My last 改稿版
春嵐に告ぐ -7-

1

 十二月二十五日、世間がクリスマスの陽気に染まり、街も活気付いているであろう夕刻、澪は野薔薇に呼び出されていた。寮の男子階に来いと言われたので、そこまで降りていくと、恵の部屋の前で三人が集っている。

「来たわね。じゃあ鍋パするわよ! 伏黒の部屋で!」
「なんで俺の部屋なんだよ」
「消去法よ。まず、女子の部屋にはアンタ達を入れらんないでしょ。……で、虎杖の部屋は水着のポスター貼ってあるし、変なもんがありそうで嫌。伏黒の部屋は何もなくてつまんないけど綺麗そうだからってわけ」
「俺の部屋への偏見酷くない!? てか変なもんって何!?」
「純真な乙女が見たら戦慄しそうなもんに決まってんでしょ」
「ええ……、そんなの無いのに……」
 切なそうに肩を落とす悠仁を尻目に、野薔薇は意気揚々と告げる。

「ってことで、グループに買うものリスト送っといたから、男子は食糧調達よろしく」
「おい。今日食堂がやってないから自分で晩飯用意すんのが面倒なだけだろ」
「違うわよ。こんな日だからこそ、私達は友好関係を深めるべきだと思ったの。本当は行きたいけど、私は寒がりな澪のお守りをしなきゃなんないから。そういう訳でよろしく」
 目に見えて難色を示す恵と一切譲る気のない野薔薇の間で、おずおずと澪は口を開く。
「あの、野薔薇先輩! 私、寒くても大丈夫なので、買い出し行きたいです!」
「げ…………」
「じゃ、四人で行くか!」
「はい!」
 悠仁の言葉に澪は元気よく返事を返す。寒いのが苦手なのはその通りだが、初めての「鍋パ」なるもの、折角なら最初から最後まで四人全員で楽しみたい。その為なら寒さくらいどうってことないのだ。
 しかし、澪の気合いに反して、野薔薇は手のひらに額をあて、何かを後悔している様子だった。
 そんな彼女を心配するも、男子二人が「何も気にする事はない」と宥め、四人は高専を出発したのであった。

2

 食品の買い出しを終え、寮部屋のこぢんまりとしたキッチンに材料を並べる。
 それから悠仁がどこからともなく大きな炬燵とテレビを運び込んできた。どうやら鍋を囲んだあとは映画の鑑賞会に持ち込むつもりらしい。
 時々四人で映画を見に行くことはあったが、食事を囲み団欒しながら鑑賞するのは初めてだ。澪はよりいっそう胸を躍らせて頬を期待に染めていた。

「さてと。まずは野菜切って……」
 しかし、野薔薇が棚から包丁を取り出した瞬間、澪はさっと音もなく炬燵に避難した。
「私はここで先輩達を応援しています!」
「はあ!? あんたもちょっとは手伝いなさいよ」
「みなさんご存知のように、私は寒さが大の苦手でして……そちらは何だか床下が冷え込んでいるため……ごにょにょ」
「すぐそうやってわがまま言う……。じゃ、野菜切るのが嫌なら他のもの鍋にいれといて」
「んむむ……」

 手伝いたいのはやまやまだが、野薔薇の手元にある物から視線が離せない。そっちに行きたくないと体が拒絶し、かすかに震え出している。立ち上がれそうにない。鍋を移動させることは今の澪にとっては困難だ。
 すると恵が鍋といくつかの食材を持って、澪の方へと近づいてきた。

「俺と白主は、切らなくていい具材の準備と皿洗い担当で」
「えー?……まあ、ここで三人並んでても狭っ苦しいし、仕方ないか。私たちよりも支度が遅かったら怒るからね!」
「はい!」
 澪はビシッとこちらを指差す野薔薇に敬礼の仕草を返す。一方で、恵の行動の意図が気になっていた。

