My last 改稿版
皮下の冷戦 01

1

 耳元で、ひとつの鼓動が彼を呼んだ。
 音の知覚を端緒として、まるで当然のように、あるいは普遍的な朝の目覚めのように、彼の肉体の感覚は各々の機能を働かせ始める。
 間も無くして閉じていた目蓋が緩慢に開かれた。

……最悪の目覚めだ。
 内容まではっきりとは覚えていないが、どうも過去の夢でも見ていたらしい。腹の奥が重苦しい。性懲りもなく終わったものに縋り付こうとする己の往生際の悪さと馬鹿さ加減には呆れ果てる。
 ふいに、一つの違和感が彼の気を引いた。

(何処だ、ここは)

 彼は上向きに寝そべっていて、あたりは薄い灯りで照らされている。暖色の光が斑な模様の天井に染み込んでいた。だが、霞を隔てたような安定しない視界では、得られる情報がまだ少ない。
 数秒が経つと、ようやく視力が回復してきた。模様のように見えていた面は、おびただしい数の札が張り巡らされているのだと分かった。
 札に記された文字は、限りなく黒に近くも深い赤の色味が混じっている。間違いなくそれは呪符であり、近くに呪術師がいると覚った。

「随分早いお目覚めですね」
 密やかな反響を携えた女の声だった。仰々しい視界に不釣り合いな程、澄んで落ち着いているが、声質からして歳は若そうだ。
 甚爾は声の主の方へ顔を向けようとしたが、意識の覚醒に反して体が全く動かない。小指の先さえも微動としなかった。
……そもそも彼にとっては、当然のように生きている状況が、何よりも理解出来ないのであった。

 彼は二〇〇六年に故人となっている。
 脳裏に描ける最も新しい記憶は、研ぎ澄ました呪具の先端で己の頭蓋を貫いたところで途絶えている。
 ただし、その一時でさえ異常な事態であり、思えばあの時も女の声が聞こえたのが始まりであった。

 かつて、呪詛師の老婆によって彼――伏黒甚爾は一度現世に甦った。
 たが、生を再開した肉体は術者の死亡を端緒に、術式が暴走し制御を失った。結果強者との戦いのみを求める本能の傀儡となってしまったのである。
 戦いの最中、一時的に意識を取り戻した彼は、自死によって肉体の暴走の幕を引き、再び死の淵に還った筈なのだ。

 どうせこの目覚めも呪術師が勝手に引き起こしたものだろう。唯一自由の利く眼球を真横に動かすと、仄暗い視界の端に女の姿を捉えることが出来た。

 その時、思いがけず彼は目を見張る。
 一瞬。ほんの一瞬だけ、こんな所にいるはずのない、会えるはずのない女がそこに立っていると錯覚したからだ。
 癖のある短めの黒髪、あたたかで柔らかい微笑、それでいて、凛とした芯を持つ女……。しかし、幻覚はすぐに消えた。
 改めて甚爾の目にはっきりと映ったのは、あどけなさを面持ちに湛えた一人の少女だ。
 呪符が埋め尽くす仰々しい壁を背に、白の装束を纏う立姿は、相貌に反して未熟さを微塵も感じさせない。
 薄明かりゆえか、白い肌と装束が黒髪の艶を際立たせていた。彼女は薄く笑いを浮かべて形の良い口唇を開く。

「初めまして。禪院……いえ、伏黒甚爾さん。白主澪と申します」
 深い水の色を思わせる彼女の瞳には、慢心も喜心も感じられない。まるで無表情に微笑を貼り付けているかのようであった。声調にも抑揚が無く、全く心緒が掴めない。

 澪は甚爾の反応を待たず、機械的だがゆったりとした語気で言葉を続けた。

「お察しかと存じますが、貴方は降霊術によって甦りました。勿論術師は私です。術式には貴方の体の一部と、私の血液を用いています。私の体質は特殊で、血に呪力が宿っているんですよ」

(術式の開示か。……何を企んでる?)
 そう思っても彼女に問うことは叶わなかった。眼球以外が動かせななかった。残穢は感じられないので、おそらく筋弛緩剤の類を打たれているのだろう。
 つまり相手は、甦った甚爾が術師を襲ことを予想している。用意は周到ということか、と彼はかすかに視線を鋭くする。対する澪は薄い笑みを浮かべたまま、彼の瞳を見つめている。

