My last 改稿版
願い 17

1

 公園や遊歩道の木々が秋色に染まり出してきた。
 澪は都内の大学病院の特別室にいる。白を基調とした清潔感ある部屋だが、様相は貴賓室さながらだ。
 彼女は大きなベッドの上で上体だけを起こし、これまた大きなモニターで映画や海外ドラマを鑑賞したり、本を読んだりして過ごしていた。
 左腕には一本の管が繋がっており、そこから濃い赤の線が伸びる。……彼女の血が、特殊な加工を施された輸血バッグに蓄積されていく。

 この貯血と言われる処置を澪はいつも決まった時期に必ず行っている。
 白主家で血に呪力を宿した者は三月に一度、一定量の血液保管をするという慣習があるからだ。結界術式の才は無い澪だが、生まれてから現在に至るまで、欠かさず貯血を行っている。
 東京に入学してからは、彼女の血は五条の息がかかった病院に移管され、処置もここで行うことになった。いわゆる「五条パワー」のおかげである。
 しかも特別室の用意のみならず、院長が直々に挨拶しに来るという特別対応付きだ。望むなら高級レストランのコース料理、書籍や映像メディア、ゲーム機器など、何でも用意してくれるのだという。物に限らず何名でも看護師を常駐させるとも提案された。
 澪は五条家当主の恐るべき権威に目を白黒させたが、必要以上の対応はどれも丁重に断った。
 そもそもこんな高待遇ではなくとも、普通の病室で構わないのだが、五条に「折角なんだから贅沢しなよ」とよく分からない説得に丸め込まれ、今に至る。

 しかし、思えば彼らの厚意を受け取ったことは正解だった。
 現在、澪は自身の血液の総量の半分以上を貯血している。けれど、一気に多量の血を抜けば生命維持が困難になる為、ゆっくりと時間をかけて、二日ないし三日は時間をかけなければならない。
 血液の減少は水分補給で補えるものの、呪力量の回復には時間がかかる。それゆえか、貯血中の澪の精神はかなり落ち込みやすい。
 だから様々な気晴らしが出来る環境がありがたかった。
 しかしここ最近は、どんな映画やドラマを見ても「元気の素」と名付けたお気に入りのゼリー飲料を飲んでも、澪の心緒は安定しない。

(どうしてだろう。何だかいつもより落ち着かない……。あともう一日は、一人きりで過ごさなきゃいけないのに……)

 高専卒業に際して彼を甦生すると決めた澪は、イレギュラーへの対処の為にいくつもの縛りを課した。
 結果、甦生対象の全質量分の血――百リットル近くが必要となった。
 しかし、一度に抜ける血の量には限りがある。十七年という歳月をかけて貯めた血は、必要量の三分の二にも満たない。彼女はとにかく焦っていた。

(これに耐えなきゃ彼には会えない……。足りない。もっと、もっと血を抜かなくちゃ)

 にわかに小さく体が震え、寒さと同時に心細さを感じた。だんだん体から熱や力が失せていく感覚に、澪の気は沈んでいく。

 すると突然、ノックもなしに勢いよく扉が開く。まるでここが自室であるかのように入ってきたのは、五条だ。苛立っているかのような気配を纏い、彼はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。

「澪、院長いじめんのはもうやめてあげてよ」
「……? いじめてません」
「総量の半分を超える貯血、やってくれないなら自分でやるとか言って脅したんだって?」
「脅しじゃなくて、お願いです」
「しかも。僕には言うな、なんて口止めまでしてさ」
「そんなこと言ったでしょうか……さっぱり記憶にないです」
 政治家さながらの苦しい言い訳をすれば、五条はため息をついてソファーに腰を下ろした。

「今年、これで何回目?」
「ふむ……何回でしょう?」
 とぼけてみせたが、本当は覚えている。病院には三週間に一度の頻度で訪れているので、一月から数えて十三回目だ。
 通常なら生命維持に関わる回数だが、彼女の特殊な体質がそれを可能としている。
 とはいえ、本来貯血のサイクルは三ヶ月に一度、血を抜く量は多くても四分の一。今年の彼女の貯血の頻度と採血量は、前年度の八倍以上。明らかに度が過ぎている。

