My last 改稿版
春嵐に告ぐ -9-

1

「……そうですか。安心しました」
 携帯から発されるのは、冷静ながら喜色を内包した男の声。五条はそれに同調するように穏やかな声音を返す。
「少しずつコツを掴んできていますし、段々任務の効率も上がってきていますよ。最近では怪我することもほとんどなくなりました」
「君の指導の賜物ですね。ありがとう」
「いえいえ。本人の努力の結果です」

 電話の相手は澪の父親である白主嘉月だ。
 この五条悟が『敬意を向ける相手』と認識している数少ない人間である。
 ゆえに普段の軽い調子とは打って変わって、そこそこ気を遣いながら言葉を交わしている。

 白主嘉月は、御三家……殊に加茂家との複雑な事情がある為、頻繁な遣り取りは控えねばならない相手ではあるが、時折こうして連絡をして澪の安否や現状を報告している。
 だが今回の電話はそれが主題ではない。

 澪の降霊術を成功させるため、白主家当主の言質を得ることこそ、この通話の本題だ。
 いつもよりも更に五条は言葉選びに慎重だった。
 とはいえ、幸いなことに嘉月は当主と名がつく人間の中では実に接しやすい男だ。気難しく偏屈な相手ではない。むしろ物腰は柔らかで、温和な人物だ。
 しかし、ある一点について間違った対応や解答をすると、この世の誰よりも厄介な人格に早変わりする。
 言わずもがな、ある一点とは彼の娘……澪についてである。

2

 五条が幼少だった時分、毎日がつまらなくて家から出ては特に行く当てもなく行き廻っていた。時折勝手に加茂家や禪院家の敷地に入ることもあり『甘やかされまくって手がつけられなくなった無礼な子供』というのが周囲の評価でもあった。
 そんな折、加茂家で偶然嘉月を見かけた。少しちょっかいをかけてみたら、思っていたよりも面白い人間だったので、それ以来一方的に懐いて何度も家に尋ねに行くようになっていた。
 どんな時に邪魔をしても、我が物顔で家に屯っていても、嘉月が怒ることや厭うことは一度もなかった。

 妻を娶った時も茶化しに行ったし、加茂家の仕事で大きな失敗をした時も心配で様子を見に行ったりもした。ここだけの話、白主家が取り潰しになるかも知れないと聞いた時は、単身で加茂家に乗り込んだ。……その折に、必要以上に他人の家の事情に首を突っ込んではならないことを学んだのは、また別の話である。

 それから時が経って、五条が十三の時――澪が生まれた。
 当然興味があったので見に行くつもりでいたが、それなりに御三家や格派閥の複雑な相関関係を見知っていたので、無闇に白主家と関わるのはこれで最後にするつもりであった。
 しかし、これが最後だと言っているにも関わらず、何故か嘉月は渋々といった面持ちで五条を家に上げ、しかも澪には会わせられないという。五条はとにかく食い下がって家に上がり込んだ。
 だが散々渋っていたくせに、澪をお披露目する時にはまるで絶世の宝でも見せびらかすように、嘉月は嬉々として自身の子の事を語る。ただ、決して無闇に触れてはならないと強く念を押されたのであった。

「なんで触っちゃダメなんだろ。別に変な菌とか持ってねぇのに」なんてその時は思っていたし、正直少し拗ねていた。自分もそれなりに嘉月には可愛がられていたが、父が娘に向ける愛情は天空を突き抜けている。こんなにも興奮気味に語る嘉月を初めてみた。
 高価そうなベビーベッドに横たわって寝息を立てる小さな姿に、正直羨ましさも感じていた。
 だから、自分に構って欲しいがあまり、若かりし彼は冗談でとある一言を発してしまったのである。

「で、嘉月さん。この子いつ俺の嫁にくれんの?」

 その刹那、周囲の気配が暗黒に反転したことは今でも覚えている。屋敷全体を覆う嘉月の呪力が歪みに歪み、地鳴りのような音を立てる。そして、まるで地獄から迫り上がってくるかのような声と気色で嘉月は近寄ってきた。

「悟君…………、世の中にはね、言っていい冗談と悪い冗談があるのですよ……」
「あっはっは。ごめんごめん、そんなにガチで怒んないでよ」
 五条がヘラヘラと笑って見せると、嘉月は一瞬で不穏な気配を払い、大きなため息をついた。
「全く……。君じゃなかったら、今ごろ京都が消し飛んでいましたよ」
(…………笑えねぇー)