(意識しすぎかな。私が立ち上がれないのを分かってくれたのかと思った……)
「あの、恵先輩」
「モタモタしてると釘崎に叱られるぞ」
「は、はい! 一生懸命準備します!」
「……特に一生懸命になることはないけどな」

 その様子はいつも通りの彼だ。あれこれと話をしながら支度を進める野薔薇と悠仁に反して、恵は黙々と作業をこなそうとする。特に突き放すのでもなく拒絶するのでもなく、静かだが居心地のいい空気感だった。

3

 食事を終えて一段落し、野薔薇と澪が「ケーキが食べたい」と主張し始めると「切ってくる」と言って恵が立ち上がった。
「こっちに持ってきて切れば?」
「そこじゃ狭いだろ」
「えー、そうかな?」

 何か手伝える事はあるだろうか、と澪も腰を上げようとするが、やんわりと手で制止される。
(さっきから、恵先輩にものすごく気を遣わせてる気がする……)

「じゃあさ、伏黒がケーキ切ってくれてる間に次見る映画厳選しようぜ!」
 彼の内心を慮ると、なんだか悪いような気がして悄然としかけたが、悠仁の楽しそうな声にふと気が逸れる。
「ミミズなんとかは嫌」
「ええー! シリーズ集大成のファイナル見ねぇの!?」
「絶対見ない。アンタがゴリ押しするから渋々見た四作目、超駄作だったじゃん」
「いやいや、ファイナルは大丈夫だって! 四作目で愛をテーマにして確かにスベったけど、今作はミミズ人間の原点に戻って、狂気を超えた狂気を表現してるんだって!」
「んなもん見ながらケーキなんか食えるか!!」
 二人のやりとりを微笑ましく眺めていると、ふと野薔薇が澪の方をむく。
「虎杖はB級のわけわかんない映画ばっか推してくるから却下。澪、アンタが選んでいいわよ」
「本当ですか! ではSAVVはいかがでしょう? 案外二作目が面白くてですね……」
「おー! いいじゃん! 俺も二作目は定期的に見ちゃうんだよなぁ」
「…………はあ」
 目を輝かせる悠仁と、反対に盛大なため息をつく野薔薇。そうこうしている間に恵が切り分けたケーキを持ってきて、結局ケーキを食べ終わるまでどの映画を見るかの議論が続いたのだった。

4

 賑やかな時間が深夜のしじまに飲み込まれ出した時刻。適当に選んだ超低評価の映画を見ることとなった四人は、あれこれ文句を言いながらも、途中までは鑑賞を楽しんでいた。
 しかしエンドロールに到達する前に野薔薇と悠仁はうたた寝をし始め、中盤辺りで物語の理解から振り落とされた澪も、うとうとしかけていた。
 そんな折、恵がそっと食器をまとめ始めたところで自分の使命を思い出し、俯きかけていた顔を勢いよく上げる。
(お皿洗い……! 忘れてた!)

「気にすんな。ゆっくりしてていい」
「いいえ、これ以上恵先輩一人にやらせるわけにはいきません!」
 彼の手の上にある物を掬い上げ、澪は先にキッチンへと小走りに向かう。包丁に怯えて食器を落とさないよう、目を細めてシンクを見遣る。
(…………あれ? 包丁だけない)
 そこには鍋や食器類は水につけてあったが、彼女が怯えるものは影も形もない。水切り用のラックにも見当たらない。
(全然気配を感じない……。下の棚の中……にもなさそう)

「そっちに仕舞った」
 恵は視線だけでキッチンとは反対方向に置かれた食器棚を示す。何のことを言っているのかはすぐに理解できた。彼がわざわざ取り出しにくい場所に仕舞った理由も。

「包丁が苦手だってこと、分かっていたのですか」
「なんとなく、目が怯えてるように見えた」
「……何度も気を遣わせて、申し訳ありません……」
「それは気にしなくていい。それより、隠そうとしなくても、そういうことはアイツらにも言っておいた方が良いんじゃないか」
「ですが……」