「いくら君の身体が普通の人とは違うとしても、こんな無茶を続けてたら死ぬよ」
 その可能性は流石の澪も感じ取ってはいた。けれど、身体の悲鳴が聞こえていても、逸る気持ちが抑えられなかった。

「…………。足りないんです。まだ、彼の質量分の血が。それにもしもの時の保管分も……」
 口を尖らせ、言い訳をするように、あるいは拗ねるように、もごもごと言葉を紡げば、五条が二度目のため息をつく。
「裏サイトの時もそうだったけど、まさかここまで盲目だとはね」
「盲目……? 何に、ですか」
「恋に」

 あっけに取られ、澪は何度も目を瞬かせた。話の脈絡からして、自分が恋をしているのは降霊の対象、伏黒甚爾ということになる。確かに執着している自覚はある。けれど、それが恋によるものだとは考えもしなかった。

「私、恋をしているんですか? 会ったこともない方に?」
「いや、僕に聞かれても」
「ふむ……、ふむ」
 己の行動を振り返ってみると、確かにその感情に合致していそうな気がする。
「これが、恋。……異性に向ける好き、なのですね……」

(でも。いつの間に好きになってしまっていたんだろう……? どこに惹かれたんだろう? どうしてこんなにも気持ちが焦るんだろう……)
 瞼を伏せて沈思し始めると、五条の声が割り込んでくる。

「ソイツのことはもういいよ。僕が聞きたいのは、死にそうになる程無茶する必要がある? 卒業したらすぐに甦生するって言うけど、何で? ってこと」
「それは……、…………」
 答えが出てこなかった。自分の行動の理由くらい簡単に答えられて当然なのに、わからない。
 一年前の状況と少し似ている。彼女は己の才能の低さに焦り、冷静な判断が出来ずに無茶な行動を起こそうとした。けれど、あの時と明確に違うのは、澪自身が原因を理解出来たかどうかである。

(何故、命を削ってでも早く会いたいと願ってしまうんだろう)
 己に問いかけても、静まり返った湖畔のように、返答は返ってこなかった。
困り果てた澪は、助けを求めるように師の顔を見つめた。

「……そんな顔しないでよ。なんか僕がいじめてるみたい」
「申し訳ありません……。何にも……わからないんです。私自身のことなのに」
 焦って暴走していることは自覚できた。けれど、次に自分の暴走を抑制するには原因を追求しなければならない。つまり原因がわからなければ、また同じことを起こすということだ。
 正解に辿り着けず、胸が締め付けられる心地で、澪は俯いた。すると、不意に立ち上がった五条が、ベッドの脇に座り込む。

「あーあ。やだね、恋ってやつは。合理的な思考を悉く邪魔してくる」
 項垂れたままの頭が、にわかに重くなった。伝わってくる感触で、五条が手を置いたのだと分かった。
「……いいよ、もう。説明がつかないくらい惚れ込んじゃったってことでしょ。……今は澪の好きにさせてあげるよ」
「先生……」
 顔を上げようとすれば、ぐいと頭が引き寄せられる。
……温かい。そう感じた時、澪は自分が五条の胸元に顔を埋める格好になっていた。

「でも口出しはさせてもらうよ。……交換条件を設けようか」
「交換条件?」
「総量の半分以上の血液を採る時は、僕が付き添う。行きも帰りもね」
「え……!?」
 思わず澪は目を見開いた。貯血に付き添うということは、彼もこの病院に寝泊まりせねばならなくなるということだからだ。

「で、でも……それじゃあ先生の時間が……」
「そう。君は特級術師であり高専の教諭かつ五条家当主たる僕の超貴重な時間を奪っていくんだよ。でも仕方ないよね。僕の手が届く限り、君を守るって約束しちゃったんだからさ」
「んんんぐぐぐ……」

 たちまち澪は唇を噛み締めた。こんな言い方をされて、能天気に「それなら仕方がないですよね」なんて返せる訳がない。五条は、彼女の真面目さと、他者への負担を屈託する傾向を熟知しているのである。
 彼には敵わない。観念して息をついた。

「わかり……ました。もしもの時の備蓄分は諦めて、今後は採血量を減らします……」
「あ、ほんと? いやー、澪ちゃんは気遣いが出来るいい子で助かるなぁ」
 実にわざとらしい声音で五条はわしゃわしゃと澪の頭を撫でる。対する澪は薄く眉間に皺を寄せた。

