恋で殴り、愛で蹴る 20
1
澪の視界は赤黒く染まっている。まるで水の中にいるように、身体の感覚はうつろだった。ふいに、こもった男の声が反響する。
「確と目に焼き付けろ。白主の血筋こそが諸悪の根源だと」
視線を上げた先、台の上に黒い影が五つ並んでいる。あれはなんだろう、と目を凝らした瞬間、息が止まった。目を疑うものがそこにあった。
並んでいたのは人間の首だ。重罪人を晒すように、死に顔がこちらを向けている。
「…………父様……、かあ、さま……?」
獄門台に並ぶ首は、家族達の凄惨な末路だった。それを認めた途端、心がちぎれ、喉を潰すほどの慟哭を上げた。
(私のせいだ、私のせいで、みんなが……)
足をもつれさせ駆け寄ろうとするが、少しも台との距離が縮まらない。次第に身体が軋みだし、上手く動かせなくなる。どれだけ咽び泣いても、叫んでも、閉ざされた瞼は開かなかった。
すると彼女の目の前に、不快な音を立てて真っ黒な短刀が落ちてきた。たちまち全身の力が失せて、視界が真っ逆様に傾いた。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。目に映る景色は、マンションの寝室。カーテンの隙間から春らしい穏やかな日差しが室内に注がれている。
重苦しい身体を起こしながら、澪の表情はいつになく澱んでいた。
甚爾を甦生した現在、共同生活は一週間を超えた。
日中は平常を取り繕っている彼女だったが、ほとんど寝付けておらず疲労が溜まる一方だった。目を閉じれば自己嫌悪ばかりが浮かび、やっと眠気が来たかと思えば、悪夢にうなされるからだ。
まるで澪の行動と選択を咎めるように、夢は最悪の結果を連日見せてくる。寝ても覚めても自責に駆られ、精神が淀んでいく現実の日々も、悪夢のようだ。
(先生があの日、警戒するようにと教えて下さったというのに。私は何をしているんだろう)
甚爾と生活を共にしている現在は、彼女の計画にはない異常事態だ。
命令と三原則があれば、居住が別であっても彼の行動の抑制につながる。そう考えた澪は、彼に立場の優劣を見極めさせる為に命令を駆使し、互いの利害を擦り合わせ、業務提携者として関係を構築していくつもりだった。
任務時だけ従順になれば、私生活の自由も高い水準も保障される。彼の性格ならば、どう身を振る舞えば楽に生きられるか、答えをすぐに出してくれる。それが理想だった。
しかし命令が機能していないことが判明し、登り出した計画から、あえなく滑落してしまった。
対処を慌てて思案した結果、澪は自分という異物を彼の生活に介入させる選択をした。
初日に負った傷の治療時間をできる限り長引かせ、安曇の協力のもと持ち込めるだけの服やら私物を、この家まで運んでもらった。
そうして四六時中つきまとう不自由を強く意識すれば、彼は必ず一つの取引を持ちかけてくる。
「任務の請負い」を差し出し「自由」を求めるはずだ、と。そうすれば、晴れて軌道は修正される……はずだった。
結果として、その選択は間違いだった。距離が近すぎるがゆえに、秘めていたはずの思いが覚られてしまった所為だ。……もはや、隠しきれてもいなかったのだろう。
甦った甚爾が澪を心底恨むのはまず間違いない。だからこそ都合がいいと思っていた。相手から悪意を向けられ続ける内に、勝手に熱を持った感情は同じく勝手に冷めていく。そんな軽い考えもまた、間違いだったのだ。
甚爾は澪の思慕だけではなく、恋を恐れる心も知っているのだろう。わざとあからさまな刺激をしてくるのは、耐えきれずに澪が逃げ出すのを待っているからだ。
今の澪にとって、逃走は間違いなくその心を軽くしてくれる選択だ。けれど、彼への感情がそれで消えるわけではない。今ここで負けを認めれば、この先ずっと澪は制御できない感情を利用され、甚爾の思い通りに動いてしまう傀儡に成り下がるだろう。
けれど逃げずに戦おうとしたところで、澪の敗北は覆らない。つまり、逃げても残っても澪が行き着く結末は同じなのだ。……恋という不安定な情緒から脱却しない限り。
それがわかっていても、近付かれれば心は理性を無視してひどく高揚する。そして上がるだけ上がった心情は、冷静になった途端に胸中の底へ悔恨となって沈み、積もり積もってわだかまる。
(学生の時は、色んなことが上手くいっていた。でもそれは周りが助けてくれたからで、私一人の力じゃ何も出来なかった。…………驕っていたんだ。自分ならなんでも出来るって、……正しいって)
(でも、私の選択は……
――彼を降ろすと決めたことも、好きになってしまったことも、その思いを持ったままでいたことも。本当は全部間違いだった)
(それなら何が正解だった……? 私は、これからどうすればいい……? どうしたらこの感情を捨てられる?)
