My last 改稿版
願い 19

1

 丁重に包まれた骨壺を携え外へ出ると、斜陽の濃厚な光が澪を出迎えた。随分長く直毘人と話し込んでいたのだと今更気付かされる。門扉に向かって歩いていけば、見知った後姿を見つけた。
「……先生?」

 五条との待ち合わせ場所は最寄りの駅のばずだった。禪院家を出たら連絡するようにと言われているので、彼がここにいるはずはない。けれども、不意にこちらへ振り向いて軽く手を上げたその相貌を認めた瞬間、澪は頬を緩ませて駆け寄った。

「上手くいったみたいだね。情報収集もばっちり?」
「はい! 直毘人さんに沢山お話を!……それより、一体いつから待っていて下さったのですか?」
「まだ十分も経ってないよ。……それにさっきまで話相手もいたしね」

 彼の面持ちは若干普段の軽い調子を鈍くしたように見えた。待たされたことに対してではなく、その話相手に対する反応のようだ。けれども彼に悩ましげな表情を作らせる人間なんて見当もつかない。
「話相手、ですか?」とおうむ返しに疑問を投げても、五条は曖昧な相槌を打つだけだった。この話題はもう流してくれという遠回しな意思表示に思える。引っ掛かりは残るものの、追いかける言葉を発するのは控えた。

「……さて。それじゃ約束の夕食をご馳走してあげよう」
「ラーメンですか?」
「可愛い教え子が重大なミッションを達成したんだよ。それで済ませるわけないでしょ」
 五条は口角を上げて、澪の頭にその大きな手を乗せた。柔らかに撫でる手付きは、豪華な夕食の確信よりも、安心感を与えてくれた。澪は眦を綻ばせる。

2

 駅を出て街中を少し歩くと、とある建物の前で五条が立ち止まる。
 長い歴史の風格を感じさせる立派な門を構え、奥に佇むのは、武家屋敷を思わせる屋舎だ。薄暗い青に染まる空間の中、淡い橙の提灯に照らされる外観は、より一層荘厳さを帯びている。
 ふと門を見上げると、木製の年季の入った看板に、右読みで「旅館」との文字が刻まれている。
 確か禪院家を出る時に、五条は「夕食を」と言っていた筈だ。看板の文字を見間違えたのだろうか。

「あの、先生。これは旅館……ですか?」
「うん。夕食は六時半からだから、ゆっくりお風呂に入れるよ」
「わあ……! んん? お風呂!?」
「そう。あ、まだ言ってなかったね。今日ここに泊まるんだよ」
「先生がですか?」
「僕達が」

 澪は思わず立ち止まり目を丸くした。
 宿を取っている話なんて初耳だし、当然宿泊用の準備なんてしていない。
「私もですか!?」
「当たり前でしょ」
「日帰りではないのですか……!?」
「時間気にして食事するの、嫌なんだよね」

 確かに、本格的な懐石料理が振る舞われるとなれば、一時間程度では済まない。
 上手く電車を乗り継がなければ、高専に帰る足は途中で途絶えてしまうだろう。そう考えれば、宿泊の選択は正しいとも言える。

「安心して。泊まりに必要な物は、全部安曇が用意してくれたからさ」
 そう言った彼は片手に持っていた鞄を持ち上げる。
「それ、私のだったんですね……」

 高専を出る際、彼がやや大きめの鞄を二つも持っていた事は記憶している。しかしそれが旅行用の荷物だとは思いもしなかったし、何より道中はそれどころではなくて、中身は何かと指摘する余裕など、澪には皆無だった。

「もう。安曇さんまで振り回して……。というか! そもそも何故こんなに格調高い場所に宿泊する必要が!?」
「お金の事気にしてる? いつも言うけどそういう心配はしなくていいから」
「そう言われましても……」

 彼女が家の助けを借りずに生活し始めて二年以上。自分がいかに生家で伸び伸びと暮らしてきたか、身をもって知った。
 勿論生活に困窮することはなかったが、それでも金銭の大切さや物の価値の感覚はかなり学んだつもりだ。
 ここが富裕層御用達の旅館であるのは瞭然。宿泊費は数十万という水準だろう。
 未だ保護対象の域から出ていない身分には分不相応な贅沢に違いない。

