My last 改稿版
春嵐に告ぐ -12-

『白百合のしあわせ』

1
 貯血を終えたばかりにも関わらず、澪の心は躍っていた。
 今回の貯血を以って、ようやく降霊に必要な血液が溜まったのだ。
 不思議なくらいに体は軽く、四肢の凍えるような軋みもない。普段なら気落ちしがちな心も、今日ばかりはあの陽光に負けないくらい明るい。

 澪は小走りに院内の中庭へと足を運んでいた。ベンチに近づくと、足音に気づいたその人が振り返る。ふわりと浮かべる微笑は、やはり可憐な白百合を想起させた。
 彼女の悩みを聞いて以来、二人は自然と中庭のベンチで会うのが習慣になっていた。他愛のない話をすることがほとんどで、ただ何もない時間をゆっくり過ごす、なんて日もある。
 親交を深めても、いまだに澪が病院に通っている理由は説明していない。けれど安易に説明できないことを彼女は察してくれているのだろう。その話題には触れずにいてくれる。そんな優しさと居心地の良さに甘えて、こうして何度も会っていたのだった。

 いつものように軽く挨拶を交わすと、彼女は嬉しそうに問うてくる。
「何か良いことがあったの?」
「え!……わ、分かるのですか……!?」
「うん。顔を見たらすぐにね」
 そこまでわかりやすく機嫌が顔に出ていたとは……と、澪は頬を赤らめた。けれど、少し躊躇いがちに両手の指先を合わせながら口を開く。
「……実はもうじき、会いたかった人に会えるんです」
「もしかして、彼氏?」
「んな!? ち、違います!」
「それなら、好きな人?」
 頭に向かって一気に血が昇りつめた。その温度を振り切るように、何度も首を振って否定した。
「じ、じゃないです! と、いうか……そうであってはならない人というか……。そ、それはいいとして!」
 わたわたと汗を滲ませながら、話題を変えようと必死に身振り手振りで示す。
「貴女も随分嬉しそうな顔をしていますが、どうでしょう!?」
 きっと澪の苦し紛れの誤魔化しは伝わっているだろう。けれど優しい彼女は茶化すことはなく、穏やかに笑ってみせてくれる。

「あのね。やっと退院できることになったの」
「……本当ですか?!」
 思わず身を乗り出すようにして、隣の彼女に身を寄せた。すると瑞々しい笑顔と共に首肯が返ってくる。澪はすかさず彼女の手を取って両手で包み込んだ。
「よかった……。おめでとうございます! 今まで頑張ってきた結果ですね!」
「ありがとう。貴女がいつも話し相手になってくれて、元気をくれたからだよ」
 どこまでも慈悲深くて思いやりのある人だ。澪は頬を綻ばせる。こんな人こそ、幸せになって欲しい。純粋にそう思える。けれど、温かな気持ちの中で、少しだけ物悲しさに心が揺れていた。

「…………これからも応援していますね」
「私も、貴女のこと応援してるよ」
 澪の手の中にある彼女の掌が、そっと握り返してくる。言いようのない寂しさを気遣ってくれているような、そんなぬくもりだった。

「そういえば……」
 ふと口を開けば、全く同じ言葉が双方で発される。
「あ、どうぞ」
「いいの、先に言って」
「では、一緒に……」

「…………貴女の名前は?」
 これもまた言葉が重なる。全くもって、今更のこと。今までずっと名前を告げていないことに気付いたのだ。しかも今日の今日までお互いが気付かぬまま。花が風に揺れるように、二人揃ってくすくすと笑い合った。

「退院の日も、ここに来てくれますか?」
「うん。約束する。……その時までお互いの名前は秘密にしよっか?」
「はい!」
「あとね、もし良かったら弟に会ってくれる?」
「いいのですか! 是非お友達になりたいです!」
「ありがとう。貴女なら、きっと仲良くなれると思うの」

 彼女の血縁者なら、間違いなく性根の優しい人に違いない。一期一会の縁になるのだろうが、それでも素敵な人との出会いに澪はよりいっそう胸を躍らせた。

2

 一週間後。百合のような彼女の退院日を迎え、出掛ける支度をしていると、野薔薇から電話が掛かってきた。

「澪、今日空いてる?」
「すみません。今日は予定があって……」
「まじかぁ。任務?」
「いいえ。入院していたお友達の退院をお祝いしに、帝英大学病院へ行くんです」
「え、ほんと? じゃ、みんなで一緒に行かない?」
「……?」
「伏黒のお姉さんもそこに入院してて、今日退院するんだって。でもアイツ、行かないとかほざいてるから、私と虎杖で連れてくのよ」
 ほんとに世話が焼ける、と携帯の向こうからため息がちの声が聞こえてくるが、澪の心持ちは嬉しさに膨らむ。
「そうでしたか! では是非一緒に行きましょう!」