サイドテーブルにおいた携帯を見れば、支度を始める刻限が迫っていた。
(……今は。恋とか愛とか、そんなものは考えないようにしよう。これはただの心理戦。行動を先読みした方が勝つ。とにかく、まだ負ける訳にはいかない)
明確な打開策に辿り着けないまま、気合いを空焚いた。今日も任務の予定がある。つまりまた彼の要求を受け、上手く躱して乗り切らねばならない。
(早く元の計画通りに軌道修正させることだけを考えよう……)
晴れ晴れとした朝の気配に、己の情緒を無理矢理同調させた。
……しかし。この日の任務の対価となる彼の要望は、奮い立たせた澪の気概を容易く挫くのであった。
2
今日も任務は難なく終えて、家に戻って来た。しかししばらくの間、要求に対して甚爾は無言を貫いていた。
こちらから問うても「考えておく」と曖昧にされたので、じっくりと腹案を練るべく翌日に持ち越すつもりなのかも知れない。澪の胸中は一気に不安に染まった。
現状「任務と要求」という縛りにおける優位性は、甚爾に傾いている。
要求内容について制限を設けたものの、時機については何も制約がない。ゆえに彼が望めば対価を受けるのは次回へと持ち越すことが可能となってしまっている。要求されるものが金や自由などであろうと決めつけていたのが仇となった。
(私の判断の何もかもが……裏目に出てる。毎日それを見せつけられるのが嫌になってきた……)
そんな後悔を身内で渦巻かせ、いよいよ夜更けが迫ってきた頃合いである。
己の失態をベッドの中で論う時間になった、と心底を曇らせながら寝室へ行こうとした間際、彼も同じく立ち上がった。
「……どうしましたか」
「今回の要求を思いついた」
その表情は、罠に掛った獲物を見下ろしているような余裕で満ちている。たった今、思いついたわけではないのは明白だった。どうせ澪が憔悴しているのをわかっていて、このタイミングで要求を突きつけるつもりだったのだろう。不満を露わにしそうになるのを抑え込んで、笑みを向けた。
「なんでしょう?」
「オマエと寝る」
鼓動が跳ね上がった。あまりにも突拍子もない言葉に、澪は目を大きく見開く。
「は、い……?」
「ああ、勘違いすんなよ。起きるまで、ただ隣で横になるだけだ」
「……してません! でも念の為確認しますけど、寝そべって並ぶだけでいいんですよね?」
澪は内心で激しく動揺しながら、必死で冷静さを手繰り寄せた。早口になってしまいそうな声調を懸命に抑え込もうとするが、不安は次々と口から出ていってしまう。
「本当にそれだけですよね? 言っておきますが……」
「それ以外のことはすんな、だろ」
平然と甚爾は返してきたが、その片笑みを見ても全く安心感は湧かない。それどころか上るべきではない段階へ徐々に進められている気がする。対策無くして素直に受け入れるのは危険だ。けれども考えを練る時間はない。
澪は人差し指を立てて、微々たるあがきを向けた。
「…………。お願いがあります。私には寝る前のルーティンがありますので、それは絶対に阻害しないで頂けますか」
これが無駄なあがきと彼も察しているだろう。特に具体的な内容を聞くまでもなく了承されたのだった。
かくして二人は一つのベッドで並んで寝ることとなったが、練った策も心の余地も持ち得ない澪は、リビングを出て廊下を通る短い時間、思考の回路を高速で働かせた。