 澪は自分の体質について、学生達には一切話していない。これまで特に大きな支障はなかったので、これからも言うつもりはなかった。
 刃物を見ると恐怖で全身が震えて硬直する体質なんて、信じてもらえるかどうか……。否、東京校の皆なら、疑いもせずに受け入れてくれるとわかっている。そして優しい誰もがことあるごとに気を遣ってしまうと危惧していた。今の恵のように。

(私の虫嫌いだってそう。みんなが何とかしてあげようって助けてくれた。……私はいつも助けてもらってばかり……京都でも、東京校でも)

 高専の人々は、澪の大切な人達と似ている。だからこそ、心労や心配をこれ以上かけたくなくて、言いづらかった。これは自分自身の問題であって、周囲に気遣うべきは自分のはずだ。

「誰だって苦手なもんはあるし、……そもそも仲間なんだから、気を遣うとかそういうのは考えなくていいだろ」
「仲間……。私も、そうなのですか?」
「……? 当たり前だろ」

 むしろ澪が疑問に思うこと自体が疑問だ。と言いたげな彼の表情が嬉しかった。しかしそれも束の間、一気に心は沈む。澪は恵に重大なことを告げていないからだ。
……彼の実父、伏黒甚爾の甦生の計画。少なくともそれを成功させるまでは恵には伝えないと決めた。……自分の目的の為に。
 それなのに、澪を仲間だとてらいもなく言ってくれる彼への後ろめたさで、足元がぐらぐらと揺れる感覚を覚えた。
 言葉を出せずに口を閉ざしていると、優しい声が再び聞こえてくる。

「……けど、仲間にはなんでも包み隠さず打ち明けるべきってのは前提じゃないとは思うし、強要はしねぇよ」
「え……?」
「大事にしたいからこそ、言えないこととかもあるしな」
「ですが……、黙っていたことで、いつかその人を深く傷つけることになるかも……」
「そんなのその時にならないとわかんねぇよ。だから言いたくなった時に言えばいいし、ずっと黙っていたいならそうすればいい。相手を貶めるつもりじゃないんなら、誰も責めたりはしないだろ」
「そう、ですか……」
「少なくとも俺達はそう考える」

(…………恵先輩はすごい。今の私が安心できる言葉を、言って欲しい言葉をくれる。…………ううん、そうじゃない。きっと、本当にそう思ってるだけなんだ。私を気遣ってる訳じゃなくて、誠実な信念を持った、慈悲深くて、温かくて、眩しい人)

「恵先輩、私は……」
 澪が口を開きかけたが、二人の間に割り込むようにして野薔薇が顔を出す。その表情は茶化す気満々の時の彼女のそれだ。
「へー。アンタもちょっとは大人になったのね。大事なこと言わずに一人で何とかしようとしてた、あの伏黒君がねぇー」
「…………。起きてたのかよ……」
 すると、後ろから悠仁もやってきて、目を輝かせて笑顔を見せる。
「伏黒からそんな言葉が聞けるなんて……。なんか俺、感動してきた!」
「うるせぇな。色々あったのはもう昔のことだろ」
「昔って言ったってまだ二年くらいしか経ってないじゃない!」
「……恵先輩も、言えずに黙っていたことがあったのですか?」

 澪が目を瞬かせていると、野薔薇が恵を肘で小突きながら告げた。
「コイツ、お姉さんが呪霊に殺されそうになった時、私たちになんも言わずに一人で片をつけようとしてたのよ」
「お姉さん……。あ! 今年、ようやく意識が戻ったと言っていた……!」

 恵には血の繋がらない姉がいる。
 彼女は非術師で、突然何らかの呪いにかかり、意識が戻らなくなってしまったという。
――実際は、渋谷での騒動を引き起こした人物により、遥か過去の呪術師を呪物化した物を体内に仕込まれてしまったのだという。
 その結果『受肉体』として別人となってしまった彼女だったが、とある呪術師の術式により、別人格は消滅。しかし再び昏睡状態に戻ってしまった。

