My last 改稿版
願い 18

1

 五条に見送られ、一人禪院家の門扉をくぐった澪は、歩みを進めるも一旦立ち止まって周囲を軽く見回した。

(だ、誰もいない……)

 眼前に立ちはだかるのは大きな木造の屋敷のみ。玄関口にも周囲に広がる豪奢な庭にも全く人の姿が無い。
声をかけてみるが、無反応であった。
 確かに自分は客人ではないが、ここまで徹底して無視を決め込まれるのも不気味である。
 けれど澪は対して困ってもいなければ、焦ってもいない。
 予め新幹線の中で五条から「直毘人さんが居る部屋は、こう行って、こう行って、こう」と宙に描いた地図を以って、適当な説明を聞かされていたからだ。
 その時は聞き流そうかとも考えたが、念の為にとしっかり覚えておいて良かった。実際家屋を前にしてみると、おおよその間取りや位置が予想出来る。
 隣にいなくても、心強い教師がそばにいてくれているように感じた。思わず笑みを浮かべそうになったが、慌てて表情を引き締める。

 周囲は完全な無人ではなかったからだ。
 敷地に入ってから、絶えず数名の気配や視線が粘りついてくる。妙な動きをしないよう抑制する目的ではなく、状況にどう対処するかを品定めされている所感だ。実に居心地が悪い。
(あの家も、こんな感じだったな……)
 つい自身の過去を想起してしまえば、その途端に束の間の安堵は消え失せ、心細さに襲われた。
 だがここで引き返しては正に負け犬だ。萎える心緒を諫め、兜の緒を結び直す気概で屋敷内に入った。

 視線を身に受けながら屋敷の中を進む最中。ふと長い廊下の曲がり角から、ひとりの男がこちらの方へ歩いて来ているのが目に入った。
(……なんて、運が悪い)

 屋敷に立ち入ってから今に至るまで、この家の人間には一切会わずに来た。
 そろそろ監視にも慣れてきたし、いよいよ何事もなく直毘人の部屋へ辿り着けるかも知れない。淡い期待を挫く、緊迫の鉢合わせである。

 差別意識の高い人間との会話は精神を削る。禪院の人間全てがそうではないと理解はしているが、それでも少数だろう。
 監視対象の部外者と見做されている澪を差別的な人間がどう扱うかは想像に容易い。
 これ以上心労は重ねたくはないのが本音だ。しかし、文句を内心で唱えたとて、回避する術はなし。今更進路を変えるのは「貴方と鉢合わせたくないので逃げました」と言っているようなものだろう。

 まだ距離があるので相手の相貌ははっきりと見えないが、遠くても目立つ金の髪色の男だった。格好は書生を思わせる意匠のように見えるが、勤勉そうな人物とは捉え難い。
 ゆくりなく、真希の助言を思い出した。

――『もしもあの家で金髪の男を見かけたら、すぐその場を離れろ。絶対そいつの視界に入るな。……もしもそれが出来ない場合は、壁とか置物とか、無機物になったつもりで相手の興味が削がれるようにしろ。最悪の場合は、……何言われても反応すんな』

 そう語った真希は嫌悪に満ちた表情をしていた。理由を聞かずとも察した。その人物はかなり排他意識が強い気性なのだと。
 似たような人種への対処には慣れている。澪の取るべき行動は一つだった。
 早々廊下の左端に捌けて頭を下げる。そのまま一切相手の顔を見ることはせず、通過するまで待つ。これが時代遅れの御家における最良の対処だ。

 近付く気配からして、男は間違いなく呪術師。それも気配だけでもかなりの使い手だと窺える程の実力者。
 大人しくそのままの姿勢を保っていると、その人物は完全な無関心を貫いたまま、通り過ぎて行った。

 安心と少しの驚きがあった。
 男は、まるで澪の存在に気付きもしなかったと言わんばかりの歩みだったのだ。
 こういう形で道を譲るのには慣れている彼女なので、例えば相手がこちらを一瞥したり通りながら眺めたりすれば、足運びで大体分かる。

