My last 改稿版
春嵐に告ぐ -8-

『白百合のかんばせ』

 高専三年の夏、澪は貯血のため病院へと訪れていた。
 手厚すぎる介抱への申し訳なさから、帰りは付き添いを断って院内を一人で歩く。今年の一月から、彼女は血液の総量の半分を超える貯血を行っている。もちろん病院からは止められた。それを半ば強引に脅すような形で行わせている。その罪悪感ゆえに、澪を気遣って院長がタクシー乗り場まで見送りすると言ってくれたのを断った。
 当然、気遣いを拒否するのは気が引けた。しかしここで自分は元気だとアピールし、しっかり断っておかないと、院長や看護師達の大事な時間を今後ずっと奪うことになる。
 子犬が哀願するような眼差の院長にはかなり後ろ髪を引かれたが、これが今の自分にとっての正解なのだと言い聞かせた。
 しかし、数分前までは安定していた足取りは、少しずつ弱々しくなり、ついに病棟の廊下で澪は壁に凭れかかった。

(せめてエレベーターは使うべきだった……)
 妙なところで周囲に過度な気を遣う、彼女の悪い性分だ。自分は治療のためにここに来ている人間ではない。必要なものは必要な人の為に。そう思ってエレベーターも使わず階下に向かっていたのだが、自分の体調を過大評価していたようだ。
 今の澪は呪力の枯渇状態に近い。さらに、抜いた分の血液を生成するために体力も使い果たしてしまった。上がらない体温に、真冬のような凍えまで感じ始めていた。

(こんなところで倒れては、余計に迷惑がかかる……。誰かに気付かれる前に外へ出ないと)
 ぐっと手に力を込めて壁を押し体勢を立て直そうとするが、支えがなくなった体は反対方向へ傾く。すると、そっと肩に手が添えられ、優しく受け止められた。

 思いがけずそちらに顔を向けると、病衣を纏った少女がそこにいた。
 長い髪は後ろにまとめられているが、長めの前髪が頬の横に垂らしてある。少し内巻きの特徴的な髪型が愛らしい。何より、そのあえかな微笑が美しくて見惚れてしまいそうだった。

「大丈夫だよ。すぐに看護師さんを呼ぶからね」
「あ、待って、ください……!」
 澪は慌てて彼女の服の裾を掴んだ。それから自力で確と立ち、笑顔を向ける。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが軽い立ちくらみですから……。いつものことなのでお気になさらず」
「でも、顔色が真っ青……」
「よく言われます。元々こんな顔色なのですよ」

 困ったように答えてみせると、それ以上は踏み込めないのを覚った彼女は、何かを言いたそうにしながらも澪から手を離した。実に心が痛む。自分は彼女を思い切り突き放したようなものだ。目の前の相貌は、院長の子犬の懇願よりも罪悪感を誘う。
(だけど、この人は病人だ。治療が必要な人に手間なんてかけられない)

 軽く声をかけて歩き出そうとすれば、今度は反対に澪が服の裾を掴まれる。
「あの! 本当に申し訳ないんだけど、治療の一環で、貴女に話し相手になってもらいたいの。少しだけ時間をもらえないかな?」

……忙しいから、といった曖昧な返事で断ることはできた。けれどこんな風に問われては、これ以上彼女の気遣いを無駄にする方が悪のように思えてきた。澪は観念したように「はい」と頷いた。

 近くのソファーに並んで腰掛ける。全身を預けられる物の存在がありがたかった。思わず深く息をつく。
「申し訳ありません……患者さんに気を遣わせて……」
「ううん、気にしないで。私、体はこの通りとっても元気だから!」

(絶対嘘……。入院しているのに元気なわけない……)
 この人は善人の中の善人だ。困っている人や苦しんでいる人がいたら、自分ごとは度外視して助けに行ってしまうタイプなのだ。澪は怪しむように目を細める。

「嘘じゃないよ。記憶障害みたいなものがあって、最近のことを覚えていられないだけ」
「そう、なのですか」
「だから、こうやって人と話するのがいいって聞いたから、貴女を巻き込んじゃった」
 そう言って微笑む顔は愛らしくもあって、花のように淑やかだった。

(何だか、一緒にいると優しい気持ちになる人だ。早く元気になって退院できますように……)
 それから彼女は澪の体調を気遣い、必要以上に話を振ってくることはなく、ただそこにいてくれた。その無言の時間さえも不思議と心が安らぐ心地で、似たような雰囲気を持っている人を澪は想起していた。

2

 次に花のように笑う彼女と会ったのは、冬の中庭だった。
 貯血が終り帰る途中、窓の外をふと見やれば、中庭を歩く彼女の姿を見つけた。
 少し気温が高い今日は、日中なら外にいても暖かさを感じられるだろう。けれど、日向ぼっこをしている風ではない。どこか違和感を感じる。気づいた時には彼女のところへ足が向いていた。