「だってさぁ。折角食事で贅沢するのに、泊まる場所が質素じゃアンバランスでしょ」
 彼にとっての質素は、一般人が想像するそれとは大きな差異がありそうだ。
 澪は巡る思案を止めて、半ば呆れ半分に目を細めて見上げる。しかしふいに妙案を思いついて、ぴんと人差し指を立ててみせた。

「…………あ、でしたら。私はビジネスホテル、先生は生家に、というのはどうでしょう!」
「それじゃ僕が付き添ってる意味なくない?」
「……た、たしかに……」
 すると五条は笑みを作っていた口角を落として、あからさまに嫌悪を示すように歪めた。
「それにあの家には絶対行きたくない。全然気が落ち着かないから」
「へえ……。五条先生でも倦厭する場所があるのですね!」

 五条家ではそんな世にも珍しい彼の姿が見られるのかと、たちまち興味が引き寄せられる。澪は楽しげに瞳を煌めかせた。

「“この方はいかがですか? 一度お会いしませんか?”ってさ。もう何度断ったか覚えてないくらい、超しつこい」
「それって……、お見合いですか?」

 うんざりした様子で五条は首肯した。しかしその表情は一瞬のうちに普段の薄笑いに変わると、背を屈めて澪の顔を覗き込む。

「澪、うちに嫁ぐ気ない? 形式上でもいいからさ」
 またいつもの揶揄いが始まった。どう言い返そうかと悩みかけた矢庭、先刻も似たような言葉を投げ掛けられたと思い出す。
「先生も、直毘人さんと同じ事を仰るのですね」
「…………。ちょっと待って。今更だけど、あの人と滅茶苦茶仲良くなってない?」

 直毘人と軽い食事を摂っていた折、無礼のないように配慮していた澪だったが、堅苦しいのはやめにしようと言われ、最終的には「直毘人さん」と呼ぶのを許されるまでに至った。
 終盤になると「末の息子は性格がかなり悪いが顔と才能は間違いないぞ」と冗談混じりに見合いを薦められたくらいだ。当然、丁重に断ったが。
 そんなやり取りを説明すると、五条は呆れとも期待ともつかない複雑そうな色を面持ちに浮かべた。

「……禪院家キラーとして着実に成長してるってことか」
「はい?」
「いや、なんでもない」
「とにかく。直毘人さんにも同じことを言いましたが、残念ながら私は家を守りたいので、例えかりそめでも嫁ぐ訳にはいかない。というのが、答えです」

 すると、彼はさもつまらないと言わんばかりに肩を竦めた。

「色んな意味で期待してた反応と違うんだよなぁ。…………あ」
 にわかに五条は一度閉口する。そして悪巧みが浮かんだと言わんばかりの笑みを見せた。澪を揶揄う為の秘策を考えついたに違いない。サングラス越しに挑発の視線を感じるからだ。
 そして、こういう時は往々にして揶揄い倒され打ち負かされる結果が透けて見える。

「……な、何ですか」
「真面目ぶってるけど、澪は甚爾サンに夢中だもんね」
「違いますっ。というか先程の話と何も関係ないじゃないですか」
「あるよ。つまり婿取り希望ってことでしょ。……甚爾サン、お婿さんにしちゃう?」

 よくそんな発想を生み出せるものだ。甚爾に慕情を抱く本人でさえ今まで考え付きもしなかったことだ。

(でも、お婿さん……ですか。……悪くはないかも……?)
「…………はっ……。ごご、ご冗談はやめて下さい!?」
 澪は耳まで紅潮させ、勢いよく顔を横に振る。湯気が放たれそうな相好で声を荒げると、五条は喉の奥で意地悪く笑った。
 歩き出す背を追い掛け、抗議しようと口を開いた時、上品な和装の女性が屋舎から出てきたので、慌てて口を噤む。強制終了及び敗北である。
 こんな間の読み方までも大分五条の方が一枚も二枚も上手なのだ。