 何者なのかと問われたり、通りすがりに悪態をつかれずに済んだのは幸いだったが、存在しない物の如く無視されるのは初めてだ。
 ある意味最大の侮蔑と受け取れなくもないが、もう終わった事だ。何も起こらなかったのなら無問題である。
 澪は通り過ぎた男の背を見返ることなく、再び歩みを進めたのだった。

2

「甚爾がどんな男だったのか、知っているか」

 書院造の間にて、一段上の床に胡座をかく禪院家当主と澪は向き合っている。
 目指していた部屋へと辿り着き、入室を促され彼女が丁重に挨拶をすると、彼は「やはりな」と薄く笑いを湛えて呟いた。
 適当に座れと言い放たれ、澪は適度な距離を取って正座をした。それから投げ掛けられた一言がはじめのそれである。

 禪院直毘人は剽軽さを感じさせる特徴的な髭をした年配の男だが、鋭い目付きは老耄を感じさせない。和装のため一見すると分かりづらいが、体付きも相当逞しいと見受けられる。
 彼の背にある床の間には、豪奢な虎の座敷飾りが施されているが、猛々しい目付きの猛獣よりも、手前に座する男の方が余程恐ろしく思えてならない。
 そして、澪が部屋に入った時の泰然とした居住いからして、こちらの素性は予測済みだったらしい。これは一筋縄ではいかなそうだ。

 視覚だけではなく、空間をも支配する威厳は澪を圧迫していた。
 唐突に投げ掛けられた曖昧な問いも、澪を緊張に追い込んでいた。
 如何様にも受け取れる質問に対し、いかに簡潔且つ、彼の意図を汲んで答えられるか。もう既に品定めは始まっているのだ。
 鼓動が喉元を振るわせて脈打っている。緊張が露呈しないよう、強張る体の力を抜いて答えた。

「はい。暗殺を生業とし、呪詛師に位置付けられる所業を重ねていたと存じています」
「ならば甦った甚爾が同じ罪を重ねた場合、どう責任を取る?」

 その言葉で覚った。禪院家は近々甚爾の遺骨を処分するつもりだったのだと。……ならば何故今日までずっと保持していたのか?
 それは禪院家にある複数の相伝に、降霊術かそれに類似した能力が存在するからだろう。その術式を持って生まれた子が在れば、甚爾を利用するつもりだった……。十分あり得る話だ。
 しかし二〇一八年の渋谷にて、予期せず判明したのが降霊術式の常識を覆す危険性だ。甚爾の能力に利用価値があったとしても、制御が効かなければ無意味。
 そう判断を下したものの、禪院家はこれまで以上に慎重に動かねばならない理由があったのだ。

(裏サイトで彼の情報を募った時、想像以上に偽情報が群がって来た。それは、あの界隈では彼を利用しようとする人間が多い所為だったんだ……)

 呪詛師の中には未だに甚爾の遺骨を利用せんと企む輩がいる。それも一人や二人ではない。
 二度も遺骨を呪詛師に利用され、被害でも出そうものなら、御三家といえど立場が危ういのだろう。だとしたら、今の禪院家にとって、最も安全なのは厳重に保管しておくことしかない。
 そんな中、現れたのが澪だったというわけだ。

 ようやく直毘人の本心が透けて見えてきた。彼にとって、これは譲渡ではなく、体の良いいい処分なのだ。
 何故なら、直毘人から課せられている条件の内には、ひとつも降霊術が成功した際の利の共有が無い。
 極めつけは、最悪の事態に陥った際の責任をいの一番に問われる始末。明らかに自分は見下されているのだと確信した。

(…………だめだ。そういう目をしては)
 結論から言えば、もうこの時点で交渉は成立したも同然。その確信は大変喜ばしいが、彼女の胸中には悔しさが膿のように滲む。
 けれど今は直毘人が納得する回答を提示するのが最優先。

(蔑視に耐え、堂々と振る舞うのは、得意でしょう?)
 澪は瞬きの間に邪念を振り払い、直毘人を正視する。彼女の口元には自信と決意を象徴するように微笑が浮かんでいた。

「ご安心ください。それはまず有り得ません。私の術式により甦った人間は、許可無く他者に危害を加えられませんので」
 堂々と告げて間も無く、僅かに彼女は睫毛を伏せて正面から視線を外す。