 ベンチに座る後ろ姿は萎れている花のようで、なんだか見ているとこちらまで切なくなってくる。
「こんにちは。先日はありがとうございました」
「あ……。こんにちは。今日はこの前よりもだいぶ顔色がいいみたいね」
 つい先日、澪は自分の無茶を五条に嗜められ、貯血の回数と量を正したばかりだった。安心したような彼女の笑顔を見ると、先生に素直に従ってよかった、と思える。しかし、澪の心には別の感情がずっと引っかかっていた。さりげなく彼女の隣に腰掛ける。
「はい、今日の調子は万全です。……でも、今度は貴女の元気がなさそうで、ついお節介をしに来てしまいました」
 すると、隣の彼女は気まずそうに澪から視線を外して俯く。逡巡しているように膝に置いた拳を握り、それからぽつぽつと話し出してくれた。

「私の症状。どんどん酷くなってるんだって。……看護師さんが話してるのを聞いちゃった。一昨日なんて、散歩した時に病室を思い出せなくて迷子になったみたい。でも、それも覚えてないの」
「……なにか、あったのですか」
「ううん。ないよ、…………なんにもないの」
 そういった表情はさらに悲壮の影を深くしたように感じた。

「このまま、大事なことも忘れていっちゃうのかな」
 先日の様子が嘘のような消沈だ。もしかしたら、彼女の病状の進行は外的な要因、それも病気とは無関係なことが絡んでいるような気がする。不躾だと思いながらも、澪はもう一歩踏み込んだ。

「大事なことって?」
「家族の……、弟のこと」
 泣き出しそうな声音を慰めるように、澪はそっと微笑んだ。
「弟さんって、どんな方なんですか?」
「しょっちゅう喧嘩ばかりして帰ってくるの。一つ下だから中学校も被ってたんだけど、入学してすぐ問題起こして有名になっちゃうくらい」
「なかなかのやんちゃさんですね……」
「やんちゃで済めば可愛いんだけどね……。あの子、いつも何かにイライラしていて、毎日のように人を傷つけて……。それでいつも私が叱るの」
「弟さんには、誰かを傷つけることではなく、もっと他のことに目を向けて欲しかったんですね」
 そう言うと、彼女は少しだけ表情を明るくして深く頷いた。

「問題児なんて言われてたけど、本当は優しい子なんだよ。小学校の頃いじめっ子から守ってくれたり、家事を文句も言わずに手伝ってくれたり。私が冬の星を見に行くって言った時も、一人で外に行くなって、付いてきてくれて……」
 幸せそうに笑う。つられて澪も嬉しくなってきた。
「はっきり覚えているじゃないですか。大切な人のこと」
「だけど……。弟は私のことを鬱陶しいと思ってるんじゃないかな」

 聞けば、四年前に彼女が倒れた際、最後に交わしたのは弟を叱る言葉だったそうだ。
 突然ぷつりと意識を失って、それから長い月日が経って今年の夏にようやく目が覚めた時、彼は病院に顔を出した。しかし「良かったな」の一言だけを置いて帰ってしまったという。
「それ以来、もう来てくれなくなっちゃった」

 その寂寞と憂慮が記憶力の回復を阻害しているのだ。澪はそう直感した。そして同時に恵の気まずそうな表情を何故か思い出した。
(そういえば、恵先輩……この前また野薔薇先輩にお姉さんのところに行けって言われていた)
(とはいえ。恵先輩は喧嘩ばかりの問題児とは程遠い……流石に別人か……)

 そう結論づけたものの、二つの姉弟は非常に似通っているように思えた。
 野薔薇に叱咤される恵は、子供が言い訳するように「分かってるけど、何を話したらいいかわかんねぇんだよ」と気まずそう顔をしかめていた。
 もしかすると、彼女の弟も喧嘩別れのような状態で、どんな声を掛ければいいのか迷っているのではないか。

「目が覚めた時、弟さんは来てくれたのでしょう?」
「……うん」
「本当にどうでもいい相手なら、わざわざ足を運んだりはしませんよ」
「そう、かな」
「それに、良かったって弟さんが言って下さったのなら、きっとその通りなんですよ。貴女にとっても、弟さんにとっても」
 顔を上げた彼女は、希望を手繰り寄せたそうにこちらを見た。その表情は「そう思ってもいいのかな」と迷いをあらわにしている。澪は彼女の拳に掌を重ねた。

「もっとよく思い出して見てください。“良かったな”って言ってくれた時の弟さんの声や表情を」
 意を決したように、頷いた不安のかんばせは正面を見据えそっと空を仰ぐ。すると、まるで陽光が瞳に宿ったかのように彼女は輝きを取り戻した。

「…………ありがとう。ちゃんと思い出せたよ。……あの時の顔、ちょっとだけ小さい時の表情に似てた」
「どんな表情ですか?」
「私の本を破っちゃった時にね、気まずそうに“ごめん”って謝ってくれた時とおんなじ顔」

 そう言った頬に、幸せの色が浮かんでいた。
 二人はお互いを大切に思い合っている。ゆえにどんな言葉をかけようか迷っていただけなのだろう。澪はほっと息をついた。同時に姉弟の絆の深さが伝わってくるようだった。
「お互い上手く気持ちが伝えられなくて、少しだけすれ違っていただけみたいですね」
「……うん! 早く退院して私から会いに行けるようにならないと!」

 彼女の笑顔は百合の花が咲いたように清楚で美しい。元気が戻って本当によかった。
(恵先輩のお姉さんも、早く退院できるようになればいいな)
 春はまだ遠いけれど、澪の身内では鼓動が暖かく脈打つ感覚があった。