「私の術式は肉体と魂を生前のままに復元し、使役する事が出来ます。……唯一無二、完全無欠の降霊術式です」

 澪の面持ちに、僅かながら稚い色が垣間見えた。何処か誇らしげにも見える表情だ。一瞬の綻びを結び直すように口を閉ざした彼女は、一呼吸置いて再び口を開く。

「……肉体の復元には、禪院家より入手した遺骨を使用しました。それだけでは肉体情報不足なので、貴方のプロフィールや経歴などの個人情報で補填してあります」

 彼女は嫋やかな所作で手を合わせ、そして甚爾に向かって諸手を開いて見せた。

「よって。貴方は今ここに完璧な復活を果たしたのです。そして今後は私の代わりに戦っていただきます。勿論、対価として快適な生活を保証いたしますよ」

 微かに彼女の濃紺の瞳が光を帯びたように見えた。しかし、その灯りは一瞬で消え失せ、またしても貼り付けた笑みに戻った。全く情緒が読めない女だ。

「ちなみに、甦ったのは生前同様の肉体です。いわゆる死霊とは異なり不老不死ではありません。人の血肉を食らわないと生きていけない、なんてスプラッターな展開にもなりませんから、ご安心ください」

 淡々と語られる話に興味など一切湧かない。己の体がどうなっていようと、至極どうでもいい。
 さっさと終わらせたい。彼が抱く感情はそれ以外には何もなかった。

 どうにか足だけでも動かせないかと思考の内で足掻くも、体は未だ無反応を貫くばかりだ。
 術式開示は能力の底上げを目的に行われるが、澪の場合は、縛りと併用している可能性がある。
 この女の目的は、十中八九、甚爾の行動を制限する効力の適用だ。
 どんな制限を課せられるは不明だが、このまま話を聞き続けるのはマズい。それだけは分かる。
 僅かな焦りと苛立ちを瞳に内包する甚爾に対し、彼女はまるで挑発するかのように首を小さく傾けて笑みを返した。

「さて。そろそろちゃんと話を聞いてくださいね。術式に使用した血液量は九十七リットル。貴方の質量と同等です」

 彼女の声は不気味なまでに脳髄に落ち込んでくる。聞き入れる気は全く無い彼に無理やり情報を刻み込んでくるのだ。
 自身の体がこの女の血で作られている所以なのか思うと、不快感は倍加していく。

「つまり、私の血液百パーセントで形成された貴方は、私の命令に絶対服従です。とはいえ、自我や思想、感情の自由までは流石に奪えないので、ご心配なく」

 意思が有っても自由に行動出来ないのならば、魂まで下ろすことなど無意味だろう。むしろ悪趣味だ。
 しかし、そんな不満はたちまち彼の思考から消えていった。この女が呪術師だろうと呪詛師だろうと、俗世の人間のほとんどは、他人を貶めて満足する奴らばかりだ。異議を唱えるだけ無駄だ。

「最後に、術式開示の目的についてです。私は、甦らせた方への術式開示を必ず行う、という縛りを課しています。その結果……”甦者の三原則”が適用され、強制的に貴方の行動を律します」

 彼女は一歩近付くと、眼前へと細い指を掲げた。

「まず一つ。人間に身体的危害を加える事、且つそれに起因する行動は起こせません。二つ、自裁及び自傷行為は出来ません。そして三つ、指定された距離以上私から離れられません」

 真上で開かれた三本の指の間を通して彼女の瞳が甚爾を見下ろしている。奥に潜むのは利己の塊なのだろう。少なくとも彼の目にはそう映った。

 それなのに、澪の微笑みは、時折別の女の面影を彼に見せつけてくる。何よりもそれが不愉快だった。
 望んでもいないのに勝手に呼び起こした挙句、隷属させようなどという傲慢に誰が屈服するものか。今すぐ体が自由に動くのなら、降霊術師の老婆と同様、さっさとこの女を始末して幕引きをしてしまいたかった。

「命令は取り消し可能ですが、三原則は無効に出来ませんので、悪しからず。……ひとまず、三つ目の原則は半径二十メートル以内ということにしておきましょうか。この行動範囲が拡大されるかどうかは、貴方次第ですから、いっぱい頑張りましょうね」

 言い終えて小さく息を付いた澪は「はい、これで以上です。ご清聴ありがとうございました」と淡白に告げた。

「はじめにも言いましたが、貴方には今後、私の任を代行してもらいます。体が動くようになったら右側の棚の上にある服を着て待っていて下さい。着替え終わったら、早速呪霊を祓いに行きましょう」

