My last 改稿版
春嵐に告ぐ -6-

『予後の放恣』

1

 呪殺を生業とする呪詛師と、己の手を汚さず始末したい人間のいる依頼人。それらを結ぶ仲介役の男、孔時雨は、とある少女との取引が終わってもその場を動かずにいた。
 偽ろうとしていても、少女であることは声を聞けば読み取れた。だとしたら、高専の学生であることも容易に予想がつく。
 都度連絡してくる媒体を変えていても、解析によって東京を拠点としていることは歴然。
 高専の学生であり降霊術式を使う者、思い当たる節がある。
 かつて白主家の一人娘は降霊術を持っているのでは、と独自の情報網で聞いたことがあった。しかし今ではただの与太話だったと広く認知されている。
 家出し東京校へと入学した白主澪は、今に至るまで大した成果を出せていない。いつの間にか別の噂が蔓延し、白主家の一人娘は降霊術など持ち得ていない、というのが界隈における最新情報だった。むしろ界隈のあちこちで囁かれているのは五条悟の性癖についての侮蔑だ。

 しかしまんまと誤情報を信じ込む所だったと、先ほど時雨は考えを改めた。
 やはり五条家の当主は侮れない。あの男は己に注目が集まるよう仕向け、白主家の娘が過小評価されるよう巧みに偽装し、水面下では着々と降霊術式への下準備を進めさせていたのだ。だがまさか甦生対象が甚爾だとは思いもしなかったが。

 しかしあの男を思い通りに操るのは不可能だ。どうせ二年前の二の舞だろう。
 そう思っていたはずなのに、対話が終わる頃には期待が膨らんでいた。問われない限り明かすつもりのなかった情報まで差し出して、彼女の術式の成功を願う始末だ。
(……歳を食ったかな)
 苦い笑みを浮かべ、彼は煙草に火をつける。

 両者との間に縛りがある為、時雨自身は澪を追いかけてはいけないが、他にも彼女を尾行する手段など如何様にもある。相手は子供だ。罠に嵌めるのは容易い。その下準備もした上でこの場所に来た。
 しかし柄にもないことだが、彼は何も行動を起こす気にはならなかった。この密会の情報がどれだけ金になったとしても誰にも売るつもりもない。
 約束の時間が過ぎるまで、彼は弱まる気配のない雨を眺めていた。

2

 禪院甚爾は裏の業界に身を投じ、間も無くして術師殺しの異名を得た。裏においても異質の存在だった。引き受けた依頼を必ず成功させることで、当時の界隈では名が知れていた。
 仲介役としては、これ程好条件の働き手はない。高額だが成功が困難な依頼してくる客の仕事は甚爾に回せば確実かつ迅速に成功させてくれる。だから金は一切額を誤魔化さず期日通り支払う。そして徐々に太客を斡旋していく。そうして二人の信用関係は蓄積されていった。
 付き合いの長さに限らず、思慮深く頭が切れ、必要以上に欲張らない性分はどこかウマが合う。人間としても存外嫌いな性格ではないとさえ思っていた。数年を経過すればその関係性は甚爾のねぐらを知り得る程にもなっていた。

 しかし、ある時を境に甚爾は一切の依頼を引き受けなくなった。はっきりと理由は聞けなかったが、それまで気軽に訪ねに行っていた彼の家に、金輪際一切近づくなと鋭い剣幕で釘を刺されたので直ぐに察した。
 この男に、人並みの家庭を築くことを選ばせた特異な人間が現れたのだと。
 それはそれで良いと思った。こちらの稼ぎは減るが、彼には甚爾以外にも多く繋がりがある。元より入れ替わりの激しい界隈だ。依頼の失敗に比べたら大した損害でもない。
 惚れ込んだ女との間にガキが生まれでもしたら、最後に一度「骨抜きにされた挙句牙まで抜かれたな」と冗談を言って笑ってやろうと思っていた。

