My last 改稿版
願い 16

1

 辺り一面が雪の色に沈んでいる。
 澪が呪術高専の学生として迎える二度目の冬だ。
 校門に掲げられた銘板を背に、遥かな雲を仰ぐ。特に何の意味もなく、口元まで覆うマフラーを指先で下げ、温もりを孕んだ吐息を空中に滲ませた。
 人一倍寒さが苦手な彼女だが、かれこれ一時間以上、五条の帰りを待つためだけに寒空の下、立っている。理由は一つ。どうしても彼に聞きたいことがあるからだ。

 しかし彼は出張で一週間程前から留守にしている。澪は何日も前からしつこく彼の帰着予定を事務室で確認し、昨日ようやく任務の終了連絡があり、そして今日、後一、二時間程で戻ると聞いた。それを聞くや、急いで外へ飛び出したのである。

 今か今かと望む人の姿を待っているものの、じわじわと暖房の効いた室内が恋しくなってきた。
(昔、雪だるまごっこをさせられた時よりは辛くないけれど。……でも、そろそろ限界かも)

 やはり事務室に戻って大人しく待とうかと迷い始めた折柄、ついに目当ての姿が現れた。彼女は未だ遠い姿を見据え、喜色を浮かべて小走りに近付く。

「五条先生、伊地知さん、お帰りなさいっ」
「ただいまー。わざわざお出迎え? 寒いの嫌いなのに、珍しいね」
「そろそろお戻りになると伺ったので来ちゃいました!」
「……白主さん。随分長く待っていたんじゃないですか?」

 伊地知の心配そうな面持ちで紡がれる一言に、澪は少々たじろいだ。
 実に鋭い。外でずっと待ち構えていたと覚られないように、血色が悪いであろう顔をマフラーで隠していたのだが、逆効果だったのかも知れない。
 ただでさえ日々神経を擦り減らしている伊地知を惟れば、自分にまで気を遣わせるのはいささか気が引ける。澪は眦を細めて返した。

「いいえ全く! 散歩がてら来ただけです」
「成程。よほど大事な要件があるってことだね」
 全く会話が噛み合っていない。澪は確と否定した筈だが、五条には伊地知の見解が正しいと認識されているらしい。最早誤魔化しても意味はない。

「実は、先生に折り入ってお話がありまして」
「あ。もしかして、付き合って下さいって青春の告白? そろそろクリスマスも近いしねぇ」
「……。もしもそうですと言ったらお付き合いして下さるのですか?」
「うーん。今は間違っても付き合わないね
「やっぱりそう言うと思いました。なぜそんな意味のない事を聞いたんです!」
「甘酸っぱい失恋も青春の一ページでしょ。澪と僕の間柄ならワンチャンありえるかと思って」
「何がどうワンチャンなのですか……。そもそも私、先生に恋してないので失恋じゃないです」
 まるで緊張感のない遣り取りに、伊地知の小さなため息が密やかに漏れた。

「で、話って?」
 するとその場の空気を緩み切らせた当人が、今すぐ本題を話せと言わんばかりに催促する。こんな雰囲気の中で切り出すべきかと逡巡した澪だったが、一息付いて息を整えた。

「伏黒甚爾さんについて、先生が知っていることを教えて下さい」
「事務室でお菓子でもつまみながらって話じゃなさそうだね」

 明るい声音だが、僅かにその声調には剣呑が滲む。数秒前の和やかな雰囲気が嘘のように、一瞬にして不可視の澱みが広がった。
 そんな機微を読み取ったらしい伊地知は、すかさず神妙な面持ちになる。
「応接室の空きを確認しましょうか」
 対する五条が「うん。頼んだ」と短く返せば、伊地知は軽い駆け足で先に校舎へ向かって行ったのだった。

2

 手配された一室にて、低いテーブルを挟んで五条と澪は向き合い座っている。
 澪の肩には可愛らしい猫の柄のブランケットが掛けられ、足元にはタータンチェックの膝掛けとパネルヒーター等々、事務室にてかき集められたと思われる防寒用品が身の回りに勢揃いしている。応接室に入ると、もうすでにこれらが用意されていた。
 誰が用意させたのかは何となく見当がついている。やや過保護では、なんて思ったものの、感覚が麻痺するほど体は冷え込んでいたらしい。特に暖房機能などはついていないソファーですら、腰を下ろした時に温もりを感じた。

