My last 改稿版
春嵐に告ぐ -10-

『抗し難き趣』

1

 広い奥行きの居室にて、禪院直毘人は泰然と待っていた。本日、甚爾の遺骨の譲渡を望む呪術師がここへ来る。
 相手の名はおろか、性別や年齢さえ聞かされぬまま進めた交渉だが、その素性の検討は既についている。
 その人物は、果たして禪院家当主を前にして如何なる物腰で語るのかと黙考していた。

……その最中ふと想念したのは、真希が唐突に本家にやって来て、直毘人の前に姿を現した日の事である。
 彼女は傍若な足音をわざとらしく立てながら、たたきつけるように襖を開けた。
 そうそう本家に寄り付かない彼女の姿を見るのは、数ヶ月振りだ。

「話がある」
「急に戻ってきたと思えば何の懇願だ? 次期当主の候補として検討するには力不足だぞ」
「その話じゃねぇし、そこまで自惚れてない」
「ならば真依の事か?」

 突き放すようでいて、彼女が妹を相当に慮っているのはわかる。
 一級となってからはそれがより顕著になった。双子故に一括りに扱おうとすれば、今まで以上に真依を話題から遠ざけようとするのだ。次期当主の話となると、これ以外には思い当たらない。
 権力争いには絶対に真依を巻き込むな、と明言すべく来たのだろうか。だとしたら相変わらず殊勝な姉妹愛である。

「違う。会って欲しい奴がいるんだよ」
「いよいよ嫁に出るか婿でも取る気か」
「気色悪い事言ってんなよジジィ。来週土曜、今日と同じ時間だ。空けとけ」
「俺も暇ではない。せめて相手の名と何の用件くらいは言え」
「五条悟。用件は本人に聞け」

 にわかに直毘人は目を見張った。
 あの男が人伝とはいえ予定を取り付けることに驚いた。しかも年々亀裂が深まりつつある敵地に赴くのだ。考えられるのは何らかの申し出が目的であろう。
 しかしどのような話を持ち出してくるのかは皆目見当がつかない。顎に手を当てて惟た。

――数百年を遡る御前試合を契機に、永く禪院家と五条家の溝は深い。関係を修復しようと働きかける者は歴代皆無。溝が深過ぎるが故に、余計な行動を起こせば新たな火種を生みかねなかったからだ。
 だが向こうから歩み寄りの機をこさえて来るのなら話は別だ。こちらに損害の危惧が無い要件ならば、面倒事だとしても五条に恩を売っておくのは悪い選択ではない。

……近年、御三家に限らず各名家や総監部における派閥の対立が目立つ。
 保守派がやや過激な傾向にぶれ始めているのだ。呪術界そのものが、開明的ではない人種が大半を占めているとはいえ、現在の保守派は暴走傾向にあると言っても過言ではない。それに反発するように五条への賛同をちらつかせる者まで現れ、泥沼の覇権争いの兆しが見られる。
 直毘人もまた、保守派から乖離しつつある人間の一人だ。その端緒となったのは真希の一級昇級を認可したことだ。この一件以来、加茂を筆頭とした過激派から白い目で見られるようになった。
 彼らとの冷戦が苛烈となる前に、掛けられる保険はいくつでも掛けておくべきだろう。それが当主としての責務でもあるのだ。

「……おい。言ったからな。忘れんなよ」
 直毘人が沈思に口を閉ざしたままでいると、真希は短く言い残して去っていった。
 その背を見遣りながら、直毘人は期待を込めた笑みを浮かべるのであった。

2

 そうして翌週になると、宣言通り五条悟が現れた。
 彼もまた、断りなく勝手に襖を開け、傍若を携えた立居振る舞いで居室に入り込んで来た。

「直毘人さんお久しぶり。あ、これお土産です」
 まるで友人に接するかのような軽い調子だ。彼は畳の上へとあぐらをかいて座り込むと、無造作に酒瓶を床に置く。近年やや自由主義に傾倒しつつある直毘人であるが、この男は相変わらず気に食わない。

「……で。わざわざ何用で来た?」
「伏黒甚爾の遺骨。まだ破棄してないか確認しておきたくて」
 その名が出てくるとは予期していなかった。思わず直毘人は眉間の皺を深くする。
「何を企んでいる?」
「いやいや、企むなんて滅相もない。話は単純ですよ。降霊術で彼を降ろすんで、遺骨をご譲渡頂きたいだけです」
「降霊術だと?……容易く渡せると思うか、俺をおちょくりたいだけなら帰ってくれ」
 相対する若者は、そう言われると思ったと言わんばかりに片笑みを浮かべた。