 数年が経過し、これまでの住処は変わっているだろうと思いながらも、時雨は甚爾の家に出向いた。
 しかし、時雨は家に近づくにつれて妙な予感を感じていた。到着してドアの前に経つと、赤子の泣き声が聞こえてきた。間違いなく目の前の住居の中からだ。
 一向に声が止む気配も、中で人が慌ただしくする様子も何もない。ドアノブに手を掛けてみれば鍵は掛かっていなかった。
 静かに扉を開けると赤子の泣哭が扉の間から吐き出された。そして中に入った途端、思わず目を見張った。

 カーテンを閉じ切ったその部屋は、廃墟のように空気が澱んでいた。辺りは食品の容器や紙パックなどのゴミだらけで荒れている。玄関にまで伝う臭いも酷いものだった。どう考えてもまともな生活をしているとは思えない有様だった。靴を脱ぐ気にはならない。土足で上がった時雨は、物だらけの部屋の奥に甚爾の姿があるかを確認しようと踏み出した。
 その時、首筋に冷たい何かが当てられた。反射的に諸手を挙げて敵意は無いことを静かに告げる。

「…………。……オマエか」
 真後ろで抑揚なく発されたのは、紛れもなく甚爾の声だった。たちまち肌に触れる警告が失せ、声の主が重たい体を引きずるような鈍い動きで現れ、横切っていく。
 その動作にはまるで生気がない。死人が徘徊していると見紛う程だ。長年の付き合いである時雨の気配を見分けられないとは、もしや意識さえ朦朧としているのだろうか。
 よろよろとした足取りで甚爾は部屋の奥へ行くと、どうやらそこが定位置なのだろう、ゴミの群れの中、一つだけ生き残ったように置かれた椅子に座り、死んだように項垂れて動かなくなった。

「禪院。その子供の母親はどこいった」
「死んだ」
 未だに止まない子供の泣き声が、大きくなったような気がした。その声に紛れて返ってきたのは、抑揚も悲壮もない声調だった。感傷に浸るつもりはさらさらないが、この無気力は全てに諦観した結果なのだというのは想像に難くない。時雨は改めて周囲を見回す。

(……これまで散々人間を屠ってきた男が。たった一人、女を失った程度でここまで腑抜けるとはな……)

 散乱するゴミを避けながら部屋の奥へ進むと、甚爾も子供も、最低限の飲み食いで命をつないでいるような状態だと見受けられた。
 甚爾は当然やつれ荒んでいるが、何より酷いのは子供の状態だった。幼児特有のふくよかさは失われ、未だに泣き止ないその声は枯れつつある。しかも風呂や着替えは勿論、排泄物すらまともに変えていないのか、ベビーベッドに近付けば酷い悪臭が鼻腔を刺す。地面に転がされていないだけマシかも知れないなんて思うくらい、感覚が狂いそうな姿だった。
 人の生き死になんかに同情心など持たない彼だったが、どうにも子供が哀れに思えた。
 周囲を漁ってなんとか見つけた用品で、渋々ながら排泄の処理だけはしてやった。
 すると、驚く事に赤子はぴたりと泣き止んで静かになる。それが実にいじらしく、更に不憫だった。

「オマエな、この程度で満足するな。生きたきゃもっと騒いだ方がいいぞ」
 だがこの赤子はもう必要以上の訴えをする気力が尽き掛けているに違いなかった。
 懸命に騒いでも無視され続けた結果、劣悪な状態を受け入れるしかなかったのだろう。そんな分別がつくような歳でもなかろうに、僅かに残った生存本能がそうさせているとも思える。
 この惨状が何日目なのかは知らないが、近所から通報でもされてこの有り様が見つかれば、子供は一発で養護施設行きだろう。

「…………まあ。いっそ施設に入っちまった方がこいつも幸せだろうな」
 呟いたのは何の意図もない、単なる独り言だった。
 にわかに椅子が動く音がした。そちらを向くと、やつれて覇気の無い甚爾の双眸がこちらを向いていた。……正確には、時雨ではなく子供の方を見ているようだった。しかし何か言うでも動くでもない。ビジネスだけの付き合いだったとはいえ、ここまで落ちぶれた甚爾を見るのは少々耐え難い。
 だがこれ以上何かをしてやる義理はない。反対に金をせびりたいくらいだ。そろそろここを出ようと時雨は玄関に向かう。

