My last 改稿版
願い 20

1

 夕日が差し込む高専の教室。椅子を寄せ、澪と野薔薇は交互に携帯の画面を見せ合っていた。
 今年高専を卒業した野薔薇が当然のようにこの教室にいるのは、本人曰く「任務報告のついでに寄っただけ」だそうだ。
 しかし今回に限らず、彼女は卒業後も「ついで」と言いながら、具に姿を見せては澪の相手をしてくれる。野薔薇だけではなく、真希も似たような口上を引っ提げてしばしば顔を出しに来る。
 きっと心配して様子を見に来てくれているのだろう。
 彼女たちは一級の肩書きを持つがゆえに、暇とは疎遠な日々を過ごしている。それでもまめに会いに来てくれる二人への感謝は日々絶えない。四年生になって後輩も出来た澪であるが、悩みや不安はいつの日もある。今日も今日とて、現在抱える悩みを相談中だ。

「この物件なかなか良いかも。ほら、立地もセキュリティも間取りも完璧よ」
 二人が見漁っているのはマンションの購入サイトだ。野薔薇の携帯が示すのは広さも勿論、設備や駅との距離等も申し分ない新築物件である。携帯画面を覗き込んだ澪は、詳細情報を隈なく見ても非の打ち所がない内容に目を輝かせた。

「わあ、本当ですね! でもお高いんでしょう?」
「金額はこれね」

 画面に添えた指を野薔薇が滑らせると、説明文よりもやや大きめな数字が現れる。それを目にした途端、澪の瞳に宿った希望は一瞬にして淀んだ。

「…………。野薔薇先輩。お高いとかいう次元ではないのですが……」
 すかさず澪は自身の携帯を操作し、表示された物件の金額を野薔薇に見せる。
「今の私の財源ではこれくらいまでです」
「えー。悪くはないと思うけど、こっちに比べるとちょっとインパクトに欠けない?」
「だとしても、そこまで高級なマンションには手が届かないですよ」
「高専で住宅手当出してくんないかなぁ」
「さすがにその価格帯では申請通らないですよ……」

 うーん、と揃って頭を悩ませる女子の間から、にわかに男の手が現れた。そして長い指の先が野薔薇の携帯を指し示す。

「僕もこっちの物件の方がいいと思う」
 澪が振り返ると、五条が背を屈めて二人の手元を覗き込んでいた。彼女達は神出鬼没な彼に驚く様子もなく、あっさりと会話に引き入れる。
「あ! やっぱ先生もそう思う?」
「うん。澪の方は立地が良くないね。道路混むし路線も多くないし、高速近いから空気も悪い」
「なるほど……、そこまでは考慮していませんでした。そうなると値段に見合っていない気がしますね……」
「ほら! だから折角ならこれくらい思い切った方がいいのよ」

「うんうん」と五条は首肯する。あたかもずっと同じ空間に居たかのように溶け込んでいる彼であるが、ふいに小首を傾げた。
「ていうか何の相談? 澪が卒業したらルームシェアでもするの?」
「だったら楽しいのですが、生憎そうではないのですよ」

 物件探しを中断して澪が語るのは、卒業後の方針だ。
 高専を卒業し降霊術を成功させたあかつきには、都内で一人暮らしをするつもりでいる。
 しかしながら甦った者は意思を持った一人の人間なので、居住を共には出来ない。ましてや相手は異性であり、五条から危機を持てと忠告も受けている。ある程度の距離を保つ環境作りは必須だ。
 そして、本人の意思を無視して計画に協力させるからには「衣食住には一切の苦労をさせない快適な生活を保証する」というのが彼女なりのけじめだ。
 つまり、現在選んでいるのは澪ではなく甚爾の居住先である。
 人伝に聞く甚爾の性格から考慮するに「最低限の仕事をこなせばそれなりの自由が得られる」と思わせれば、協力関係の形成も円滑に進められるだろう。