「大真面目ですよ。……現状、禪院家で降霊術を扱える術師はなし。しかも伏黒甚爾の肉体を自在に操るのは不可能。正直言って持て余してるでしょ? 呪詛師に怯えながら遺棄するより、もっとローリスクで処分出来る方法があるなら、選ばない選択肢はないと思いませんか」
「分かりきったような物言いだが、全て憶測の域を出ていないぞ」
「本当に憶測だけで物言ってると思います? 渋谷の件、加茂派の連中にネチネチ言われたそうじゃないですか」
「大した事ではない。対処済みだ」

 平然と返した直毘人であったが、不愉快ながら五条は核心をついている。
 二〇一八年、彼の地で起きた呪詛師及び呪霊による事変にて、甚爾の遺骨の一部が盗まれ、呪詛師に悪用された。

 禪院家には数多の相伝術式がある。その中には降霊術に類似した術式もある。いつか一族の者が利用出来るように、と破棄せずにいたのだが、まさか卑しい輩に盗まれるとは夢にも思っていなかった。
 内々で処理する予定であった盗難問題。直毘人の目論見に反して、事は想定よりも大きくなってしまった。
 なぜか総監部の……それも加茂家と癒着した上層の耳に入ってしまっていたのだ。
 幸い直毘人が方々に働きかけたことで責任問題には発展せずに済んだ。だが、もしも身内の呪術師や要人を殺めていようものなら、禪院家とて無罪放免では済まなかっただろう。

 以降、遺骨は禪院家の忌庫に移管した。とはいえ出来る事なら処分したいというのは、間違いなく本音である。
 利用価値のないものを後生大事に持っていたところで何の意味もない。むしろあれは厄介事しか生まない物。家の誰もがそう思っている。ある意味、特級呪物に近しい存在だ。

 だが、捨てるにも簡単に事が運ばない可能性が出て来た。
 直毘人が手をこまねいている要因は、身内に直毘人の失脚を強く望む人間がいることである。
 恐らく、遺骨の盗難と総監部への事実発覚は偶発ではなく、一連なのだ。
 そして実に頭が痛い事に未だ確証がない。首謀者の目星さえ全く付いていない。本家の者か分家の者か、思い当たる人物が多すぎて誰が何を企てているのかが絞れない。
 身近な存在であるにも関わらず……、否、身近な存在だからこそ、判然としないと言ってもいいだろう。
 そんな状況なので、下手に甚爾の遺骨を忌庫から動かす訳にもいかなくなってしまったのが現状だ。

……五条悟はどこまでこの内情を掴んでいるのかが不鮮明だ。
 鎌をかけてきている可能性は否めない。だとすれば降霊云々という話は、禪院家の弱みを握るため、揺さ振りをかけるための疑似餌ではないか。
 恩を売るはずが、こちらが五条に助力を乞う構図だけはあってはならない。
 直毘人はかすかに目を細め、怪訝の眼差しを向ける。双方の視線の攻防が無音に潜んでいた。
 けれども、ふいに大きなため息でその空気をかき消したのは、五条の方であった。

「……分かりました。今回のお願いは覇権争いとは無関係なんで、もう詮索はしませんよ。だから腹探り合ってバチバチすんのはやめにしましょう」

 大概のことは我意を押し通すことで有名な男だ。それが自ら折れてやろうという姿勢を見せた事に、直毘人は目を見張る。
 とはいえ、頼み込む立場のくせに「折れてやる」という姿勢もそれはそれで横柄だとは思うが。とかく相手は余程この交渉を白紙にしたくないのだと伺える。直毘人が片眉を持ち上げ催促を示せば、五条は言葉を続けた。

「代理人ではありますが、高専の一教諭として伏黒甚爾の遺骨の譲渡を求めます。事情があって理由や術師当人の素性はまだ明かせません。その代わり、そちらの条件は全てのみます」

 真摯な声音の主を正視しながら、直毘人の心緒には疑問と興味が生まれていた。
 五条も、それから真希も。一人の術師の為にやけに協力的だが、一体その理由は何か。甚爾を欲する人間は一体何者で、何故危険を孕む選択をあえて取ろうとするのか。
 次第に直毘人の関心は姿も名前も見えない呪術師に向かい始めていた。

 二人の背に隠れた降霊術師は、東京校の関係者であろう。しかも、高専の教諭を代理人に立てているとあらば、十中八九学生だ。だが高専所属の在学生に、降霊術式を生得した人間がいるなんて聞いたことがない。
(……――否。かつてはそんな話を聞いたことがあった)
 身内で不意に浮かんだのは、数年前に耳に入ってきた異聞であった。