 道中でフラワーショップに立ち寄り、待ち合わせ場所の駅に行けば、野薔薇と悠仁……それから恵が既に到着していた。
 すると野薔薇がしまった、という表情で恵を見遣る。
「うわ。こいつを説得すんのに必死で忘れてた!」
「何がですか?」
「お祝いの花! 今からダッシュで買ってくるか……虎杖が」
「ええ!? まあいいけど……」
「いい。自分で買ってくる」
「アンタはここで私達と待機。買ってくるふりして逃げるつもりだろうから」
「…………」
「でも、お花を贈るのなら今日ではなくてもいいと思いますよ」
「なんで?」
「きっと荷物になってしまうと思いますから。……私は、もう会うのはこれで最後なので」

 少しの寂しさを滲ませながら、澪は用意したアレンジメントに視線を落とす。小ぶりな花の束は、淡いピンクと白でまとまっている。本当は別の花を送りたかったのだが、退院を祝って贈るにはあまり相応しくないと思い、別の花を用意した。
 白百合の彼女は非術師だ。よほどの理由がない限り、彼女のためにも呪術師と深い関わりは持たない方がいい。
 卒業後の澪は、目的のために敵を作ることは必至。彼女を危険に巻き込まないようにするためにも、偶然の出会いは、偶然のまま終わらせたほうがいいと考えたのだった。

「そっか。じゃ、退院祝いのお花選びはあらためて澪に任せよっと」
「はい。お任せください!」
「伏黒、アンタも澪と一緒に店に行くのよ」
「………………」
 恵は聞こえていないと言わんばかりにそっぽを向いていた。このままだと彼が野薔薇に胸ぐらを掴まれるのも時間の問題だ。見かねた澪はそっと視界に入るように体を傾ける。
「恵先輩?」
「…………分かった」
 実にバツの悪そうな表情だった。けれど、本気で嫌がっているようには見えない。それは気恥ずかしさを誤魔化しているようで、なかなか見られない姿に澪は目を細めた。

3

 病院に到着するも、まだ中庭に彼女の姿はない。先に恵の姉に挨拶してからでも遅くはなさそうだ。彼等も姉弟水入らずの時間が必要だろうから、滞在にはさほど時間はかからないだろう。
……だがその予想は大きく外れた。

「伏黒津美紀」と名札が示す病室の前で、一行は立ち止まっている。
 何故ならその扉を開けるべき人が、一向にドアハンドルに手をかけようとしないからだ。そして彼は表情を固めたまま一言。
「先に入ってていい」

「いや、いきなり俺達が入ったって、ねーちゃん困るだけだろ!」
 悠仁が恵を諭そうとするが、彼は渋る一方だ。そんな様子を見ながら野薔薇は大きくため息をつく。けれど、この展開を予期していたかのように、澪の肩に手を置いた。
「よし、最終兵器澪。行きなさい!」
「了解です!」

 何故かはよく分からないが、恵が行動を渋るときには必ず野薔薇に託される。おそらく「後輩が行動しているのに先輩が動かぬわけにはいかない」と彼を奮起させるための最終手段なのだろう。
 澪は、フラワーアレンジメントの入った紙袋を野薔薇に渡すと、恵の腕をがっちりと胸に抱えた。そして彼が何かを言おうとするのを遮って、扉を軽くノックをする。

「伏黒恵さんと、高校の後輩の白主澪です! 失礼します!」と告げ、中の返事を聞き取ると、躊躇いなく開けた。
 次いで恵の腕を引っ張りながら病室に踏み込む。彼は抵抗することなく、澪に引かれるがまま着いてきているので、強引に引き合わせる作戦は成功だ。

……けれど、中に入った澪は病室のベッド脇に佇む姿を見て、大きく目を開いたまま固まった。相手も同様だ。少し内巻きの特徴的な髪型。そして相貌。
 中庭で会う彼女こそ、恵の姉、伏黒津美紀であった。
 澪と津美紀は互いに目を合わせ、そして恵を見て、それからもう一度目を合わせる。

「こんなことって、あるんですね……」
「うん……。結局、最後まで澪ちゃんに助けられちゃったね」

 お互いに笑い合えば、恵は目を丸くして不思議そうに澪と津美紀を交互に見る。
 すると、病室に入って初めて、姉弟の視線が交わった。津美紀がそっと微笑むと、恵は顔をそらしてしまう。けれども彼女の白百合のような笑みが萎れることはなかった。