「…………。なんかイマイチ格好付かないね」
「でも、とても暖かいです」
 側から見れば大層不恰好な様相になっている澪であるが、和やかな気遣いをひとえに感謝していた。
 染みるように広がる暖かさのおかげで、頭の中を駆け回る気持ちが少しずつ落ち着きを取り戻していく。

「本題に戻すけど、伏黒甚爾を知りたいって、……理由は?」
「彼を私の術式で降ろす為、です」
「それ、冗談だとしてもマジで笑えない話なんだけど、本気で言ってる?」
「本気です。彼の肉体は遺骨しか残っていないようなので、完璧な復活の為に情報が必要なんです」

 澪の降霊術は、術者の血液を媒介として死者の肉体を生前の状態に復元出来る。
 血液を人間の姿に形成するには甦者の肉体の一部が必須だ。加えて、澪は甚爾の魂の情報までもを降ろそうとしている。その為にやはり肉体の一部は必要不可欠となるのだが、必要量は肉体情報を降ろす比ではない。甚爾の肉体は遺骨しか残されていないため、魂の完全な復活には足りないのが現状だ。
 そこで、澪は甦生を一度きりにする縛りを以って、伏黒甚爾という個を形成していた情報で魂の情報を補完することを可能にした。

「情報ね。でも、僕は別に禪院家に精通してるわけでも、情報屋でもないから、君が求めてるものを知ってるとは限らないよ」
「いいえ。先生の情報無くして降霊は出来ません。……先生が唯一、彼の最期を知る方なのですから」

 五条は大して驚かなかった。ただ、澪に向ける眼差しが少し鋭利になったような気がして、緊張が走る。

 高専を含めた呪術界を守る結界の要、不死の呪術師である天元。彼女は五百年に一度、適合者――星漿体と同化することで人の形を保たなければならない。
 しかし二〇〇六年に迎えた同化は失敗に終わった。新たな肉体である星漿体の少女――天内理子が同化前に死亡したからだ。
 当時まだ中学生だった彼女の命を奪ったのは、とある宗教団体に暗殺を依頼された男、伏黒甚爾。
 天内理子には、護衛として五条と同級生である特級術師の学生が就いていたが、甚爾によって瀕死の重傷を負わされたという。
 同化をし損なった天元だが、幸いなことに進化を迎えることはなく、ゆえに天内理子の護衛についていた二人は、処罰を受けることはなかった。
……これは、父の呪符を使い秘密で入った特別所蔵庫の文献から得た情報だ。

 少なからずこの事実は五条にとって苦い記憶だろう。それを掘り返そうとするのだから、苛立たれても仕方がない。けれど恩師に嫌われても、それでも澪は伏黒甚爾の甦生を諦めきれない。

「……快く話せることではないのは承知しています。でも、私はどうしても伏黒甚爾さんを甦らせたい。例え、彼に関わる人々にどれだけ恨まれても……」
「あのさ。そこまでソイツにこだわる意味って何?」
 冷淡とした声音だった。けれど彼女は狼狽えなかった。五条を正視し、背筋を伸ばす。
「彼の天与呪縛はこれまでの歴史の中で類を見ません。呪具がなければ呪霊を祓えないというのは確かに欠点かも知れませんが、高位な呪具さえあれば、いかなる呪霊や呪詛師であろうと彼の敵ではないでしょう」
「それだけ?」
 圧迫するような追撃に、澪は待っていたと言わんばかりに堂々とした口調で、しかし丁寧に告げる。
「加えて、彼が呪力を一切持たないという点も、現在の呪術界を覆すための大きな要素です。私が彼を使役し、大きな功績を上げれば、いずれ総監部は合理性と保身的な矜持を天秤にかけねばならなくなる。……二〇一八年に渋谷で起きた騒動への対処や、真希先輩の昇級の件など、少しずつ総監部内で対立が生まれているのでしょう? 私達が台頭すれば、内部の意見衝突はさらに激しくなります。総監部の揺らぎは癒着関係にある加茂家にも伝播するはずです。戦わずして敵を崩すには、彼ほど最適な人選はありません」