「なるほど。相変わらず真面目だね」
「住む場所には随分苦労されていたようなので、きっと有益な対価だとご理解頂けると思うのですよ」
「苦労?」
 野薔薇の問い掛けに、澪はその境遇への憂いを露わにした。
「……はい。定住はしておらず、女性の家を転々としていたそうです」
 だが野薔薇は真逆の冷ややかな眼差しを返す。
「いやそれ、苦労っていうか……。ただのヒモじゃない。しかも取っ替え引っ替えとか……」
「え? 紐……とは?」
「…………。いつもの事だけど、これ本気で分かってないのよね?」
 野薔薇は助けを求めるように五条を見上げる。彼は腕を組み、苦労はいつまで経っても絶えない、といった面持ちで深く頷いた。
「うん、察しの通り。……どうする? 丁寧に教えてあげる? 多分伝わんないと思うけど」
「先生、これ大丈夫なの? そんなヤバい男降ろすとかさぁ……」
「なんとかなるさ。今更もう止められないし、……僕もいるしね」
「ふーん……」

 澪は未知の「ヒモ」という言葉の意味に興味深々で答えを待っている。そんな彼女と視線を交わらせた野薔薇は、ほんの僅かな逡巡の後、口を開いた。
「とりあえず、そのヒモ男には現物支給の徹底ね! クレカとかキャッシュカードだけは絶対に渡さないこと!」
「はい、分かりました!」

 澪は背を伸ばして敬礼する。そういえば、甚爾は金遣いがかなり荒いという話も聞いた。恐らく「ヒモ」とは、金銭感覚が狂っている人間の暗喩なのかも知れない。だとしたら、彼への報酬として金を支給するのも有効だ。未来の計画に思考を巡らせようとすれば、五条がそれを遮った。

「話戻すけど。相手を満足させたいなら、やっぱり野薔薇が見つけた物件が良いんじゃない?」
「でしょ? で、リビングに置くソファはフローレンス・ノルで。ベッドとフットスツールはシモンズで……」
「ダークトーンで揃えようよ」
「じゃあこれなんかどう?」
「いいね。カーペットはさ……」
 新居の家財選びにはしゃぐ新婚夫婦さながら。五条と野薔薇は声を弾ませ話を進めていく。
「あの! お二人共盛り上がっていらっしゃいますが、このマンション億超えているんですよ!! そして購入するのは私ですよ!?」

「あ。ところで」
 澪の訴えを意に介さず、何かを思い出したらしい五条は、ふと顔を向けてくる。
「こんな高いマンション買ってあげちゃって、肝心な澪はどこに住むの」
 その質問を受け止めた瞬間、澪は背を反らして自信満々の顔を見せた。
「ご安心下さい。そちらはもう目星がついております!」

 胸を張って澪が携帯画面を差し出すと、野薔薇と五条は表情を一変させた。
「ちょっと。これ事故物件よね?」
「しかも木造築五十年、風呂無しトイレ共同、おまけに裏は墓地と来た」
「その代わり破格でしょう? まずはここからスタートして、稼ぎに応じて少しずつグレードを上げていくんです。自分へのご褒美に!」

 学生かつ二級術師の澪にとって、四年間で貯められる貯蓄は、マンションの手付金や初期費用をどうにか賄える程度だ。
 ただでさえ分不相応な買い物をしようというのに、自身の住処にまで金は掛けられない。

「呪術師にとって事故物件は実質アウトレットみたいなものですから、削れる費用は削ります!」
「全然実質じゃなくない?」
 澪は何処までも底無しに前向きだった。五条と野薔薇は、心底哀れむかのような眼差しで見つめていたが、当の本人は全く気づいていないのだった。

2

 三ヶ月後、宿舎に戻ろうと廊下を歩いていたところ、五条に呼び止められた。歩み寄ってきた彼はいつも通りの薄い笑みを湛えて一言「手、出して」と告げる。
 何の気無しに差し出した手の平に転がってきたのは、プラスチック製の黒い楕円形の何か、が二つ。