 白主家の一人娘の話だ。かの家の娘は降霊術を持つが故に、加茂家の強圧を恐れて東京校へ逃げ込んだという噂である。それも手引きしたのは眼前の男、五条悟だという。
 しかし、この話は出どころも分からず根拠も不明瞭だ。
 そもそも娘は術など式を持っておらず、中学に至るまで非術師に溶け込んで自由奔放に過ごしていたと聞く。
 仮に娘が大罪の元凶たる術式を本当に持っていたのなら、何処へ逃げようとも即座に連れ戻され、監視下に置かれるのは必至であろう。
 だが娘が東京へ行っても加茂家は泰然と構え、全く動く気配がなかった。それどころか「五条悟が白主家の一人娘を囲っている」などという噂が蔓延し始めて、瞬く間に白主家の降霊術師の話は下世話な噂に書き正された。
 次第に直毘人の認識も、世間に合わせる形で落ち着いていったのだった。

 しかし今日。五条悟の来訪により、直毘人の身内に定着した結論は覆り始めた。
(もしも高専に降霊術師がいるとしたら、あの娘以外の可能性は有り得ん)

 現在の呪術界の上層は、総監部共々一蓮托生の均衡は崩れ、互いが互いをどう蹴落すかを虎視眈々と狙い合っている。
 白主の娘が東京校で匿われている今、特異な降霊術の存在が明らかになれば革新派に利用されるのは必須。それを見越して加茂家が沈黙を保っているのだとしたら? あまつさえ、ありもしない下世話な噂を流していたのがその加茂家だとしたら?
 あらゆるものが欺瞞に見える。だがその中でも、直毘人は五条の気性だけは認めていた。

(この自分至上主義の男が娘一人の為に我を失うとは思い難いな。だとしたら、この交渉……引き受ける価値はあるか?)
 
 自問自答の後、直毘人は一気に思考を切り替えた。
……先方の願いを聞き入れ、甚爾の遺骨を譲渡する、と。

 ただし、こちらに都合のいい条件を取り付けさせてもらう。冷静に鑑みれば、白主の娘に降霊術があっても無くても、こちらにとっては最良の処分法だ。
 けれど手放しに信用はできない。先程この男は覇権争いとは無縁と言ったが、仮に全てが真実なら、特異な術式を持った呪術師と、異質の天与呪縛を手中に引き入れ、何もしない訳がない。
 この男の腹案が明らかにならねば、首を縦に振るのは尚早だ。
 加茂や総監部より、直毘人にとっては五条家当主の方がよほど厄介なのである。どのような条件をつけようかと考えながら、もうしばらく会話を引き伸ばしつつ、ついでに引っ掛けてやろうと口を開いた。

「……それ程肩入れするということは、……その娘。相当優秀な呪術師なのか」
「当然です。近年芽を出しはじめた若手と同様、僕が作る新たな呪術界を担うと言っても過言ではありませんよ。これから育っていくのが楽しみな人材です」

 その瞬間、直毘人はこの男の表情を初めて見たような気がした。
 サングラスに遮られはっきりと窺えずとも、掲げた信念に突き進むべく、強く眼前を見据えた表情だった。軽薄を装っていても、若く血気盛んな気概が溢れている。
 他者の衰退を待ちながら現状維持、己が代の安定で十分。そんな思考になりがちな老体とは真逆の気性。
 直毘人の身内では相変わらず感興が渾々と湧き出でていたが、同時にこの若者の心を乱してやりたい心持ちにもなった。

「成程。その降霊術師は、オマエが執心しているという娘で間違いなさそうだな」
「…………さあ? 執心とか、なんのことですかねぇ」
 明らかに五条は明後日の方向を向きながら「やっちまったー」と言わんばかりの顔を露わにする。直毘人は笑いを含ませながら言葉を続けた。
「まあ相手など誰だっていい。それより、俺が知りたいのはオマエ個人の見解でも件の呪術師の人間性でもない。六眼による降霊術の確実性を問うているんだが?」
「……ああ、そうですか。気になるのはそっちですか」
 すると分かりやすく五条の態度は冷めていく。
「甦生の成功率は限りなく百ですよ。相手が相手なんでいくつか不具合は起こるでしょうけど、大した問題にはならない。術式と術師の体質は相性が良く、準備も抜かりなく進んでます」

 まるで手元の資料を面倒臭そうに読み上げているかのような調子だ。
 普通はたった今述べた情報こそ重視すべきだろう。それをこの男は能力の精度はおまけに過ぎず、最重要はそれを扱う術師の人間性だと言わんばかりである。

 理解し難いと呆れながらも、いよいよ彼の感興は「その大きな期待を背負った術師に会ってみたい」と、欲求を誘導した。
 白主家の娘は、優秀な呪術師に囲まれ己の力を見誤っている大馬鹿者か。あるいは、幼くもしたたかな野心家か。
 純粋な好奇心と、自信に満ちた娘の気概を削いでやりたいという意地の悪さが半分。いずれにせよ、彼は甚爾を求める相手と会うのが楽しみになっていた。

「……良いだろう、聞き入れた」
「ありがとうございます」
「ただし条件は三つだ。これを受け入れられないのなら、交渉は無かったことにする」
 かくして直毘人は譲渡条件を言い渡したのだった。