結果、間際で奇策を思い付いた。
(気が進まないけど、自分を守るにはこれしかない……)
もう今更、形振り構っている場合ではない。決心を固め、澪は部屋へ入るなり「ではおやすみなさい!」と我先にベッドの中へ滑り込んだ。
すかさず仰向けになって胸元で合掌をする。息を整え目を閉じた。
そして、記憶にある限りの経やら念仏やらを雑多に唱え始めたのである。
「……なんだそれ」
「言ったでしょう、ルーティンです。私は毎晩これをしなければ寝付けないのですよ。宗教上の理由で」
当然だが真っ赤な嘘である。彼女本人でさえ、こんなの正気の沙汰ではないと思っている。
とにかく今は、この気を衒った行動で、なんとか彼を部屋から出て行かせたい。
就寝前だというのに、一心不乱で謎の経を誦する女の側で寝ようとする人間なんて、まずいないだろう。
延々と経を頭に浮かべ、それを口に出す作業に没頭することは、澪自身の邪念も振り払える。
甚爾の目には狂乱の奇行として映っているだろうが、彼女にとってはこれこそ唯一の頼みの綱。必死にもがいた末の切り札なのである。
「坊主でもそんなイカれた奴いねぇだろ」
大層馬鹿にしたような声音に、澪は成功を確信した。
彼の興は完全に冷めただろう。すぐにでも「今回の要求はなかったことに」とリビングへ戻ってくれないかと期待が芽を出した。
返事を返さず淡々と低い声で唱え続けていると、甚爾が右隣に来る気配を感じ、思わず声を上擦らせ堅く身構えた。
ベッドのわずかな揺れと間近で鳴る衣擦れが、脳内を激しく揺さぶり、思い浮かべた経を掻き消そうと邪魔をする。
音や温もりの気配からして、二人の距離はかなり近い。
このベッドはそもそも彼が手足を伸ばしても広々と使える大きさであるから、二人で使うにしても身を寄せ合う必要はない。しかも澪は左側の、ぎりぎり体が落ちるかどうかの間際を陣取ったのだ。やたらと近い距離は恐ろしい悪意の顕現だ。
けれども、彼は隣に来たのみで、触れても来なければそれ以上話しかけてもこない。
(出て行かないのなら、根比べで勝つしかない……)
もう二、三時間程、読経を続ければ、とち狂った女だと思われ、向こうから引いてくれるだろう。
澪は全神経を頭に集中させた。そして、口を動かすのさえ疲れ果て意識が自然と睡魔に落ちるまで、経と念仏……果ては主の祈りにまで進出を果たし、混沌とした神々へ向ける意味不明な言葉を唱え続けた。
3
今日は夢を見なかった。
目覚めた時、彼女は己の両手が包むぬくもりに、言いようのない安心感を抱いた。ぬくもりと言っても、長く握っていたらしいそれは、ほとんど彼女の体温と大差ない温かさであった。交わる熱の感触が心地良い。
安眠が得られない日が続いている所為か、それは無性に離したくない感覚だった。抱き締めるように胸元に引き寄せた。
(…………何を?)
気持ちの良い微睡を払い、瞼は閉じたまま頭を働かせた。
彼女は右半身を下にして寝ている。ということは、正面に甚爾を据えている状態となってしまっている。
それだけでも失態とも言えるが、手の内の触感から察するに、彼女が握り締めているのは甚爾の手だ。
自身の寝相の悪さを呪いたくなった。
(それに……、私、寝てた……? いつの間に?)