 すると、五条は大きくため息をついた。思わず澪は肩を震わせる。
 根本にある、個人的な理由を澪は隠している。「はっきりした理由なんてない、どうしても彼じゃなければ嫌」だなんて感情的な理由では即却下だ。
 だから頭を捻りに捻って導き出した回答。その為の情報収集は怠らなかったし、並べた理由にも偽りはない。
(でも。だめ……なのかな……)
 なかなか是非を示さない五条に、どう反応すべきか逡巡していると、ようやくして彼が口を開く。

「……まあいいよ。僕が知っている事は全部教えてあげる」
「ほ、本当ですか!?」
 嬉しさのあまり澪は勢い良く立ち上がった。机に手をついて身を乗り出す。
「ほんとほんと。だからさ……」
「はい、何でしょう?」

 すると彼は組んでいた足を解き、身体をやや前に倒して背を低めた。互いの目線が同じ高さになった瞬間、朗らかな空気が一気に反転する。それはまるで獰猛な獣が狙いを定めたかのようで、澪は身動きがとれなくなった。まるで獲物を喰らうかのように、五条が近づいてくる。

「もう二度と、僕の許可無く呪詛師とそれに関連する人間には近づくなよ」
 低い声音は明白なまでに怒りを孕んでいた。初めて受ける彼の威圧に澪は萎縮した。
「……申し訳ありません、でした……」
「二度目はないからね。今度こそ、約束して」
「はい……」

 彼の約束を破って呪詛師に裏サイトの情報を聞き出したこと、そして呪詛師の仲介役の男と会ったこと。……全て気づかれていたらしい。
 思い返してみれば、仲介役の男と会った後、駅へ向かい大通りを歩いている途中、澪の前を偶然安曇の運転する車が通り掛かった。
 出張に向かう術師を駅に送り届けたばかりだというので、そのまま乗せてもらい無事高専に帰った。
 その時の澪は、運が良い、と能天気なことを考えたが、もしかするとあの偶然こそ、彼女の不審な動向に気付いた五条の計らいだったのかも知れない。

 戦々恐々としていると、緊迫の気配を払うように五条が緩く息を付いた。それから、ガチガチに固まったままの澪の頭を優しい手つきで撫でてくる。
「……ちょっと嘉月さんの苦労が分かってきたよ」

3

「……で、いつまで君はビビってんのさ。聞きたいんじゃないの? あの人の話」
「きっ、聞きたい、ですっ」
 澪の頭から手を離し、深くソファーの背に体を預けた五条は、鷹揚に足を組む。その声を端緒に、捕縛から逃れるように澪はいそいそと座り直して、背筋を伸ばす。

「伏黒甚爾を殺したのは僕で間違いない。一応遺言みたいな言葉も聞いたしね」
 思わず澪は目を見張った。甚爾が自分を殺めた相手に言葉を託していたことが意外だった。その「遺言」が、恵が高専所属の呪術師として活動する端緒であったことも、澪を更に驚かせた。
 五条は淡々とその時に起きた事を話してくれた。どうやって五条達を欺いたのか、どんな呪具や戦術を使ったのか。
 今でも詳細を思い出せるほどに、五条の記憶に残った者はきっと甚爾以外にはいない。しかしそんな類稀な男も最強の術師には敵わなかった。

 甚爾は死の間際「言い残すことはあるか」という五条の問いに、無いと答えたそうだ。
 だが、僅かな沈黙の後、彼は禪院家に売る予定出会った実子――恵の存在を明かし、その子を「好きにしろ」という一言を残したのだという。

 瞬間、仲介役の男から聞き込んだ情報が次々と澪の脳裏で蘇った。
 同時に胸の奥でひとりの人間が朧げながら形作られる気がした。限りなく悪人然とした人間性は、外面の薄皮に過ぎない。そんな気がしてならなかった。