「先生、これは?」
「この前話してたマンションのキー」
「ああ、この前のお高いマンション!…………。って、はい!?」
「名義変更は後日にしようか」
 てらいもなく、そしてあまりにも自然に話を進めようとする五条に対し、澪は手を掲げて制止する。
「ちょっと待ってください。……ご冗談、ですよね?」
「これが倉庫の鍵にでも見える?」

 渡された物は、一見するとハンズフリー仕様の車の鍵に似ている。
 まじまじと手の中にあるそれを眺めると、格納された鍵を出す為のボタンや、施錠用らしきリモコンボタンがあった。確かに倉庫やロッカーなど簡易な建物の鍵ではないのは一目瞭然だ。

 そして何より、この形状には見覚えがある。先日野薔薇が勧めてきた高級マンションの鍵が正にこれだった。三段階の防犯設備を謳っており、風除室から各住戸まで自動開錠が可能なのだそうだ。
 鍵を渡してきた相手が相手なだけに、冗談なのか手の込んだ悪戯なのか判別がつかない。
 彼ならマンションや戸建てを軽々購入できる財源もあるだろう。うっかり本人の気が乗りさえすれば、身内でもない人間への施しも厭わない性格だということも、澪はよく知っている。

 それからもう一つ。彼は無駄にサプライズ好きだ。しかも相手を落胆させる目的ではなく、どちらかというと仰天させたり喜ばせたりする意図で行うことが多い。だが彼の感覚は常人のそれとはずれがあるので、大喜びしづらい形のサプライズを仕掛けてくるのが大半だ。
……認めるのが怖いが、五条はあのマンションを購入したのだと断定せざるを得ない。

「家具も野薔薇と一緒に選んで全室搬入済みだから、すぐにでも住めるよ。あと、卒業以降も高専の寮の使用許可降りたから、ボロアパートに引っ越さなくても大丈夫だからね」
「そ、そんな事まで!?」
「中途半端じゃ格好つかないし」
「いえ十分ですよ!」

 何故これほどの施しを彼が与えてくれるのか、澪には分からない。
 自分はこれ以上ない位に五条を尊敬しているし、かなり分かりやすく本人にも伝えているつもりだ。これ以上格好をつける必要がどこにあるのか。
 しかし、断ろうにも既に用意されたものを突き返すにはあまりに高額すぎる。かといって「先生が住むのはどうですか」なんて言えるわけもない。
 ならば、連日働き詰めて月々返済するとしたら、果たして何年の期間を要するのか……そんな計算が頭の中で弾かれる。けれど脳内に浮かぶ数字が示すのは、気が遠くなる年月の返済期間。たちまち澪は顔を白くして五条の服の裾を掴み縋りついた。

「あの……、生きている内に返せるか分からないのですが、粉骨砕身の気概で働き月払いで返済しますので……。どうか金利は0.001%で……」
「返さなくていいよ、僕が勝手にやったことだから。それより、一つお願いがあるんだけど」
 お願い、というその単語は、目の前に照りかける一縷の希望の光だった。
「何でも仰ってください!」
「あの人の戸籍や諸々の書類なんかも用意するでしょ。その手続きを僕に一任してくれない?」
「えっ…………。それって、先生のお手間を増やしてるだけじゃないですか……?」
 曇るどころか眼前に大雨を降らせるが如く、澪の相好は陰り消沈する。

「勿論、僕にも利益があるように細工させてもらうけどね」
「利益」という直接的な響きは、澪の表情の陰りを一気に吹き飛ばした。マンションの鍵をポケットに仕舞い、たちまち敬礼の仕草で彼女は背筋を伸ばす。
「ならば心置きなくお任せします!!」
 しかし、今度は五条の表情がうっすらと怪訝に染まる。
「……なんかさ。余程僕に借りを作りたくないみたいだけど、なんで?」
「当たり前ですよ。億単位の融資のみならず、これまでも沢山お世話になっていますし。私は一体何からお返しすれば良いのか……」
 澪はこれまで受けてきた温情を指折数えるが、やがて両手を折り返しても足りなくなり、遂には頭を抱えた。