どうやら謎の経を唱えていたことも裏目に出たらしい。昨晩は読経に必死で、不眠の原因である自責をしなかったからだろう。熟睡してしまったのだ。
目を開ける前に、この状態をどう処理すべきかと思考を巡らせた。澪の掌の中にある手は、すり抜けようとも振りほどこうともせずに静止している。彼がまだ目を覚ましていないのならば、寝返りを打つ振りをして手を離せば済むかも知れないが、勘が告げていた。彼は澪が寝起きにどんな行動を取るのか、観察している、と。
ならば、わずかでも己の不利は避けたい。甚爾が疎ましがる反応は何かを賢明に思案した。そして大急ぎで考え導き出した答えを即刻行動に移すことにした。
まずはゆっくりと視界を開く。すると早速、冷ややかな面持ちで肘枕をした甚爾が映る。間もなくして視線が交わった。微かに彼が首を動かせば、前髪の僅かな一房がその精悍な目元を強調するように流れた。
……寝起きに見る光景としては、いささか艶かしく刺激的に思えてならない。
(違う、そんなことを考えてる場合じゃない、見惚れてちゃだめだ)
懸命に考えた対策が白紙に返りそうな内心にて、邪な感情を振り払った。
挙動は小さく、やや驚いている振りをしながら手元を見遣る。次に大袈裟な身振りでぱっと離し、驚愕の素振りで起き上がって、ベッドの際の際まで後退った。これで、たった今状況を飲み込んだという演技は完璧だろう。
「何をしてるんですか!」
「握ってきたのはオマエだ」
「あれ、そうでしたか?……恐らく入眠間際に悟りが開けそうな手応えがあったので、きっとブッダの手と勘違いしたのでしょう……」
顎に手を当てて納得したように二、三度頷いてみせた。ちらと彼の相貌を窺えば、澪に向く視線は呆れの色を強めていた。
「後半、ひたすら寿司ネタを唱えてたけどな」
「…………。私が寝るまでずっと聞いていたんですね」
「あの状態で先に寝られる奴がいると思うのかよ」
「いませんよねぇ」
内心で胸を撫で下ろした。経と無関係なものを眠気の最高潮で口走っていたのはさて置き、意味不明なルーティンによって相手の眠りまでもを妨げたのだ。奇策は成功だ。
今後は、就寝前の澪には近付かない方が吉、と覚えてもらえただろう。
澪が秘めやかに心を軽くしていると、おもむろに身動いだ甚爾が仰向けに寝直した。
「……起きないのですか」
「まだ時間あんだろ。こっちはオマエの所為で寝不足なんだよ」
そんなものは嘘だとすぐに分かった。無睡で数週間も戦闘を行なっている、というのならまだしも、この程度で彼の身体は疲労しなければ能率も落としはしない。彼自身の天賦の才もさることながら、禪院家では僅かな時間で体力を回復させる休息の訓練も行っていたのだ聞いている。
(何を企んでいるんだろう……)
訝しんで警戒気味に静観していると、彼は目を閉じ深く息をつきながら、緩い動作で額に手の甲を当てる。
ごく自然な仕草だというのに、何故か澪の目には凄艶に映っていた。晴天の白い朝陽が赤面しながら逃走しそうな情調に、言いようもなく胸がざわめいた。
(ああ、また見惚れてる……。……このままじゃだめだ。いますぐ離れないと)
ベッドの横側から降りようと彼に背を向けた矢庭に、腰を真横から掬われ、後方に引き寄せられてしまった。あっさりと倒れ込み、しまったと言葉が浮かんだ時にはもう遅かった。既に肩にも腕が回されており、後ろから抱きしめられる格好で彼の懐の中に収まってしまっていた。
慌てて抵抗を試みたが、身動ぎなど出来ず、もがいたところで大して意味を成さなかった。
「は、離し……」
「まだ終わりじゃねぇだろ」
間近で低く囁く声と耳元を掠める微かな息は、澪の体の芯に異様な高揚を与え、抵抗する力を完全に奪う。
思考まで止まりそうになったその時、囁かれた言葉の意味を理解した。
「起きるまで、ただ隣で横になるだけ」彼はそう言った。つまりまだ要求は継続状態にある。甚爾が「寝る」という行為を終えて「起きない」のなら、澪はそれに付き合わなければならない。
(失敗だ……。昨日、私が深く言及するべきだったのは「起きるまで」という定義付けの方だった)
縛りがある以上、曖昧な定義は守っておいた方が無難だ。一度約束してしまったものを今更どうすることも出来ない。諦めた途端、抱き竦める腕の力が緩くなった。
すると澪の身体は、実に素直なまでに触れ合う感覚を愉悦として受け入れ始めた。
背から伝わる体温や、抱き竦む腕の固さ、果ては彼の指があてがわれている腰からの触感までもが、鮮明に脳髄へと雪崩れ込む。
背後で呼吸音が穏やかで深くなっていく。対照的に、澪の高まる心音は少しも落ち着く気配がない。
(縛りが無くても、私はきっと逆らえなかった。……どうして。どうして、このままでいたいって思ってしまうんだろう)
(…………こんなにも、安心してしまうんだろう……)
逸る鼓動とそれを押さえ付けようとする胸の軋みは、切なさを加速させる。
(恋が怖い。私を破滅に向かわせるこの感情が恐ろしい……。何より、どこへ逃げても必ず先回りしてくる、この人が一番怖い)
(だけど。こんなに怖いのに……離れたくない)
澪は自身の理性の限界が目の前に迫ってきているのだと思い知らされた。
せめてもの救いは恋に溺れる情けない顔を見られずに済んでいることだけだった。
4
耳元で、聞き慣れた着信音が鳴っている。真っ暗な意識の淵はかき乱され、現実に引き戻された。
音が止み、はたと気付いた途端に起き上がれば、何故か自分の携帯が枕元にあった。
(あ、れ。…………寝て、た……?)