「…………先生、恵先輩のお母様については、何かご存知ですか」
「実の母親のこと? それは分かんない。僕が恵を迎えに行った時は別の女と再婚した後だし、そもそも家には恵と再婚相手の連れ子の二人しかいなかったから」
「再婚……じゃあ、恵先輩のお母様は……」
「さあ? 恵の母親が愛想を尽かして離婚したんじゃない?」
 五条は至極興味なしといった表情で答えた。
「そう、でしょうか……」
 しかし、澪の身内では違うだろうと直感が囁く。確証がある訳ではないが、互いにとって予期せぬ別れがあったのでは、と憶測が浮かぶ。

(恵先輩を売る予定だったのに、先生に託すような言葉を残したのは、何故? 渋谷で恵先輩と交戦している最中、自死したのは、偶然じゃない……?)

(彼の本質は。本当に望んでいたものは……?)

……一方的に澪の中で描かれていく甚爾の人間性。それは果たして虚構なのか、事実なのか、答えを早く知りたくなった。
 考えれば考えるほど、今すぐにでも会いたいという気持ちが倍加する。酷く歪な感情を落ち着かせようと、澪は服の胸元を強く掴んだ。

「…………。澪ってさ、人を好きになったことある?」
「は、い……? 急に何故そんな話に……?」
「もうあの人の話は終わったでしょ。普通に、世間話だよ」
「ふむ……? もちろん人を好きになることはしょっちゅうあります。家族は勿論、憲紀と、高専に入ってからは野薔薇先輩、真希先輩と……」
「ああ、うん。この話も終了でいいや」
「ええ……自分から振っておいて……」

 彼はつまらないと言いたげな空気をありありと出している。相変わらず頭の中が読めない師である。

「でさ、あの人の甦生の件って恵にはもう話したの?」
(終わりって言ったのに、また急に話を戻す……)
「いえ。まだ、何も……」
「いくら本人が実父の顔も覚えてないとはいっても、そこに話を通さなくてもいいの?」

……甚爾と恵の関係性、それから双方の心緒について。
 澪はこの結論の出ない問答もずっと脳内に巡らせていた。水底に澱が募っていくように少しずつかさを増していき、分厚く纏わりついて決心を鈍く濁らせる、一番の課題だったと言ってもいい。
 恵を慮る良心は澪の計画の否定に帰結する。彼に何も告げずに、実父を手駒として扱って良い訳がない。ましてや甦らせるべきではない、と。

 澪にとって父親というものは尊敬と信頼を向ける相手で、偉大さを感じながらも守りたいと思う存在だ。
 仮に自分が恵の立場にあったなら、どんな理由があったとしても、父の命を弄ぶ相手を許すことは出来ない。

「良いとは思っていません。ですが、正直に話しても、きっと恵先輩は私を止めるでしょう」
「それはどうかなぁ?」
「私なら許せません。なんとしてでも阻止しようとします。だからこそ……今はまだ、言えないのです」
「恵の気持ちより、自分の野心を優先するってこと」

 澪は表情に影を落とし、眉根を苦々しく歪めた。
「…………仰る通りです。でも、恵先輩には、いずれ必ず打ち明けます。その時に恵先輩が許してくれなくても、どれだけ恨まれても」
「ふーん。恨まれても、ねぇ」
「だけど、もしも恵先輩が納得してくださるのなら、毎日三回お家に通って、その度に百回土下座し続けます……」
「いや、そっちの方が余程迷惑だよ」
「そ、それくらいの覚悟があるということです!」
「まあ、澪の気持ちは良くわかった。……君はこうと決めたら止まらないからね」

 そう言って五条は立ち上がると、こちらにやってきて隣に腰を下ろす。
「澪の計画に協力するよ」
「え、……で、でも……」
「もう忘れた? 僕は澪に期待しているし、この手が届く限り、守るって言ったでしょ」

 澪が戸惑っていると、彼の手のひらがふいに頬に触れた。ひどく温かく感じた。
「無謀な行動に付き合う訳じゃないよ。澪の計画が面白そうだから、僕も乗ろうと思っただけ」
「私の計画に、……賛成してくださるのですか」
「そうだよ。だから、伏黒甚爾の甦生は、僕と君の計画になる。軌道修正には口を挟ませてもらうし、君の命に関わるようなわがままは聞かない。それでもいいよね?」