「だから返さなくていいってば。ほんと変なところ、真面目だよね」
「真面目と言うか……、私はとにかく先生への貸しを多く作りたいんです」
「そういうのって本人に言わないほうがいいんじゃない?」
「私は嘘や本心を隠すのが下手なので……。いっそ素直に白状するというのが基本理念ですから」
「そこまで馬鹿正直なのもまあ嫌いじゃないね。……ただ、それにしては今まで擦り寄ってくる様子がなかったけど?」

 見上げる澪の額に向かって五条は手を伸ばすと、人差し指を添えて軽くつついてきた。対して彼女は不敵な笑みを返す。
「先生は愉悦的な利では一切靡かないでしょう?」
「確かに可愛くアピールされても無能だったら相手にしないかな」
「ですから、優秀な人材である証明も兼ねて、沢山お役に立ちたいんです」
「へー。でも僕は澪のこと、ずっと前から優秀だと思ってるよ」
 声音を密やかにしながら、五条は澪の背に片手を添えて、触れる程に身体を寄せる。澪は瞬きをしながら探りの目色を向けた。

「つまり、君が可愛くおねだりしてきたら、多少の無理も聞いてあげちゃうくらいの不埒さはあるってこと」
 片腕で背を抱いたまま、彼は凄艶を忍ばせた指先で、澪の口唇の縁をしなやかになぞる。
「先生……」
 にわかに彼女の口角は薄く上がる。やけにわざとらしい接し方は、彼の悪戯だと見抜いたのだ。
「何度私を揶揄い倒したとお思いですか。もう何をしても動揺しませんよ」
 すると五条は触れる手を離し、一歩引いてわざとらしく肩を竦める。
「そっか。……それなら、甚爾サンに何されても落ち着いて対処できるね?」

 次の瞬間、澪の顔はたちまち上気した。迂闊にも、もしも自分に触れる手が思慕を向ける相手のものだったら……と想像してしまった。たちまち内心は湖面に落石があったかのごとく大きく波打つ。
「もっ、ちろんでふ……!」
「…………大丈夫かなぁ」
「だだ、だいじょぶです! 今のはなんというか、……不意打ちで驚いだたけです! 実際はもっと冷静沈着に対処しますので!」
「どうだか。……もっと濃厚なスキンシップしとけばよかったね」
 彼の言葉は澪の温度をよりいっそう昂らせた。邪念を振り払わなければ、と澪はぶんぶんと大きく首を振る。
「それとこれとは別ですし、変なことに労力を使わなくて結構です!」
「変じゃないよ。僕にとってはかなり重要なことさ。…………君を守るためにね」

 言うやいなや、不意に五条はサングラスを外す。露わになった美しい虹彩に思わず見とれていると、彼は一歩だけこちらに近づいてきた。
「ねえ、澪。この先、何があっても自分の命を縮めるような無謀な真似はしない?」
 その問いかけに、自信を持って答えることができない。六眼は思考を読み取る能力はないとわかっていても、彼の眼差しに全てを見透かされているように感じる。澪は視線を逸らし、曖昧に頷いて一歩下がった。
「もしも想定外の事態に陥っても、焦らず一人で対処できる?」
 低い声音で問いかけられれば、一気に不安が増してきて首を横に振りそうになる。それを抑えて、澪は強気に応えようと五条の瞳を仰ぎ見た。見下ろす眼差しは論うようなものではなく、何かを求めているような……あるいは憂慮に染まっているような色だった。嘘でも頷くことが出来ずにまた一歩下がる。
……澪は彼の眼差しにめっぽう弱い。ひとたび視線を交錯させてしまえば虚勢を張ることも出来なくなる。それを理解していて、彼は試すように問うてきている。そんな気がした。

 はたと気づいた時、澪の真後ろは壁になっていた。五条は身を屈めるようにして身体を寄せてくる。己の弱さを認め、観念するしかないのか……とぎゅっと身を強張らせたその時、かすかなひらめきが脳裏をよぎる。