思考と記憶がふわふわとして、不安定だ。寝る前に何をしていたのか、今が朝なのか夜なのか。携帯を見下ろしたまま思考を動かそうとすると、部屋の入り口の方から声がした。
「今ので四回目だ。随分焦ってんだろうな」
振り向けば、開いたドアの傍に甚爾が立っていた。いつでも外出出来るよう準備は済んでいるといった身なりである。
それでやっと繋がった。
信じたくはないが、自分は甚爾の腕の中で無防備に寝入ってしまったのだ。
恐らく思っている以上に時間が経っている。着信は安曇だろう。今日は昼ごろから任務に出る予定なのに、澪が一向に家から出てこないので、心配しているに違いない。急いで携帯に向き直り手に取った。通知されている着信履歴に電話を掛け直せば、安曇はすぐに応答した。
「白主さん、無事ですか!?」
普段から調子を荒げることのない声がひどく焦っていた。余程澪の身を案じていたのだろう。
「あの……っ、……申し訳ありません、寝坊しました……! 十分、いえ、五分で支度をします!」
電話の向こうで細々と長めの息をつく音が聞こえた。それが呆れのため息ではないのは明白だった。
「そういうことなら、大丈夫です。時間はまだありますから、落ち着いて準備して下さい」
安曇は普段の調子でそう告げ、手短に電話を終えた。いつもの彼らしい辛辣な言葉や小言は一切向けられなかった。深く悔恨が心根に侵食していく。
(また……失敗した……。安曇さんを心配させて、迷惑までかけた……。……ごめんなさい)
彼女は現在、安曇と五条以外との連絡を絶っている。術式が完全ではない今、事態が悪化した際に誰も巻き込まないようにするための対策だ。
一度、予期せず掛かってきた憲紀の電話だけは、つい寂しさに負けて受けてしまったが、本当は自分と関わるのある全員と隔絶するつもりだったのだ。
けれど、誰にも関わらず任務をこなすのは困難だ。それを承知していて、一人で行動しようとした澪に専属的な補助監督の役目を買って出てくれたのが安曇だった。自分なら仕事だけの付き合いさながら淡白に振る舞える。だから普段通り接してくれればいいと安心させてくれた。
甚爾が澪を恨み、陥れようとしている今、安曇も彼の目論見に巻き込まれる可能性は極めて高い。
(それなのに、この情けない様は何? 今、安曇さんがどれだけ危険な役目を負ってくれているのか、わかっているくせに……)
糾弾の声を内で響かせながら、急いで身支度を進める。
(早く。……早く、なんとかしなければ。このまま振り回されているだけじゃ、……私の失敗はどんどん大きくなっていく。……その最後には、大切なものを、守りたかったものを、全て失ってしまう。あの夢みたいに)
安曇のみならず、澪の手の内には家族の。一族の命が掛かっている。
しかも直毘人と交わした条件の一つ、甚爾を処分せざるを得なくなった時には、その失敗の尻拭いをさせられるのは恩師たる五条だ。
澪が失敗すればどれだけの命が危ぶまれ、あるいは消えるのか。この責任は重い。
視界の端で血の色が滲み出る錯覚を覚える。千羽矢が受けた痛みの感覚や、生臭い血のにおいも蘇ってくる。
経過した日はまだ十日にも満たないが、重責に心が折れそうだった。
(何が間違いなのかは分かっているのに……、何が正解なのかがわからない……)
自己で対処することもままならず、……あまつさえ、誰かに助けて欲しいだなどという甘えまで浮かぶ。改めて己の精神の弱さを痛感した。
高く高く高揚しては、深く深く沈んでいく心理の激しい変動に、澪の憔悴は限界に近づいていく。
5
大幅な遅刻をしたものの、安曇は一切澪を咎めず、任務も無事に終えた。家に戻り、時刻はいよいよ夜半前になる。