3

 案内された客間は、外観に劣らず格調が高かった。
 室内を飾る小物や内装のみならず、とにかく広い。一泊する場所として過ごすにはどう考えても持て余す。
 まず入ってすぐに二人を出迎えた悠々とした本間の奥には、寝室にしては十分すぎる広さの部屋があった。
 他には老舗旅館らしくソファーの置かれた軒先があり、やはりこれも一般的な旅館のそれよりも立派だ。木材で統一された家具も、ありふれた物ではなく特注品らしい意匠だ。けれど決して華美ではなく、それでいて室内を上品に飾り立てるこだわりを感じる。
 軒先でのんびりと景色を楽しめるようにという配慮か、小規模ながら整えられた草花と岩石が飾る丹精な庭が、開いた障子戸の向こうに広がっていた。
 極め付けは、軒先に繋がる廊下の先には部屋専用の露天風呂があるのだという。もはや部屋というよりも家と形容出来る。

 澪が気を取られているうちに、この部屋に二人分の荷物が纏めて置かれ、その上丁重に二人分の茶と菓子が用意され始めた。
 部屋の入り口近くで立ったままの澪は、所在無く首を左右に振った。
 何度見ても奥にある寝室には、和ベッドが二台置かれているのだ。それが、もしや……という予感を波立たせている。
 しかし流石に同じ部屋に泊まる訳ではないだろう。ベッドは据え置きの家具なので、使用する人数が一人であろうと二つ置かれているのが常であるに違いない。
 あるいは、夕食を終えたら結局自分だけが別の宿泊地に移動させられる、という結末が待っているのでは。
 つまりこれはやや手の込んだ悪戯の一つなのだ。澪がそんな結論を模索している間に、一通りの説明と夕食の時間の打ち合わせが終わっていた。部屋は二人きりの空間になっていた。

「さっきから何突っ立ってんの。こっちおいで」
 彼はもう既に茶菓子を口にしながら寛いでいる。澪は一先ず横に正座すると、神妙な面持ちで言う。
「先生。私の泊まる場所は……」
「ここだけど」
 考えるまでもなくといった調子で即答された。大きく予想が外れ、困惑のまま澪は再び口を開く。
「で、では、何故先生もここにいらっしゃるのですか」
「僕の部屋もここだから」
「同室ということですか……!?」
「見ての通りね。何か困ることある?」
「ありますよ!」
 食い気味に半ば身を乗り出して訴えた。

「お風呂に入りながら歌えないではないですか……!」
 彼女にとって、他人と同室であることの懸念はそれだけである。強いて言えばもう一つ、彼女は寝起きが非常に悪く、その上寝呆け癖があることだ。

「あー。風呂で歌っちゃうタイプなんだ。でも安心しなよ。ここ、館内にも貸切風呂があるからさ。…………。そうじゃなくてさぁ……」
 五条は本日一番となりそうな重いため息を大袈裟についた。
「そんなのはどうでもいいんだよ。……まー、こうなるだろうとは予想はしてたけど」
 一方澪は五条が肩を落とす理由が全く分からず、小首を傾げる。

「澪。今夜僕と同じ部屋で過ごして、何も起こらないと思ってる?」
「何も、とは?」
「襲われたりとか」
 その言葉が具体的に何を示すのか、彼女の思考は追い付いていない。首を傾げたまま、辞書の項を捲るように脳内で該当する言葉の意味を探す。

「襲われたり、とは。………………はっ」
 ようやく理解した途端、今更ながらその顔が赤く染まった。
「き、急になんてことを仰るのですか!」
「男女が同室で一泊って言ったら、まずそこ心配するもんでしょ」
「えっと……。な、何故です?」
 気恥ずかしさで紅潮する澪の表情は、一瞬にして疑問で固まった。澪の内では、五条と同室であるという点と、性的な行為に及ぶという点が繋がらないからだ。