(先生は、旅館の時と同じように、また私を試しているんだ。追い詰められた状況に陥った時、どう対処するのか……。……でも、なんだかあまり気乗りしない……)
 逡巡の果て、澪は手を伸ばし、五条の胸に手を置く。それからそっと力を込めて押し返そうとした。
「ほら、どうですか? ちゃんと意思表示できます」
「……弱いよ。その程度じゃ」
 右手がそっと大きな掌に握り込まれ、それから覗き込むように見つめられる。彼の眼差しが普段と違うのは明白だ。けれど心緒は読み取れない。悲しそうにも見えるし、怖れを孕んでいるようにも感じる。ただ一つはっきりしているのは、こちらに何かを伝えたくて、強い感情を向けているということだけ。

「熱を持った目で見つめられても、どんな言葉を掛けられても、優しい手つきで触れられても。心を乱されないって君は誓える?」
 強い言葉を伴う問いかけは、澪の関心を別のところに引き付けた。

(……やっぱり先生は、甚爾さんを恐れているんだ。……それなら私は、どうしたら先生を安心させられるんだろう……。なんて答えたらこれ以上心配をかけずに済むんだろう……)
 押し返そうとする腕の力を抜いて、澪は一心に五条の瞳を仰ぎ見る。

「……はい。これから先、決して悪意に陥れられないよう、必ず対処します。ですが今、先生が望む反応ができないのは、相手が先生だから。それだけです」
 京都の旅館で、甚爾への警戒を忘れないようにと言われたことは確と覚えている。自分の好意に付け込まれることの怖さも理解しているつもりだ。
 言い訳がましいかもしれないが、決して先程のような失態は冒すつもりはない。自分が弱さを見せるのは信頼している相手だけだ。そんな真剣な思いを伝えたくて、見下ろす瞳に近づくように澪は爪先に力を込めて背を伸ばす。

「先生は甚爾さんとは違う……。先生には悪意なんてないし、何より私の大切な人です。だから他人と見立てて接することなんて出来ないんです」
 握られた手に、わずかに力が籠る。
「覚えていらっしゃいますか? 先生と一緒に新しい秩序を作っていくとお伝えしたこと。私にとっては色恋にかまけることより、そちらの方が重要です。今がどれだけ弱くても、先生とは別の形で、私は力を付けて追いついてみせます。だから信じてください」
「……。そういう所が澪の危うさなんだって。気づいてよ」
 相対する眼差しに、強い感情が増したような気がした。けれども、自分の言動が何故彼をここまで悩ませてしまうのかが分からない。無意識に空いている手を彼に向かって伸ばしていた。
「先生、私は……」
――どんな言葉も、思いも受け止めます。だから……今、何を思っているのか。隠さないで話してください。

 そう伝えようとした矢庭。コツコツと足音が近づいてきた。澪が視線を向けると同時に声が小さく響く。
「五条……。お前。何をしてるんだ」
 声の主は硝子であった。彼女の面持ちは普段通りの冷静さだが、発された声はため息がちで、明らかに呆れが包含されていた。すると五条は先ほどまでの声や表情が嘘だったかのように、明るく返す。
「見ての通り、教育的指導だよ」
「どう見ても変態教師がいたいけな教え子に迫っているようにしか見えない」
「平気平気。今の所、手しか触ってないから」
「…………お前のそういう事情に口出しする気はないけど、せめて場所くらいは弁えてもらいたいな」
「そういう事情って……。やだなぁ、勘違いしないでよ。僕はちょっとスキンシップの激しい教師ってだけさ」
 ふいに硝子の視線がこちらを向いた。二人の会話の内容が理解できていない澪は、小首を傾げて彼女に無言の疑問を投げかける。すると、硝子は目を伏して大きなため息をついた。
「それはそれで問題だと思うけど。…………今は、そういうことにしておくよ」
 やはり二人の会話は澪には難解だった。掴まれた手は解放され、彼の体も離れていく。
「そりゃどうも。…………澪。僕が言ったこと、よく考えておいてね」
 返事をする間も無く、五条はすたすたと硝子の横を抜けて行ってしまう。正直、彼の言葉の真意は考えても答えなんて出なさそうではあるが、とにかく返事をしなければと、澪は前向きな声を飛ばす。