「……ですがもしも。不測の事態に陥った場合は」
 言葉を止め、一度だけ呼吸をしながら事前に伝えられていた五条の助言を想起する。

――『もしも、の時は僕が何とかしてあげる。それから、嘉月さん達の了承も貰った。だから責任について詰問されたらはっきり言い返してやんなよ』

 心の内に彼の声を響かせつつ「はい、ありがとうございます。先生」と内心で返答した。澪は、父と母、そして一族の姿を脳内に描く。目蓋を持ち上げ直毘人の双眸を見つめた。

「甦者は五条家当主より速やかに処分。その後、白主家は一族全員自死を以って家を取り潰しましょう。手筈も覚悟も万遺漏なしとご認識下さい」
 その途端、直毘人は大きく息を吐き出して笑った。まるでとんだ大馬鹿者を見たかのような、明らかな嘲笑だ。

「失敗した折の償いが随分周到じゃないか。大した術式だな」
 ひとしきり笑った後、彼は片笑みを浮かべてこちらを見下ろす。
「よし、遺骨は譲ってやろう。これなら術式がいかなる失敗をしても安心だからな」

(強い覚悟を皮肉で嗤う。なんとも底意地のわるい人だ。…………ああ。わかった。この方は……、私を、私の術式を馬鹿にして、反応を楽しもうとしているんだ)
 直毘人の思惑を理解しても、澪は実に冷静だった。
「ありがとうございます」
 喜びの気色を満面に写し、深々と頭を下げる。しかし、顔を伏した瞬間に偽りの笑みは余韻さえも消す。

(……馬鹿にしたいのなら好きにすればいい。お望み通り、私はただ自信過剰な白痴を演じるだけ。だって遺骨さえ手に入れば、勝ちも同然なのだから)
 そっと首を上げ、澪はうっすらと丁寧に微笑んだ。

「ときに当主様。返金保証制度はご存知ですか」
 呪術とはなんら無関係、その上脈絡もない問いかけに、直毘人は「こいつはいきなり何を言い出すのか」と半ば呆れたように眉を上げた。
「……それがどうした」
「あれは心理傾向を利用したマーケティング手法です。製品の保証によってハードルを下げ、買わせれば勝ちという戦略ですね」
「この交渉もそれと同様だと?」
 澪は軽く手を叩いて敬意を示す。そして得意の完成された笑みを見せた。
「さすが当主様! ご理解がお早い。ですから、どうぞご安心ください。間違っても私達が償うような事態など起こり得ませんよ」
「随分な自信だな」
「はい。私の術式は完璧ですから」

 淀みなく言い切った澪を正視しながら、直毘人の気色がわずかに変わった。どこかその目の色は、これまで眼中に無かった人間を改めて対峙する者として据えたようである。

「仮にその言葉が真実だとしても、得心がいかん。何故甚爾を欲する? 五条の助力があるのなら、甚爾よりも余程優秀な傀儡を得られるだろうに」
 その問いは澪を試すものではなく、純粋な疑問のようであった。彼が高みから一段下に降りてきてくれたような気がして、澪は素直に口を開いた。

「彼は優秀ですよ。それに、誰よりも必要不可欠な人です。私に、……私の目的にとって」
「ほう。その目的とはなんだ」
「評価されるべき者が評価される秩序を作るため、懐古主義者が形成する呪術界を壊し、再構築します。……権力者に蔑まれてきた人間による下剋上ですよ」
 するとにわかに直毘人は苦笑いを浮かべた。その意味を理解していないかのように、澪は生き生きと言葉を続ける。
「どうです? これ以上の意趣返しはないでしょう?」
「……俺を前にしてよくそんな野心を真正直に言えたものだな」

 直毘人が保守派から遠のき始めている実情は知っている。何故なら、長らく保留となっていた真希の昇級を認めたのは、目の前の男だからだ。ゆえに保守派の中核たる加茂家と禪院家との乖離は必至。
 つまり澪の発言は「私は貴方の仲間ですよ」と伝えているも同義だ。しかし、馬鹿正直にそんなことを伝えるつもりはない。彼女が演じるのはあくまで無知の痴れ者だ。
「私のような子供の目論見など、当主様にはお見通しかと思いまして。嘘をついて当主様の信用を失いたくはありません。ですから正直に白状いたしました」