「うわやっぱダメだこれ」
「だって、その。そういう行為は子を授かる目的で行われるものですよね?」
 澪の思考は興味のないことに関しては実に短絡的だ。「そういう行為」に対して全くの無知ではないものの、辞書で引く程度の表面的かつ生物学的な理解しかない。
 ゆえに、二人の間には子をもうける必要性など皆無なので、行為に至るなどあり得ない、という思考に到達したのだった。
「別に子供が欲しくなくたってする理由はあるよ」
「そうなのですか……?」
 問いかけた表情は、まるで小学生が大学の講義を受けさせられているかのように呆然とするばかりだ。

「例えば。愛情行為の延長、欲情して快楽を求めてる場合とか」
 彼はおもむろにこちらへ向かって手を伸ばす。しかし対する澪は正視のまま微動もしない。
「避けないの?」
「だって……。先生は私に異性としての情など持っていないですし。欲なんてものも抱かないですよね?」
 澪は微笑を返した。すると五条の手のひらは彼女の頬を包むように触れてきた。
 更に身を寄せ顔を近づけてくる。流石に彼女は驚き後ずさろうとするが、それを五条は肩を掴んで押し倒す。
 無抵抗のまま、澪の背は床に付いてしまっていた。何が起きているのか、これがどういう状況なのかさえ分からず、愕然と目を瞬かせた。

「ちなみに。情が無かったとしても、性交を行うことはある」
 また理解不能な方程式を提示された。そんな心境に眉をひそめる。全くもって彼の言動の意図が読めず、身内では疑問が大半を占めていた。

「そういう場合は衝動的な行動の場合もあるし、何かを企てている場合もある」
「企て……?」
「たとえば籠絡、とかね。悪意を持って触れようとする人間は山程いるよ」
「ふむ。なるほど……」

 五条の体の下で澪は深々と頷きながら感心していた。
 世の中には情交に悪意を混ぜて己の利にせんとする輩もいるのか、と。やっと答えが示されて納得がいった。
 しかし理解はしても、そんな事象は身近には非ず。性的な行為に乗じて籠絡されるだなんて想像もつかないし、自分には起こり得ない。彼女にとって色事は他人事という認識だった。

 五条はさりげなく身を引き起こしたが、澪は寝転がったまま顎に手を当てる。
「でも、一体どんな人が体を重ねることで他人に操られてしまうのだろう」と妙な興味に熟考するばかりで、一向に起き上がろうともしなかった。すると五条は呆れと苛立ちが綯交ぜとなった声音を落とす。

「……で。分かりやすく説明しても結局無抵抗だしさ。危機感あるの?」
「あっ……も、申し訳ありません」

 威圧を感じ取った澪は慌てて体を起こし、姿勢を伸ばして座り直す。だがそれはあくまで師を怒らせまいとして取った挙動であり、当然ながら危機感など微塵も持ち合わせてはいない。
 二度目の大きなため息が室内に滲んだ。しかし彼はそれ以上の論いはせず「もう少し時間を掛けようかな」と呟くと、何事もなかったかのように茶を飲み始めた。

 ほんの一瞬とはいえ、彼を苛立たせてしまった。しかし肝心の理由が分からない。思考に惑う澪が不動としていると、五条は平然と「これ美味しいよ」と干菓子を勧めてきたのだった。

4

 澪に夕食の時刻を伝えた五条は、館内の貸切風呂に行ってくると言い出て行った。部屋付きの露天風呂を譲ってくれたのである。
 その厚意を受け取り、早速露天風呂に向かうと、檜と湯の柔らかな香りに出迎えられた。
 辺りは人の気配を感じさせない静けさで、空を見上げれば濃紺に浮かぶ満月が遥かだった。

 横を見遣れば、丹念に手入れされた内庭を眺められる。本間から見る景色とは異なる様相も相まって、一室から隔絶され、時の経過を忘却出来うる空間と言えよう。
 普段の情緒の彼女ならば、湯船に浸かりながら上機嫌で歌い、時間一杯まで長風呂を楽しんだだろう。
 しかし頭の中を占めていたのは、理解しきれない師の意図だ。彼は一体何を伝えたかったのか。心地のいい湯に包まれ、穏やかな水音を耳にしながら考えた。だがそんな真摯な姿勢に反して、思惟は堂々巡りするばかり。
(考えても仕方ない。……かと言って、素直に先生に聞いても、答えてくれないだろうし……)

