は小さく頷きながら、情景に思いを馳せつつ眦を細めた。
「初めて飲んだ時。体だけじゃなく、心も軽くなって、救われたんです。それ以降、大好きになりました」

 件の任務以降、この飲料は澪の活力の拠り所となった。特に疲労の溜まった任務の後、それから三月に一度血液を採った後や、食欲が全く湧かない時。単純な嗜好品としても頻繁に口にしている。
 その消費はそこそこの量なので、こうして度々大量に買い足しては自室に備蓄しているのだ。

「恵先輩がくれたあの日から、これは私の“元気の素“なんです」
 ふと相好を崩せば、不意に彼の手が伸びてきて頭の上に置かれた。思わず澪の鼓動は飛び跳ねる。
 恵が触れてくるというのは、初めてのことだった。野薔薇や悠仁と違い、恵はどこか他人と身体的に距離を置く性格だ。だから土下座して「どうか撫でて下さい」と希っても、絶対に応じてくれない。
 そんな気質の持ち主が見せた予期せぬ行動への驚きも束の間、少々雑に頭を撫でられ、横やら後ろやらの髪が乱れて目の前に掛かった。
 嬉しさが大半ではあるものの、いささか乱雑過ぎはしないか。髪型がとんでもない状態になりつつある気がする。

「恵先輩……っ。あの、大変恐縮ですが、前が見えないです……!」
 目の前が髪で隠れて全く見えない。流石にちょっと止めて欲しい。けれど彼の手が澪から離れることはなく、心地のいい手つきは容赦なく澪の髪を乱していく。
「もしもし恵先輩?」
 控えめに片手を振って、やり過ぎではと訴えてみるが、恵の返事はなかった。
「…………もしやわざとやっていますね!?」

 すると、買い物かごを持つ手がおろそかになっているうちに、重さが手から消えた。うっかり落としたのかと地面を見遣るが足元には何も落ちていない。そして、気付けば頭を撫でる感覚も消えていた。
 急いで髪を整えて正面を向くと、澪の買い物かごを持ち、レジの方向に向かって歩いていく恵の背が見える。
「ああっ!? ち、ちょっと、待ってください、恵先輩……!」