「五条先生! まず、このご厚意は必ずお役に立つことでお返ししますので、ありがたく受け取ります。それから、甚爾さんにも自分の精神の弱さにも、必ず打ち勝ってみせますから!」
 彼は歩きながら片手を軽く上げて返事をしてみせた。きっと、澪の言葉は真に信用されていない。無言の背が「気休め程度に受け取っておく」と物語っていた。

(私が弱すぎるから信じてもらえないのか、それとも……私では全く歯が立たないと想像に容易いほど、彼が脅威なのか……)
 どちらにしても悔しいことだ。澪が消沈しそうになっていると、隣に硝子が並んできて、そっと肩に手を置いてきた。
「人を惹きつける人間ってのは、往々にして相手の心に入り込むのが得意だ」
「……はい」

 彼女はおそらく、甚爾のことを言っているのだろう。
 先日、不測の事態を考慮して、彼女には何かあった時の助力を依頼した。その際に降霊術の目的やどんな人物を甦生させるのかを説明したばかりだから、間違いない。
 そして澪も先日、甚爾の人間性について新たな知識を得たばかりだ。以前は全く意味を知らなかった「ヒモ」という名称がいかに不名誉かを偶然映画を見た折に理解した。甚爾が女性のところを転々として、その上同じ女性のところに何度も出入りするのを許されていたのは、彼が硝子の言う通りの人間だからだろう。

「ただ、色恋に限ったことじゃないけど、意図してやってる場合もあれば無自覚な場合もある」
 澪は硝子の表情をしっかりと見つめ、深く頷いた。
「確かに、意図しているのであれば、少なからず悪意が感じられるでしょうね。でも無自覚だとしたら相当厄介そうです」
「そう。無自覚に相手を夢中にさせてしまう方がタチが悪い。……君は後者だ。時にはそれがよくない方向に働くこともある。だから気をつけて」
(……そうか。彼に悪意があったとしても、それが籠絡という形で表れないかも知れない。私が戻れないところまで惹かれてしまった後で、この思いに気付かれてしまったら、……終わりだ。だからどんな時でも、相手のどんな言動も、常に警戒しなければならない……)

「はい!……………………ん?」
(あれ? 今、硝子さん……『君』って言った? 私達は甚爾さんの話をしていたんじゃ……?)
 今更になって、上手く話が噛み合っていないことに気づいた。しかし硝子はもう踵を返していて、真意を問いただす間も無く背中は遠ざかっていく。

(…………結局。五条先生と硝子さんが言いたかったこと、ちゃんと理解出来なかった……)
 それは彼らが大人だからだと、今は無理やり納得させる。人生経験を積み、自分は大人と胸を張って言える日が来れば理解できることなのだろうと、追求は諦めた。

3

 二〇二三年、四月十四日。澪は降霊術式を成功させた。

――会いたいと願い、求めた人が目の前にいる。

 澪の血液は甚爾の肉体として再形成され、眼前の肉体からは不気味なまでに呪力を持ち得ていない。
 もはや降霊術の域を超えていると言っても過言ではない、完璧な甦生。だからこそ強く理解していることがある。
 どれほど強力な術式で行動を縛ったとて、彼は自分の物には決してならない。自由を制限し支配したとしても、魂は支配出来ない。むしろ深い恨みを向けられることだろう。

(だから、もう彼への恋心は捨てる。私の計画にとって、無駄なものだから)
 言い聞かせるように心で唱えても、目の前の男を見つめれば見つめるほど、揺れる高揚感は振り幅を広げていく。

(ああ、だめだ。いったん落ち着かないと)

 器材を片付けながら、緩く首を振った。この部屋からは一度出た方がいい。そう考えて歩み出そうと試みたが、動かない。
(…………出る前に、少しだけ)