 しだいに見上げた月に雲が差し掛かってきた。
(落ち込んじゃだめだ。折角のお夕飯を楽しめなくなっちゃう……)
 立ち上がり室内に戻ろうとしたその時、足をかけた湯船の縁に、小さな羽虫が止まっているのが見えた。
「ひゅ……!?」
 予期せぬ虫の出現に、澪は一目散に部屋の中へ戻ろうと踏み出すが、濡れた地面に足を取られて姿勢を崩す。せめて受け身をと思ったが、もう間に合わない。
(全裸で転んで怪我なんて……っ、目も当てられな…………い……?)
 思わず眼を固く閉じた。……しかし一向に転倒の衝撃が襲ってこない。
 恐る恐る目蓋の力を抜けば、身体と地面に拳ひとつ分の空間が生まれていた。
 ゆっくりと体勢を変えて、膝と手を地面に下ろせば、そっと感触が伝わってくる。身体を起こして立ち上がってみると、不可思議な空間はなくなっていた。

「無下限……」
 術式が発動するまで全く気が付かなかった。身をもって知覚した今なら、身体を纏っていた呪力が誰のものなのかがはっきりとわかる。しかし、澪にはこれがいつ自分に掛けられていて、何故こんなにも手厚く守護されているのか分からなかった。

(私にここまでする必要があるのかな……。もしかして、京都にいる間、誰かに狙われていた……?)
 京都に向かう前、澪は加茂家の妨害を憂慮していた。禪院家を巻き込んで動き出したからには、流石に降霊術式の存在を彼らも認めただろう、と。
(でも、こんなことをする程危険だったのなら、やっぱり早く高専に戻るべきじゃ……?)
(……それとも。わざわざ宿を取ってまで、私の貞操観念を教育し直したかった? そんなの、戻ってからでも出来るし、そんなことをする意味がわからない……、どうして今なんだろう?)

 考えれば考えるほど、五条の行動は合理性を欠いている。彼らしくない。
(……先生の考えていることが、こんなにわからないなんて)

 少しの落胆を抱えながら風呂から出て、髪を乾かし終える頃になると五条は戻ってきた。
 自分に施された術式の理由については聞けなかった。
 身体を守る術式も、貞操観念における助言も、自分を慮ってくれていることには違いない。それだけは確信があるのだが、どうにも違和感が拭えない。

 それでもなんとか導き出せたのは、彼はただ一人で敵に対処するつもりなのでは。という答えだった。あえてすぐには京都を離れず、潜んだ敵を誘い出そうとしているのだ。
「敵を欺くには……」と言われるように、澪が周囲を警戒してしまっては、敵も身を潜めてしまう。あの無意味な教育は、澪の気を逸らす為の方便だったのだ。
 ドライヤーを片付け早々、五条の傍に駆け寄る。時間を持て余していると言わんばかりに携帯をいじる彼の隣へと座った。

「五条先生」
 彼は画面から彼女の方へ顔を向ける。
「先生は、高専や私に影響が及ばないよう、お一人で敵の有無を調べようとしているのですね? ですから先程の話は本心を隠す為の……」
「はずれ」
 言うや否や、彼の口元は笑みを形取った。
「やっぱり澪は純粋なんだよね」
 純粋、と言われる所以が全く理解出来ない。困り果てて小首を傾げる。

「僕のこと、嘉月さんや他の高専職員と同じ、過保護で博愛的な優しい大人。って思ってるでしょ」
「だって、先生は本当にお優しいではないですか……」
「どうかな? じゃ。答え合わせしようか。……まず、僕らの敵は現状いない。ていうか、敵を炙り出したいのに同室ってのは警戒してんのバレバレでしょ」
「あ……」
「それから、澪をどうこうしようって輩に現状動きがないのは確認済み。仮にだけど……相手の素性をある程度理解してるなら、さっさと澪を高専に戻した上で単独で動くし、敵が不明瞭なら無防備に行動を起こさず、相手を刺激しないよう情報収集を隠密に行う。それが戦術のセオリーじゃない?」
 澪は意義なしと口を結ぶ。