 身内で憲紀と互いの思いを交わし合った日のような喜びが澪の胸中に溢れる。誰よりも尊敬する人からの賛同ほど嬉しいものはない。澪は五条の方へ身を乗り出す勢いで背を伸ばし、見上げた。

「はい! よろしくお願いします! 先生がついていてくださるのなら、絶対成功、…………っ!?」
 言い終える直前、ふいに抱き寄せられて言葉が止まる。
「せんせい……?」
「君との約束、ちゃんと守るからさ。……だから僕の手の届くところにいてよ」

 少しだけ、その声音に物悲しさを感じた。同時に、自分が大きな心配をかけてしまっていたのだと今更になって気づく。
「はい……。申し訳ありませんでした……」
 きっと、五条の言葉は命を落としかねない無茶をするな、と言いたいのだと澪は受け取った。最強の呪術師といえど、守るべき相手に勝手に動かれて死なれてはどうしようもできない。
 彼自身は人類で最も死に遠い存在であるが、彼の周りの呪術師達は常に死と隣り合わせだ。彼にとって、死は違った視点で畏れを抱く存在なのだろう。
 逡巡しながらも、澪はそっと頬を五条の体に寄せる。
 先ほどまで身を温めてくれていたどの暖房器具よりも、彼の身体の方が強く熱を感じる。それは寒さに麻痺した感覚が生んだ錯覚だろうか。

4

 任務を終え、降り積もった柔らかい雪に足を沈ませながら、澪は寺社群の裏路地を小走りに進んでいた。駐車場から寮に行くにはここを通る方が早い。何度も道を間違えて覚えた甲斐があったと冬場は特に思う。

「……あれ?」
 ふと脇の小道の出口に白衣の姿を認め、立ち止まった。
「硝子さん……」
 彼女は塀に向き合うようにしゃがみ込んでいる。こんな場所で調子を崩して動けなくなっているのだとしたら一大事だ。
 急いで駆け寄っていくと、硝子は#こちらに気付いて立ち上がり、軽く手を振ってきた。その口には煙草がくわえられていて、不調というわけではなさそうである。

「こんな日に澪が外をウロウロしてるなんて、珍しいこともあるんだな」
「これからお部屋に戻るところなんです。この裏路地が一番の近道なので!」
「相変わらず猫みたいだ」
 硝子は口元の煙草を指の間に挟んで面白そうに笑う。けれど澪にはその微笑が寂しげに見えて、しかし同時に美しくも思えて、鼓動が跳ねた。

「……ん?」
 上手く言葉を紡げず見惚れていると、硝子は不思議そうに首を傾げた。
「あっ、い、いえ……」
 その仕草も大人っぽくて艶やかさを感じる。何だか気恥ずかしくなって、誤魔化すように澪は視線を落とした。すると、硝子がしゃがみ込んでいたあたりに鮮やかな色を見つけた。真っ白な雪の上に、一輪だけ青い花が置かれている。

「そのお花、硝子さんが?」
「違うよ。多分、五条だろうな」
「先生が? どうして……」

 こんな道の脇にわざわざ花を置く理由というと、思い当たるのは一つしかない。この場所で絶えた命の追悼だ。それが人なのか動物なのかまでは推し量れないが……。

「澪は、三年前の百鬼夜行のこと知ってる?」
「……はい。新宿と京都で起きた、呪詛師による大規模なテロ事件ですよね」

 その時まだ京都の生家にいた澪は、クリスマスイブだというのに、朝から物々しい雰囲気を感じ取っていた。普段ならば家にいてくれる父は数日前から帰ってこないし、母と三羽烏からは何があっても表には出てはいけないと、ことあるごとに言われる。
 部屋一つ移動するにも三人ないし母が付いてくるので、明らかに異変が起きているのだと分かった。
 そして、三日後の朝方に帰ってきた父と母の会話を盗み聞きして知った。
 数多の呪霊が暴れ回り、何名もの呪術師が亡くなり、京都と東京の街中が大惨事となっていたのだと。