「……二人とも、来てくれてありがとう」
 そう言って、津美紀はこちらに向かって一歩踏み出し、少しだけ声を震わせた。
「恵、今まで迷惑かけてごめんね」
「別に迷惑なんて思ってない」
 淡白に返された言葉。けれど、言葉に乗せられた感情には怒りも嫌悪も疎ましさも含まれていないのは明白だった。

(きっと今、恵先輩は……ごめんって言いたそうな顔をしているんだろうなぁ)
 澪はさっと恵の背に移動し、頑張って下さい、と気持ちを込めて彼の背中をそっと押す。そして小走りに病室から出ていった。
 あえて自分が口を挟まなくても、二人にとって大切な会話はこれからきちんと交わされる。そんな確信があった。
 外で出迎えた野薔薇と悠仁にむかって、澪は満面の笑みをみせると、彼らは安堵の息をついた。

 それから少し経って、三人は室内に招き入れられた。
 すぐに野薔薇と悠仁も津美紀と打ち解けて、和気藹々と言葉を交わし合う。内容はもっぱら高専での恵の生活ぶりや態度などだ。話題の中心となっている彼はというと、いつものように我関せずといった様子で窓の外を見て黙っている。けれど、こころもち表情が柔らかい。それだけで、すれ違っていた二人の関係が修復されたのだと分かる。
 白百合の笑みも、いつになく幸せそうに綻んでいた。

4

 その後、病院から出て荷物持ちを手伝いつつ、伏黒姉弟と澪達三人は最寄駅で別れることとなった。
 帰路につきながら、思い出したかのように野薔薇が悠仁に問うた。

「最近全然見かけなくなったけど、華はどこ行っちゃったの? あの子も時々津美紀さんの様子を伏黒と見に行ってたんじゃなかった?」
 すると悠仁が顎に手を当てながら、記憶を探るように返す。
「ああ、結構前にちょっとだけ顔出しに高専に来たぜ。確か、傷心旅行に行くって……」
「……傷心?」
「なんかよくわかんないけど、すげー落ち込んでたから詳しくは聞けなくてさ。とにかく、しばらく皆に会うことはないから挨拶しにきたって言ってたなぁ」
「余程のことがあったのは間違いなさそうね」
 野薔薇は首を傾げるも、時を交わさずして心当たりを見つけたように小さく声を上げ、視線を澪の方へと移動させる。そして「そういうことね……」と呟いた。

「あの。その華さんという方のことなのですが」
 澪はおずおずと手を挙げる。
 会ったこともなく、初めて名を聞く人だ。けれどこのタイミングで話題に上がるその人物の素性にちいさな確信があった。華という人は、別人格に乗っ取られた津美紀を救った人だろう。

「もしや例の特殊な術式を持っている方ですか……!?」
「そうそう。術式を消滅させるっていう術式でさ。来栖達がいてくれたお陰で、今の俺達があるようなもんなんだよな」
「特にアンタと五条先生は、頭が上がんないわよね」

 野薔薇の一言で澪は思わず目を見開いた。悠仁だけではなく、畏敬する五条までもが救われたと聞けば、一気に興味が頂点に達する。
「それほどの偉業を成した方なのですか?! 高専の卒業生でも、所属の呪術師でもないのですよね? なんとか会うことはできないのでしょうか……!」
「うーん。でも今、日本にいないっぽいんだよなぁ」

 来栖華という人は未知の部分が多い人らしい。いわゆるフリーランスの呪術師で、これまで高専に所属していた記録もない。聞けば時折高専に顔を出すことはあったようだが、残念ながら澪が相見えることはこれまでなかった。
 悠仁達は以前共に行動していた時期があったものの、それも短い期間だったので、彼女の経歴や詳しい情報はほとんど知らないと言っても過言ではないらしい。
 連絡先の交換はしてあるけれど、件の「傷心」の事情により彼女へと積極的に連絡を取ることを控えているので、所在を把握するのは難しいようだ。

「そうなのですか……。では、もしも日本に戻ってきたという連絡があったら、ぜひ教えてくださいね」
 しかし、快い返事を返そうとする悠仁を野薔薇が遮った。
「澪は華の傷を抉りそうだから、しばらくは会わない方がいいんじゃない?」
「えっ……。まさか私、気付かぬうちに華さんに無礼なことを……!?」
「ううん。アンタは何もしてないわよ。してないし自覚がないからこそ、ね……」
「何がどういうことですか……!?」

 その後、どれだけ問いただしても野薔薇は理由を教えてはくれなかった。道中どうにか食い下がってみたものの、少し経って悠仁が「そういうことか……」と唐突に納得の様子を見せた。それから二人に会うのを控えた方がいいと諭されて、澪は渋々諦めたのだった。