「ところで先生……、いつまでこうしているのですか」
 彼女は片腕が塞がっており、加えて安静にしていなければならない。五条が開放してくれない限り、顔を彼の胸元に埋めたままの体勢なのである。

「こういうの嫌?」
「え? い、いえ……。嫌ではありませんが……」

(……うん、確かに嫌じゃない。なんだかとても落ち着く……。さっきまでの寂しい気分もなくなったし)
(そうか、私は人の温かさと鼓動を感じるのが、好きなんだ)

 目を閉じて彼の胸に頬を寄せれば、体温だけではなく心臓の律動も伝わってくる。

(先生の鼓動は、とても落ち着いていて、安心する。父様に似ている……)
(…………彼は、甚爾さんは。どんな速さで、どんな音で、強さで、鼓動を打つのかな)

「ねえ。僕に抱かれながら他の男のこと考えんのやめてくれない?」
 思わず澪はばっと顔を上げて五条を仰ぎ見た。
「変な言い方しないでもらえません!?」
「違うの? いまアイツのこと考えてたよね」
「うぐ……っ。ど、どうしてわかったのですか……」
「あー。やっぱ考えてたんだ」
「やっぱ、って……。先生っ、私を嵌めましたね!?」
「澪の呪力の質が変わったから、なんとなくそう思ってカマかけただけ」
「呪力の質……?」

(初めて聞いた。呪力に質なんてあったんだ……。言われてみれば、呪力の源は感情なんだから個性があっても不思議じゃない、かな……)

「悪い女だよねぇ。こんなことされんの初めてだよ」
「だから! 私たちはそんな……いかがわしい関係じゃないでしょう!?」
「何がどういかがわしいの。澪も僕に惚れてんならそれで良くない?」
 ゆくりなく告げられたその一言に、澪は眉根の皺を開き今度は眉尻を大いに下げた。彼の卓抜した自信には敬服するばかりだが、今回ばかりはその尊大っぷりに呆れてしまう。

「先生。いくら何でも世の中の女性が全員が先生に惚れると思ったら大間違いですよ。確かに九分九厘は先生に惹かれるのでしょうけれど」
「じゃあ澪は一厘側の癖に、なんで僕の写真を待ち受けにしてんの?」
「あ、これですか」

 特に焦る様子も隠す様子もなく、澪はベッドの脇に置いていた携帯を手に取って、画面を傾ける。
 そこに映し出されたのは五条悟。それも澪と二人で写っているものではなく、彼一人だけが写されたものである。
 すかさず澪が別の画面に切り替えると、またそこにも待ち受けのものとは異なる写真が表示されていた。丁寧なことに、画面の彼にアイコンが被らないようきちんと整理もされている。

「ほら、ロック画面だけではなく、待ち受けも先生です!」
「うわ」
「ちゃんと訳があるんです! 恋愛なんかじゃなく、これは私の目的や信念を決して忘れないようにする為という真剣な……」
「あー、その話長くなる? 聞かないとダメ?」
「なんでって聞いてきたの先生ですけど!……端的に言うと、理想とする姿を常に意識するために待ち受けにして、どんな時も目に映るようにしているのですよ」

 理由が無ければ末恐ろしい信者の所業ではあるが、澪の内では明確な理由がある。彼は恐れ多くもロールモデルなのだ。
 その強さも思想も思考も目的も、彼女にとって究極の理想である存在。その人を常に目にしておくことで、自分自身の目的も強く胸中に刻んでおきたいのである。

「へぇー。僕みたいになりたいの?」
「先生みたいに、と言ったら烏滸がましいですけれど、人を守り救う強さを持った人間になりたいのです」
「ああ、前に言ってたね。……ただ、僕は“人のために“なんて理想は掲げてないし、……何より、強くても救えないものもあるよ」

 五条はその性格と能力の高さ故、自分を否定するような発言は決してしない。
 その彼にしては珍しく……むしろ初めて聞く言葉に、澪は息を止めた。その発言から何を汲み取るべきかと彼を正視する。少しだけ、去年の冬に見た硝子の姿と重なったような気がした。