「その事件の首謀者は…………」
 言いかけて澪は口を噤む。
 首謀者は、夏油傑という男。高専の元学生であり、在学中の二〇〇七年に非術師の虐殺を行い逃亡、その折に特級呪詛師と断定された。
 それから時を経て、二〇一七年に呪詛師の集団を率いて呪術界の転覆を図ったが、実行中に夏油が高専の敷地内で誅され、騒動は終息した。
 高専の記録書を読み漁っているときに得た情報だ。たった今、それを思い出した。
 夏油が高専のどこで誰に誅殺されたのかは分からない。けれど、今日は十二月二四日。加えて、手向けられた花と硝子の問いかけで、疑問の答えが繋がった。

「夏油……さん、と先生は仲が良かったのですか。……硝子さんも……?」
「ああ。私達三人は同級生だった」

 思いがけず心臓が竦み、言葉を失う。考えなしに不躾な質問をしてしまった自分を恥じた。

「そんなに君が気落ちしなくてもいい。少なくとも私はもうそれほど引きずっていないよ」
「そう……ですか」
 けれど、澪の脳内には止めたくても勝手に思考が溢れてくる。

(星漿体護衛のため、五条先生と共に依頼を請け負った彼は、任務の最中に大怪我を負った。特級呪術師だった彼が……)
(星漿体暗殺が行われたのが、二〇〇六年。夏油さんが、高専を出て行ったのは、二〇〇七年)
(百鬼夜行を企てた彼らが掲げていたのは『呪術師だけの世界を作る』という偏った理念)

 記録の棚を開けるほど、悪しき因果は伏黒甚爾に繋がる気がしてならない。
 恩師が今でも命日に花を手向ける人。目の前の彼女が寒空の下、思いを馳せる人。
 その人が歪んで偏ってしまった原因は、本人だけの所為ではない。そんなふうに思えてならなかった。

――やっぱり私は、……私の選択は、たくさんの人を傷つけてしまうかも知れない。間違っているのかも知れない。……。もっと正しい選択があるのなら……。私は。

「硝子さん。……硝子さんは、もしも可能なら、夏油さんに生き返って欲しいと思いますか」
 すると硝子は表情ひとつ変えずに即答した。
「思わない。……多分、五条も同じだろうな」
「それは、何故……」
「例え夏油が戻ってきたとしても、結局同じことが繰り返されるだけだ。あいつが離反したってのは、そういうことだと私は思う」
「誰が何をしても、夏油さんの考えは二度と覆せない……? 本当に?」

 硝子は煙草をくわえるとゆっくりと吸い込み、灰色の空に向かって燻らせる。

「うん」
「…………」
 登っていく紫煙を見上げていると、頬に冷たさを感じた。雪が降ってきた。言いようのないもどかしさと悲しさが胸中に広がっていく。
 すると、ゆくりなく頬がそっと包まれて、仰いだ視線を戻せば硝子の瞳が間近にあった。
「わ、……あわ……っ!?」

 硝子の方からこんな風に触れてくることはほとんどない。澪が抱きついたり擦り寄ったりするのを仕方がなさそうに笑って許してくれるのが常だ。予想もしていなかった行動に面食らって、澪は顔を赤らめ激しく狼狽する。

「誰も澪を否定していないよ。だから、君は君の本当に成したいことをしっかり見据えるんだ。……後悔しないように」
 覗き込んでくる眼差しは、普段通りの冷静沈着な色を保っている。けれど、間近だからこそ分かる、言いようもない彼女の願いのようなものが、澪には伝わってきていた。

(後悔……。……そうだ、きっと私は甚爾さんを諦めたら後悔する。たとえ彼を甦らせる選択が間違っていたとして、その時の後悔よりもずっと、ずっと私は、彼に会えない後悔を引きずると思う)

(だから、もう。誰かの所為にして、やらない理由を考えるのはやめる)

 硝子の目を見つめたまま、澪はしかと頷いた。

「……もう部屋に戻った方がいい。君に風邪を引かせようものなら、あのクズにぐちぐち文句を言われかねないからな」
「は、はい……?」
(クズって……誰のことだろう……?)
 澪が不思議そうに口を尖らせると、硝子はそっと手を離し、たおやかに目を細めた。