 甚爾が静かな殺意を向け続けていることに気づいているのかいないのか、彼女は一歩引いて背を向けた。
 相手は小柄で明らかに非力だ。仮にこの女が体術を扱えたとしても、彼に膂力で敵う人間は皆無。
 体の自由さえ取り戻せれば確実に殺せる。彼自身、己の肉体への強い自負があった。三原則の拘束力は未知だが、力には力を。こっちは肉体の力で対抗し、拘束を引き千切ってしまえばいい。
 事実、彼の肉体には術式の常識を凌駕する天与の恩恵が宿っているので、不可能な話ではない。

 指先に意識を集中させると、俄かに反応が返って来る。
 動く、と認識してからは、屍の如く横たわっていたのが嘘のように、猛々しい筋肉の躍動が全身を駆けた。
 起き上がり、体を覆っていた布を振り払う。出入り口に向かう背を睨め付けた。相手はまだ背を向けたままだ。
 甚爾は一瞬で台を蹴り上げ、女の背後を取る。扉もろとも頭蓋を粉砕するつもりで拳へと体重を乗せた。

……だが、澪に彼の拳は届いていない。
 相手が攻撃を受け止めた訳でも避けた訳でもない。
 振りかざした腕が完全に停止していた。どれだけ力を込めても、脳から送られる命令を体が拒否している。
 攻撃を諦めて腕を下ろそうとすれば、実にあっさりと体の自由は返された。

「原則の一つは機能しているようで安心しました」
 澪は奇襲に全く驚いていなかった。だが、淡々とした口調ながらも、ゆったりと振りあおぐ面持ちには苦笑いが浮かんでいる。
「とはいえ、薬も効かなければ、私の命令も通じないって、どれだけ規格外の肉体なんで……す、か」

 微かに視線を落としたその瞬間、彼女は口を半開きにしたまま表情を強張らせた。そしてみるみる内に顔全体を紅潮させ、口元を戦慄かせる。

「ふおああぁぁーーっ!?」
 突然叫んだかと思えば、澪は両手で顔を覆い甚爾に背を向けた。
「ななな、なんでそんな格好でいるんですか! 布どうしたんです、布!」
 なぜ取り乱すのか全く意味がわからない。甚爾は目を丸くしながらも、己の体を見下ろした。
「あー。何も着てねぇのか」
「他人事みたいに言わないでくださいっ!」
「……この体を作った時に全部見てんだろ」
「見てませんよ! 直視できなかったから布被せてたんです! とにかくさっさと服着て下さい、失礼します!」

 明確な殺意には一切の畏怖を見せないくせに、この程度で耳まで赤くして動揺する気性が謎だ。
 つい先程までの悠長な言葉運びが嘘のように早口で吐き捨て、澪は慌ただしく扉を開ける。そして一切振り返ることなく荒々しく閉じ去った。

2

 命令に従うつもりはないが、このままでは流石に勝手が悪い。用意された服を広げてみると、着慣れない小綺麗な意匠の洋服に思わず顔をしかめた。

 見るからに高級ブランドですと主張するシワひとつないシャツに、ジャケットとパンツのセット、そして革靴に至るまでがご丁寧に用意されているのだ。
 スーツほど格式ばっていないものの、全体を黒でまとめた色調なので、明らかに堅気には見えない様相になるのは想像に容易い。
 これを着るのは、あの女に従う事を受け入れてしまう事のように思えてきて、尚更気が進まなかった。
 数十秒の葛藤の末、彼は仕方なく服に袖を通す。だがまたしても眉間の皺が深くなる。
 オーダーメイドさながらに、上から下までサイズがぴったりと合っている。どうにも狐につままれているようで気味が悪かった。
 せめてもの抗いとしてジャケットは放置し、袖を適当にたくし上げ、木作りの扉を開けて部屋を出た。

 左右に伸びる仄暗い廊下を見回すが、彼女の姿はなかった。
 それどころか見張りの人間や監視カメラ等も見当たらない。甚爾が出てきた部屋以外には呪術が用いられている気配も感じられなかった。
 窓も無く壁伝いに最小限の明かりだけが灯された長い廊下。その突き当たりは、前後どちらも視認出来ない。古びた寺院を彷彿とさせる静寂が、道先を暗く不明瞭に塞いでいる。

 にわかに彼の心緒に湧いたのは、このまま逃げ出せるのではないかという期待と、罠が潜んでいるのではという疑心だ。
 間違いなく近くに澪がいる。だが物音を一切立てることなく、また微動もしていない様子だった。それはこちらの動向を静かに伺っているように思えてならない。
 脳裏を過ぎったのは「澪から半径二十メートル以上離れられない」という三原則の一つ。術師の思惑が読めた気がした。あの女は自分の術式が正しく機能しているかを確認するつもりではないか、と。
 澪の口振りからして、三原則と命令が働いているかどうかは術師には知覚できない。そう推察すれば合点がいく。