 一縷の望みをかけた判断が正しかったのか間違いだったのかわからないまま、時間だけが経過した。
 けれど今年の夏。奇跡的に恵の姉は目を覚ました。
 強力な術式の反動ゆえ、記憶の障害があるようだが、もう他人の意識は残っていなかったらしい。

 高専の皆の喜びようは今でも覚えている。恵が戻ってきてその報告をした当日、盛大なお祝いをしたからだ。
 残念ながら彼の姉はしばらく退院は難しく、また彼女は高専や呪術師とは一切関わりなく生活していたため、その席に参加はできなかった。
 まだ脳に極端な刺激を与えるのも良くないそうで、非術師の高校生を装って見舞いに行くことも叶わなかった。
 もうしばらくは入院生活が続くそうだが、彼女が全快したのなら、恵に頼んでこっそり会わせてもらおう、と澪は彼女の回復を楽しみにしている。

「……あ。そういえば……アンタちゃんとお見舞い行ってる?」
「行っ……てない」
「ええ!? まさか、ねーちゃんが目を覚ました日から今日まで行ってない……なんてことはないよな?」
「………………気まずくて」

 ふと目を逸らした恵に、澪は眉尻を落とす。澪が知る限りでは、彼は姉が目を覚ますまでの間、つぶさに病院に通っていたと人づてに聞いた。
 姉の回復は、誰よりも彼自身が嬉しいはずなのに、半年近くも会いに行っていない理由がわからなかった。

「恵先輩、どうして会いに行かないのですか? 意識が戻った時、お姉さんと喧嘩してしまったのですか……?」
 すると彼は居た堪れなさそうに首を横に振る。
「ずっと前、口喧嘩の後いきなり倒れて……それきり。みたいな感じだったから……。目を覚ました日も、一言挨拶だけして……帰った」
「それじゃ、本当はお姉さんのことがとても大事で、仲直りもしたいけれど、どんな声をかけたらいいか、迷っていらっしゃるのですね」
「…………」

 恵は何も答えない。一気に澪の心緒が不安と寂しさで揺れる。しかし、その様子を見ていた野薔薇がそこそこ強めに恵の腕を肘で突いた。恵はぐらぐらと体を揺らしつつ、こちらを一瞥して、まるで叱られている子供のように小さな声を出す。
「……そういう…………ことになる」

 ほっと息をついた。
 実は澪にも同じような境遇で悩んでいる知り合いがいる。恵の姉と同じ立場の人で、その寂しそうな顔と恵の姉の心境がつい重なったのだ。
 彼女もまた家族を大切に思っていて、だからこそ会いに来て欲しいと言えず、ずっと心細さに苦しんでいた。それが体調に出てしまうこともあるくらいだ。
 だからきっと、恵の姉も彼に会いたいと願っているような気がする。

「大丈夫ですよ、恵先輩。きっとお姉さんも、お話ししたがっていると思います。喧嘩なんてなかったみたいに喜んでくださるかも!」
「何を根拠に……」
「根拠はないです。でも、恵先輩だから大丈夫って自信ならあります!」

 澪はぐっと握り込んだ拳を胸に当てる。その姿に彼が戸惑いを隠せずにいると、悠仁は屈託のない笑顔を向けた。
「白主が得意な、いつものやつだな」
 にわかに、拗ねたような恵の表情はいつもの冷静な様相に戻っていく。

「はあ……。わかった。退院する時には、ちゃんと顔出す……予定」
「アンタいい加減はっきりしなさいよ! ていうか、退院する時じゃ、結局いつになるかわかんないだろうが! 明日にでも行け!」
「釘崎……! ちょっともう時間遅いから、落ち着けって」

 野薔薇に胸ぐらを掴まれてゆすられ、ついとそっぽをむく恵の姿を、澪は「きっと大丈夫」と思いながら、穏やかな眼差しで見つめていた。