My last 改稿版
春嵐に告ぐ -11-

『何とかは忘れた頃に来る』

「悟君、何してん」
 禪院家の門扉の傍、門柱に背を預けながら不動としている五条にふと声が掛かった。振り返ると、門の内側に立つ男が訝しげに視線を向けている。
 禪院直哉。その男は禪院家当主である直毘人の子息の一人で、彼が現在最も次代として有力な術師である。

「うちの生徒のお迎え」
「生徒?」
「見かけなかった? 制服着た女の子」
 生まれたのは沈黙だ。少しの間を経て、直哉が心底興味のなさそうな息をつく。
「…………。あー。おったな、そんなの」
 物言いだけで彼の澪に対する印象は明白だった。生徒が蔑視されていることに全く感情が動かないわけではないが、この程度で過度に反応していては、彼のような居丈高な人間とは到底渡り合ってはいけない。五条は顔色一つ変えなかった。
 だがかすかな心境の機敏を読み取ったのか、直哉は呆れたような声で続ける。

「にしても。こんな時間まで、ようあの飲んだくれに付き合えるわ。呪術より男のご機嫌取りの方が向いとるんちゃう?」
 彼の女性を軽視する発言は今に始まった事ではない。もしくは五条に喧嘩を売っている可能性はあるが、正直興味ない。ただ、澪への下品な侮辱に、怒りの情が身の底で揺らぐ。

「まさかとは思うけど、お嫁さんに欲しくなっちゃったとか言わないよね?」
「冗談。興味あらへん」
「良かった、安心したよ。まあ仮に興味津々だとしても、あの子は僕の大事な生徒だから、君みたいな不純な男には一切関わらせないけど」

 直哉は僅かに眉をしかめる。
「……流石に情が移り過ぎとる」
「何が?」
「若紫。あの子を嫁にしたいのは悟くんやないん?」
「なに? 源氏物語? ちょっと意味がわかんないなぁ」
「誑し込んで家出までさせて、高専入ったらベッタベタ。私用も任務も悟君がしょっちゅう付いて行くんやろ?……どんだけ自分好みの女に育てたいねん」

「あー……、若紫ってそういうこと。確かに事実だけど、嫁云々ってのは関係ない。未来ある呪術師に対して、ちょっと過保護が行き過ぎてるだけさ」
「未来ある呪術師? アレにはなんも才能なんてあらへん。そんなのに甚爾君の遺骨与えて遊ばせるとか、ほんま狂っとる」
「本人前にして狂ってるは言い過ぎじゃない?」
「何がそないにお気に入りなん。顔? 身体?」

 五条は乾いた笑いを上げた。
 直哉の見解はいわば御三家を含む呪術界上層部の見解だ。彼女の術式の有無を隠すため、あえてばら撒いた嘘や真実の入り混じる情報は、時間を掛けて随分と熟成されたらしい。卑しい老人達が嬉々として噂話をしている様が目に浮かぶ。実に不愉快だが、これはこれで五条の思惑通りである。
 とはいえ、ここまで澪も自分もこき下ろされては気分が悪い。

「君さ。人を見る目ないでしょ。……まあ、いずれ分かるから、あの子の成長を楽しみにしてなよ」
「せやな。仮に一級にでも推薦されたら品定めしたるわ。……それとも、挙式の方が先やろか?」

 嘲るように笑みを浮かべながら、直哉は五条の横を通り過ぎていった。
 もう何を言っても無駄らしい。五条の感情はもはや大して揺れてはいなかった。それよりも、彼は何がそんなに気に入らないのか、執拗に突っかかってくる事に違和感を覚えていた。
 直哉の背を見送る事なく、五条は門の内側に目を向ける。ふと、警告するかのようにとある人物の一言が脳内に浮かんできた。

―― 「今後は。虫のみならず“悪い虫“も付かないよう、どうかくれぐれもよろしくお願いしますね……」

 どうして今、彼女の父親の言葉が反復されたのか、不思議だった。

 だが、思えば自分は従来余程のことがない限り、反応的にならない性分である。
 そんな自分があからさまな挑発を受けて反論したということは、相当彼女に執心していると解釈されても不思議ではないだろう。
 殊に禪院直哉という男は、女絡みの悪い話が絶えない。妙な方向に関心を抱かせてしまったとしたら、確かに厄介だ。

「……。いやでもホントに興味なさそうだったし。そこは大丈夫か」
 そう呟いてみたものの、直哉の言葉や態度の全てが真意と断定するには難しい。
 興味がないと言いながら、彼は澪が何の目的で禪院家を訪れたのかを知っていたし、下品な噂話も覚えている。
 今日だって、多少なりとも興味があったからこそ、偶然を装い澪と遭遇したという可能性も捨てきれない。

 五条の脳裏で、再び嘉月の一言が再生される。
 そしてしばらくの間「どうかくれぐれもお願いしますね」という威圧的な声が、不穏にこだましていた。