 どこまでも気に食わない人間だ。
 お前はこちらの手の内に在るとでも言いたいのだろう。どうにかしてその高慢を叩き潰せないものかと対抗心が揺れるが、一呼吸して押し留めた。
 自身が失うものは何もない。ここは殉情に流されず、一度逃げ出してみるのもアリだ。
 何より、あの女にはこれ以上関わらない方が良い気がする。もしも逃げられれば御の字である。
 脱出さえしてしまえば、残りの原則が生きていても問題はない。より楽で確実な道を選択するべきだ、と己を嗜めて、暗がりへと歩みを進めた。

 しかし、数歩進んだ所で彼の足は止まってしまった。
 澪との距離が明確に理解できるという異様な感覚に戸惑ったからだ。ここからあと一歩足踏み出せば、定められた範囲を超えると、はっきり感じ取れる。
 その知覚は果たして警告なのか福音なのか、全く予想がつかない。
 だからといって怖気付いて引き返す彼ではない。躊躇いを払って足を持ち上げ前に向かって下ろす。
 見えない境界を踏み越えた。
 すると一瞬にして視界が赤黒く染まる。
 またしても体の自由が効かない。重く粘度の高い液体が全身に纏わりついているようだ。それから、空気の湿り気が異様に増して、頬や首を撫で回してくる。
 次いで血を想起させる刺激が舌に染み込み、においが鼻腔に充満していく。視力が明暗を認識出来なくなった。鼓膜に水音のような脈打ちが張り付いている。足が地についている感触が曖昧になって溶けていく。
 味わったことのない感覚は、彼の五感の全てを驚愕させていた。

(……離れられねぇってのは、こういう事か)
 自身の身に起きた変化の意味を理解し目蓋を落とした。
 そして次に目を開いた時には、異質の体感は消え失せていた。
 血のにおいも無くなり、代わりに畳と古い木材の匂いが広がる。白色の照明が眩しい。彼は一瞬で廊下から古びた和室に移動していたのだ。

 振り返ると、満足だと言わんばかりの面持ちで、長椅子に浅く腰掛ける少女の姿があった。
 白い装束から洋服に装いが変わっているが、それが澪だというのはすぐに分かった。
 どうやら距離の法則を破ると、澪の傍に強制移動させられるらしい。奇妙な感覚のおまけ付きで、だ。

「……わぁ。やっぱり黒、似合いますね!」
 突然立ち上がった彼女は、さも嬉しそうな声を出す。玩具を与えられた子供みたいに目を輝かせながら「うんうん、私の見立て通りです。流石私」と、二周、三周と甚爾の周りを回った。
 淡々と術式を説明していた姿とはまるで別人だ。二十くらいの年齢に見えていた容貌が、今は十五、六程度の子供にしか見えない。

「…………オマエ、二重人格か?」
「え? ああ、さっきのですか。ミステリアスな女性を演じようと思ったんですけど、いきなりボロが出たのでやめました。これが素です」
 そう言って甚爾を見上げながら屈託のない笑みを見せる。単なる馬鹿なのか、あるいはそう見せかける為に演じているのか、彼は訝しげに見下ろすのみだった。

 術師はともかく、術式自体は開示の効果も相まって相当の拘束力だ。
 しかし甚爾の肉体は完全に支配されていない。命令が通じないのは今はまだ小さな綻びだが、いずれ大きな穴となり得る欠陥に繋がるはず。長く時間を掛けて情報を集めれば、この女を出し抜く方法も見つかるかも知れない。
 だが、甚爾の身内では「澪を出し抜き形成逆転を狙う」という選択は破棄された。
 殺せない、逃げられない、そして恐らくは自裁も不可能。その状況が彼を諦めへと導いたのだ。

……身内で静かに生きていた自尊心も、それが生んだ野心も、在りし日に最強の術師に打ち破られて死んだ。
 唯一心に残っていた我が子の未来も、偶然の邂逅が教えてくれた。
 現世に留まったところで、この命はもう何の意味も持たない。
 それならば、取るべき行動はもう一つだけしか残されていない。

「どうしました? まだぼーっとします?」
 眉尻を下げて澪が顔を覗き込んでくる。視線だけ送れば「では、そろそろ行きましょうか」と彼女は口角を上げた。甚爾は口を閉ざしたまま部屋を後にした。