「禪院。このガキ、施設に取られたくなきゃ、最低限の世話くらいはしろよ」
 聞こえているかは知らないが、そう言い残して家を後にした。

…………それから二ヶ月ほどが経って、時雨はただ何となくふらっと甚爾の家に立ち寄った。
 すると、彼は再び目を見張る光景を目にした。
 整理整頓された綺麗な家とは言い難いものの、前回とは見違える程に部屋が片付けられていた。異臭もなければ容器も散乱していない。子供も泣いてはおらず、ベビーベッドの中で、大人しく寝息を立てていた。

「いつも勝手に上がりやがって。オマエ、何しに来た?」
 今度は背後からの警告ではない声が時雨を出迎える。その声の主は、以前のような死にかけの相貌ではなくなっていた。しかし、時雨にもう家に来るなと告げた時の顔とも違っていた。
 赤子の母親と出会う前の、殺伐としていた頃に遡ったような顔付きだ。……否、それ以上に人間らしさが欠落しているようにも見受けられる。

「特に用はねぇよ。……オマエ、一応自分の手で育てる事にしたんだな」
「ああ。後々金になりそうだからな。術式の有無がはっきりするまでは手元に残しておく」

 子供には一瞥もくれずに甚爾は口端に笑みを浮かべた。それが本心なのか欺瞞なのかは定かではない。
 この様子なら、また年月を置いて仕事に誘えば乗ってきそうだ。そう思いながら引き返そうとした間際だった。
 無造作に机の上に置かれた母子手帳を見つけた。随分汚れていてろくに管理もしていなそうだが、表紙には女性らしい筆跡で子供の名前が書かれているのだけが読み取れる。
 振り向いてベッドを見遣る。大分肉付きが良くなって赤みの帯びた頬が目に入った。

「こいつ、恵っていうのか。オマエが付けた名前か?」
 返事は返って来なかった。

3

 珍しく感傷的になっているらしい。降り頻る雨粒を見遣りながら、時雨は紫煙を燻らせる。何故今更こんなことを想起したのか分からない。まさか、甚爾があの少女の手で甦るという兆候だろうか。
 こういう記憶も少女の甦生に役立っただろうか、伝えておいた方がよかっただろうか、などという愚問が過ぎる。
 だが彼女が求めていたのは経歴だ。個人的な所感が数多に混じった記憶情報など必要がないだろう。
 しかし、本人は否定していたがどうにも彼女は甚爾への思い入れが強い様子だった。支配欲や所有欲ではなく、もっと別の感情を抱いているような……。
 もしも彼女が甚爾の過去を深く知ったのなら。彼のかつての最愛のようになる未来が来るだろうか。そんなバカげたことまで考えた。

 思い返せば以前、甚爾は白主家の当主の嫁はかなりの美人だとかほざいていた。禪院家にいた時分、見掛けた事があったらしい。
 仕事の折、もしも当主を仕留めたあかつきには未亡人を慰めてやるのも悪くない、なんてろくでもないことを言っていたのも覚えている。冗談とはいえ相当顔が好みだったのだろう。

 白主家の娘は母親に似ているだろうか。ぼんやりとそんな無意味なことを考えた。
 流石に顔だけで呆気なく陥落する男ではないのは承知している。
 むしろあの男の方が、その顔と体で女を食い物にしていたくらいなのだ。しかし、どうにも先ほどまで言葉を交わしていたあの少女が、容易く甚爾に籠絡されるとも思えない。確かにまだまだ未熟な子供だが、侮れないと直感じみたものを感じていた。

「アイツ。あっさり絆されなきゃいいけどな」
 笑いを含んだ声は、反響する雨音にかき消された。