 正直、現存する呪術師で自分に叶う奴なんていない。そんな風に周囲を下に見ていた彼であったが、この時ばかりは「もしも冗談じゃなかったのなら差し違えてでも」という気配に圧倒された。おそらく、相手がある程度心を許している人間で、しかも当時の五条のような子供だからこそ許されたのだろう。もしもそうでなかったのなら…………。

 このちょっとした事件により、初めて嘉月がどれほど子煩悩なのかを五条は知ったのである。
 地雷とも言える部分に触れないよう言葉を選ばねば、あの父親は度を越えすぎた偏愛者になってしまうのだ。

3

「本人が気兼ねなく努力できる環境を作ってくれているのは、他でもない君でしょう?」
 電話越しの会話はひとまず穏やかに進んでいる。もう少し広げて少しずつ本題を匂わせていこうか。自然で適切な流れを脳内で組み立てながらも五条は口を動かす。
「嘉月さんの結界程じゃありませんけどね」
 そう言った途端、不意に嘉月は相槌の語気を低く不穏に淀ませる。
 少しの沈黙を経て電話口から再び声が発せられた。

「悟君……。澪は虫に困ってはいませんか」
 暗喩だろうか。しかし今まで嘉月と話す中で「虫」という単語は一言も聞いた事はない。しかし剣呑な声音から、重要な言葉である可能性が高い。

「虫、ですか?」
「はい。京都にいる間は虫から守る為、常に澪を中心とした範囲に迎撃を伴う結界を張っていました。ですが特殊な結界ですから、足し引きの都合で東京まではその効果範囲が届きません。術師としての教育は君がいてくれるので安心ですが、……ただ、虫がね。……私はそれだけが心配です。どうにか札を使い、同じような結界を東京にいる澪に展開できないものか……いや、しかしあの縛りが競合してしまうから……」

(虫と結界……。ああ、あれのことか……)
 東京に来たばかりの頃、澪は初めて見るやたらと虫を怖がってた。その原因がこの狂愛者だと知った時は流石の彼もドン引きした。そういえば姉妹校交流会以降、澪の極端な虫嫌いを多少でも克服するのだと言って、野薔薇と悠仁と恵、時折真希が骨を折りつつ協力している姿を見掛けた。
 今年はついに野薔薇が夜中に叩き起こされることがなかったようだし、なんとか虫が苦手な女子の範囲内にギリギリ収まっているだろう。
 そんなことを考えている間も、嘉月は独り言を渾々と並べている。若干引きつつも五条は穏やかな声音で告げた。

「安心して下さい。それに関しても心配はいりませんよ。彼女なりにきちんと対処できるようになっていますから」
「……。そうですか?……いえ。君がそう言うのなら、大丈夫なのでしょうね」
 五条の声音に同調するように、嘉月の声も落ち着きを取り戻す。これ以上話が逸れる前に本題へと軌道修正するか、と五条が口を開こうとした矢庭。低い声が耳元に響く。

「悟君」
 今までにない剣幕が電話の向こうにある。それが声音だけで鮮烈に伝わってきて、五条は口を噤む。
「今後は。虫のみならず“悪い虫“も付かないよう、どうかくれぐれもよろしくお願いしますね……」
「……勿論です。任せて下さい」

 そう来たか。と内心で諦観した。流石にこの流れで本題には移れない。まだ日にちに余裕はあるので、もう少し置いてから切り出そう。溺愛はここまで拗れると実に厄介だと苦い笑いを浮かべた。
 しかも「私は君を信じていますからね」と、通話を切る直前に、なぜか自分まで釘を刺される一言を食らった。

 ただ、なんとなく嘉月の気持ちも分からなくもない。澪は今年で十八になる。そんな年頃の愛娘の貞操が心配で、世界中の男が敵に見えるのだろう。
 そんな心持ちの人間に「悪い虫が付くどころか、貴方の愛娘は自らその懐中に飛び込もうとしていますよ」とは口が裂けても言えない。

 伏黒甚爾の降霊が成功してからの課題は大きい。下手をしたら術式の成功よりもこちらの方が難度が高いとすら思える。
 澪が自分で操を守れるよう、その辺りの警戒心はどれほどか改めて確認しておいた方がいいだろう。

(貞操観念か。…………あの感じじゃ、無知ゆえに緩そうだなぁ)
 ただでさえ恋に盲目になりかけている彼女に伏黒甚爾へ警戒心を持たせるのは、いささか骨が折れるだろう。五条はそうそう吐く事のないため息を漏らした。