「……結局僕が何を言いたいのかっていうと。澪の好意や信頼を利用しようと企む人間は必ずいるから、それだけはちゃんと覚えといてねってこと」
 優しく諭すような口調に、澪は理解せねば、期待に応えねば、と使命感じみた気概で背筋を伸ばして頷く。
「分かりました……!」
「いい子だね」

 五条は澪に向かって手を伸ばす。一瞬頬に触れられた際の遣り取りを思い出して、身を強張らせたものの、その手がやや高く掲げられたのを見て彼女は警戒を解いた。触れるのではなく、これは褒めてくれるのだと安心したからだ。
 そして予想通り、大きな手は澪の頭に添えられる。撫でられながら、澪は子供の如く喜色を浮かべた。
 しかし、彼の手の平は次第に髪を伝って下へと流れ、緩く頬に触れる。それに止まらず、滑るように指先は顎下へ向かい、包み込むように撫でた。
 普段とは異なる所作はなんだかくすぐったくて、澪はされるがままになりつつ目を細めた。

「ほんとに分かってる?」
 言われるやいなや、はたと気づく。そして慌てて彼女は自分に触れる手の平をやんわりと遠ざけた。
 しかし、信頼する師が近づく度に身構えなければならないと思うと、その胸懐には寂しさが滲む。けれど彼が望む反応をしなければ、物分かりが悪い生徒だと呆れられると思うと、余計に寂しい。

 まだまだ子供の域を出ない彼女の人生において、これまで色情を向けて来た男などは一人もいない。そう本人は記憶している。命の危機ならともかく貞操の危機を抱けと言われても、その感覚が理解出来なかった。
 たとえ何者かに貞操を奪われたとて、命を取られないのならさして気に留める必要は無いのに、という軽視から意識が抜け出ない。
「申し訳ありません……」と悄然としながら澪は瞼を伏せる。

……その時、無意識に荷物の側に置いた骨壷の包みに目がいった。
 途端、新たな憶測が脳裏に過る。視線をそのままにひらめきを口走っていた。

「先生。……先生は、彼が私の好意を利用するかも知れないと、お考えなのですね……」

 すぐさま答え合わせをしたくて五条を見つめ直すと、彼の閉じ合わさっていた口唇は緩く開き、小さな驚きが露わとなる。けれど答えはすぐに返ってこない。

「あ、の。違いましたか……?」
「いや、こんなにあっさり気付くと思わなくてさ」
「何故単刀直入にお話ししてくださらなかったんです?」
「いきなり結論言っても理解出来ないだろうし。甚爾サンはそんな方ではないです! って反発しそうだから」

 おそらく澪の物真似を交えたのだろうが全く似ていない。むしろ悪意のある物真似だ。……それはともかく、自分が甚爾にいいように利用されると思われていたとは心外だ。
 確かに、会ったこともない人間に惹かれているなんて異常だ。澪自身にもその自覚はある。けれども、情が生む身勝手な妄想や願望に振り回されて破滅するつもりなどは一切ない。不服を露わに、口を尖らせ抗議した。

「別に、彼に対して過度な期待はしていません。……それに相手が私の気持ちを利用するつもりだと、わかっているなら大丈夫なのでは?」
「それ君が言う? 散々暴走しかけて無茶してたくせに」
「それとこれとは別です。確かに恋という自覚はありますが、私が恋心を向けるのは本物の彼じゃないかも知れません。だから実際会ってみたらあっさり冷めるかも」
「もしもそうならなかったら?」
「この気持ちを、きっちり隠します!」
「……澪。自分の感情をちょっと軽く見てない?」
「いいえ、そんなことないです」

(……先生、今日はやけに食い下がる……。同じ話題を延々話すのは嫌いなはずなのに)
 五条に反論しながらも、段々澪は自分のことよりもやけに心配性な彼の方が心配になっていた。
(今日は、本当に先生らしくない。どうしちゃったんだろう……)
「私、ちゃんと自分の気持ちを隠し通します。恋なんてものに振り回されて挫折なんて愚かな結果には絶対しません。だから大丈夫ですよ」
 どうにかして彼を安心させたい。その場で居直した澪は、一心を込めた眼差しで師を正視する。
「そこまで言うなら……、約束だよ」
「はい!」