 甚爾を見おろし、期待のこもる指先を伸ばす。
 目に掛かるほどの長めの前髪をそっと撫でてみた。触れてみると案外細くて柔らかい。
 右の眦に触れ、手の平を肌に重ねた。触れた頬は、まだ体温を感じられず、冷たい。それでも彼女の掌には、死という遥かな果てより、一人の人間を手繰り寄せた感覚が確かに伝わっていた。

 薬が効いている間、彼は目を覚さず、また目を覚ましてもその意識はしばらくの間、茫漠と漂うだろう。数時間は自由に身体を動かせないよう調整もしてある。
 その薬剤を彼に投与したのは、他でもない彼女自身であるが、願わずにはいられなかった。

――早く。早く目を覚まして下さい。

「……甚爾さん」

 触れ合う皮膚を通じて、互いの鼓動が同調していくような錯覚。酷く静かなのに激しく昂る心緒の感覚。
 正視すればする程に、その顔立ちの精巧さに魅入るばかりだ。右の口端にある痛々しい傷跡さえも、整った相貌の中で際立っている。
 それどころか、甚爾をもっと深く知りたいという渇望を肥大させる一因だ。探究心が求めるままに、突っ張ったような質感の皮膚を親指で撫でる。

(きっと、虐げられる生活の中でついた傷なんだろうな……。でも一体いつからこの傷はあって、何故この傷を受けてしまったのだろう。直毘人さんから詳しくは聞けなかった……。私は彼について知っているようで何も知らない。…………だからもっと、知りたい。触れたい)

 無自覚に身を屈めて傷跡に顔を近づけていた。微かな呼吸が聞こえそうなほどに顔を寄せ、そして薄い肌に触れる寸前で我に返った。仰反るように離れ、後ずさる。

(…………。今、私は何を……?)

 無意識な劣情を抱いていた。我を忘れてこの身を情の赴くままに任せようとした。一体いつからこの思考は欲に支配されていたのか。それすら分からない。
(これが恋なんだ。……なんて厄介で恐ろしいものだろう)
 もしも理性が完全に飲み込まれてしまったら、一体どうなっていたことか。……想像もつかない。恐怖に身が震えた。
(これから私は、もうこの感情に振り回されたりはしない。彼を降ろしたのは、愛だの恋だのというもので心を満たすためじゃない。浮かれて目的を見失うような、愚かでくだらない人間には絶対ならない……)
 そう言い聞かせながら己の情緒を諌めようと背を向けた。
 
 すると、にわかに直感めいた気配を背に感じた。
 甚爾の方へ向き直ったその時。わずかに閉じられた目蓋が動く。途端に視線を逸らせなくなり、再び息をすることさえ忘れた。
 目覚めた彼の虚ろな眼差しが天井に向けられる。澪が目を奪われている間にも、少しずつその瞳に、その肌に生の色が宿り始めていく。

 甚爾の肉体が真に甦っていくのを目の当たりにして、ひとえに美しいと思った。
 薬剤が効いていないことへの驚きよりも、喜びの方がはるかに優っている。
 眼前の存在は、伏黒甚爾という自立した生命でありながら、彼女にとっては術式そのもの、生涯を賭けた存在証明だ。
 多幸感を振り回し、情緒が身内で暴れる。
 まるで、自分の呼びかけに応えてくれたようだ、なんて有り得ない錯覚に愚かな勘違いを起こしそうになる。
 この激情をどう処理したら良いのか、着地点が見当たらない。どうにか深く息を吸い込み、緩慢な呼吸だけは辛うじて取り戻す。

(落ち着いて。まずは、手筈通り……術式の開示を……)
 二、三度深い呼吸を繰り返し、やっとの思いで声を出す。
「随分早いお目覚めですね」

 彼の眼球が緩く動く。やがて澪をその視界に捉えた。
 そうすると、また嬉しさが込み上げてきて、澪は無自覚のままちいさな笑みを溢していた。