 己を落とし相手を立てる。嫌々身についた処世術がこんなところで使えるとは思わなかった。澪が少しも怖気付く事なく、眉尻を下げながら人懐っこい笑みを見せれば、直毘人は大きく目を見開く。

(これは……流石に、ちょっと無礼が過ぎたかな……)
 つい対抗心が燃え盛ってしまったのは否定しない。けれど激情を露わにせず、自分が格下であることは示したつもりだ。
 にわかに直毘人は、猛獣の如き眼差しでこちらを正視する。それから一拍、二拍と時が流れ、彼は自分の膝を叩くように手のひらを置いた。そしておもむろに立ち上り、ずかずかと歩み寄ってくる。状況が読めず、澪は座ったままぽかんと見上げることしかできなかった。

「行くぞ」
「え……? あ、はいっ」
 慌てて澪は立ち上がる。すれ違いざまの直毘人の表情はこころもち笑みを形どっていたように見えた。どこへ行くのか、一体彼は何を思ったのか。疑問に目を瞬かせながら、急足でその背を追いかけていく。

3

 直毘人はどうやら遺骨の譲渡を許してくれたらしい。
 一体どこへ連れて行かれるのかと緊張しながら彼の後についていくと、岩で囲われた通路に入っていった。壁に沿って並ぶ小さな明かりを頼りに、ゆっくりと地下へ降りていく最中、ようやく澪は事の進展を理解した。おそらく向かっているのは禪院家の忌庫だ。
 易々と部外者を入れても良いのかは疑問であるが、信頼しているのではなく澪を甘く見ているが故なのだろう。金庫に鼠一匹入ったところで何も出来やしない、と言ったところか。
 流石に今日の今日、はいどうぞと渡されるはずはないだろうが、ずっと欲しくて堪らなかったものと対面できるのは間違いない。彼女は期待と緊張で肩を強張らせた。

「澪ちゃん」
「んあ!? は、はい!」
(今、澪……ちゃんって呼ばれた……? き、気のせい……?)
「白主家の降霊術は血液を器にするらしいな。だが、それと遺骨で人間が甦るとはにわかに信じ難い。一体どんなカラクリがある?」
(……! もしかして、私の術式にご興味が……?)
 思わず澪は嬉しさを顔に出しそうになったが、淡々と返事をした。

「縛りの条件を重ねることで、肉体と魂を、血と情報で補完可能にした……ただそれだけです」
 聞きながら直毘人は興味深そうに特徴的な髭を指先で撫でる。澪の言葉が嘘だとは捉えていなさそうだ。
「その情報というのは足りているのか?」
「いえ、まだ全てでは……」
「そうか」

 瞬間。澪ははっとして首を振った。彼がこちらを見下す気配を一切見せなくなった所為だろう。つい本音をこぼしてしまった。あれだけ大口を叩いたくせに、準備不足とはいかがなものか。ここまで来て交渉の破綻は避けたい。

「ですがっ、まだ時間はありますし、計画も順調です! 決して不十分のまま交渉に持ち込んだわけでは……!」
「分かっている」
 楽しそうに笑いを返し、彼は歩みを進めた。随分間遠だったはずの相手の心が、いつの間にか隣に立ち並んでいる……そんな不思議な感覚だ。澪はペースを乱されないよう、小さく息を整えた。
 道を進んでいくと、必要最低限の明かりしか無い狭い空間が出迎え、忌庫への入り口が立ちはだかる。
 重々しい鉄製の扉には呪符が張り巡らされており、何処か牢獄めいた外観である。

 しかし入り口の物々しい雰囲気に反して、内部は随分と近代的な様相であった。コンクリートで造られた壁や天井は広く高い。
 照明も明るく、目が眩んだ。まるで扉を隔てて別世界に踏み込んだようだった。しかしまだここは通路に過ぎないらしい。空間は遠く続いていた。
 けれど直毘人が向かったのは出入り口の間近にある扉だ。鍵はついておらず、簡単に開いた。
 続いて中に入れば、目当ての物は示されるまでもなく直ぐに発見出来た。他の保管物とは異なり、その骨壷だけが木製の簡易的な戸棚にただひとつ置かれていたからだ。
 まるで、処分方法さえ見つかれば、すぐに運び出せるよう準備されていたかのようだった。