「……例えば。ここの院長の頭頂部から年々活力を失って力尽きていく毛根とかさ」
 思わず澪の肩の力が抜ける。あまり大袈裟に笑ってはならない話題でもあるので、堪えながら澪は小さく声を弾ませた。
「それは、確かに」

 肩を震わせている内に、ふと頭を軽く撫でられた。五条に目を向けると、その眼差しはサングラスに遮られていて見えないが、優しい笑みを形取っているように思われた。
「僕の真似なんてしなくても、澪なら何だって出来るから大丈夫だよ」

(『大丈夫』……か)

 それは、頽れそうになる度に彼女を立ち直らせてくれた言葉だ。
 澪はまだ、一人では立ち上がることも、逸れてしまった道の修正も上手く出来ないほど未熟だ。すぐに焦りで大切なものを見失いそうになる。
 自分の心の内で唱える以上の強い力を秘めた一言だった。
 この言葉を紡いでくれた人たちに、度々励まされてきたと改めて己を振り返った。

「大丈夫って、素敵な言葉ですよね。……そうだ! 先生の画像に追加しておこうかな」
「それは流石に気持ち悪いからやめて」

2

 二〇二二年、春一番が訪れる時期になった。
 澪の貯血は五条との約束通りの量で行われ、順調に目標値に近づいている。しかし、ここで一つ彼女は別の壁の前に立つこととなる。
 甚爾の甦生に於いて最も重要かつ困難な問題。それは身体の一部の入手である。唯一残っているのは遺骨で、在り処は禪院家。つまり禪院家二十六代目当主、禪院直毘人からの譲渡許諾がなければ計画は頓挫する。

 助力なくしては登れない壁だ。難関を仰ぎ、懸命に手を伸ばす心持ちの最中、澪へ二つの救いの手がかざされた。
 まず一つ目の救いは真希による協力だ。彼女は禪院家の内情を調べてくれたり、直毘人に約束を取り付けてくれたりと、本当ならば近づきたくもないであろう場所に、度々足を運んでくれた。
 次に澪を壁の上に押し上げる助力を与えたのは、五条悟だ。澪の代理人として先んじて直毘人と会い、遺骨譲渡の交渉を進めてくれた。

 けれど二人の協力の一方で、澪は未だに禪院家当主と言葉を交わすどころか、自身の素性の一切を明かしていない。
 当事者が名乗らず赴かず交渉を進めるというのは、随分不躾ではという疑問はあった。けれども五条が言うには、当事者同士の相対は重要な局面で利用する算段なのだという。
 相手の許諾が不鮮明な内は、あえて手の内を全て明かすべきではないとの判断だ。

 更にもう一つ。禪院家当主の性格上、彼が術師本人に会いたいと言い出せば、交渉成立はほぼ確定。……なのだそうだ。これには真希も「確かに、分かりやすい指標だな」と頷いていたので、間違いはないのだろう。
 相手の心理や気性を利用せんとする、良い意味での五条の性格の悪さには、舌を巻く他ない。澪は素直に成り行きを託した。

 そして今、筋書き通りに事が運び、澪は禪院家当主に会うため京都へと移動している。
 だが単身ではない。ありがたいことに、禪院家の門構までの道程には、付き添い人があった。
 京都へ向かう新幹線の中、隣に座るその人物は言う。

「上手くいったら懐石ご馳走してあげるから頑張って。ダメだったら天一ね」

 緊張でがちがちに固まっている学生に、そんな呑気な言葉を掛けられるのは、高専においてただ一人しかいない。言わずもがな五条悟である。
 実に軽薄で緊張感のかけらもない同行者だが、彼とて時間を持て余している訳ではない。わざわざ今日の為に時間を割いてくれているはずだ。それはつまり、澪が一人で京都へ足を踏み入れる状況の危険性を意味している。
 もしかすると、こちらの動向は加茂家に警戒されており、妨害を受けかねない状況なのではないか……。