 五条がこんなに手の込んだ状況を作り出した上で澪に伝えたかったのは、甚爾に十分を気を付けろという事であった。随分遠回りをした割には、案外些細な忠告である。大概のことは「なんとかなる」で済ませてしまう彼にしては、やはり過保護が過ぎる。

 けれど、それでも拭えないのはもう一つの謎。澪にかけられた術式の理由だ。
 疑問と連れ立って不意に想起したのは、強くても守れないものがあると語った面持ち、それから冬の日の硝子との会話。

(もしかして……、星漿体の女の子を守れなかったこと。夏油さんの離反を止められなかったこと。今もまだ、先生は……)

 憶測をこの場で明らかにするつもりは無い。彼の心に踏み込む権利は微塵もないことを澪は理解している。ならばせめて、自分の事は心配しなくても大丈夫だから、と安堵を与えるにはどうしたらいいものだろう。そんな新たな思考の種が芽吹き出していた。

「あ。これ絶対約束破る顔だ」
「そ……そんなことしませんってば!」

5

 約束であった慰労の懐石料理の滋味を深く堪能しつつ、時折五条の無茶振りの会話や揶揄いを受け流し……と、平穏な時間が過ぎた夜半。
 灯を落とした寝室は、丸窓から差し込む月の光で微かに青く色づく。しばらく天井を見つめていた澪は、寝転がったまま隣のベッドを見遣る。五条はこちらに背を向けて横臥していた。
 改めてその背の大きさを認識した。痩身に見えて、体つきは自身と異なる男性のそれだ。けれど、ただそれだけだ。他には何の感情もない。
 恐らくまだ起きているであろう彼に向けて、呟くように声を向けた。

「ずっと考えていました。先生の考えていること」
 五条からの返事は返ってこない。澪は言葉を続けた。
「先生は、私に警戒しろという教えを施したかったのではなくて、どうしても今日は一緒に高専に戻りたくなかったのかなって、思うんです。……理屈じゃなくて、ただそうしたかっただけ……」

 その背は無視しているのでも寝た振りをしているのでもなく、確とその言葉を聞いていてくれている。そんな風に澪の目には映っていた。

「大丈夫ですよ、先生。私は絶対に生き抜きます。そう簡単にやられたりしません。だってこれから先生と一緒に、呪術界のため、新しい秩序を作っていくのですから」
 強い自信を持って告げ、小さく笑みを湛えながら澪が目を閉じた、その折柄。

「……。時々澪のことが怖くなるよ」
 その声音がどこか冷え込んだように寂しそうだ、と、感じた途端、澪は起き上がって隣の背中を見つめた。
 しかし彼はこちらを向きはせず、それ以上何も言う気配もない。
 澪の心にあったのは純粋な憂慮であった。彼がいかに人間離れした能力を持っているとしても、その性根は紛うことない人間だ。澪にとって尊敬の念しかない彼にだって、常人とは異なる弱さはあるような気がした。

 澪は弱さゆえに幾度となく人々に支えられてきた。度々一人で歩くことが苦しくて頽れる。立ち上がり歩き出すためには、自力でなんとかしなければならない。けれど、時には誰かが寄り添ってくれるだけで、思いもよらない大きな力が湧いてくることを知っている。

――だけど。先生は、たった一人でも立っていられる。どこまでも歩いていける。途中で頽れることも決してない。だから先生は最強なんだ。
――でも、それじゃ……先生はずっと一人だ。誰も傍に並ぶことのないまま、孤独に先へ先へと進むだけ。……それって寂しくはないのかな。

 そう思った時には身体が勝手に動いていた。

「先生」
 ベッドから降り、彼の背に向き合った。そっと後ろ姿に手を伸ばす。
 すると五条はおもむろに上体を起こし、澪を振りあおいだ。
 蒼の瞳は朧の光を集めて、淡く鮮やかな虹彩を保っている。その美しい眼差しは、どこかあえかで、また何かを求めているように感じられて、目を離せない。
 次の瞬間、澪は突然手首を掴まれた。振り払う間もなく、忽ち体は引き寄せられ、吸い込まれるように布団の中に収まってしまったのだった。