「包みは適当に用意させる」
 骨壷を片手で取った直毘人は、半ば押し付けるような所作で澪の方へと差し出した。
「今日……この場で、お渡しくださるのですか?」
 澪にとっては願ってもいない展開だ。しかしこんなにもあっさりと手渡されるとも予想していなかった。
「察しの通りだ」
 自嘲めいた直毘人の返答に、澪の心緒は泥に足を取られたように沈む。

 忌庫には本来、貴重な呪具や危険度の高い呪物が保管される。
 しかし禪院家にとって、甚爾の遺骨は貴重に位置付けられる存在でもなければ、渋谷での事件があったとて恐れる存在でもない。……そうであってはならないと言った方が正しいだろうか。
 つまり遺骨そのものの破棄だけではなく、遺骨を忌庫に納めている事実さえも、さっさと排除したい。それが彼の望みだということだ。

……この家にとって不要な存在であり、過去の所業が決して許されるものではなかったとしても。
 墓も建てられず、冷たく無機質な場所で寂幕と放置され、疎まれ、人知れず処分される。……それが当然の報いだとは思えなかった。
 澪は骨壷を両の手で確と受け取り、そっと抱きしめるように胸に寄せた。

「折角甚爾の生家に来たんだ。足りない情報をここで仕入れておきたいとは思わんか?」
 感傷に浸るのも束の間、予期せぬ提案に澪は肩を震わせた。
「いえっ、滅相も……」
 交わる眼差しは厳格さが失せて円やかだった。途端、素直に甘えても良いのかも知れないと直感する。

「……お許しくださるのなら……、どうか。ご協力ください」
 緊張を解いて答えると、直毘人は眦を細めて笑みを向けた。
「ああ。……ただし、酒を呑みながらでもいいか?」
「えっ? ええ、勿論です」

 呆気に取られたが、ふいに真希が与えてくれたもう一つの助言が頭に浮かぶ。

――『あのクソジジィ。間違いなく話の途中から、……それか最初から酒呑んでるかもな。仕事中だろうと関係なく呑むアル中だから。もしそうなったら酌でもしてやるといい。澪の酌なら、馬鹿みてぇに上機嫌になると思う』

 そう語った真希の大層呆れてうんざりした表情を脳裏に浮かべれば、体の強張りはしだいに解れていく。自然と澪は真希達へ向けるのと同じように、直毘人に笑いかけていた。

「では僭越ですがお酌を致します」
「おお、分かってるな。流石白主の娘だ」

4

 別室に通されると、これまでとは打って変わり屋敷の使用人がぞろぞろと現れ、丁重にもてなされた。
 当主の扱いの変化でこうも対応が変わるのか、と正直あまり気分は良くなかったが、それを気にするよりも、直毘人が甚爾について何を話してくれるのかという興味の方が勝っていた。そのお陰で普段らしい面持ちを崩すことなく目の前で進む支度を眺めていられた。
 あっという間に軽い会食の場が仕上がり、直毘人の語りを聞き始めたのだった。

 早々に酩酊し始めた直毘人の話は、時折主軸があらぬ方向に外れつつも、甚爾の過去が一つ一つ、確実に澪の記憶へと募っていく。
 彼が語ってくれたのは、当人同士の会話ややり取りが主だ。聞く限り、直毘人自身は甚爾に対して差別的な仕打ちをしていなかったようである。甚爾の強さへの羨望とも受け取れる愚痴が混じるのも、とても興味深い。
 少しずつ、自身の内に新たな甚爾の情報が増えていく感覚が嬉しい。胸の奥が温かく満たされるような心地に目を細めた。