「あ。天一嫌なら第一旭でもいいよ」

……もとい、考え過ぎだ。隣に座る教師はラーメンを食べに行きたかっただけなのかも知れない。

(先生の目的はどうであれ、私は自分がやるべき事を完遂するまで)
 澪は静々決意を内心で唱えるのだった。

3

 五条の交渉の結果、直毘人より示された譲渡条件は三つ。
 まず一つは、甦生後の甚爾を社会的に禪院家と無関係の人間と為すこと。具体的には、現世における存在証明である戸籍を新たに作れということだ。
 甦った男が禪院家とは無縁である証拠があれば、万が一の時への責任回避の材料となる。それが書面上に過ぎない偽りの記録だとしても、だ。

 二つ目の条件は、降霊後に甚爾が死亡し肉体或いは肉体の一部が残った場合、その処理責任を全面的に負うこと。
 これは一つ目の条件に付保する保険だろう。禪院家は甚爾が他者に利用されるのを大いに危惧しているようである。
 結論、これに関して問題はない。甚爾が落命した場合、屍は骨も残らず消失するからだ。
 澪の術式は血を媒体とし、その血は伏黒甚爾の肉体として形成される。しかし生命維持の条件は現世に生きる人間と同様で、大いに欠損すれば死ぬし、時を経れば体も老いて朽ちる。

 最後。三つ目の条件は、降霊術師本人――澪と禪院家当主との一対一での対話だ。
 一体何を話すのかは明示されず、これが三つの条件の中で最も重要かつ厄介だ。
 何を言われても柔軟且つ冷静に対処出来るかどうかが肝となる。直毘人もそれを見極めようとしているに違いない。対話の場でなんらかの条件をいきなり突き付けられる可能性もある。

(私より何枚も相手は上手のはず。もしも、不利益な条件や約束をたくさんする羽目になったらどうしよう……)
(それどころか、やっぱり遺骨は譲らないと言われることになったら……)

 澪の身内では不安と緊迫と畏怖が渦巻き、今にも暴れ出しそうだった。
 幼い頃より何度も加茂本家に出入りしていた彼女であるが、実の所、これまで憲紀や長盛を除いては女子供や分家の人間にしか会っていない。現当主やそれに近しい人物には、会うことはおろか遠巻きに見たことさえもない。
 そんな彼女が今日、御三家が一つ、禪院家の当主とたった一人で相対せねばならないのだ。

(当主を担う人が、みんな先生や父様みたいな人だったら良かったのに)

 御三家の当主でも五条は異質中の異質。禪院直毘人がこんなに接しやすい人であるはずがない。想像するのは高圧的で排他的、そして差別的な人物像。
 きっと、加茂長盛の性格を更に濃厚にしたような男なのだろう……。考えるだけでも足元の感覚が朧げになりそうだ。

 失敗は許されない。自分が恥をかくだけならいいが、真希と五条の顔に泥を塗ることだけはあってはならないのだ。
 肩口から胸元にかけての血液が堰き止められて、身体が収縮しながら冷え込むようだった。

 隣に気付かれないよう静かに深く呼吸をした。
 今更何事にも緊張しないという精神は作れない。それでも畏れを表に出さずにいられるのは、ひとえに己をつき動かす信念が叱咤してくれているからだ。

 隣の彼に気付かれないよう、そっと携帯の画面を見遣る。自信に満ちた笑みが映っている。それを眺めていると、不思議と勇気が身体の中心から満ちてきた。

(迷いや動揺を示せば相手の興が冷める。そうすれば交渉は破綻だ)
(でも、交渉が破綻しても命を取られるわけじゃない。起きてもいない未来を描いて、必要以上に怯えるのは無意味だ)
(私は……目的の為、皆を守り救う人間になる為、自身を信じて今この瞬間に臨む。それだけ)

 次の停車駅が京都だと知らせる案内が車内に流れた。アナウンスが鳴り終わり、そろそろ下車の準備をしようかと身動いだ時、声を掛けられるかのように、頭の上に手が乗った。
 五条の方を見遣れば、なんとも整った不敵な笑みを向けられる。それはついさっき見た携帯画面よりも、ずっと野心と気力に満ちている表情だ。澪は彼のこういう笑い方が大好きだ。

 サングラスの隙間から見えた瞳は、まるで武人を戦場に送り出すように「気にせず好きなように暴れてこい」と、澪の気概を奮い立たせる色である。
 その勇猛さを表情で真似してみれば、彼は満足そうに澪の髪を撫でた。