要求はまたしても一時間だけ隣に座っていれば良い、というものだった。なんの対策もできず、今夜も澪は読めない思惑の手玉に取られていた。
彼の思惑は、澪の情緒に緩急を与えて翻弄するつもりだというのは分かっている。しかし、この後何がいつ起こるのかは分からない。後手に回らざるを得ない形勢に、相変わらず彼女は空論と戦い通しだった。
何もせずに座っているだけなのに、隣が少しでも身じろげば、訳もなく鼓動が高鳴る。軽口を叩くことも、目を合わせることも出来ず、身体は緊張で固まってしまう。
(何かされると、…………期待している? 触れられそうなほど近くにいることに、興奮している? 違う。私は、そんなこと、思っていない。それなら、どうしていつも通りに振る舞えないの?)
自分の感情が暴走しかけている感覚がとにかく不快で、苛立ちさえ巻き起こってくる。澪は拳を強く握って、自分への怒りを懸命に抑え込んでいた。
そうこうする間に時間は経過し、彼女は陽気な振る舞いを演じてリビングを後にした。
廊下に出た途端、貼り付けた笑みはあっさりと剥がれ、明かりが消えたような表情で寝室へと歩む。部屋へ入り、崩れるようにベッドに倒れ込んで、寝具に顔を埋める。深い息をついた。
身体は足りない睡眠に悲鳴を上げている。けれども脳は勝手に後悔と自責を始め出す。
(恋だなんて下らない感情、大嫌い。でも、こんな馬鹿みたいな感情を抑えられない自分が、一番嫌い……)
持ち前の楽観が機能しない現状のもどかしさに歯を食いしばる。閉じ合わせた瞼の隙間に涙が滲んだ。その矢庭。
「随分疲れてんだな」
唐突な声に、思い掛けず背筋が張り詰める。相手が無言のままだったのならば、おそらく視界に認めるまで気付けなかった。ひどく疲れ果てて鈍った警戒心は、彼が寝室にやってくる可能性を完全に見落としていた。
微かな揺れを感じ、甚爾がベッドに腰掛けたのが分かった。きっと、澪が弱りきっているのを知っていてここにきたのだろう。無抵抗のままでいては、あっさりと落ちてしまう。……衰弱した動物が肉食獣に食われるように。
(せめて、何か言わなくちゃ。今、この人の側にいてはだめだ……)
けれど一度切れてしまった気勢は、指先ひとつで簡単に灯る電灯のようには切り替わらない。鈍い動作で起き上がり、溢れそうな涙を拭って振り返るが、彼女の表情は悄然としている。
「……何か、ご用ですか」
もはや、澪には疲れ切った情けない声を出す気力しか残っていなかった。
すると、不意に肩に手が置かれ、ゆっくりと押された。澪の身体は後ろへと傾き、仰向けにベッドへと沈む。
甚爾の所作に強引さは一切なく、むしろ悠揚で丁重だった。澪が無抵抗にされるがままとなっていた。
(ああ、また、……また私は……)
顔に掛かった彼女の髪を、甚爾は物柔らかな手付きで整えた。全てを脱がすような眼差しで、瞳を覗き込んでくる。
「何も。オマエの顔を見たかっただけだ」
相対する眼差しに嘲笑の色は全くない。まるで本当にそう思っているのではと錯覚する嫋やかな表情に、思わず目を見張る。嘘だと分かっていても、ただ魅入っていた。
(期待しないで。喜ばないで。どうして……どうしてこんなに私は……っ)
燻る思考を読みとったかのように、甚爾は彼女の頭の横に肘を付き、上乗りの体勢を低くする。目を細め微笑にも似た表情を浮かべ、宥めるような手付きで彼女の頭を撫でた。
その優しい触れ方は、澪の魂を抜き取るに留まらず、理性を飲み込む欲を目覚めさせる。その機微さえ見越していたかのように彼は更に低く近付き、そして澪は無意識に呼吸を止めた。
――愚かでくだらない。こんな感情、いらない……!!