 すると、ついこの瞬間まで機嫌よく話していた直毘人は、ふと黙り込み、感慨深そうに澪の顔をじっと見てきた。
「あ、……あの、いかがなさいましたか?」
「そうして微笑んでいると、伏黒恵の母親を思い出す」
「お会いしたことがあるのですか!?」
 澪は弾かれたように思わず立ち上がった。
「いや。甚爾を骨抜きにした女がどんなもんか気になってこっそり見に行っただけだ」
「え。それはまさか。さ、埼玉まで……? わざわざ?」
「当然だ。ただし、不用意に近づけば奴に気取られるから、遠巻きに双眼鏡越しでな」
「そうまでして見たかったのですね……」
 意外にも彼は子供のような一面があるらしい。なんだか似たような人を知っているような知らないような。澪はゆるゆるとその場に腰を下ろした。
「グレまくった挙句、散々術師を屠ってきた男を、非術師と変わらない普通の男にした女だ。気にならない方が不思議だろう」
「普通の男……?」
「そうだ。あの時の甚爾は、牙も爪も抜かれたように鋭さがなかった。ああも人間が変わるとは思わなかったな」

 直毘人は髭をいじりながら、深々と頷く。そんな直毘人の様子を見ていると、純粋にその女性への興味が湧いてくる。一体どんな素敵な女性だろう、と澪は胸を高鳴らせて問うた。
「その女性は……どんな方だったのですか?」
「普通だ」
 思いもよらない回答に首を傾げ、二、三度瞬きを返す。直毘人は続けた。

「確かに愛らしい女ではあったが、絶世の美女ではない。男を誑かす妖艶な女でもない。……――ただ、心底幸せそうに笑う女だ」

……その女性は間違いなく甚爾を愛し、彼と共に在る人生を幸せだと信じていたのだろう。直毘人の語気から、彼もまたそう感じとっていたことが伝わってくる。嬉しいのか、悲しいのか、どちらとも言えない複雑な感情が身内で渦巻く。

「何がそんなに楽しいのか。俺が眺めている間も、ずっと笑って話していたな」
「…………。あの、その方は今どこに……?」

「死んだそうだ」
 思わず息が止まった。
「息子……恵が産まれてすぐ甚爾から連絡があってな。間違いなく術式持ちだから売ってやると。そんな事を勝手に決めて、女房に反対されるだろうと訊いた時、アイツははっきりそう答えた」

 もしや、と予想はしていた。けれど直毘人の言葉で確信した。甚爾が落魄の道を歩んだ理由は、恵の母の死が起因しているのだと。

(もしも、恵先輩のお母様が命を失わずに済んだのなら。彼はどんな人生を生きたかったのだろう。どんな家庭を築きたかったのだろう……)
(……ああ、だめだめ。考えても無駄なこと……。分かってる。わかってる、けど……)

 そんな沈みかけた気概を浮上させたのは、からからと笑う直毘人の声だった。
「まあ、似ているのはその笑い方だけで、澪ちゃんの方が美人だがな」
 数刻前とはまるで別人のように直毘人は相合を崩し、酩酊の血色を濃く面持ちに映している。その表情に、励ましのような優しさを感じ、澪は考えるのをやめて満面の笑みを返した。

「……もう、直毘人さんったら! おだててくださっても、お酒を注ぐくらいしかしませんよ」
「おお。どんどんやってくれ。……そうだ。美人と言えば、アイツの母親はかなりの器量良しだったぞ」
「そうなのですか!? 本日はいらっしゃいますか!?」
「いや。若くして病でな。ちなみに父親ももういない」
「あ…………」
「父親はさておき。甚爾は随分と母親に可愛がられていたな。実の兄よりも。……ちなみにそいつはまだ健在だぞ。今日は不在にしているがな」
「お兄さん……? あの。甚爾さんのご家族のお話、詳しく聞かせて頂けませんか……!?」
「いいぞ。じゃ、もっと近くに来てくれないか」
「はい……!」

 いきさつや背景が語られていくたびに、澪の身内では甚爾と彼を取り巻く世界の姿が形成されていく。同時にたくさんの「もしも」の仮定と、罪悪感も募っていく。

(でも。今更罪悪感を感じたところで、もう私は立ち止まれない。私は家族を失ってから後悔したくない。だから、甚爾さんの気持ちはもう考えないようにしなくちゃ……)

 己の気持ちを押し殺し、気分良く話をしてくれる禪院家当主に感化されるようにして、澪も会話を弾ませていくのだった。