「ほらね。油断してるから捕まっちゃった」
「せせ、せんせい……!?」
「あんなに丁寧に教えたのにさ。やっぱり約束、破ったね?」
「だって、私が警戒すべき相手は先生ではなかったじゃないですか……!?」
「もう忘れたの? 悪意を持って触れようとする人間は山程いるって言ったでしょ」
「でしたら先生には何の目的があるというのです!」
「……知りたい?」

 抱き竦められると同時に足を絡められ、忽ち澪は息を飲み込んで狼狽した。
 浴衣の柔らかな綿生地を隔て、容赦なく頭の中に送られてくるのは、視覚で判断する以上に五条の体付きは筋肉質で逞しいという触覚情報だ。
 更に足元からは皮膚を緩く滑る他人の肌の温度と質が、やけに生々しい感覚として脳髄を駆け巡る。
 本気で拒もうと思えば、大声を出すなり爪を立てるなり、通用するかはさておき如何様にも手段はある。
 けれど良心と五条への信頼が、拒絶の行動を取れないよう邪魔をしていた。
 異性へ向ける情には属さない好意ですら、これ程に澪を無力にする。
 胸の内にあるだけでも厄介な恋慕を利用されれば、簡単に手玉にされてしまうような気がする。
 ようやく五条の忠告の重大さを理解しだした途端、澪は底知れない恐怖を覚えた。

「……分かるまで付き合ってあげるから、じっくり反省しようか」
 耳元で低く囁かれて、鼓動は飛び跳ねる。澪の動揺に気付いてわざとそうしているのだ。彼の性格からして間違いない。

「ただいま急速に最大の反省を致しました! 以後、確と肝に銘じる所存です!」
 許しは返って来なかった。
「あの、先生? 五条先生!?」

 身を捩りもがいてみるが抵抗は一切通じず、それどころか体を捻るほどに返って密着していく。
 諦めて抵抗をやめた澪は、触覚が送り込んでくる鮮烈な男性の身体の感覚に耐えながら、解放されるのを待った。
 結局、朝が来るまで離してはもらえなかった。

6

 昨晩、澪は緊張のあまり夜通し眠りに就くことなんて出来なかった。
 朝食を終えてからチェックアウトまでに余白時間が生まれたが、うたた寝しそうになる度に五条がよく分からない言葉遊びをけしかけ邪魔をしてくる。

 よって、新幹線に乗り帰路に就いた現在に至るまで、彼女は一睡もしていない。
 隣に座る同行者も同じく一睡もしていない筈だが、旅行はこれから始まると言わんばかりに、活力に満ちた表情である。しかも土産に買った甘味を早速開け、機嫌良く頬張り始めた。
 普段通りの奔放っぷりを横目でうらめしそうに眺めていた澪だったが、常に耳に入ってくる走行音が睡魔を引き連れて思考を鈍らせていく。
 五条は新たに取り出した銘菓の包装紙を眺めながら笑う。

「最近反応薄くて面白くなかったから、昨日は可愛い澪を堪能出来て楽しかったよ」
「わたしはぜんぜんたのしくありませんでしたよ……」
「これ食べる?」
「たべませぬ……」

 彼女にはもう反論する気力も、まともに話す力も残っていない。
 ぐったりとしながら、今回の宿泊と夜の出来事は、手の込んだ暇潰し兼揶揄いだったのでは……と澪は考えていた。
 甚爾への危機感を自覚させるという目的も確かにあったのだろうが、悪戯好きのこの教師の本来の目的は果たしてどちらだったのだろう。
 真実を知ろうと手を伸ばせば、彼は容易く指の隙間をすり抜けていってしまう。本当につかみどころのない人だ。

 澪はうつらうつらとしながらも膝の上に置いた骨壷の包みを抱え直した。
 今回の遠出で手に入れたもの。これだけは手離すことのないようにと。
 思考の完全な停止と共に、澪は眠りの淵に落ちる。