「やめて」
震えた声を吐き出すと、澪は甚爾の胸元を押した。
「こんなの求めてない。望んでない、私はこんなことで喜んでなんかいない!」
呼吸が荒れ、頭の中が白んでいく。不安が、焦燥が、自己嫌悪が、溜め込んでいた全ての感情が破裂した。
「もう私に近づかないで、偽物の優しさなんかいらない、貴方なんか好きじゃない、……大嫌い!!」
堪えられずにはらはらと涙を零し、拒絶を叫んだ。こちらを見下ろす甚爾の姿は、濡れそぼつ膜が邪魔をして判然とはしない。
(………………私は、今、何を……)
澪が自分が放った言葉を理解すると同時に、甚爾は呆れたような息をついて身を起こす。
「泣き喚く女を無理やりってのは趣味じゃないんでな。……今日の所は引いてやる」
それが解放だと分かった時、じきに胸中へと広がったのは、安堵などではなく重い自責だ。
自分でも何がしたいのか分からないまま、直情的に走った結果がこれだ。彼は何もせずに引いてくれたものの、己の言動が正解だとは到底思えなかった。
(違う、私は……そんなことを言いたかったんじゃない。……なんてことを、してしまったんだろう……)
数多の感情が弾けるように心の中へ散らばっていき、目の縁から潸々と悔恨が落ちていく。
部屋を出ていく背を引き留めたかった。それなのに、起き上がるのがやっとで、天敵を前にした小動物がなす術なく怯えるように、体が震えて声が出せない。
ドアが閉まる。部屋は無音と暗闇に包まれる。
己に向けていたはずの激しい情緒を人に向けてしまった。そんな自身の理不尽さに吐きそうだ。広いベッドの上、澪は膝を抱えこみ、小さくなって嗚咽を堪えた。
7
それからどれほどの時間泣き続けたのか分からない。
涙が枯れ果ててしまうと思うくらいに泣いて、泣いて、……ゆっくりと顔を上げれば、激しい頭痛が襲ってくる。
(体が、重い……。喉も、渇いた……)
水を飲みたくてもこの部屋を出る気にはなれなかった。
今は彼には会いたくない。というより、どんな顔をしてどんな言葉を交わせばいいのか分からなかった。
時間が過ぎていくのが恐ろしい。朝なんて来ないで欲しいと、変わらず心緒は暗い水底に沈んだままだった。
(私は、どうしたらいい……?)
どうやっても導き出せない問いに、再び目の奥が熱くなっていく。
助けを乞うように脳裏にさまざまな人の姿を描いたその時、実に鮮明に蘇った記憶があった。
たった一人の真夜中、泣き疲れて乾いた喉、外灯が照らした微笑。
――『焦らなくても、大丈夫だ』
その声と表情を思い出すと同時に、澪が目を向けたのは備え付けのクローゼットだった。
「元気の素……」
深く呼吸をし、収納を開ける。中には箱一杯に敷き詰められているゼリー飲料が並んでいた。
不思議な事に、ただの段ボールが宝箱のようで、詰められた容器は宝石のように輝いているように見える。その内の一つをそっと手に取り見つめた。
「……恵先輩……」
涙で焼けた瞼を下ろす。
両手で包んだそれを額に近づけると、熱を冷やす温度が心地良い。祈りにも似た姿のまま、在りし日の情景を想起した。